はてなキーワード: 感情表現とは
これ面白いなー。そんなやついねーよ、
なんて突っ込みもやぼなので
私も男性選びの条件を書いてみることにする。
顔は玉木宏級以上。
1970年以降、1985以内の生まれ。
身長は170〜175cmの間でいい。あまり高いのは色々と不便。
体型はやせ過ぎず太り過ぎず。しかし、腹はへこんでいる方がいい。
筋肉による胸板および肩の厚みがある人はOK。
スポーツをやっている/やっていた人の体型が良い。
要領よく行動できる。
ナルシストでない。
人の痛みが理解できる。
いかなるときも冷静に状況を見て把握できる。
誰に対しても気配りができる。
無駄に怒らない。
暴力に走らない。
怒りを物や人、そして酒にぶつけない。
話し上手であり聞き上手である。
感情表現が豊か。
とっさのトラブルにも対処できる。
物事を整理して考えられる。
人見知りしない。
正しい敬語が使える。
店員や作業員に対して無駄に威張らない。
口が臭くない。
煙草を吸っても良いが「でも女は吸うな」とか変な理屈をつけてこない。
性病持ちでない。
人前でいちゃつこうとしてこない。
(たとえ相談という名の下であっても、そうとわかるように話さない。)
Hのときに変態行為を強制してこない。
束縛しない。
ほかの男性との接触や会話について詮索しない。
共感できる趣味を持っていること。
きれい好き、掃除好きである。
髪は長過ぎず短すぎず。
それなりに身なりに気を使っている。
道につばを吐かない。
吸い殻やゴミをポイ捨てしない。
自炊の経験がある。
嘘をつかない。
あとから「あのときはこう言ったけど、本当は」と言わない。
収入に見合わないものを欲しがらない。
借金をしない。
ギャンブルをしない。
大口を叩かない。
と書きだして思ったが、今もっとも好きな人は
この条件のいくつかを満たしていなかったりする。
恋愛感情なんてそんなものさ。
どうしたらあの子に好かれるか、考えてみた。
それは、おれに取って、進歩だった。
いままで、おれなんかが好きになっていいものかと、ずっと自己否定を繰り返してきた。
ま、かといって、自己肯定に成功したわけではない。もっと悪化して。おれは、きっと、ずっとろくでなしだから。ろくでなしのまま生きていこう、と開き直っただけのことだ。
いまのおれに、なにができるか。
以前なら、もうちっとましな自分になってから、と、そこで思考停止していた。いまは、違う。
いま、なにができるか。できる限りのことをしてみよう。そういうふうに変わった。
で、どうしたらあの子に好かれるか、だ。
どうして、ひとはひとを好きになるのだろう。なぜか、ひどく簡単に思い至った。そして、その簡単なことを実践できていなかったから、己は非モテであったのか、と納得した。
理解だ。
そのひとを理解すればこそ、通じ合うものを見出して、惹かれ合い、恋に落ちる。
たとえ心の内に秘めたるものがあっても、理解されなければ、どうしようもない。
なにを考えているかわからないひとが、好かれるはずが、ない。
つまり、己をさらけ出すこと。
本心を語らなければ、どうして好かれようか。
おれは、いつも道化に徹していた。盛り上げることは得意だ。寂しそうなやつの背中を押してやって、感謝されたのは、いい思い出だ。
コミュニケーション能力は、無礼、非常識という欠陥があるものの、そういうことを気にせずともよい、しがらみのないやつらと仲良くする分には、問題ない。
ただし、いつも、ある意味、機械的だった。役割に徹していた。そこにいるのは、おれではなく、盛り上げ役の、道化だった。
だから、なのだろう。
あるとき、いわれたことがある。
おまえがモテないのは顔じゃないよ。性格だよ。
また、別のとき、いわれたことがある。
そんなんじゃ、女嫌いと思われちゃうよ?
