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はてなキーワード: 政教分離とは

2022-08-19

政教分離フランスに学べ

殆どの国の政教分離国家宗教活動を禁じている。例えば政府特定宗教を利すること、国民特定信仰強制することなど。つまり宗教団体の側から政治活動に参加することは禁じられていない。日本は当然のこと、イギリスドイツアメリカなんかも同様。もし今の日本宗教団体の政治活動法律により禁止すれば、憲法14条一項、19条20条一項、21条との関係違憲となる。そのため公明党統一教会闊歩する事態となっている。そもそも我が国君主(笑)税金生活国事行為を行う存在なのに神道祭祀みたいなことしてるし。

一方厳格なのはフランスフランス政府宗教活動をすることは無論のこと、公共空間での市民政治活動禁止されている。宗教教育ダメ。完全にプライベート空間信仰するのは当然OK。それでもカトリック勢力日本日教組みたいに教育現場に強く影響を及ぼしてるそうだが、日本宗教団体程の影響力はない。日本フランス型の政教分離採用してはどうだろうか。

anond:20220819104455

よく知らないって自覚があるなら長文で喋んな。

ほんとによく知らないことが露呈しちゃってるだろ。

政教分離のことも反社政治規制についても良く知らない。

anond:20220819104121

この程度で論理っていってくれるの?論理ない人なりに褒めてくれたのかなありがとねw

ヤクザと付き合って資金提供するのが法律で定められてる悪ってことはまずわかってるかな?

しらなかった? なら、政教分離って知ってるかな?

小学校社会でならわなかったかな~難しくてごめんねwwwwww

ヤクザがみんな黒い眼鏡かけてほっぺに傷があるわけじゃないのは知ってるかな???wwwwww

かい駅前でビラ配ってる人でもヤクザの下っ端も混じってるかもね!

一見まともそうな人でも付き合っちゃだめだよw 

あと選挙違反連座制から知らないままやらかしたら政党からおまえだけ切り捨てられる覚悟よろしくねwwww

ほら、論理、いらなかったでしょ?むずかしいことないよ~がんばって勉強しようね!

anond:20220818230759

元増田で「まーそういう付き合いもあるよなー」って思ってしまったがちゃうちゃう

宗教団体の集まりだったら誘われても断るのが政教分離の本筋。

2022-08-18

anond:20220818211741

創価じゃないただのその辺の寺の仏教でも「宗教からお断りします」って政治家が言ってるの知ってるから眉唾というか田舎議員政教分離って建前すら知らんのか?

どちらかというと、フランス路線に舵を切ったほうがいいと思う。

対カルト、日本はどう向き合うべきか。アメリカは市民活動、フランスは法規制…「宗教批判を一人一人がタブー視せず、リテラシーを持って臨む」 | 47NEWS

どちらかというと、という、あいまいな言い方になるのは、日本憲法アメリカ式に多様性擁護する緩い政教分離なので

フランス式に公共空間の徹底的な浄化をするためには憲法改正必要から

恐らく大多数の心情としては、カルトは許容できないし、許容しない制度設計をすべきと思っていると思うのだが、

憲法がそうなっていない。アメリカのように宗教汚染上等、トランプみたいなのが現れても、社会がいずれバランスをとってゆく、と信じることはとてもできない。

とまで割り切れないなかで、日本憲法には疲労というか限界が来ているとつくづく思う。

anond:20220818125630

まず、「カルト」という言葉は「反社宗教団体」を意味します。良い暴力団存在しないのと同じように、良いカルト存在せず、カルト排除する際に理由不要です。

もちろん暴対法による元構成員社会復帰困難性のような、運用面の問題に対する批判はありえますしかし、「暴力団排除するのは不当」という議論は成立しません。

反社会性を前提としない場合カルトではなく「新興宗教」と呼びます。これも「うさん臭い連中」といったニュアンスで使われがちの言葉ですが、字義的には批難を含まない、ニュートラル呼称です。

では新興宗教帰依していることを理由採用拒否することは可能か? あるいは、従業員信仰する宗教調査することは許されるか?

