「ボール」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ボールとは

2012-02-15

バルセロナサッカーに対抗できるのはポゼッションサッカーしかない

バルセロナサッカーに対抗できるのはポゼッションサッカーしかない。

バルサ鬼畜だ。

あいつらはバックパスパスを繰り返す攻めで、相手にボールを渡さない。

「攻撃は最大の防御」を地でいってるのがバルサだ。

そして相手にボールが渡ったときプレスの早さ!

苦し紛れロングボールを蹴ってしまう。するとまたバルサの攻撃が始まる。

これはひどい。ずっとバルサのターンだ。

やはりそんなバルサに対抗するにはやはりポゼッションしかない。

とにかくバルサボールを渡さないようにする。そういう風に守備をするしかない。ボールを保持することで守備するしかない。

ただあいつら異常にラインを高くしてるし異常にプレスはやいからついロングボールを蹴ってしま

バルサのライン下げたいその気持ちは分かるがそこをこらえて自陣で鳥かごに徹するべき

2012-01-27

村上春樹の猛々しい想像力 (1/3)

Sam Anderson

2011年10月21日

訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)

1 - 2 - 3

この夏、私は初めての日本への旅行を企てた。

村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。

ところがその目論見は外れることになる。

私は村上の作品の影響下にあるまま、東京に降り立った。

期待していたのは、バルセロナパリベルリンのような街だった。

そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ劇場文学シットコムフィルム・ノワールオペラロックといった、

西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタン世界都市を私は期待していた。

誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。

実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。



そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。

東京での初めての朝、私は村上の事務所に向かっていた。

アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、

私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。

最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、

どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。

私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。

そして蜂の巣状のガラスピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき

ついにユキという村上アシスタントに見つけてもらうことができた。



このようにして私は東京の地下の洗礼を受けたのである

まりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。

実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。

そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。



村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなた最初記憶はなにかと尋ねる。

やっと村上に会えたとき、私は彼の最初記憶について尋ねた。

それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。

彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。

流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル

そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。

「明確に覚えている」と彼は言う。

「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」

村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。

その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶自分の中にある、と感じた。

ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。

村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分記憶を写し込んでいたのだ。



村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中

週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。

それは非現実的なまでの災害の余波を受けた夏だった。

4ヶ月前に北日本を襲った津波で2万人が命を落とし、

いくつもの街が破壊され、原子力発電所メルトダウンした。

その結果、電力、公衆衛生メディア政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。

日本を代表する小説家である村上に会いに来たのは、

大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。

この本はアジアで数百万部を売り上げ、

まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。

62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学最高峰としての地位を確かなものにしている。

疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界大使となった。



そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。



村上は常に自分日本アウトサイダーだと考えている。

彼は不思議社会環境最中に生まれた。

アメリカによる戦後占領を受けた1949年京都日本の前首都である

「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。

「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。

「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。

彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、

それはそのまま彼の最初人生経験の基本構造でもある。



村上は成長するまでのほとんどを神戸郊外で過ごした。

そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である

彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説ジャズに没頭して十代を過ごした。

そうして反逆のクールさを自分ものにし、

二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブ東京で開いた。

掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、

彼は約10年間をその仕事に費やした。



作家としての村上キャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。

どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生根底から変えてしまう。

29歳の村上地元野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴヒルトンというアメリカ人助っ人バッター二塁打を打つのを見ていた。

平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上天啓に打たれた。

自分小説が書けると気づいたのである

そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。

そして彼は書いた。

試合が終わった後、書店に行きペンと紙を買って、

数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。

それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。

アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。

わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。

名犬ラッシー』、『ミッキーマウスクラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲フランス映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディランマーヴィン・ゲイエルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストックサム・ペキンパーピーターポール&マリー。

以上はごく一部に過ぎない。

そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本芸術引用がまったくない。

村上作品のこうした傾向は日本批評家をしばしば苛立たせている。



村上は『風の歌を聞け』を権威ある新人賞に応募し、受賞した。

そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。



時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。

30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。

すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。

彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。

そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。

彼は自分の事務所を監禁場所だとみなしている。

「ただし自発的な、幸せ監禁だけれど」



「集中は僕の人生もっと幸せものだ」という。

「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」



そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。

30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンルSFファンタジーリアリズムハードボイルド)と様々な文化日本アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。

どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。

時とともに村上小説は長くシリアスになる傾向が強くなった。

シットコム引用もその傾向に調和している。

そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。



低く深い声で村上たくみ英語を操る。

彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。

なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。

はいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。

特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。

安全言葉いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。

英語即興の遊びをしているように感じられたのである

私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。

その事務所は半ば冗談ながら村上製作所と名付けられている。

数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。

村上は青いハーフパンツと半袖のボタン付きシャツで現れた。

彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロンけが好きだという)。

靴は履いていない。

彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップブラックコーヒーを飲んだ。

その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からお気に入り小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。



話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。

村上純粋にびくっとしたようだった。

その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。



「大きいな」と村上は言った。

電話帳みたいだ」

1 - 2 - 3

2012-01-24

考えても仕方がないことは考えない。

相手の出方を考えるのはやめた。ぼくの言葉が相手にちゃんと伝わるようだけ傾注する。

その結果については考えない。誰だって面倒はごめんだ。ぼくだってそうだ。だからできることなら人の言葉なんて聴きたくない。伝えて欲しくない。ボールを持ちたくない。

そうやってボールを一つ一つ相手のキャッチしやすい形で投げ返す。それが今できるすべてだから。あんまりボールが多いと雑に投げつけたくなる。時にはこっちに向けって明らかに悪意あるボールも飛んでくる。それでもなんとかキャッチして、他と一緒のように返してやる。それで何かに気づいて欲しいから。でも期待はしないけど。

先のことを考えると不安になる。当然だ、だから不安にならないために今を全力で過ごすことにした。結果に納得できるにはそうしないと駄目だろうから

判断が苦手なので、ついつい人に聞いてしまう。いつもいつも判断に悩んで時間がたってるような気がする。そうやって何か判断していると、ぼくに投げれば何か判断が帰ってくる、なんて思ってないだろうか。そんな期待には答えられそうにないのに。

判断するのが好きな人がいる。自分で何でも決める人がいる。決められる人がいる。その結果についてもへこたれない人なんだとわかった。自分は判断に間違いを指摘されると、精神力がさがってしまって判断が萎縮してしまう。自信をなくしてしまうから。判断というのは自信が必要なんだとおもう。

じゃあどうすれば自信が身につくのだろう。でも、自信なんてなくてもいいのかもしれない。それこそ考えても仕方がない。自分で納得できるまで調べて、考えて、結論付けた判断なのなら、自信を持っていいんじゃないだろうか。それはすごく手間がかかるけど、自信は手間をかけないと生まれないのだと思うから

最近、この手間を省く人が多い。経験なのか、ライフハックなのか。また手間をかけるのを許さない人がいる。その場合にぼくはもうどうしようもなくなってしまうだろう。


まず、自分を信じられるように努めたい。自分が信じられなかったら、他人が信じてくれるなんてありえないから。

メモメモ

乙武氏周辺騒動のアレコレを見ていて思ったことを。傍観だけど。ツイッターアカウントいから。

具体的にはこういうの。

http://togetter.com/li/245795

http://togetter.com/li/245731


ざっとさらっていて

基本的には自分乙武さん批判派っつうの?きのこ派?っていうのか?探耽求究さんという人がものすごいド正論言ってるように見える派っぽいなという自覚があるんだけどたけのこ派の批判が嫉妬がどうとか努力が足りんとかばっかりで全然クリティカルにキてないのでなんか延々もやもやしていて、

そこでふとこれを見たらちょっといろいろ繋がった。

kyamonohashiというひと?のツイート

手足が無くても頑張れる、と言う希望を示そうとしている乙武さんだけど、例えば手足の無い他の方がそれを見て「あいつは恵まれてるから」「例外だから」と妬んだり嫉んだりする可能性だったあるにはあるのか。


手足がなくても頑張れる、という希望がおおっぴらに晒された時、「手足がなくて頑張れない」人間はどういう立場に立たされるかっつうと、努力が足らん根性鍛えなさいの精神論信者に食いつぶされる側にしかなれないんだよね。それか従来の「かわいそうな障害者」枠。

