はてなキーワード: 京極堂とは
ライトノベルに限らないが、構造的に「馬鹿にされる」場合がある。
定義が曖昧で、玉石混交で、定性的に評価されるもの全般のことね。
すると、自分の感性で都合良く石だけピックアップして馬鹿にできる。
定量的に計測できたって、好きに時系列を切り出して、定義付けを恣意的にすればなんとでもなる。
そして、「なんとなくこういう批判がある・こういう擁護がある」と藁人形を用意すれば、
そこで、馬鹿にするのはどういう人か、何が批判足りえるのか、振り返ってみよう。
「無い」事の証明は難しい。
だから「有る」もので「ライトノベルで無い」モノを追いだしていこう。
だから、「絵が恥ずかしい」というのは、表紙絵に対する批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(勿論、「アニメ絵は恥ずかしい。太宰治もあれじゃ買い難い」とする批判はあるが、ライトノベル批判とは別軸)
キャラ立ちという意味で、ホームズを超える名探偵は出てきただろうか。
だから、「類型的なキャラクターが出てくるだけ」というのは、その手の小説批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(以後省略するが、そういう批判は当然あって良いが、ライトノベルとは独立)
ファンタジーやSF、ミステリから哲学に至るまで、子供向けに書かれた本を読む大人は多い。
だから、「子供向けに書かれた小説を大人が読むのは」というのは、その手の読者批判であって、ライトノベル批判とは違う。
これに関しては、まさに定性的な(感性の)話になるため、具体例は省略したい。
ここでは、スタージョンの法則(啓示)を引用するだけにしよう。
SF(science fiction)の90%は、ゴミでカスでクソだ。
同じ基準を使って、映画、文学、民生品等々の90%がクソだと示せる。
だから、SFの90%がクソだという主張(または事実)は、究極的には何も意味しない。
だから、「ライトノベルの大部分はクソだ」という批判は、何の情報量も無く、ライトノベル批判とは違う。
ハワイ沖で行われる海軍の多国合同軍事演習のさなか宇宙人が侵略してきて、自衛官と海兵隊員が反目しながらも撃退するという
まあ、インディペンデンス・デイと戦艦ミズーリを足してブリトーで割ったような映画だ。
素晴らしく面白い、愛すべき馬鹿映画だが、批評家からは当然のように酷評されている。
何が言いたいかというと、批評家の評価と、馬鹿であるかどうかとは、分けて考えられている。
ビール片手にゲラゲラ笑いながら見るような「ジャッカス」みたいなのを「馬鹿だ」と言うのは、批判ではない。
さっき言ったように、「馬鹿」であることは、比較的独自の軸になる。
その上で、馬鹿にしているのは、例えば「パンチラの絵を付けて恥ずかしくないジャンルは馬鹿にされて当然」のような、
「ライトノベル」を「小説の一ジャンルとして、格下である」とする主張しか、残念ながら観たことがない。
これは、BLを趣味とするのは気持ち悪いだとか、サラリーマンが通勤中に漫画雑誌を読むのはガキっぽいとか、そういった類の主張だ。
好悪の主張であって、それはそれで、仕方がない面はある。
雑誌の表紙に水着の女性を持ってくれば売上部数が上がるが、職場で休み時間に読むのはどうだ?というレベルの話だ。
ワリと珍しいのだが、硬派なSFとライトノベルSFとが全く同じ題材を描いているものがある。
アーサー・C・クラークの「楽園の泉」と、野尻抱介の「ふわふわの泉」だ。
(まあ、内容的にはチャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」のもじりの方が相応しいとは思うのだが)
両者とも、「ロケット以外で宇宙に進出するための、巨大構造物を作り上げる人物」が主人公だ。
ポイントは、「楽園の泉」がハードSFか否かであるとか、「ふわふわの泉」がラノベかどうかではなく、
この両者を比較して、「どちらが低俗か」を論じる意味があるかないか、だ。
「どちらがより高尚か」や「どちらの方が格上か」でも良い。
ここまで題材が同じだと判りやすいのだが、
「大人なら、『ふわふわの泉』ではなく、『楽園の泉』を読むべきだ」
とは、ならないだろう。
だって、違う作品なのだもの。それは批判ではなく好悪の主張だ。
「『楽園の泉』は、建築家の名声について拘りすぎて主張がボケている、『ふわふわの泉』の方がSFとして良く出来ている」
なんていうのは、馬鹿にしているのではなく、(正しいかどうかは別として)SFを軸にした批判になる。
アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」と、司馬遼太郎の「梟の城」と、佐島勤の「魔法科高校の劣等生」とを、
一緒に並べて比較して、「魔法科高校の劣等生を読むのは馬鹿だけだ」と言うことに、意味があるだろうか?