これは一律に回答できるようなものではなく、究極的には裁判最高裁まで戦うようなお題になりますが、

雇用契約自由原則に従って採用拒否することは理由の如何を問わず可能、と主張することもできるし、

実務能力ではなく宗教団体への所属理由採用拒否するのは不当かつ違法、と主張することもできそうです。

現実的には、不採用あるいは解雇の際に理由の開示が不要であるから、信教を理由とした採用拒否解雇とそれ以外を弁別することが困難なので、それを防止することもまた困難であるとは思います

では雇用契約ではなく、カルト所属する代議士罷免できるか? というと、これは無理です。政教分離というのはそういうことではありません。これについては安倍晋三氏が答弁を出していますので引用します。

現在自民党連立政権を組み、政府と一体となっている公明党と、その支持母体である創価学会との関係は、政教分離原則に照らして適切なものであるか。公明党創価学会は「政教一致」の関係にあるか。

 (我が国における政教分離原則に係る内閣官房参与発言に関する質問主意書 2014年6月16日 新党大地 鈴木貴子

(略)一般論として申し上げれば、憲法の定める政教分離原則は、(略)宗教団体等が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではなく、また、憲法第二十条第一項後段の規定は、宗教団体が国又は地方公共団体から統治能力の一部を授けられてこれを行使することを禁止している趣旨であって、特定宗教団体支援する政党所属する者が公職就任して国政を担当するに至ったとしても、当該宗教団体と国政を担当することとなった者とは法律的に別個の存在であり、宗教団体が「政治上権力」を行使していることにはならないから、同項後段違反問題は生じないと解しているところである

 (衆議院議員鈴木貴子君提出我が国における政教分離原則に係る内閣官房参与発言に関する質問に対する答弁書 2014年6月24日 内閣総理大臣安倍晋三

要は代議士統一教会の指示に従って動いていたとしても、それは統一教会統一教会として権力行使しているわけではないので、政教一致にはあたらない、ということです。カルト代議士排除するには、贈収賄などの犯罪行為として立件するか、あるいは自民党自身統一教会との決別を決意し関係者を排除(除名)する必要があります後者場合、党から除名されても議員資格は失わないので、統一教会新党ができることになりますね。

2022-08-17

カルト政治癒着を最小限に防ぐ方法考えたから聞いて

政教分離撤廃して国家神道を復活させます。そして公教育では国家神道に基づく宗教教育を徹底する。

終わり。

anond:20220817105052

っつーかフランスカトリック権威がつよつよだったのと、歴史的共産主義が強いか政教分離が一番極端なことになってるんであって

そんなに素晴らしいはずなのに他の国が追随しない理由とか歴史的経緯とか、一度でも考えたことがあるんだろうかね

9条にしてもそうだけど、この国の左派はすぐ極論から極論にジャンプしすぎなんだよ

公明党カルトと繋がっています

公明党という政党は裏に創価学会というカルトがいます創価学会員は知り合い全員に公明党投票しろ電話します!カルト政党反対!政教分離はどこにいった!

2022-08-15

共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで

これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。

ただ、内田が、

感情の器」って、あくまでも個人的身体条件のようなものから

というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。

たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミス道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会規範構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。

そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。

家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。

アレックス・カー20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。

おりしも建設省代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代

アメリカの7倍のコンクリートを使って日本山河コンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。

その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。

「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。


A・カーは、フェアプレイ精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者トップ黒海に豪奢な別荘を保有し、人民実質的農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。

「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司説教ブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖

最近、想起するのはやはり旧統一教会家族価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族崩壊している、といった、「おまゆう問題崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするとき動機付けメカニズムなのだ

内田永井議論テーマひとつである人権平等。あたか普遍的原理についても、

それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。

アメリカ建国者の一人、トーマスジェファーソン人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。

これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。

どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質人民に備わっていると信じて建国者デモクラシー設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権矛盾が、南北戦争北軍正当性を決定的にする。

内田議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要キーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。

自分でうまく整理がつかなかった。内田はいう。

「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係いかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。

内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。

まず外付けの倫理から。どのように受容されてきたか

舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後憲法のものアメリカ経験に基づいたものだ。

しかし、日本人権教育は、残念なことに、人権普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。

戦後人権を外付け実装してきた日本は、そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。

現在、旧統一教会問題話題の、国家宗教というテーマにしてもそうだ。

政教分離キーワードとなるのは、恐怖から解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西課題だ。宗教いかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴ勝利した古代ローマ

そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要再確認された。それが言論の自由関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場比喩が生まれる背景ともなった。

他方、旧世界フランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会権威苛烈弾圧が恐怖であった。だから公共空間合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランス言論の自由は、その意味カトリック否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したこと歴史的な背景は深い。

このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。

それは、実は国によって微妙コンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的価値なら、なぜ何千年も克服できなかったか意味を問うというか。

しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後日本裁判所も含めて。

でも、それこそが日本人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。


その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。

内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは自分の国や自分家族自分自身の歴史だと俺は思う。

自分自分先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理けが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本アジア欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。

歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。

自分理想とするもの現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。

自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。

ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要キーになるし、国家宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米経験教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決行政戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料支出したこと違憲とした歴史的判決で、戦争経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。

しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通体験共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代

50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。

「あの頃は」という共通過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。

まり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。

それが、失われ、外付けの価値観だけがカラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。

永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代

「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。

と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。

また、日本憲法に組み込まれ歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。

高度成長期に「あの頃」といえば戦争時代だった。

それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、

視聴者からは、おしん私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。

しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ

しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争記憶との関連が薄まった。当然、日本憲法リアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。

しかし、いずれにしても過去記憶憲法規範が直接に結び付かない、その世代経験、そこに、永井紛争国の辺境の地を自分テーマに選んだヒントがあるように思えてならない。

紛争リアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生ときに知った人権、そして憲法価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。

しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。

永井氏が、内田氏との対話のなかで

私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこから自分母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親単身赴任でしたし。

といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。

全然人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。

動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的ロールモデルとは限らないのだ。

この体験辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。


ともあれアレックス・カー面白い

読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。

A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.

Dogs and Demons, 2002, A

2022-08-08

1998年小渕内閣以降の内閣支持率と時事トピックス(24年分+今月分追記)

何やったのか当時の反応を含め記憶曖昧なので内閣支持率を元にトピックスを書きだした。

先月末に同様の記事を書いたが今月大幅に支持率が下がったので追記して記載

毎月のNHK世論調査数字使用

前月と比較して7%以上内閣支持率の増減があったときのみ書き出した。

最初は5%増減で書こうとしたけど時事を調べるのが面倒で無理だった。

トピックス以外の雰囲気を掴む為、次のようなものも合わせて記す。(適当に作った)