現に乙武さん応援派で非乙武さん的障害者をそこから出してやろうとするやついねーじゃん。むしろみんなそこへ叩き込もうとばっかりしてる。

から叩き込まれる側は、大人しく叩き込まれるか、「努力が足りない」とかいう問題じゃなくて向こうが恵まれてんだっつうのー!という論を組むぐらいしかなくなる。

「恵まれてる人を妬んで、それで誰が幸せになるの?」とかほざいてるのがいるけど、少なくとも不幸自己責任論の渦中にブチ込まれるのは回避できるよ☆

恵まれてない人は恵まれてる人と違って、誰も助けてくれないという点でサイコーに恵まれてないことがほとんどだと思うんだけど、

誰も助けてくれないのならば自分自分を助けてやるしかないじゃないか

っていうのをなんか判ってないしたぶん許さないのですねたけのこ派は。妬みとか言っちゃうんだもんね。

うぜえだろうなあ。



とか書くと

「誰も助けてくれないのなんて当たり前、みんな同じ」「そこで助けてって言ったり、障害を個性にしてネタにするくらいのとっかかりを作ってくれないとこっちも手が出せない」とか言う奴が出てくるよ。出てくるっていうかすでにいるのよこの胸の中に。

一匹ならともかくハエの群れのようにわんわん湧き出てきて声が延々こだまするのよ。

から俺はそいつを残らず潰して絞め殺すのに一苦労。

えー話を戻すが「そこで助けてと言えない、ネタにできない」ってとてもデジャヴフレーズじゃございませんか。

そう、ちょっと前のNHKの三十代無職男性生保とれないだの餓死するだのっていうあの騒ぎでございますよ。

言えねんだよな。何故か。何故だか。いや何故って他人の負担なんかなりたくないからに決まってんだが。

何かが笑えねーレベルクリティカルからに決まってんだが。

何なのかな。何なのでしょうかねこテニスボールネットのあっちとこっちに分ける何か目に見えないくせに決定的な要素のようなものがある感は。

ジョジョだっけこのボールがどっち側っての。ジョジョでは「運命」だったっけ?



落としどころは何処

何処ってそりゃボールの落ちどころがどっち側でもいいようなところに決まってるんだけど、それはつまりたとえばこの俺がネットの両側を行き来できる必要があって、最悪俺一人でもラリーをかませるようなことになってないと話にならんのだけど、たとえを外すと要するに「お前助けるのなんか別に負担じゃねーよ」っつって軽々と誰かに手を差し伸べられねばならないってことなんだけど。その手を払いのけられること前提で、手がダメなら他のもの、人脈でも金でも選挙権でもなんでも使ってやらねばならないってことなんだけど。

なんか乙武さんには無理そうですね。手ないし。物理的にもないけど、いじめられっこに関係するツイートがアレじゃ義手つけても厳しい。根っこがアカン。

いやその実俺にもムリだけどね。少なくとも人脈と金選挙権は厳しい。

ツイッターミクシーフェイスブックもやってない真性ぼっちワープアしかも都政はあの小心者が担うのを食い止められなかったレベルの一票。

正直に言うと手自体厳しい。ワープアは身体と心が資本なのに手を払いのけられるついでに豆腐メンタルが潰れそうで、いちいち成形しなおすのに他人の手が要るレベル

でも「誰も助けてくれない」。いやいいけど助けとか。俺の豆腐はまだ平気なんで、誰か他の砕けたガラスハートの欠片を集めて火にかけてまた作り直してやっておくれ。



どうでもいいけど何か昔のディズニーアニメで一人ラリーするウサギいたよね。イソップ寓話アニメ化したやつで『ウサギとカメ』に出てくるウサギで、レースの前座に俺こんな足はえーんだぜーっつってカメに見せつけるためにボールより素早くコートを行き来してた。肝心のレースでは確かカメがクビ伸ばしてゴールインして勝った。




追記:

さらにどうでもいいんだけどツイートまとめ読み返してたらものすごい気持ち悪いのが結構いてマジ引いた。いわゆる「信者」ってやつですかあれは。

何故だろう。文面はものすごい善意なのにどうしてこんなにグロいんだあの連中。

逆か? ガチで「善意」なる感情だけで理屈全然いからグロいのか?

2012-01-13

[][]右利きのトップ下とレフティーのゲームメーカー


岩渕真奈 - Wikipedia

宮間あや - Wikipedia

なでしこジャパン|日本代表財団法人日本サッカー協会



香川真司と今季のドルトムントのお話 - pal-9999の日記

左サイドにレフティーのパサーを使うのは、レフティは、左サイドでは縦パス、あるいは斜めのパスを入れやすいからです。DFから遠い方の足でボールを持てるってのと、パス軌道がその理由です。