俺TUEEEE系の源流をたどって、湖の上を歩く男の話まで遡ったり、本邦においては勧善懲悪の仮託先であるとか、
そういった論文を描くことは意味があるかも知れないが、「馬鹿にする」というのは比較的には品のない行為だと思う。
例えば、今話題のピケティの「21世紀の資本」を読むのが大人で、百田の「海賊とよばれた男」を読むやつが馬鹿にされてもしょうが無い、みたいな言い方はしないだろう。
現代ソマリア海賊を描いた「キャプテン・フィリップス」を見て「『パイレーツ・オブ・カビリアン』を見るとか馬鹿にされてもしょうが無い」みたいなことは言わない。
というわけで、馬鹿にする方の品性を疑うべきだと言うのが、オレの意見になる。
どんな作品でもファンは居て良いと思うし、蓼食う虫も好き好きと言う。
例えば俺はバトルシップが大好きだが、蛇蝎の如く嫌う批評家が居るのも否定はしない。
アナと雪の女王よりはベイマックスの方が面白いとは思うんだが、GoGo好きなだけだろと言われれば否定はできない。
というように、主観的な好悪と、その技芸における比較批評、そのジャンルでの売上高なんてのは、全て独立の話だ。
そう言った点で、ラノベの中に上手い下手、エロに寄り過ぎだとか構成が稚拙だとか、そういった批評はあって良いと思う。
ただそれは、作品単位、出来ても作家単位の話であって、「ラノベ」全般に広げるのは主語が大きすぎて乱雑に過ぎる。
9割のクズを観てそのジャンルを否定するのが愚かであることは映画や絵画においては一般的なのに、ラノベがそうでないのは不幸なことだと思う。
京極堂こと中善寺秋彦が活躍する、憑き物落としに関する小説だ。
ざっくり説明すると、なんだか良くわからない、もやもやとして曖昧で錯綜した事件を、
取りまとめて名前をつけてしまって、名付けた「ソレ」を落とす、推理小説だ。
どんな物事でもそうだが、名前をつけて性質を固定してしまえば、対処することが出来る。
正月親戚が集まっててクソ忙しいのに、誰かリビングでサボってなかったか!?とか揉めた時に、
たいがいに酔っ払ったジイさんが「そりゃ、ぬらりひょんじゃ」って言って笑えば、そう言うことになる。
「撮り鉄」も、そうなってないだろうか。リビングでサボってたヤツが隠れてしまっていないか。
だが、残念ながらどんな集団にも、一定の割合で残念な人がいる。
たとえば、100人しか居ないマイナーな趣味だと、もしかしたら残念な人はいないかもしれない。
でも、世界的に見てもマナーが良いとされる日本人でも、1億人以上もいれば、強盗もあれば殺人犯もいる。
スチルカメラで撮影して、記録を残すことが、既に「趣味人」のものでなくなって久しい。
さらに、デジタルカメラの普及は、誰もがカメラを常に持ち歩く時代に限りなく近づいていく。
銀塩で夏場は酸っぱい臭いをさせていた自分からすれば、iPhoneについているカメラは奇跡のようだ。
つまり、母数が増えれば残念な人が現れるのは、構造的な問題で、どうしようもない。
つまり、母数が増えたことで残念な人が現れること以上のスピードで、残念な人が発生しているなら、それはきっと他に問題がある。
例えば、そろそろ廃止になる路線が話題になるときに、列車の備品を盗む犯罪者のことが話題になる。
(よく「不届き者が居る」とか言うファンが居るが、ハッキリ犯罪だと書かないのも問題だと思うが別の話だ)
こう言うとき、「乗り鉄のマナー悪化が」というい話にはならない。
乗り鉄の一部に犯罪者が、とも言われない。そういう犯罪にはどう対処するのが良いだろうね、という話になる。
ひるがえって、「撮り鉄」の時には、「撮り鉄の一部に不心得ものが」とか「撮り鉄のマナー悪化」などと、「撮り鉄」がクローズアップされる。