しかし、いまやおれには、わからない。
どうやって本音で語ればいいのか。
作り笑いが染み付いて、笑顔以外、随分感情表現が少ないことに愕然とした。
道化が染み付いて、弱音を吐くことさえ、ままならない。
だから、おれは、悲しいことに、友達に誘われるということが、滅多にない。
誘えば、断られるということは、ない。嫌われては、ない。
けど、特別好かれることも、ない。
それが、おれ。
人間らしく振る舞う、その簡単なことが、ひどく難しい。
大体、我がままに振る舞っていたら、あまりひとに好かれなくて、だからいまのようになったのに、それさえ否定されたら、おれはどうやって生きればいいんだ。いやだれも否定してないけど。すべておれの独り相撲だけど。
どうしたらあの子に好かれるか、そのための第一歩は、ひどく、遠い。
それとも、こんなおれが、おれの地なのだろうか。そうだとしたら、このままいくしかないと、ふんぎりがつくのだけど。
せめて、おれに前向きな諦めを。
運動に限って言うと、軌道というよりもリズム/タイミング(要は緩急)な気がするのは私だけかね?
あれを「ピストン運動」とか呼ぶから、エンジンのシリンダーのような無機質な動きを連想して、貧しい動きになってしまう。
むしろ「ストローク」とか言うべき。1ストローク1ストロークを大事に。行きも帰りも重要。
だから一言で言うと、必要なのは運動神経じゃなくて、音楽のセンスだな。
繰り返しの中にも、緩と急、疎と密があって、呼吸と言葉とで流れができてゆく。
多少の肉体の鍛錬を必要とする点も、音楽と同じ。基礎練習を必要とする感情表現なんだよ。
耐久力の面で言えば、ポイントは股関節の柔軟性と、括約筋かな。あとは何しろ、精神的な落ち着き。
この辺はタントラをかじったHowToものでも十分参考になると思う。
ここまで書いて急に思い浮かんだんだけど、
愛し合っていて相性もいい相手とのセックスでも、同じセックスは2度はないんだよね。
かといって何かに残しておけるようなものでもないし、寂しいもんだよね。
診断基準をみてみましょう。
次のうち5つ以上あてはまると演技性人格障害が疑われるようになります。
1.自分が注目の的になっていないと楽しくない。
2.他人との関係は、不適切に性的で魅惑的・挑発的な態度をとる。
3.あさはかで感情を表に出す。
4.自分への関心を引くために身体的外見を利用する。
6.芝居がかった態度や誇張して表現する。
7.他人や環境の影響を受けやすい。
8.対人関係を実際以上に親密なものとする。
となっています。
以上のことをまとめると、演技性人格障害は大きく4つの性格的特徴を持っています。
1.自己顕示性 自分を実際よりもよく見せたい。
2.情緒不安定性 一見すると他人を振り回して行動しているように思われるが、
その真実は実に小さく不完全なもので、危うさ、不安に満ちています。
支配的に振る舞うことでかろうじて安定化を図っているのです。
3.被暗示性 情緒不安定と同じく、他人や環境に合わせることで、安定化を図るのです。
4.魅惑性 わざとらしく表面的で挑発的な態度にでるのは、背後に深い罪悪感を抱えていることが多いようです。
このことは、患者を魅惑的な行動に走らせる一因となっています。
この障害は本人に「治そう」という気がない限り難しい病気です。
