はてなキーワード: 自己主張とは
という気持ちになれなくて、それが困ってるみたいな話です。
頭の中ではそういう意見の衝突がおきるのは当たり前とわかっていても、自分が喋る段になると
たまにそのコントロールができてなくて反論するときもあるんですけど、後から(反論したことについて)すごく嫌な気持ちになります。
自己主張=我儘で、我儘を言うのは子どもでダサいから自我を出したくない、みたいな考えが根底にあり、
でも、相手の主張は我儘だとは感じないんです。自分の主張だけをそう感じる。
相手の言うことを受け入れられない自分が幼稚で、自分の意見には価値がないのに、なぜ我儘を言って相手を困らせてるんだろう?と言う感じ。
それに対して「じゃあ子連れが困っていても助けないな」と言うのも自由
なぜならば、他人を助ける事は単なる善意であって義務でも何でもないので。
『「赤ちゃん触らないで」と「地域で子育て」は両立しない』と言っている人達は別に他人の子供に触りたい訳でも何でもなく
「触らないで」と刺々しい自己主張をする一方で都合の良い時だけ助けを求める身勝手さを指摘しているだけだろうに
困った時はお互い様とか言っても、じゃあその子持ちは見知らぬ成人が困っていたら無償で助けるのかって言ったら絶対に助けないじゃん
将来子供達が老人を支えるとかいうのはあくまで対価を得ての労働の話なので全然違うし、そもそも助けるのは今の親達の手柄ではないからな?
『日本の就活システムは、新卒が“最強カード”?転職の弊害と、切なる願い』
https://mi-mollet.com/articles/-/38184
リーマンショックや東日本大震災、そしてコロナ禍といった未曾有の災害が次々と起こり、少子化による若年層の減少もこれだけ叫ばれているのだから
我々の就職活動を苦しめた新卒至上主義も2022年にもなればもういい加減薄らいだかと思っていたんだが、
実際にはまだまだ残っているというかバリバリ現役らしい。
我々就職氷河期世代の不遇って単なる不景気や企業が採用を絞ったという一過性の問題ではなく、
新卒至上主義故にそれ以降もまともな正社員就職が出来ずに据え置かれるという構造上の欠陥が原因だと思うんだけど
「もう二度と我々のような世代は作らないでほしい」と言って自分らの利益度外視で若年層への優遇を訴える氷河期世代の人達さえも
新卒至上主義というシステム自体を撤廃しようとはほぼ全く言わない謎。
この不合理なシステムを温存したままで、少子化による労働力の低下を憂うなんてあまりにもおかしいと思うんだけどねーー。新卒至上主義さえやめれば、
移民を検討するまでもなく労働力不足なんてすぐに解決しそうなものなのに。
しかしこのヒオカって人、問題提起は良いと思うんだけど、着地点がどうもおかしいというか
現代日本における深刻な社会問題への言及で始めた以上は本来ならば社会や強者に向けて怒りを表明して終わるべき所を
何故かそうならず、無理に企業やそれに携わる人達に阿り、彼等彼女等も頑張っているんだよで終わるのでフラストレーションが溜まる。
無理矢理なポジティブさにいわゆる糸井重里イズム的なものを感じてしまう。
https://fujinkoron.jp/articles/-/6741
『学歴よりも経験』で一時炎上した平原さんについての記事なんだけど、
彼女が本当に言いたかった事は違うのではないのか?と、何の根拠もなく無理にポジティブに捉えて平原さんを擁護している。
「しかし、平原さんが言う経験とは、本当にそういった履歴書にかける経験だったのか?とふと考え直してみた。
確かに現状は、履歴書にかけるのは留学や部活動など、お金で買う経験ばかりだ。
しかし、もっとお金で買えない経験が評価される社会になったらどうだろうか?と考えてみる。」
まあ、文筆業でお金を稼ごうと思ったら結局業界の有名人に媚びなくちゃいけなくて
尖った自己主張や怒りの表明なんてものは出来なくなっていくんだろうな
3歳くらいで落ち着いてくる...は完全に騙されたね。
自我の芽生えが1歳くらいから出てきて、それが収まることはないよ。
3歳くらいになると言葉の発達が追い付いてくるという話であって、それ以上でもそれ以下でもない。