こうした「マナー」がことさら話題にされるときには、対象者が一部ではないことを示している。
少なくとも、相当数のマナーが悪く、厳密に言えば犯罪であることを行うものが多いということだ。
母数の一部に問題を起こす人がいて、相当数のマナーが悪く見える。
これは、「致命的なことがおきる範囲に、マナーの悪い者がいる」ではなかろうか。
例えば、列車の撮影と言うのは、ずいぶん古くから趣味にしている者が多い。
ある一定以上の年代層ならば知っている「究極超人あ~る」にも、トクユキを正面からおさめる馬鹿げたシーンがある。
あれでもって、全国のカメラ小僧を糾弾するのは同じように馬鹿げている。
母数が大きくなり、残念な人が増え、そして、致命的なところで致命的なことをする残念な人が増える。
なぜならば、良識が有る人は線路内に立ち入ったりはしないし、桜の木を切ったりしないし、罵声を浴びせたりしないからだ。
トクユキの迫力あるシーンを撮りたい馬鹿は1万人に一人でも、100万人規模のカメラ小僧がいれば、100人もの馬鹿が出る。
そして、列車を止めるには、致命的な場所にたった一人致命的な馬鹿がいれば良い。
だから、致命的なことになる人数が問題になる。
列車を止める撮り鉄の問題は、たった1人でも問題になる。これは犯罪者抑止の問題で、撮り鉄の問題とは少し違う。
レッテルを貼ると、理解するのが楽になったような気がする。正しく張れていれば。
でも、そこで思考停止をして、問題の分類を止めるのは、違うと思う。
よ、今日は専門外だけど飲んでたらオモシロイ話聞いたからタレコムわ
なお、聞いた本人に了承とったけど変に絡まれてもなんだから新規ソースゼロでお届けします。
オレが言ったんじゃないぞ
opiegro32
太田はネタとかじゃなくて本当に腐ってるから「太田が悪い!」とか言って茶化す風潮はやめてほしいなあ。本人の悪質さが薄れるだけだよ 2013/12/04
太田克史さんってのは、偉大な人だよ。
というネタで飲んでたのが発端で、
この対応ってあたりまえっちゃーあたりまえだよねー、ねー、みたいな話をしてた。
んでだ、ハタと思い至った。
これは、フーダニット、ハウダニット、ホワイダニット、クローズド・サークル全てが含まれているのではないかと。
結論から組み立てた気配のする小説を読んだ時の強烈な既視感が俺を(以下略
だれが、こんなことをしたのか。
ってのは、オレが書かずに既に書かれてるからそっち読んでくれ。
んで、「盗作ではない」という話でこじれてるのはなにか、という話なのだが、
一回ここをハッキリさせとこう。
はい、1番の裁判沙汰にはなりません。両者ともコレはハッキリ認識してる。
盗作の定義ってのは曖昧で、そもそもアイデアは法律の保護対象にはならん。
具体的には『名探偵ドイル』であっても、訴えられて負けたりはしない。
映画ノベライズレベルで同じとかキャラクターが明らかに同じ(二次創作)で無い限り、
もうコレは相当に厳しい。
パクられたと言っている古野まほろの言ってることは突き詰めると
「俺のパクったって言えば許してやるよ」
という事になる。
盗作じゃない盗作じゃないって言ってんのに何度も絡んでるってのは、変だ。
これまで古野について一切、どこかで語ったり、書かれたりしていないのは何故なのか。これらがハッキリすれば、何の問題もないと思います。
自尊心の問題なのよね。
俺を無視するな、と。
そこで、どういう落とし所があり得るか。
ほれ、仁義とかスジとか浮世のギリってヤツ。
さてここで一つの問題が見えてくる。
星海社FICTIONS新人賞で、太田さんイチオシで、CLAMP。
さあ、日程逆算は野暮だからやめておくんだ!
と、いう状況下で、メフィストでデビューしといて他社に移籍した作家のプライドを満たすために何かをするか?
