読者は創作物を印象批評から文献的批評といったさまざまな方法で勝手気ままに好き勝手に言いながら評価を下す。なかには口汚く罵ることもあるだろうし、範囲をひろげ製作者にも言及し怒りをぶつけることも少なくはない。しかしその言い分が不当、もしくは評価が不適切、レビューが低品質だったとしても「批評・批判」されないのが現在の状況だ。それはレビューが「創作物」だと見做されていないから、見逃されているのだ。
自分が書いたレビューを批判された時に「個人の感想だろ!」「好きに言わせてくれよ!」「お前は嫌いかもしれないが好きな人だっているんだ!」「嫌なら見るな!」「そんなに嫌ならお前が書け」
という文句はあなたが書いたその「レビュー」にそっくりそのままお返しする。その気持ちは、ある創作物に対して書いたあなたのレビューの自己内省・品質の向上に使うのが適切だろう。もちろん上述したような事を言う人はいないと思うが、もし本気でそう思うのならば"オープンスペース"に創作物を公表しないほうがいい。チラシの裏にでも、日記帳にでも書いて人目を忍んで自分だけ見られるようにすればいいだけだ。そしてもしも公の場にてレビュー(創作物)を開示するならば―――創作物を世の中へ公表し読者からの批判・誤読を受ける辛さを知るのも悪くはないだろう。あなたがレビューしている創作物もまた、そのような批判・誤読を一身に受けている事を実感として理解できるに違いないのだから。
もちろん私が書いたレビューレビューに、さらなるレビューを下すのもまた自由なので気の向くままにやって頂ければよい。
というようなことを書く人がいたとして。
どうしてぶくまされたいのかな
ぶくまをされなきゃしぬのかな
ぶくまをされるとながいきできるのかな
ぶくまをされなきゃびんぼうなのかな
ぶくまをされるともうかるのかな
ぶくまをされなきゃばかなのかな
ぶくまをされるとあたまがよくなるのかな
ぶくまをされなきゃかとうなのかな
ぶくまをされるとじょうとうなのかな
かあちゃんかあちゃん
ぶくまととらばがくっつくぞ
ヤ「面白そうじゃねーか、虐殺の文法とやらを俺にも掛けてみろよ」「はい、掛けます」10;…ぎゃわー10;10;「だいたい、あいつら文法以前に言葉も通じないし、言語もない、原生生物みたいな脳してるんじゃよ」— kash06(ジュスト) (@kash06) 2015, 8月 17
記号的な差別はしないけど、話してわかる人とわかんない人の区別はするよ?話してもわかんない人に説明するのは誠意ではなく、不毛なだけだから。— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2015, 8月 20
最初はある思想から発言していても、敵対する論者の中で極論を言う人間を見つけては嘲笑するという楽しさにどんどんのめり込んでいくと、だんだん思想関係なく、この嘲笑行為が楽しくなってしまうという— 加野瀬未友 (@kanose) 2015, 8月 20
昔はてなダイアリーで、時事ニュースやネットで話題になった事件について、ずっと言及している人がいたんだけど、っていうとそういう人は別にいっぱいいそうだが、当人の生活や趣味の話はほぼなく、とにかくダイアリーでニュースなどをずっと批判しているだけだったのが印象的だったのだ。もぐもぐさんが言うような「ずっと怒っている人」である。毎日、自分が怒りたくなるようなニュースを探しているみたいだけど、疲れないのだろうか…?と疑問に思っていたのだが、ある時疲れたのか、プライベートモードになった。と思ったら、その後、はてなハイクで似たようなことをやっていた。調べたら、東日本大震災のあと、しばらく続けていたが、震災から半年ぐらいでやめていた。Twitterも併行してやっていたが、そちらもやめたらしい。現在はそういうネット活動に飽きたのか、それともTwitterなどサービスを変えて同じようなことをやっているか…。それはわからない。浅羽通明氏が、湾岸戦争の時の新聞投稿欄を元に「新聞投書に見る『発言したい欲望』という記事を書いているのだが、昔ならこういう人は新聞投書をしたのかも知れない。ブログという没のない新聞投書欄を得て、「ずっと怒っている人」は可視化される。
