はてなキーワード: 政治面とは
だから散々言われているだろうが。冒頭で矢口は「暴走しがちで人付き合い苦手な若手」として描かれてるだろうが。冒頭で有能に描かれてるのはむしろ赤坂の方。
それが、老害にも見えてた上の世代の全滅にショックを受け、そこを乗り越える中でちょっとずつ人間的に成長してる姿を描いてるだろうが。それでも基本的に暴走して熱くなりがちな夢想家なところは変わってないが、そういう人間を信頼して託していくしかこの国難を乗り越えていく道はないんじゃないかというのが物語の基本線だろうが。物語後半でも、巨災対では森のムードメイク、政治面では泉・赤坂の好フォローに支えられてこその矢口であって、結局一人では大したことできねえって描かれ方さんざんされていただろうが。矢口が有能? 一体何を見てたんだ?
人の死の描き方
アレだけの破壊のある映画で人の死がゼロならむしろ不気味だろうが。なかったらなかったでお前ゼッタイ文句言ってるだろ。そういうのを「ためにする批判」つーんだ。どうせなら「死を描くならこういう描き方なら納得がいった」とか「あのシーンはこう演出すべき」という意見ならまだ聞けなくもないが、「不要だった」という意見には全く納得がいかんよ。誰が賛同するんだその意見。
石原さとみが浮いてる
あのなあ、それ言うならゴジラという存在が最も「現実離れ」してるだろうが。そりゃな、あれが311の再現ドラマだっつーなら俺もあのキャラはまずいだろと思うよ?でもこれ災害映画じゃなくて怪獣映画だぜ? そもそもしょっぱなからでっかい嘘で塗りたくった世界なんだよ。その映画の根幹に、地味なオッサンばっかり並べて、それで「観客が入ってペイできる映画」になるのかよ? お前たとえばごついオッサンのペアばっかり何組も絡み合うような「パシフィックリム」とか見たいかよ? あの映画だってあのヒロインのねーちゃんは正直浮き気味だったし見方によっちゃ失笑モノだったかもしれん(芦田愛菜含めてもだ)。だがファンタジックなエンタメ映画ならそこも含めて素直に楽しめとオレは思う。そこを批判するのは、あの映画の問いかけてくるリアリティにむしろ呑まれてるからじゃないのかと思うわ。
それとな、英語がどうのとかアジア系の俳優はありえんとかいろいろ言う奴がいるが、これも、作中におけるキャラの成長とその描かれ方が全く見えてない阿呆の戯言に過ぎん。祖母の被爆という設定、そして徐々にデレてきて日本風発音をかましたあたりからの「微妙で複雑な表情芸」を日本人相手に表現するためには、日本人俳優以外のチョイスは全く考えられんよ(海外の俳優に表情芸ができないと言ってるのではない。飛行機内の場面などにおける感情の揺れなどを「日本人にストレートに伝わる表情芸」で見せるためには日本人俳優を使う以外のチョイスがないという意味だ)。当然、俳優の見栄えと技量もそれなりに求められる。石原は確実に監督の望んだ仕事をしたと思うよ。
「盛り上がり」は主観の部分で特に論ずる意味なし。「矢口最前線…」云々は阿呆過ぎて言及する必要もないが、前線でちゃんと「作戦をやめるか否か」を判断してるシーンがあっただろうが。ほんとどこ見てんだ? 何見てたんだ? ケチ付けることばっかり考えて大事なところをろくに見もせず、何か楽しいのかそれ?