いかにして、それがなされたのか。
コレも俺が言ったんじゃないぞ
brainparasite
さて、高校生で名探偵でって話をしようとして、CLAMP好きそうならどういう"学園"にするだろうか。
普通の高校?そりゃ担任がボディーガードなら無くはないだろう。
ミッションスクール?まあマリア様は見てなくても考証が面倒だろう。
というか、高校ってのは中等教育機関だから、そもそも「伝統的な」高校ってのは難しい。
つうかぶっちゃけた話な、誤解を恐れずに言えば、
明治に諸列強と並ぶ国家にしようと、帝国大学を頂点としたピラミッドを作ったので、
教育機関ってのは、政府か、士族か、パンピーか、みたいな形になった。
慶應義塾を福沢諭吉が立ち上げた時に、政府に対抗した中産階級の教育機関を目指したのは、まあある意味で流れとしては必然だったのかもしれない。
閑話休題。
つまりだ、伝統的な高校で、軍閥のニオイを消しつつ権威を身に纏わせるには、サムライのガッコウってのは、オテガルなわけだ。
古野まほろや太田克史の出身校とか考えると、このへんは興味深いね!
実際に読むと判るけど、中村あきは清涼院流水系の、まあそういう芸風だ。
設定厨って言うよりは、真面目な顔した高校生が賢しらに推理合戦で謙遜しあう、あー、暑くてもぴっちり制服来てんだろうなーっていうそういう感じの話だ。
うっかり私塾からスタートして南洋研究機関を設置した島に移住してたら海軍に施設接収されたり学生総出で米軍に対向するようなおもしろ学園とは根本から違う。
絵は見えてる、書きたい内容もある、ではパッケージをどうしようって時に、誰と誰が相談する?
なにゆえに、それがおこなわれたのか。
別に新人賞でオリジナリティを重視するのはかまわない。むしろ当然である。既に市場に似たような作品があるのならば、多くの読者は新人ではなく実績のある作家の作品を選ぶだろう。
いやー、そうね。
見事に「設定」に関する話しかしていない部分を引いて来ている所にセンスを感じる。
ポイントはね、誰も筆力を話題にしていない所。
高校生で400枚書くのが凄い、という話はしている。
クサしているのは、平たく言えば「見た目」の話。
想像して欲しい。
大日本帝国って名前の世界観で、子爵令嬢の依頼を受けた斬首死体に対面したり、瀟洒なホテルのラウンジで酒かっくらったりするガキどもが右往左往するアニメと、
いちおうは現代社会の公立高校で、女子バスケットボール部の壁写真が無くなったり、体育館でジュース飲んだりするガキどもが右往左往するアニメと、
絵面で観た時に、似ているだろうか?
つまり、星海社にとって芸風というのは、読んで想像した絵面が似ているか否か、だ、
というか、いっちゃなんだがフツーはそうだろう。
完全無欠の生徒会長の号令一下、無理難題を適当に片付けるって書くと「生徒会の一存」も「めだかボックス」も同じになっちまうが、読んで受ける印象は相当に異なる。
判り難かったらこう言い直せばマンガやラノベに詳しくない連中にも伝わるか。
この4作品はいずれもアーサー・コナン・ドイルの描いた誉れも高き史上最高の名脇役がモトネタだけれども、見栄えはずいぶん違う。
勿論、それぞれコナン・ドイル卿には敬意を払ってるが、例えばそれぞれがそれぞれの作品をいちいち上げたりしているだろうか?
(なお、モンタナ・ジョーンズに関してはマルコ・パゴット絡みでセーフ)
星海社に限らず、新人賞ってのは、いちおうは「応募された作品から」って話になる。
ただな、すげえオモシロイとか、ものごっつ読ませるとかじゃ無え。出版できるか、だ。
んだがね、例えば新人賞が出てない回ってのもあるわけで、応募がゼロだったからじゃない。
ほいでだ、「出版すると設定がヤバイ」ってヤツがハイペースで原稿用紙を埋められるとする。
するってぇとだ、
新人賞ってのは、「審査員の考える出版できそうな作品」に与えられる。
別に要件がツマビラカになってるわけじゃねえから、当然応募側はよく判らんで爆死する。
じゃあ、「審査員の考える出版できそうな見栄え」を「見た目で落ちたヤツ」が知ることが出来れば
言ってみれば効率良く新人賞を通過することが出来るってスンポウだ。
ここは、ひらかれていない。
1.選考に関わった全員が『天帝のはしたなき果実』を読んでいないor内容を忘れていた。
2.色々類似点があると気づいていたが、この程度大した類似ではないと考えた。
3.色々類似点があると気づいていたが、読者は類似に気づかないと考えた。
イラストに大御所CLAMPを使っている時点で4番は無いだろう。考えられる可能性は残りの3つ。外野である我々にはどれが真実なのかを判別する術はない。
はたしてそうだろうか。
中村あきのデビュー作、『ロジック・ロック・フェスティバル 〜Logic Lock Festival〜 探偵殺しのパラドックス』の主人公は、『中村あき』だ。
古野まほろのデビュー作、『天帝のはしたなき果実』の主人公は、『古野まほろ』だ。
そりゃあいくら太田さんに縁の深いメフィスト賞たって、50回も近くなりゃあうっかり読んでない作品が合ってもオカシクナイヨネー
って、真顔で言えるだろうか。
そして、そんな作品がぽっと現れた時に、
太田さんが大きく関わる星海社でそれを見逃す編集者が果たしているであろうか?