虐殺の文法とは
覚えたいものがまとまってる教科書の図とかあるじゃん。アレをイメージで焼き付けた後、「そこに貼り付けるように」ゴロあわせを覚えると使い勝ってがいい。
俺、ADHDで記憶力マジで悪いんだけど、これだと結構覚えられる、人並みの半分くらいになれた。
②ゴロあわせを忘れても、ゴロで覚えようとした内容が思い出せる
逆説的かもしれないが。ゴロあわせを考える過程ってのが、大事みたいだ。
もちろん、ゴロあわせも覚えやすいが、ゴロあわせ無しで覚えようとするより、ゴロあわせありで覚えたほうが、たとえ当のゴロが出てこなくても、思い出せる。
③「知識をためている」というより、「点につなげる力」が大切
日々努力して、知識を盲目的に入れるより、ある程度割り切って、点数からつなげたほうが勉強しやすい。
ついつい、軽視ってか、忘れがちだけど、「これを点につなげるにはどうしたらいいだろう」って思考が努力してるもの同士の差なのかなって。
基礎に漏れが無いのは大切なんだけど、点になるところを抑えている安心感や、目標点までのギャップを埋めてる安心感は長期の『努力の楽さ』に相当影響与える。
ついつい、『テストのためだけの勉強、知識の入れ方』って拒否りガチだけど、そこは割り切って、そこにエネルギーを注ぐ勝負だと思うと、また違った楽しみ方に思える
リア充とか、っぽいけど。「今日生きた意味を残す」って考え方は結構おいしい。「1時間だけでも勉強して、一応生きた意味残した」くらいで結構次につながるわ。
周りよりセーフティーで努力するのは楽。周りよりアウトで努力するのも得。
一人だと、沸け分からなくなってくる。
やっぱ、1教科目より、2教科目で、違う。スピードも理解力も。
だから、早め早めにやると、後半超絶ぶっちぎれる。
今まで、何度も何度も試練があったけど。
160万円までは君の取り分にしていいから作って仕掛けといて
改正労働安全衛生法に基づく「ストレスチェック制度」平成27年4月15日労働基準局安全衛生部労働衛生課
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000082587.html
悪いことに、あなたの考えの通りだと思う
正義とか悪とか言うつもりはないけど(自分もディフェンス型コミュ障だし)、
職場の大先輩だけど、
「○○君、アッチ(夜の生活)の方はどうなの?」と、何の脈絡もなく下ネタをぶっこまれたり、
「いやー、大変ですわ・・・」っていう、明らかに愚痴なんだけど何の話か分からない切り出し方をされて
無下に扱う訳にもいかないから、何の愚痴か汲み取らなきゃいけないとか。
非モテの思想も、年々形が整ってきているし、進歩している。受容する側は何周送れの議論で非モテを叩いてるよね、電車男のころから変わってない。
まあ、あと5年もすれば、社会も非モテ学みたいな感じで、ある程度、受容する側の意識が変わるんでないの。その頃には、さらに非モテ学も洗練されてるでしょ。
俺は、最近、他人をステータスで見ている。というと非人間的な感じがするが、そうじゃない。
たとえば、「建築家×得意料理はオムレツ×身長170センチ台×心臓病持ち」こんだけ条件をかけると、多分当てはまる人はいないかもしれない。
こんな感じで、ある程度ステータスで分割すると、その人の『独自性』が見える。
ありきたりな個性をいくつか連続で持ってる人格ってのは、その人だけ。その人と関わってる自分は、その属性を持ってる唯一な人相手に、『実験』できている。って感じる。
もちろん、こんな考え方は、ナチュラルじゃない。面白いと自分で思ってるからやってるだけ。