長年住んだ部屋を片付けていた、そしたら、見慣れない古ぼけた仏像を部屋の隅から発見した。なにやらやたら古ぼけていて、苔むしている木像だ。こんなもの、入居時にあったか? と思ったら、
「ふは!」
「うわ」
仏像が喋った。気を吐いた。びっくりして仏像を取り落としかけるが、なんとかかっちり掴む事に成功する。
ほっとするのもつかの間、仏像は唐突にこう言った。
「おぬし。もう少し頻繁に部屋を片付けた方がいい。でないと、ここは淀み、物の怪の巣食う温床になってしまうぞ」
「はあ」
「なんだい、その気の抜けた返事は。せっかく忠告をしているというのに」
「いや、もうあさってにはここ出るもんで」
「なにぃ」
仏像はどこからか大層なため息を吐いた。かび臭い匂いが鼻に付く。
「もう出て行くから関係ない、なんていうのかおぬしは。いままでこれだけ汚してきたというのにか。ここに淀みを作り続けてきたというのにか。わしがいなかったら、もう既にここに物の怪が生まれていても不思議ではなかったのだぞ。
それでも出て行くからもう関係ないと、おぬしはいうのか?」
「はあ」
「くあー」
仏像は顔をしかめた、らしい。小さい顔なのでいまいち判別が出来ない。常人には微妙すぎる表情の変化をしながら、仏像は説教を始めた。
「そも、この汚れ具合といったらどうだ。ゴミタメなんてもんじゃない。まるで魔窟だ。どうやったら常人の域でこんな空間が作れるのか理解に苦しむ。あちらをみやればゴミ袋の山、こちらをみやれば再びゴミ袋の山。そちらをみやれば袋に収まりきらなかったゴミの山。どこをみてもゴミゴミゴミゴミ。しかもこの淀みから察するに、ここだけではあるまい? 他の部屋にも、ついでに外にもゴミとゴミ袋が山積しておるだろう。まったく、なんたる事だ」
「はあ。まあ、昼夜逆転の仕事をしてると、ゴミがなかなか出せないもんで」
「それにしてもこれはなかろう。良くこんな所に住めたものだな」
「はあ。まあ、寝る場所も生活空間もほとんどないですけど、なんとか」
「……。それにしても、これだけの量をあと二日でどうにかできるのか?」
「明日が区役所の方が強制的に捨ててくれるらしいです。僕もそのついでに追い出されるわけですけど」
「くあー」
仏像が再び顔をしかめた、らしい。やっぱりわからん。そのわからん顔つきで仏像は再度言った。
「という事は、あれか、追い出されるのか。おぬし」
「はあ。まあ。明日までに全部捨てれれば、居てもいいらしいんですが、まあ無理ですね」
「くあー。情けない。なんとも情けない。情けないったら情けない。自分でもそうは思わんのか、おぬし」
「はあ。まあ」
仏像、みたび「くあー」と顔をしかめる。どうもこれ以上の動きが出来ないようなので最大級の感情表現、らしい。仏様にしては貧弱な感情表現だ。
そんな不謹慎な事を思っていると、仏像は突如「ふむ」と言うや煌煌と光を放ち始めた。感情表現に新たな一頁だ、と思う間もなく、仏像は光を収めた。
「調子は今一つだが、まあやってやれないことはあるまい。おぬし」
「はあ」
「わしが力を貸そう。部屋を片付けるぞ」
「はあ。……はあ?」
「このわしが手を貸そうといっておるのだ。ほれ、わしに祈れ。部屋よ、片付けとな」
「はあ……」
祈って片付くならと、しぶしぶ祈りをささげてみる。こんな感じかな?