…もう言及するのも疲れたが、冒頭の延々と続く会議と、ところどころ挟まれる矢口の表情との対比を見て、お前は一体何を感じてた? 矢口を視点人物として描いているということは、お前の感じたその心情こそが矢口の心情として描かれてるんだろうが。むしろ「政治家としてこの国に失望しかけている」矢口の姿しか描かれていないのが前半だと言っても過言じゃないだろ。同じ映画を見たとは思えない感想に目眩がするわ。お前はアレだな、登場人物がいちいち心情を全部台詞にして説明してくれるテレビドラマ演出とかじゃないと、ほんと何も分からないんだな。
「シン・ゴジラ批判したら一斉に批判されるのきもい」という声もあるが、上映開始3週間もたつのに批判者がまだ揃いも揃ってこのレベルだから、むしろもううんざりして大半はスルーしてるくらいなんだが。もう少し「真っ当な批判」があれば読みたいわ、心の底から。
http://anond.hatelabo.jp/20160821212820
(追記(の追記あり))
「低レベル」→お前は「高レベル」なノンフィクションだけ一生見ていればいいよ。オレはフィクションの話をしてんだバカ。
「主観云々」→主観云々は議論してない部分だし俺が論じてるのはソレ以外の部分だバカ、
「石原の件」→オレは「この映画ではリアリティは目的じゃなくて手段の一つだ」って話をしてんだバカ。その程度のことが分からないカマドウマが映画を語るとかちゃんちゃらおかしいわ。
この書き込みへの意見も含めてやはり的外れだらけだ。元増田へのブクマも全部読んだが納得するん反論はほぼなかった。少しは人をうならせるようなモノを書け。
「石原の件2」→書いては消すスタイル、いちいち気持ち悪いからヤメレ。あとは上のリプライと同じ。あの映画をリアルを追及する「ための」映画だと取ったのだとしたら、それは見方として相当筋が悪い。ノンフィクションなら当然問題にされるだろう、とは最初に書いたとおりだ。あの映画はノンフィクションではない。
(追記2)
「白状」編も読んだが感想は何一つ変わらん。「批判するならもう少し人をうならせるようなモノを書け。」それだけだ。
オレは増田の感性は否定してない(「主観の部分…特に論ずる意味なし」)。その上で増田の「誤読」や「見落とし」を指摘しただけだ。感性否定系の批判と十把一絡げに流されたのが大変残念だ。増田の意図は分かったが、いずれにせよオレはあからさまな誤読による批判を見かけたらなおざりにはできない。それがあの映画を作った人に対する礼儀だと思うからだ。
(追記3)
「ゴジラ割りと面白かったけど不満点はそれだけか?」に対して「勝手に答えてみる(シン・ゴジラへの一省察)」を書いた。あっちの批判はなかなか筋が通ってて答えがいがあった。
面白い話を一つ紹介しよう。
かつて国際連盟の労働部長であったユダヤ人、アルベール・トーマが日本の労働事情調査のため来日した。
国際連盟といっても、教科書的歴史観しか教えられていない日本人にはその本質を知る人は少ないようだが、これはユダヤの世界政府ともいうべきものである。
第一次大戦の結果、金融支配力に自信をつけたユダヤ人は政治面へも進出をはかり、その結果作られたものが国際連盟なのである。
この連盟の指導者は、日本人の杉村陽太郎氏を除いて外は皆ユダヤ人だったのである。
なぜユダヤ人が労働問題にかくも力を入れるのかということは、マルクス主義の階級闘争史観をご存知の方はお分かりいただけると思うが、かつてユダヤ人は非ユダヤ人の協力者を集めるためマルクス主義の階級闘争史観を宣伝したのであり、その結果エピゴーネンとしての各国共産党を生んだのである。
話がちょっととんだが、面白い話というのは、アルベール・トーマが来日し、日本へ階級闘争の激化工作をしようとした時、その前に立ちはだかったのが、日本の強固な家族制度だったのだ。
アルベール・トーマは、
「日本では家族制度が強固なため階級闘争、つまり労働運動の激化を仕掛けることは非常に困難である。
この家族制度を何とかしない限り、日本へ階級闘争を持ち込むことは難しい」
といっているのである。
アインシュタインもまた来日した時、日光の金谷ホテルからドイツのユダヤ機関へ手紙を書いているが、その中に日本の家族制度の立派さを書いているのである。
ここでまた日本人にお詫びをしなければならないのであるが、この日本のすばらしい家族制度を破壊したのは我々ユダヤ人なのである。
具体的には、占領改革の時ニューディール派が行ったものである。
前述のアルベール・トーマの件でもお分かりと思うが、ユダヤ人がマルクス主義的変革を実行するためには、家族制度は国内の君主制といわれる如く邪魔な存在だったのだ。
家族制度が「小さな君主制」としてユダヤ民族のマルクス主義的変革事業の邪魔になるということは、なにも今日昨日の問題ではなかったのである。
『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』(モルデカ・モーゼ)より
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このことから判ることは、核家族化や女性の社会進出は人類社会の進歩と共に自然に生まれてきたものではなく、国家を内側から破壊するために輸入されたものであるということです。
もともと日本の国体は、天皇家が本家で国民はその分家という家族国家として成り立っており、家族制度はその縮小版の「小さな君主制」で、国民はすべて「絆(きずな)」で結ばれていました。
家族制度の破壊は、その「絆」を分断して国家を解体するという作戦だったようですね。
近隣諸国同士を争わせること(つまり絆を破壊して信頼関係を失わせ、本当の敵を見えなくすること)によって他国を支配することを分断政策といいますが、その国内版が家族制度の解体だったようです。
戦前は日本の家族も、最小の本源集団として共同体性を色濃く残していたのでしょう。
分断統治を得意とするユダヤ人もこれには手を焼いたということ。
しかし戦後は彼らの思惑通り、核家族化が進み、労働運動も盛んになります。
これらの新聞の表向きの『メリット』は、子供が時事ネタに強くなったり、読解力が付くことである。
そのため、中学受験を考える家庭で、これら子供新聞の購読率が高い。
(そのためか、中学受験コーナーがあったり、進学塾の宣伝もある。)
でも、難関校を目指す子供なら、中学年の間は兎も角高学年になると、
(子供新聞じゃない)大人向けの普通の新聞くらい、読解する能力は身に付けている。
そういう家庭において、父親の読む日経新聞・朝日新聞・読売新聞を、子供に読ませるか?