本当は、分かっている。個性なんか無い。ラブライブとけいおん!のキャラの違いは見分けつかないが、記号の組み合わせで差別化している(もちろんできておらず、全員無個性)だけど、そこで『コンテンツ』として楽しめる要素がある。
こんだけ並べれば、世界で一つのキャラになる。ボツ個性だけどさ。
それでも、作品を作ろうと思えば楽しめると思う。キャラにあわせて話作るから、キャラが勝手に動いて創作の楽しみを与えてくれる。
これと同じように、つまんねー人としか付き合えない俺でも、一応楽しめる。
もちろん、その人ありのままでの付き合いは楽しいけど、いかんせん、そういう付き合いはある程度時間がかかる。
現代はスピードの時代、一期一会。それを楽しむには、どーしても、そうなる。
毎クール変わるアニメのキャラで楽しむように。髪の色しか変わらないような、そういうものを。
俺は、こういう感じの思考や手法が次々でてくるところが、人生面白いなって感じる。
別の例だが、昔から俺は小説を書くとき、まず登場人物をABCDEなど作る、大まかなテーマを決める。で、それぞれキャラを作る。
で、その後は、
場面1:AE
場面2:CE
場面3:ABC
場面4:D
などと、場面数とその場面にトウジョウする登場人物だけまず決める。
その後、「この2人が一緒にいたらどういうこするかな?」と考える。これを場面数だけ繰り返して。
全体として、『群像激』になるようにする。
こんな感じ。
うちのお父んもそう言っていた。でも現地の人は「そんな娘を採用してはいけない、雇っても仕事しねーから」と。まんまと色気に飲まれるところだった、うちのお父ん
http://anond.hatelabo.jp/20150820000015
これを見て思ったが、4つ打ちって別にそんな特別なもんでもなかった
4つ打ち4つ打ち言っても、結局はリズムの基本的なパターンのひとつでしかないのを忘れかけていた
00年代だけでもこんなに4つ打ちがあったのに、別に今までそんなに意識したことはなかったっけ
これ見て初めて4つ打ちだって気付いたのもあるし
最近の若手バンドを見て「うへぇ、また4つ打ちかよ」だなんて思っていたが、少し意識しすぎていた部分もあるのだろう
今のバンドを聴いてる若い子だって「4つ打ち最高!」って思いながら聴いてるわけじゃないのだろうし
とはいえ、若手バンドの「数の暴力」的な4つ打ち攻撃ってのは確実に存在するとは思うんだよなあ
もし仮に今の若手がこぞって3拍子のロックをやり始めたら「うへぇ、また3拍子ロックかよ」ってなるだろうし
みんながこぞって同じことをやりだすと途端にそれが陳腐に見えてきて拒否反応を示す現象ってよくあるよね
まさにアレルギーだわ
ここまで4つ打ち言われると、もう「4つ打ちは若手の特権」みたいな感じになってきて、逆にある程度キャリアのあるバンドは今ものすごい4つ打ちがやりづらいんじゃないかな
そうやって避けられてくるんだろうな
4つ打ち自体は悪くないのにね
それ、必要なのは「非オタク的な感性を身につけること」であって、オタク的性格を捨てる必要はないんじゃね
非オタの知り合いと飲みにいったり、できればどっか遊びにいったりしてみなよ
行き先決める段階とかもできれば参加して、彼らの思考パターンを解析するといい
ホテルのゴミ箱って大抵小さいじゃん。到底空き箱が入るような大きさではない。どころか、日本人が一晩泊まっただけでもゴミ箱に入んないんだけどという状況はよくある。
元増田だけど、
その人らに比べたらまだまだだなーと思うけど、仕事仲間の目からするとオタクという括りに入るらしい。
で、なんで脱オタしたいかというと
上司から今の仕事で昇進するには「オタク的な性格じゃない方がいい」と言われたから。
なのでオタクであることを隠すようなことをしても何の意味もないんだ。
本だとかBDだとか物質的なものを捨てても、考え方を捨てきれないんだよね。
やっぱオタクって業が深いわ。