かたづけーかたづけー。かたづけーかたづけー。
すると、仏像がまた光を煌煌と放ち始めた。おおー、こうしてみると古ぼけたのがむしろ霊験あらたかに見えるから不思議だ。
かたづけーかたづけー。かたづけーかたづけー。
光が部屋に満ちていく。と、同時にゴミが、ゴミ袋が光に包まれ消えていく。
おお。
祈れば祈るほど、ゴミは、ゴミ袋は消えていった。だから夢中で祈った。
かたづけーかたづけーかたづけーかたづけーかたづけーかたづけーかたづけー。
気が付いたら、ゴミは無くなっていた。
「おお」
声が出た。ついで感謝の念が心に浮かんだ。これで出て行かずに済む。ありがたい、と思った。だから感謝の言葉を口にしようと。
その時に気が付いた。
光が更に強くなっている事に。まぶしいなんてものじゃない。目を閉めていても光に埋め尽くされるような感覚。もう痛い程だ。仏像を取り落とした。ごと、と音がしたが、光は収まらない。慌てて叫ぶ。
「も、もう十分! もう十分だから!」
「十分? なにをいう。まだ一番汚いおぬしが消えておらぬわ。安心せい、意識だけ奪い、体は綺麗なわしが頂くからのう」
「な」
「いうたであろう。ここの淀みが物の怪の温床だと」
ああそうか。と思う間にも光が更に強まり、意識を塗りつぶしていった。
プレゼントすることについて認識が変わることがあったので書いてみる。
やっと世間標準になっただけなんで、すでに世間標準の人は読み飛ばせばいいよ。
プレゼントするってのは相手に媚びてるような気がして、俺はいままでほとんどしたことなかった。彼女にすら高価なものなんてあげたことは一度もない。
ものをあげて気を引くっていう取引に見えたし、そうすることで自分の気持ちがつまらないものになるような気がしていた。
でも、身内に節目のお祝いでプレゼントしたら、いつになく素直に喜ばれた。そのリアクションに俺はショックをうけた。あげたものは、手帳。今後こういうの必要になるからと、お祝いと実用をかねての選択だ。
まあその、身内というのは妹なんだが、彼女にとって俺はうざい存在で、俺が覚えている限り今回みたいに感謝されたことはない。
考察は後述するとして、俺のことを書く。
俺の育った家庭はごく普通だが、家族イベントは流す家庭だった。
長男の俺が物心つくころには両親の結婚記念日は忘れ去られていたし、父の日や母の日といったイベントも完全にスルー。俺はそれが普通だと思って育った。テレビ番組で家族イベントについてのエピソードを見てもどこか白々しい話に見えていた。それでも家族は成立していたし、仲のいい家族だった(今現在も)。友人の家族イベントに対する熱心さをはじめて見た時は、むしろ引いたくらいだ。
そんな家庭で育ったためか、俺は中学高校大学で彼女ができても、感情表現を押し殺した付き合いをするようになる。
告白は自分からしない。嫉妬は隠し通す。付き合ってても好きと言わない。手は繋ぐしセックスもするけど、別れるときもつらいとかさびしいとか、感情的なことは一切言わず、しょうがないとしか言わない。
彼女の誕生日には、外食しておめでとう言って、セックスする。プレゼントもするにはしたが、指輪とかそういうのはあげたことはない。指輪は結婚相手にしかあげないという自分ルールを10代から適用してるからだ。
自分でも恐ろしいくらいのガキっぷりだが、それでも成立すると思ってた。なんせうちの家庭がそんなんだったから。
そんな俺だけど、妹にはいろいろやってきたと思っていた。経緯がややこしいから割愛するけど、妹が大学にいけたのも俺の協力があってこそだし(経済的な意味で)、普段からもっと感謝されてもいいかなと思ってた。でも実際は、それについて感謝されたことはない。
なのに今回、手帳をプレゼントしただけで感謝された。値段は数千円だ。
最初はその素直な感謝っぷりにびっくりした。戸惑った。注文から送るまで、全然手間もかかってない。何でだろうと思った。
しばらくして、仮説を立てた。
プレゼントを贈ることは、今まで考えてたような物と気持ちの取り引きじゃなくて、気持ちを伝えるプロトコルなんじゃないか。
気持ちってのも情報だ。自分はあなたを大事に思っています、という情報を伝えるのがプレゼントを贈ることなんじゃないだろうか。
シンプルな気持ちですら、実はかなり高度な情報で、気持ち同士で情報交換することはほぼ無理。熟練者同士でないとできない。
だからその気持ちを、下位プロトコルであるプレゼントに託す。プレゼントに気持ちが乗っかる。相手に届く。
だからこそプレゼントは値段じゃなくて気持ちって言われるんじゃないか。
ここではたと気付いた。すっげー普通のことじゃん、と。
こう考えると素直にプレゼントできそうな気がしてきた。
彼女ができるたびに指輪をあげていた友人が、なんかかっこよく見えてきた。あいつは気持ちが多いんじゃなくて、そのときの自分の気持ちの表現として指輪を選んでいたのかもしれない。
妹に手帳をあげたっていうきっかけでやっと気付いた。長かった俺の冬の時代。
だらだら長文になったけど、最後はこれで締める
明日指輪買ってくる!.