そのあたりから言葉で親の気持ちを伝えることができるようになってくるのでその点では言葉の通じない怪獣から言葉の通じる怪獣に変わってくる。
先のことをある程度説明して、子供に心の準備をさせることもできるようになってくる。
自我はどんどん拡大するから自己主張はこれからどんどん大きくなる。
2人は一心同体という感覚は減り、別の人格がそこにあるんだなと理解する所はこれから増えるだろうね。
親は子供より先に死ぬ存在だから、自分が死ぬ前に子供には自分で考えて自分で決められるようになってほしいなと思うけどね。
だから、親の言いなりは望まないな。
一般的にネット民、ネットユーザーとしてネット上に文章を残す人達が存在するが、
ネット上に文章を残すには、それに相応しい自己肯定感や承認欲求があると思っている。自己肯定感については、よくネット上で自己肯定感がないといった文言を見る。しかしそれを全世界に垂れ流してる時点で変な感じがする。自己肯定感があった頃は何とも思っていなかったが、自己肯定感がなくなりそうな私は自分がネット上に文章を残すこと自体汚らわしいことだと感じ始めたからだ。一部のサービスでは辞めた。また、言葉を検索すると自分の存在が出てくるから、場合によってはそれを意識しなければならない。自分の主張を発信する際に、それが特に恐ろしいことではないだろうか?検索という不特定多数の人が行う行為に自分の存在を押し出すということに恐怖感を感じ始めた。そこで、検索をあまり意識しない(最低限のモラルは守っている)スタイルで全世界にキモ言動をしていた過去の自分が恐ろしく感じ始めた。自分の過去の発言はどうあがいてもキモくて自己主張してはならないものだという意識が根付き始めたからだ。その文章は消したが、ツイッターYouTubeニコニコ2chなどで自分を押し出すことに専念していた頃の自分が怖くてたまらない。そこで私の今はネット界隈の中で自分を押し殺すことに専念し、発信することを辞めたいと思っている。この文章もキモいかもしれない。ネットに文章を残さず、見るだけの人達、その人達はかなり賢いのではないだろうかという考えが浮かんだ。
人と喧嘩とか口論とか自分の意見を突き通すのが本当に苦手で、むしろそういうシュチュエーションになるのが嫌でその場を早く終わらせたくて妥協してしまう癖があるんだけどこういう私が彼は嫌いらしくて本当に悲しい
多分だけど、妥協してる感、ただその場を終わらせたかっただけで本質的には望んでなかった感が嫌なんだと思うよ
諍いが起きるくらいなら損を取るのがベストな選択肢、争いの方がコストが高いから自分にとっては妥協は妥協ではない、損こそ我が本望なのだ、損もまた戦略なのだって感じなら彼氏もそんなに嫌がらないような気がする
被害感というか自分の選択なのに責任を持たない感じというかに幼さを感じるんじゃないかな
はっきり損に見えて損ではないって自己主張すればいいと思うよ
自分が誰かに相手にしてもらえてるのは、誰かの「しゃーないな相手してやるか」に甘えることができているからで、それがないなら一人になるのは当然のことなのだ。
それに気がついてからは、誰かに会うときは最大限気を遣い、自己主張はあまりせず、聞き役に徹し、不快に思われないように行動するようにしている。
今までだってしていなかったわけではないが、よくなかったところは回り回って聞こえてくるのだからそこを改善して潰していけば、最適化される。自分を出す必要はない。
気を遣いすぎて疲れることもあるが、一歩引いて気配を消すようにすれば消耗も少ないし、いるのかいないのかわからないやつの相手をするほど他の人も暇ではないはずだ。
自分一人で出かけるときは人に接しない限りは気にしない。好きな格好をし、好きなところに行き、好きなタイミングで休み、飲食をし、飽きたら帰る。自分がしたいようにする。それだけだ。
在宅なら極端な話全裸でいることもある。
メリハリをつけるというだけの話なのだろうが、そうやって相手に迷惑をかけないようにしないと、死んだほうがましみたいな結論になってそれはそれで誰かに迷惑をかけてしまうことになるからなのだった。