はてなキーワード: 幸せの時間とは
誰かが今まさに書いてるであろう他の雑誌と被らなそうな所
漫画アクションは、週刊→休刊→隔週で復刊して発行中、というちょっと特殊な経緯を持った雑誌
双葉社はピンチになると神風が吹く、とも言われて、その神風でほぼ埋まるんだよね
一作者一作品しばりではあるが、このしばりが必要ないんだよなあ
昨日の午前中に斎場で「行ってらっしゃい」と送り出すことができた。
数日内に私が選んだかっちょいい紺の袋に入って帰ってくる予定。絨毯にヒゲが1本ちょこんと落ちてたのでこれは保管。
斎場でもお姉さんに「しっかりした猫ちゃんですね~」と言われてちょっと笑った。
うちの猫を見た人の感想はだいたいそうだったし、私も形容を問われた場合「存在はかわいいが見た目は・・・うん、しっかりした猫」だったから。
5kg超えの猫をキャリーじゃなく箱で抱えて行き来するのは運動不足の上腕にはかなりつらくて、受付で腕がプルプルして受付票書くのにかなり苦労したのには参った。
夕方から夜中にかけて、コメントをちょこちょこ覗いて都度泣いてた。
えぐられたような痛さが和らいだ。本当にありがとう。
あの姿を見た瞬間の衝撃と、一晩で酷使した上腕二頭筋はまだ熱をもってじくじくしているけど、「いってしまった」ことに対する事実に対しての感情は落ち着いてしみじみしたものになりつつある。
一人暮らしの動物飼いの必須条件は「動物より先に死なないこと」なので、少なくともそれは果たせた。それだけは頑張った、私。
気づかぬ間にいかせてしまったけど、じゃあ、それを目前で見てたらどうだったか考えたら、ヘタレな私はもっと耐えられなかったと思う。やっぱりあいつは空気読むやつだった。大体接し方が保護者チックだったし。
とにかく良い猫だった。本当に良い猫だった。
エイズキャリアなのは引き取った後の検査で判明したことなので、「あちゃー」と思ったし怯えもしたがもう縁を結んだものなのでそんままズルズルの10年だった。ので、その辺は特に偉くないしいいやつではない、です。
奴が頑張って発症させずここまで来れた、人間換算70代で、周囲の70-80代が元気だったし「何なら、このまま猫又クラスいっとく?」とちょっと欲かいてた。甘かった。反省。
おう、ぜひそうしてくれ、いや、ください。もふもふいちゃいちゃしてイラっときた猫に蹴り飛ばされるor噛みつかれるまでセットで。
ほんそれ。実感。飼い始めた瞬間「私、なんかすごい飛んでもないことに手ぇだしてる?」とちらりと思ったけど、こういうことだったんだな。
昨日1日ほんと辛かったけど、365日×10年+α(計算できてない)の間すごい楽しかったから、その楽しさ幸せの時間の長さと比べたらその代償としては「この痛み、なんぼのもんじゃい」とも言えるのかもしれない。
踏んでない。踏まれたほうが多い。
面白くはなかったが、体は入れ物と感じた瞬間。物事こんなあっけなく終わるんだな感。
何故、カニ?と思ったら、カニいた。確カニいたよ!笑った。ありがとう。
正直すみません。でも「死んだ」「死んでしまった」よりも一番その時しっくりきたので。
こればかりは縁次第。辛かったけど「だから、もう二度と飼わない」とは現時点では思ってない。ただ40代一人暮らし、今後を考えると迂闊なことはできない。ひとまず保護ボランティアさんに支援の差し入れするつもり。
明日は、興味はあるものの飼い主馬鹿が過ぎるようで手出しできなかったフォトブックサービスにチャレンジ予定。端末いろいろ漁ったら、幸いに自撮り機能のお試しで2ショット撮ったのが残ってた。撮っててよかった。
あと獣医さんいお礼を言いに行かなけらばならない。緊急時はかけて良いといわれてはいたが、夜中0時という超非常識な時間に電話したのに周囲から犬猫の声が聞こえてて残業中の模様だった。うちの子も入院時はそうやって手厚く診てもらってたんだろう。激務だ。