その子は生まれつき脳に欠陥があり、笑うという感情表現しかできなかった。彼女の感情の起伏は喜怒哀楽すべて「喜」で表現されるのだった。しかも、言語にも障害があり、日常会話はほとんどできなかった。
幼稚園までは、いつも笑っているかわいい女の子、で通っていた。しかし、小学校に上がってからは、薄気味悪い、と、ひどいいじめにあった。彼女はそれでも、否定の言葉をほとんど発することができず、ただ笑っていた。それが不気味だと、ますますいじめに拍車がかかる始末だった。
中学校に進学して、事態は一変する。女の子は男子から一転して暖かく接せられるようになった…少なくとも普段は。
女の子は、喃語と、稚拙な拒絶の意思しか発することができなかった。しかも、笑ったままで。男どもにとっては、その様子は何度やっても刺激に満ちた体験だったようだ。彼等は取り憑かれたようにかわるがわる彼女を犯し続けた。笑いながら、彼女は堪えた。ときに堪えきれず、その目は涙を湛えた。笑いながら、犯されながら、彼女は泣いた。
今や女の子も成人し、誰の子だかわからない息子も幼稚園へ上がる年齢となった。訓練により簡単な接客用語ぐらいは扱えるようになり、彼女は今スーパーのアルバイトで生計を繋いでいる。お客とのトラブルもたまにあるが、総じて笑顔が好評なため、お店が明るくなると他の店員からの評判もよい。今日も女の子は変わらぬ笑顔で忙しく過ごしている。だが、その笑顔が変わることもないゆえ、彼女の本心を知るものもいない。
http://anond.hatelabo.jp/20070904204802とhttp://anond.hatelabo.jp/20070904215626の増田です。
わたしは(多分)悪くないの、頭ではわかっているんですが、
もし少しでも抵抗できてたら今の状態は違ってたのかなあと思うとどうしても辛いです。
両親はどちらもちょっと特殊な環境で育っている人なので、
感情表現がとても下手だったり、弱ってる人を慰めるのが下手だったりするだけで、
そんなに酷い人間ってわけではないと思いたいのですが......
以前も、たまたま一度だけ学年トップの成績取ったら、
褒められるどころかそれからしばらくの間、何か口答えしたりすると
「ちょっと頭が良くたって世間じゃ関係ない、調子に乗るな」
という風になじられたりしたこともあるし、事件以後も
「自分の身も守れない奴が一人前の口を聞くな」
とかいうことを折に触れ言われたりもしてて、今の私には両親と仲良くやっていく自信がないし、
これ以上自分の親を嫌いになりたくないと思ったので、今はまた家を出て一人暮らしをしています。
時々外に出られなくなったりはしますが、薬は減ってきてたのに。
Aと会ってからまた増えてしまってます。すごく悔しいです。
明日も仕事なのでそろそろ薬を飲んで寝ます。
涙が止まらなくなりましたが(今も泣いてます)、
少しだけ気分が落ち着いたような気もします。
みなさんができるだけ悲しい目にあわずにすみますように。おやすみなさい。
だから相手に怒りや何やらも伝わらず、かといって自分の中でははらわたが煮えくり返っていたりして、それでもその時何も言わなかったのに今更「前日のことだけど」と怒り出すわけにもいかず、結局他人相手にはそのまま割り切って忘れるか、家族やかなり親しい人相手だと子供のように拗ねたり無視したり相手にはもう覚えがないのに突然イヤミとか言い出したりとガキみたいな怒り方をしてしまう。というかそれしか出来ない。しかし当たり前だが余計にこじれるだけ、しかも相手は覚えがなく自分がなぜ怒っているか分からない上自分がそれを説明しないから相手は相手で怒る。ぐだぐだにこじれてしまう。