すべては、めいはくでは、ない。
身も蓋もない話、これが星海社からではなく別の出版社から刊行されていたら、ここまで話題になることもなかったと思うのだが……。
そーねー
登場人物はこれで全部で証拠も全て揃っているので、後は推理するだけでござい、とはならん。
「犯人はおまえだ!」というセリフを一度は言ってみえてモンだが、そうもいかん。
しかしだ、状況を平静な目で見つめた時にだ、
に、世界観だとか設定だとか、小道具の話が入ってないのは、弁護士に相談した結果じゃねぇだろう。
誰が、どのように、何のために、「新本格」推理小説を出版したのかを考えると、
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4151101012
SFの古典であると言われる本書でありますが、そうでなくとも昔に話題になった作品なんじゃないでしょうか。ちょっと前に日本でもなぜかドラマ化されてユースケサンタマリア辺りが主演でやっていたようなかんじ。
海外SFを読み始めようと思って有名作品を手当たり次第よんでるねんけども、これも読みたいなぁと思っていて、ふと家の本棚を見たらあった。誰や買ったの。
内容としてはSFといえば宇宙だのタイムマシンだの思い浮かべる方が多いでしょうが全然そんなのではなく、純粋な空想科学小説であり、且つ、知能とは何かを問いかけるような哲学的な思想もふまえた作品である、とかいう感じでしょうか。
話は主人公であるチャーリー・ゴードンの手記(というか報告書)によって読み進められていくという形式になっている。
知能が高いと言うことは、果たして良い事なのか、等考えさせられる作品。そしてとても切ない気持ちにさせられます。
途中中だるみする部分もありーの、最初の方は読むのがしんどい部分もありますが、名書であると言えるんじゃないでしょうか。悲しくはなったけど、泣けはしませんでした。映像作品なら泣いてるな、と思った。SF初心者の方々は是非読みましょう。
なんか「○○に××を」みたいな題名ばっかりですが、筒井康隆の中期くらいの長編作品です。別にまだ生きてはるんで、中期もくそもないんですが。筒井康隆の名前はちょくちょくあがりますが、確実に言える事としては、短編やジュブナイルは読みやすいが、長編は読みにくい、という事。短編やジュブナイル(中高生の若者をターゲットに絞った小説のこと)が読みやすいのは辺り前といえば当たり前なんですが、筒井さんの長編は難解な事で有名でありまして、それが逆にファンを作ってる見たいな所があって、結構どたばたな内容で、よくわからんまま終わってしまうこともあるわけなのです。よくわからんってことも別に無いけど、想像力を最大限に働かせないとついていけないって所はある感じ。まあ普通の人が読んだら、何これ意味わからん、といって切り捨てるでしょう。「残像に口紅を」はそういった筒井長編の中では、かなり実験的な試みがなされている内容になっていて、有り体に言えば「一章を進む事に、1文字ずつ使える文字が減っていく」というトンデモな内容となっているのである。
当然文字が消えれば小説なので、その文字で表す事のできる事象、物、人物名などすべて表記が不可能となり、作中からは存在そのものが消えてしまう。消えたものは意識化では思い出せるが表現ができないので、それこそ残像のような形になってしまうのだ。
また、作中はメタフィクションな構成になっており、作中人物が、自分がいるのが小説の中であると言うことを認識して、文字の無くなった世界でこういう事をやってみるのはどうかなど、提案したりしてより実験度が明るみになるような内容になっておりおもしろい。
しかし、使える文字が半分以下になっても、しっかりと文書を構築できる筒井さんの語彙の深さには恐れ入るばかりなのです。小説家を目指す人はこういう事ができるようにならないと行けないらしいので、一度読んでみましょう。
これかなああああああああああああああああああり前から気になっていて、映画化されたやつも見たかったけど、見る機会なくてやっと文庫買って読んだってやつ。前にも書いたよね。よね。ですよね。でもないんですよね、どこにも。