最後に繰り返しになりますが、コメントを寄せてくださった皆さま、本当にありがとうございました。モニター越しの多数の声がこんなに心強くて支えられるなんて思ってもみなかった。ただただ吐き出したいだけだった。今までこういうエントリは読むだけだったけど、これからは自分も何か返していければ、と思います。
再び猫へ。お前は本当に良い猫だった。幸せだった。ありがとう。お前のちょっと良い話やアホエピソードは、ネットのどこかに書き散らせてもらうし酒の肴にもする。見守ってなくてよいから、ただただ飼い主の心の肥やしになるがよい。ありがとう。
誰がこのことをはじめに言い出したかなんて、わからないけれど、
人間の幸せを正確に数値化することは現代の技術をもってしても不可能で、
もし、技術的ににできたとしても、ベンツの車で送り迎えをしてもらいながら育った人と、
かっぱ寿司が1年に1度のお楽しみだった人では幸せの感じかたが違うのは明らかである。
世の中的なフツウの見ること感じること味わうものすべてを人並み外れてありがたく思うわけではない。
100円のお寿司、久兵衛に連れて行ったり、しまむらを着てた人をドーバーストリートマーケットで好きなだけ買い物できたとして、すぐに幸せになれるかといったらそうではない。
貧乏だけではない。お金があっても、精神的な幸せを味わって来なかった、どこか物足りなさを感じていた人間は、幸せをイメージできないことがもっとも不幸なのだ。
つまり、美味しいお寿司、快適な車、お金、そして、何かからの愛をいざ手に入れても、その正しい価値を知らないから、ただもらっただけでは手放しで幸せにはなれないのである。
そんな私は、何か自分にとって幸せな瞬間が訪れたとき、私はつい後のことを考えてしまう癖がある。
これを食べたら太る、飲酒をしたら浮腫む、この靴を買ったら来月のカードの請求が、結婚までにそして、大好きなこの男とヤッてしまったらもうお付き合いができない…。
目先の快楽、そしてその先の幸せを、そんなネガティブがどんどんどんどん、薄めてゆく。ヴィヴィットカラーはチューブから出したばかりの色が一番綺麗なのだ。
食事、買い物、飲酒、セックス…すべてにおいて、数少ない経験則や人から聞いた話なんかを思い出し、ついつい物語の続きを思い描けず、ストップしてしまう。しかしこれは無理もないことなのかもしれない。
なぜなら私たちがお手本にしたかったおとぎ話は、ぜんぶ王子様とお姫様は幸せに暮らしました、で終わっているのだから。
その後、家庭内暴力を振るわれて離婚したとか、ふたりのもうけた子供に重篤な病気がとか、お金がなくなったとか、”めでたし”のあとロールモデルにすべきは自分で経験するしかなかった。
そんなわけで、こじらせ女子の幸せの時間は普通より短いかもしれないが、
あれや、これやと思いめぐらせている思慮深いところもあり、
そして、こじらせ女子だと自覚のあるものは、大変なことにならない程度に、まずは目先の快楽を手放しで受け止める訓練をするべきなのである。
ある日、しこたまお酒を飲んだ快楽のあと、たいへんな鬱状態に陥ってしまい、インターネットで快楽の後の精神状態について調べたことがある。
じつは、科学的にも快楽を享受している瞬間には、体内のセロトニンだかドーパミンだかなんだかわからないが、快楽物質を大量に消費するから、のちにとても気分が憂鬱になるというのが定説らしい。そしてそれは間違いなく当たっていると思う。様々な関連サイトを巡っていて、見つけた”快楽は幸福の前借りだ”というフレーズがあって、そのことばがたまらなく好きだ。
幸福の前借りをすれば、あとで必ず返済しなければならないのである。人によって違う、その落差が幸せをポイント化できる何かなのかもしれない。