ここまでは全く一緒だ。でも私は言う。旦那とかわかって欲しい人には言う。上手く言えなくてもどかして泣いちゃう時とかあるけど、でも言う。最初は本気で理解できてなかった彼も「ああこいつはこういう不器用な感情表現しかできないんだな」と少しずつわかってくれるようになったような気がする。
でもまだ会社の人とか他人に対しては元増田と一緒で率直な感情を言わない。私はもう良い歳なので、それはそれで正解というか、社会を安全に渡る為にもうそれで良いかなとも思ってる。
元記事の増田ですが、こんなに反応されるとは予想外でした。それだけ一般から外れているのでしょう。
まあ、指摘されるような部分もあるので、上から目線で見られるのも分かる。
彼女に傍にいてほしいと思っても、それが彼女の意思に反していれば相手を尊重するのは僕にとって当然。好きで好きでどうしようもないくらい好きなら、むしろ相手の意思は尊重するべきなのではないかと。
それにしても、人間ってそこまで欲望に凝り固まってるものなのだろうか。その思考が不思議だ。
人見知りな上に寡黙だが、感情ゼロではなく、喜んだり笑ったりは普通にある。祖父の葬式では、意外にも涙が出た。
感情表現の閾値が平均より高いのだろう。特に「妬み」「怒り」「憎しみ」となると、さらに閾値が高いようだ。
ある程度打ち解けると、かなり話したり感情を見せたりはするのだが、そこまでが長い。
「機械的に飯食って仕事して誰と話するときでも冷静沈着でどんな物事でも第三者目線で考え」られるような人間というのは、実はかなり理想だ。
少年時代は空条承太郎に憧れていたが、大人になった今は吉良吉影に近いのかもしれない。静かで秩序ある穏やかな生活が好きだ(でも結構自堕落な面があったりもする)。
「好きの反対は無関心」……まさにその通りだ。「好きか、嫌いか」ではなく、「好きか、フラットか」。
ネガティブな感情を抱くと自分の心にも周囲の人間関係にもマイナスにしかならないと思うのに、なぜ皆はそんな感情を抱くのか不思議でならない。しかし皆が僕のような考えなら、この世から戦争はとうに消えているわけで。
「人間同士で主観全開で」ぶつかり合っても、テレパスじゃないのだから完全な理解は不可能だろう。
だけど「情けないくらい感情ぶつけないと解らないことや見えない事もある」というのはおそらく大多数の人にとって事実。なぜなら僕は少数派だから。
ニヒリズムって言うのかは知らないけど、考え方の底がシニカルなのは認める。懐疑論者だし。
上から目線の人は、たぶん自分が多数派なのを自覚しているから。人間なのである程度は仕方がない。そして僕は全く気にならない。
会ってみたいものです、達観した女性。
みんな顔見知りで、リアルじゃ殴り合いの取っ組み合いをするような仲のマイミクたち。
気持ち悪いほど甘い言葉で、場の空気を「読んでるつもり」書き込み。
これじゃ、mixiに対する偏見的な空気は読めていても、「俺たちの仲」という空気が読めていない。
こっちとしては、「こいつ誰?」と言いたくなる。
関西人はつらい。
書き言葉が自然と標準語になる。標準語での感情表現に乏しい。関西弁のニュアンスを標準語に込めにくい。
でも周りが標準語で書いているところへ関西弁の話し言葉書き込みなど、かなり躊躇してしまうのだ。しかも話し言葉を書くって案外難しい。
いや、単純に書き言葉が穏やかな風味を彩っているだけに過ぎないが。
ネット歴は長くとも、リア友とネットで交流するという経験は少ない。こういう人は多いと思う。そして、少なからずこういう人は、mixiが招いた「ネット素人」や「リア友とのオンライン環境」に対して違和感を持つんじゃないだろうか。
このエントリを作成している途中で「”です・ます”調で書くか”である”調で書くか?」という非常に良質な記事を見つけた。私のエントリは、その記事と比べれば全然文章について的を射ていない。そのことについてご了承願いたい。