内容は松本清張や宮部みゆきが書きそうな感じのミステリって感じで、二転三転する展開構成はおもしろいです。話もうまいこと出来てます。後は、現在の日本の死刑制度とか裁判制度とかそいうった所に焦点をあてていて、まあ社会派サスペンスって部分も兼ね備えている大人のミステリって感じですね。
読んだ後少し陰鬱な気持ちになるような感じかしら。そうでもないけど。
しかし、話はようできていておもしろいです。一度読んでみる価値はあり。二度は必要なし。
これはなんとも新しいというかなんというかな設定の本です。この西澤さんという人は、SF的な設定での「縛り」を設けて、その設定の中でミステリを書くというすごい人らしい。本作の主人公はパラレルワールドを関知できる、というと語弊があるが、時間の繰り返しを認識する事ができるという能力を持っている。これは同軸時間上に異なる次元が平行で存在するという科学的概念があってこそ成り立つ仕組みなんでしょうが、要は同じ日が何度も繰り返されてしまい、その事に気づいているのは自分だけであるという設定になる。このSFばりばりな設定上で、主人公の祖父が殺されてしまい、祖父を助けるべく時間が繰り返される度に試行錯誤を繰り返す、といった物で、まあミステリといってしまうと、そんな物でもないんですが、ラストには驚くべき謎が残されていたりして、そんなこととは思わず読んでいたらびっくり、てな具合でした。
設定もおもしろいが、話も計算されていて、尚かつヒントや複線はそちこちにちりばめてあるという素晴らしい構成。いや、こういうのすごい好きです。SFとミステリが同時に楽しめるのだから二倍お得。文章はちょっとライトノベル風って感じではありますが、さらっとギャグがはいったり、随所で笑わせてもらえます。
他の作品もそれぞれ違った縛りが設定されているので、今後西澤さんの本も読んでいきたい所。
いや、これはすごい。この作品はメフィスト賞受賞作品の中でも評価が高く、所謂叙述トリックものである、という前評判を知っていながらもまんまと騙されて、頭が混乱させられた。
まあミステリたくさん読んでる人からしたら大したことないわって感じなんかもしれませんが、これは京極夏彦並、とまではいかんけど、宮部みゆきよりはすばらしいです。あ、比較対象がわるくてあんますばらしくないかも。
設定も斬新で、「ハサミ男」とマスコミから呼ばれている連続殺人犯である主人公が、次に殺人しようと狙っていた女学生を、別人に自分がしてきた手口とまったく同じやり方で、先に殺人ををされてしまい、真犯人を見つけるべく捜査を開始するという、トンデモ設定であります。
「ハサミ男」というとジョニーデップのシザーハンズなんかを思い出しますが、こちらの方はハサミをのどに突き立てて惨殺する連続殺人犯という設定なのだから、いったいどう収拾つけるのか、展開がまったくよめずハラハラドキドキで、最後にドーン、みたいな。
綾辻行人とか、本格推理系が好きな人は一度読んでみて下さい。これは絶対読み返したくなる。ざったい。はざみ。すみとみ銀行。
言わずと知れた、待ちに待った京極夏彦です。発売当日に買って、一ヶ月もかけてやっと読み終わりました。
いやはや、うーん。何はともかく京極ワールドといった所なんでしょうが、やはりこの京極堂シリーズは少し迷走しているというか、方向性が変わってきてる感がぬぐえない。
ただ、今回は「小説」としては楽しめるんじゃないでしょうかね。毎度の妖怪うんちくや、蓄積された謎と複線の解明とか、そういったモノがないといえばないんで、京極ファンとしてはちょっと肩すかしって感じでしょうか。
話にしても構成にしても、人間がたくさん出てきて、時間軸が読めなくて、不思議がもわもわ沸いてくるという辺りは毎度のごとく、さすが京極というような内容ではありました。どちらにせよ京極夏彦のすごい所は単発の話のおもしろさは当然の事ながら、内容の連鎖制というか繋がりというか、壮大的な世界構成といった所にあると思うので、やっぱり最初から読んでるファンじゃないと楽しめないよなぁとつくづく思うわけである。