少なくともウチの家庭では、読ませたくない。
多分ウチの子なら読解できる能力はあるが、でも読ませたくない。
それは何故か?
さらに社会面に『●●市で婦女暴行事件発生』とか『強盗強姦事件の裁判で・・・』みたいなニュースが遠慮なく並んでいる。
そういうニュースを子供が目にして、『強姦って、なに?』と質問されるのが、親としては非常に『避けたい』のだ。
子供向け新聞なら、『強姦』『レイプ』『援助交際』『慰安婦』というニュースは、取り上げられなくなっていて、『安心』できる。
just doingは和訳すると「ひたすらそれをやりなさい」。という意味だ。つべこべ言わず、ごたくわ並べずにとにかくやりなさいという古くからの聖人が繰り言のようにつぶやいてきた言葉だ。
日本でも古くは只管打坐(しかんだざ)という言葉がある。只管というのは「ひたすら」という意味。打坐は、坐を打つ、つまり「座禅に打ち込む」なんだな。
今日こんな記事があったけど、日本もやっとこさアホみたいな努力厨が減ってきていい世の中に向かいつつあるのかなとホッとしたと同時に、
会社で「艦これ」プレイする人々 専用ウィジェットで「最小化」、テザリングで「ログ残さず」 | ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1104289
古くからの日本の心が失われているようで寂しさもひとしおだったんだよね。変に真面目で凝り固まった部分がある一方で、やたらと無気力でマニュアル化された考え方しかできない指示待ち人間が増えていて複雑な気持ち。
人生生きているとそういう複雑な気持ちになることがあって多大な時間とお金を浪費していることに気づいたほうがよい。
偉い人の伝記とか読むと決まって苦しみを打ち消すように研究に没頭したと書いてあるでしょ?板挟みの中間管理職でも酒に逃げたりしない。打ち消すようにjust doing。
あれは脚色なんだろなと思ってたけどこの歳になって本当にその通りだなと思うわ。とにかくやるしかない。
我らがdankogaiも5年も前に「やる気を出すな。手足出せ」という名エントリを上梓しているが誠に先見の明と言うべきだろう。
分かってるとは思うが「俺はやってるんだぜ」とひけらかして自慢する人は全然just doingじゃないんだよ。当たり前のことをやってるという感覚じゃないとjust doingにはならない。別に偉いことでもなんでもなくて普通。
だからってやってない人が普通以下というわけでもない。比べちゃだめ。比べた途端にjustじゃなくて条件付き確率になるのよ。こういう時はこれくらいの確率で仕事できるけど、
そうじゃなくなったらがんばれるの君?って話になるわけだ。それがベイズ確率論。
結局のところしょーもない努力厨も無気力人間もどっちも条件付きという点でjustじゃない。ということが分かってもらえるかと思うんだけど、ここでつい我々現代人の悪いくせは、
どうしたらいいの?と考えてしまう。justはjustでもjustなシステムズはなーんだ?を見つけようとする。小学校のときに先生が理科の授業で「なぜ?を繰り返しましょうね~」と言ってたけど、
だいたい専門知識のない奴が「なぜ?」を連呼してもロクなことにはならないだろと子供心に思ったし大人になってその考えはいっそう強まるばかりだ。
我々現代人は西洋のデカルト的世界観を知らず知らずのうちになんだかんだ引きずっているから、つい社会面や政治面のニュースを見て「なぜ?」「どうしたら?」という形でどうしても方法序説を考えてしまうのが
悪いところで、そんなくだらないこと考える暇あったら自分のことやればいいのにと老婆心ながら指摘してしまう。
未来検索ブラジルのグニャラくんこと末永匡34歳会社員も社会のことなんて考える必要はありませんと明言している。ネットで声の大きなスポークスマンがそのように言ってくれるのは実に心強いことである。
この「まず自分」の精神はまさにjust doingそのものと言って良い。世の中エゴは悪いこととされていて、周りに気を遣うべきというマナーや、周りに合わせるよう押し寄せてくる同調圧力があるけど、
よく考えてほしいのは周りと自分を対置させて相容れないもののように扱っていること自体がデカルティズムの陥穽にドハマリしているということだ。
無意識に利他と利己は反対で、利他は大事だから、じゃけん利己はやめましょうね~とみんな当たり前のように思っているのがおかしいんだよね。