高校の教科書に載っていたことなのだが、日本語で一般に「著者」と訳されている「auther」という英単語は、「権威」と訳される「authority」の派生語であるらしい。つまり、権威を持っていなければ書き手にはなりえず、同時に書き手は権威ある存在とみなされるのである。
こういう認識は、戦後の経済発展、さらにはブログや掲示板の普及を経た現代においては疑問に思う人も多いかもしれない。しかし、印刷技術が未発達だった時代においては一冊の本が非常に貴重な存在であっただけに、こういう認識が人々の中に少なからず存在していたのだろう。
そして現代でも、主にマスコミ関係者や評論家を中心に「authorityを持つものとしてのauther」という認識がいまだに存在するのかもしれない。まあ、考えてみれば文章を書いて人に見せるという時点で、読者に何か与えているわけなのだから、わざわざ丁寧語である必要性がないのではないか、とも思えないことはないのだが。
少なくともネット上においては、普段から「糞」とか「ワロス」とか連呼している人が他人を誹謗中傷したところであまり強い力は持ち得ないだろう。しかし、普段です・ます調で穏やかに言葉を紡いでいる人が、急に「これはひどいですね」とか、「あなたは最悪です」とか言ったら、急にその人が冷たい人に見えてしまうのではないだろうか?要するに、です・ます調では言葉のひとつひとつに気を配らないと、読み手が引いてしまう可能性があるのだ。
このように文章ひとつ書くのにいろいろな労力を費やすぐらいなら、です・ます調で書かなければいいじゃないか。そしてです・ます調の文章はなくなっていく。考えすぎか?
ネット上でです・ます調の文章を見かけにくい最大の理由はこれじゃないだろうか?例えば、
というふたつの文があったとしたら、どちらのほうがエロさが伝わってくるだろうか?また、
というふたつの文があったら、どちらのほうがひどいように聞こえるだろうか?
基本的に、敬語には尊敬や謙譲といった、目上の者への敬意以外の感情がそもそも要請されていない。だから、感情を相手に伝える際には、非常に不便なのである。
もちろん、です・ます調で優れたエントリを書けるブロガーの方々もたくさんいる。しかし、そういう方々はフォローや解説が上手い場合が多い(そうじゃないと、かえって冷たい人に見られてしまうことは上述の通りである)。そもそも文章が上手くないと、です・ます調で表現し続けるのは難しいだろう。
以上、「です・ます調の文章が少ない理由」を3つ述べてみた。しかし、です・ます調が文章からなくなることはないだろうし、使っている人は皆それぞれです・ます調を使う理由があるから使い続けているのだろう。第一、私も増田の外ではです・ます調である。最後に、です・ます調のよさについて検討して終わりにする。
まず、やはりだ・である調よりも穏やかな印象を与える。解説や紹介なんかは、です・ます調のほうが読者にとって入り込みやすいだろう。
また、コメントを通じてのコミュニケーションをとりやすいというのもひとつの利点かもしれない。基本、ブログの更新はです・ます調オンリーでも、だ・である調オンリーでもできる。しかし後者の場合、コメント返信や読者へのお願い、尊敬する人物について述べる際などにもだ・である調を通すと、偉そうな人に思われる危険性がある。かといって、だ・である調とです・ます調を使い分けると、一貫性がないと思われるかもしれない。その点、です・ます調ならそういう問題が少なくて済む。もっとも、「書くエントリが制限されがちになる」という最大の問題点は解決されないが、です・ます調で通す人は、そう偉そうなことや誹謗中傷を行ったりしないのだろう。だからです・ます調で文章を書き続けられるのだと思う(ただし、私は結構です・ます調で誹謗中傷を行っていたりする。増田では150users超えをしたことがあるのに、ブログのアクセス数がさっぱりなのはそのせいか?)。