でも、巷説百物語シリーズとかはほんまに名作だと思うので、まわりに薦めて行きたいけど、それを読むには前知識として、他の京極堂シリーズ等を読んでいる必要があるので、少しハードルが高めなのが残念。
なんかたくさん書いたよ。まったく。書く意味あんのかな。
それはそうと寿司が食いたい。すししししししし。
握るやつでもまわるやつでもなんでもええわ、と思ってしまうあたり
信者が「小説の出来がいいから」って言うのは何も反論になっていないよ
一度信者になってしまうとその作品の長所以外の部分も素晴らしく見えてしまうものだからね
ちなみに僕は「京極堂はキャラで売っている」とは言っていないよ。
「キャラで売ってなんかない!」「話の出来だっていいんだ!」とか言い出す信者がわくことは「キャラ売り」でないことの根拠にならないといってるだけで
挙げられたやつ読んでないから何とも言えないんだけど、
例えば『紫色のクオリア』とか青春ラブコメじゃないけどあれくらいの描写でもラノベだし萌えに走ってると思う。
京極堂を出したのは「シリーズ全部まとめたら~」とかトチ狂ったこと言い出したからだよw
世の中の大半の小説はそもそもシリーズじゃないんだから、合算とかありえないのに援護したい一心でバカ言ってるwと思った。
いや、ここでいう「学園青春物」は「学園ラブコメ」よりもっと青春の要素が強いもの。
十文字青の第九高校シリーズや、江波光則のスクールカースト物、大樹連司作品とか、「東雲侑子」「テルミー」「俺はまだ恋に落ちていない」とか。
あと、「京極堂シリーズより文量少ないからライト」とか言ったら、
それ以外については異論ない?
日本一スカートが短いと言われる新潟県の女子高生を上回る太もも露出な挿絵
女キャラには細かな外見描写(乳の大小含む)を用意して美少女っぷりを演出
そろそろポルノですよ?って勢いじゃね?
俺の妹がこんなに可愛いわけがないのアニメを観て純粋に面白いと思った。
ブラコン・シスコンにはちょい引くが。
自分の中では1993年頃の富士見ファンタジア文庫とか1997年頃?の設立当初の電撃文庫で止まっているんだが、
今からでも読んで損はないライトノベルってなんだろう?
本屋に行ってみたが、表紙を見ただけで頭が痛くなるのが多くてw
どれも同じに見えたしw
そんな人間は手を出しちゃ駄目かしら、、、
バッカーノとかデュラララは面白そうな気がしたが、、、
【追記:2010/11/15 15:58】
あの厚さを見ただけで読む気が起きないし、かなり好き嫌い別れそうな内容なので手は出さない。
マルドゥック・スクランブル(これもライトノベル?)
杉井光の作品
が良さそうなので手を出してみようと思う。
しかし、今のライトノベルの現状を調べれば調べるほど小説との境界線がわからなくなる。
同じようなもんじゃないのか。
・・・「さくら荘のペットな彼女」もいいかもな・・・
「ぼく、将来大きくなったら、力仕事を全くしない人間になるんだ!」
そんな生活に常々不満を持っていた小さい頃の自分。
その気になれば一年中全く運動しなくても生きていける大人達がキラキラと輝いて見えた。
頭しか使わない仕事について、重いものを持たされる肉体的疲労やチームプレイスポーツの精神的苦痛とは無縁になりたい――
運動能力の平均値と一般的イメージによって無条件に力仕事を免除される女の人がうらやましく、唇を噛み締めることも数多くあった。
天気がよければ外で運動、雨が降っても体育館で運動、と、どちらに転んでも絶望的な結果しか生まない体育の恐ろしさに何度も打ちひしがれた。
そんなとき励まされたのが、力仕事はしないと14歳の時点で誓った、という京極堂の台詞。
フィクションながらも、自分と同じ信念を持ち、それを実現している姿勢に大きく心を打たれた。
その後、夢の実現にもっとも大きく近づいた一歩。
それはちょうど20才の頃、生涯最後の体育の授業が終わった瞬間だった。
これで二度と強制的に運動させられる機会はなくなる…!