支持率上昇率=(前月より5%支持率が上昇した月数)/在職月数
支持率下降率=(前月より5%支持率が下降した月数)/在職月数


元増田が小渕氏から書いてるので小渕内閣から

以下、当時の支持率数字と()内の数字が前の月との増減値。

小渕恵三 在職期間:1998.08~1999.03 1年8ヶ月 就任時:37% 退任時:35% 最高:53% 最低:20%

支持率上昇率:15.0%   支持率下降率:20.0%

森喜朗 在職期間:2000.04~2001.04 1年1ヶ月 就任時:39% 退任時:7% 最高:39% 最低:7%

支持率上昇率:23.1%   支持率下降率:46.2%

小泉純一郎 在職期間:2001.05~2006.09 5年5ヶ月 就任時:81% 退任時:51% 最高:85% 最低:39%

支持率上昇率:18.5%   支持率下降率:21.5%   ※2001.09 アメリカ同時多発テロ

安倍晋三 (第1期) 在職期間:2006.102007.09 1年0ヶ月 就任時:65% 退任時:34% 最高:62% 最低:29%

支持率上昇率:16.7%   支持率下降率:41.7%

福田康夫 在職期間:2007.102008.09 1年0ヶ月 就任時:58% 退任時:20% 最高:58% 最低:20%

支持率上昇率:8.3%   支持率下降率:25.0%  ※2008.09 リーマンショック

麻生太郎 在職期間:2008.09~2009.08 1年0ヶ月 就任時:48% 退任時:15% 最高:49% 最低:15%

支持率上昇率:8.3%   支持率下降率:41.7%

鳩山由紀夫 在職期間:2009.102010.05 8ヶ月 就任時:70% 退任時:21% 最高:70% 最低:21%

支持率上昇率:0.0%   支持率下降率:75.0%

菅直人 在職期間:2010.06~2011.08 1年3ヶ月 就任時:61% 退任時:18% 最高:61% 最低:18%

支持率上昇率:14.3%   支持率下降率:42.9%   ※2011.03 東日本大震災 この月世論調査なし。 2011.02 21% 2011.04 27%

野田佳彦 在職期間:2011.09~2012.12 1年4ヶ月 就任時:60% 退任時:20% 最高:60% 最低:20%

支持率上昇率:0.0%   支持率下降率:31.3%

安倍晋三 (第2期) 在職期間:2013.01~2020.08 7年8ヶ月 就任時:64% 退任時:34% 最高:66% 最低:34%

支持率上昇率:15.4%   支持率下降率:21.5%  ※2019.12 コロナ中国で1例目発生

菅義偉 在職期間:2020.09~2021.09 1年1ヶ月 就任時:62% 退任時:30% 最高:62% 最低:29%

支持率上昇率:0.0%   支持率下降率:23.1%

岸田文雄 在職期間:2021.102022.08(継続中) 11ヶ月(継続中)  就任時:49% 退任時:-% 最高:59% 最低:46%

支持率上昇率:9.1%   支持率下降率:18.2%  ※2022.02 ロシアウクライナ侵攻開始

内閣支持率の出典

https://www.nhk.or.jp/bunken/yoron/political/1998.html

2022-08-07

anond:20220807025531

めんどくさいのが「手の込んだ広告」なんだよなぁ

よっぴぃもタイトル広告いれずに炎上してたけど

もう政治宗教を分離しなおす(政教分離)と同時に広告コンテンツも分離して広・コン分離してほしいんだわ

選挙違反じゃないからって宗教広告めっちゃ入ってた時代もあったよなぁ

2022-08-06

Q. カルトとの関わりが疑われてるのに国葬不適切では?

A. そのふたつは別問題から、良い。

テロ擁護カルト批判が別問題なのと同じ。

政教分離を侵した疑いと、国政の業績を讃えるのは別問題

国葬を大々的に行なって葬儀の場で元総理の成果をいくら持ち上げても、それが政治宗教さらなる癒着助長する事には繋がらない。

近代国民国家から宗教を分離することは原理的に不可能

土地があって支配者と被支配者がいるという封建的国家から民族という共同幻想をもとにして作り出されたのが近代国民国家なのであって、その過程で生み出された政教分離原則などはつまるところ国民国家という超宗教をその他あらゆる宗教の優位する唯一の国教として定めるという宣言に他ならない。

もし政治から宗教的なものを完全に分離しようと思うのなら、「国民」は消滅しわれわれは名もなき農夫に戻ることになるだろう。

2022-08-05

民民「反セクト法作ります

これだよ!

統一問題自民批判矮小化してしまうどこぞのボンクラと違うよね!

統一教会、顕正会、真光…新興宗教は数あれど、創価天理と何が違うのか?ってのもあるし、わけのわからん新興宗教は網かけて対策しないと。政教分離過激めでよいと思ってる。

2022-08-04

anond:20220803130606

表現の自由戦士が「すみわけろ、さもなくばお前に正当性がない」って散々いわれてるのとおなじで

カルト信教の自由戦士も「すみわけろ(憲法に従って政教分離しろ)、さもなくばお前に正当性はない」っていわれて当然だとおもう。

住み分けするならそこにいてくれてもいいけど別にどっちにも不満ないんだろうからそのまま黙って戦士名刺捨てろ。昭和からいままでそうだったし。

はいろんぱ

2022-08-03

anond:20220803210025

???政教分離なんて言われたら政治家献金して自分たち詐欺行為ごまかせなくなっちゃうじゃないですかー!」

これかな?

はてなってバカ巣窟だな

政教分離って言葉だけは辛うじて知ってるからとりあえず、これを連呼してるけど政教分離がどういうものなのか全く理解出来てないので法学的にはとんちんかんなことしか言えてない。君ら、あれだけ政治話題好きなのに憲法政治学の概説書も読んだことないの?

「なんかよくわからんが、水素水って体に良さそう」って言ってがぶ飲みしてたアホとあんまり知能指数変わらないと思う。

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