ずっと欲しがっていたものにも関わらず、小学校入学以来ずっと続いてきたその苦しみの突然の終わりに実感が沸かず、そのときはまだ半分宙に浮かされたような気分だった。
それでも後から思い返す度、体育がなくなったということは自分にとってやはり非常に大きな変化だった。
なにしろあれほど一分一秒が長く感じられる時間は他になかったし、「ペアを作って練習しろ」と言われ暗澹たる気分になることも、
息が切れているのに意に反して走らされることも、飛んでくるボールに神経をすり減らすことも今はもうない。怪我をすることも少なくなった。
でももちろん、夢はそう簡単には叶わなかった。
イベントでのテント設営の手伝い、引越しや長旅で避けて通れない重い荷物の運搬、工場での製造実習――。
力仕事が発生してしまう機会は日常のあちこちに潜んでいて、常に注意深く意識を巡らせていないと、すぐにその魔の手に絡みとられてしまう。
それでも今現在、おおよそ体力仕事とは縁のない職場で働くことが出来るようになっている。
今後望まない体力仕事をすることは、もはや一度もない…という確証は持てない。
けれど、子供の頃の自分に胸を張れるほど、運動をせずに住む環境にいる。
もし今、同じような夢を抱えている子がいるのなら、ぜひ将来への希望を持って今を耐えて欲しい。
きっと将来、その夢を叶えることはできるのだから。
友達と三人で、旅行に行くことになった。男女比は1:2。
私以外の人間は姉弟だから、身内旅行に便乗させてもらう形になる。
私の恋人も旅行を快諾し、予約も済ませ、後は荷物のパッキングをすればよいだけ、という段になった。
ところが、今になって横槍が入った。横槍の主はBさん。ちなみに、誰かの恋人でも家族でもない。
ただの「全員にとって友達or知り合い」というだけ。その人が、私に向かって文句を言い始めた。
彼の主張をまとめるとこうなる。
恋人がいるのに他の異性と旅行に行くのはおかしい。したがって○○は淫乱だ。
また、○○の恋人には○○を信用しても○○の友達を信用する理由がない。
○○は私の名前。
正直、こいつの言い分がまるで理解できない。サークル合宿ですら認めないらしい。
なんだそりゃ。社員旅行もアウトとか、たかが恋愛ごときで何社会生活に支障きたしてるんだ。
そして私は、私の判断すら信用できないダメ男なんざ選んじゃいない。
私の恋人は私にNOが言えないような男ではない。そんなんだったら7年も付き合っちゃいない。
と、いう趣旨のことを言った。
男はみんなそうなんだって、嫌われたくなくてNOの言えない男なんかいっぱいいるって。
だから何でお前がいつの間に男代表になってるんだよ。
あたしの恋人は他人にNOがいえないほど嫌われたくない人でもないし、
Bさんの前で「気晴らしになるととってもうれしいです」とか言ってるし、なんなら本人に言質とれよ。
マジ意味がわかんないよBさん。
異性と旅行にいけたからって浮気するのは少なくともあんただけだよBさん。
信用している人間の判断が信用できないのは信用って言わないんだよBさん。
http://anond.hatelabo.jp/20070302151601
読み手を想定していない文章などこの世に存在しないのだと京極堂はいうけれど、想定しない読み手というのは往々にして存在して、ネット上ではそれが発生しやすいのじゃないかと思っている。
俺も最近の若者なので、mixiたらいうところにアカウントを持っているのだけれど、もともと別の場所で日記を書いていたこともあって、別口の日記を書く気にはなれず、外部日記(?)というシステムで既存の日記に飛ばすようにしている。彼女(三人称代名詞)がmixiをはじめたというのを男友達から聞いて、そこの間はすでにマイミク(←関係ないけど、俺はこのマイミクという表現がすごく気に障る)になっていて、mixiをしていることを知っているはずの俺のところには、まったくそういう話が来ないことに少し煩悶とするけれど、それは置いておこう。そういうわけで、ネット上では彼女とは2Hopsの関係になっている。今のところ、彼女が僕のところにきた形跡はないのだけれど(あしあととはなんといやらしいシステムなのだろう、と思わなくもない)、何かの拍子で来ないとも限らない。というか、昨日俺が彼女のところにあしあとをつけたことで、その確率はすごく高くなったのかもしれない。普段から日常のことはあまり書かないたちなので大丈夫なのだけれど、それでも、迂闊なことは書けなくなったなと、少し息苦しさを感じている。