そして、そこから、右利きのトップ下にパスを入れます

レフティパスは、右利きの選手にとっては、非常に受けやすく、前を向きやすい軌道を取ります



この関係性は、香川の今のプレースタイルを作った部分でして、彼は、左サイドの底からレフティーのパスが出てくるときは、鬼のように良いプレーをします。



ヌリ・シャヒン - Wikipedia

2011-12-24

認知の微視的構造 リマインダー

リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。



第一章

1

認知主義、古典認知主義

意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデル意味する。

 この主義の限界を

2

 ・チューリング

 チューリングの形式化が持っている特徴

(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括

(2)そのメカニズムいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している

(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している

⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している

フォン・ノイマンコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーLISPプログラム言語)を開発。

 ⇒ 研究開発が可能に

A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出

 ⇒理論的に自覚化・明確化される

3

・物理記号システム

①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、

②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム

by 1976 ニューウェル & サイモン

・強い物理記号システムの仮説

SPSS strong-physical-symbol-system

「標準的な記号アトムフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」

①仮想機械

現実の物理機械上で実行されるプログラムのみによって存在し、

そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」

 高級プログラムによって定義されるエミュレータ

フォン・ノイマン型の操作

コネクショニズムとは異なった操作

・記号を割り当てる

・変数を束縛する

・記号列の複写、読みとり、修正

・基本的な統語論パターンマッチング操作

等々

③標準的な記号アトム

「テーブル」「ボール」「愛する」「軌道」「電子」のような語

④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段

そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる

 このような主張(標準的なLISPアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践

彼らの仕事の特徴(例:BACON

 ・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している

 ・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能

 ・選ばれた課題領域を扱う

BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則

BACONに対するいくつかのコメント

BACONが取り組んだデータフォーマット化下のは、人間の労苦

BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。

 ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない

BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの

 ⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう

 サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。

 しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。

 心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える

 BACONは、人類の一部のモデル

 知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている

 古典システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。

 古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々

意味論的に透明、意味論的な透明性

STS semanttically transparent system

システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステム意味論的に透明であるといえる」

 きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズム記述レベル2)における計算の対象が、概念レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述レベル1)と同型である場合である

レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え

レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法

レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)

古典アプローチコネクショニズムの重要な違い

(1)古典理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論意味論を組み合わせた記号システムを仮定している

(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。

 もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない

◎要するに、古典システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである


第二章

 古典認知主義に対する懸念

 ドレイファス:古典認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当

 サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論意味論との間にギャップが認められる

 この二つの種類の懸念について検討する。

あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」

 この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念リストをあげる。

 ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。

 ウィンストンの、フレームを使ったアプローチも不十分

 ・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)

 ・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?

 ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか

ドレイファスの二つの主張

(1)身体問題

「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」

 コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない

(2)コード

 人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。

 このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?

 

 AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。

「強いAI仮説」を、サールは批判する

強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる

Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。

サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。

具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋操作者が中国語を「理解すること」の比較

「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」

 以下、サールの誤りについて論じる

 

 サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」

 脳シュミレータ説:あるりプログラム中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる

↑(サールの再反論)

(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)

(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである

 ↑(アナロジー

 光合成光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない

 では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?

  :外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること


↑(コメント

中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効

 微視的機能主義

 機能主義は、心的状態の本質を、

 入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。

 (適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)

↑(批判)

中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。

 こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう

・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか

×大まかなレベルに位置づけ

  ⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ

ライカンの「小人機能主義」

○微視的機能主義

・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981

ゲシュタルト

 :機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ

ライカン「小人機能主義」

 :機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)

 微視的機能主義

  :システムの内的な機能的プロフィール(内的状態の変換)を、

   内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で

   記述しようとするもの

   ・処理ユニット間の形式的な諸関係を記述する

   ・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる


第三章

 認知科学における民間心理学の役割はあるのかないのか

「民間心理学

 :自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解

 民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる

チャーチランド & スティック

「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学

 民間心理学問題点

(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。

 民間心理学は、子供狂人外国人を前にすると、まごついてしま

(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる

(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである

 最近の分析哲学

  :頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか

Daredevil believes that Electra is dead.

Mary hopes that Fermat's last theorem is true.

 のthat以下を、心的状態の内容と言う。

 心的状態が考えられる傾向

  :われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、

  われわれにとってどのように見えているかによって決まる

 ↓(言い換え)

 我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、

 本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない

⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、

 知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆

・双生地球……☆に対して疑いを投げかける

双生地球で、「海に水がある」と発話される。

地球A:海にH2Oがある

地球B:海にXYZがある

 この違い以外は同質だとする。

 すると、

 地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる

(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)

 もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、

 自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、

 単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して

二つの選択肢

(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、

 世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説

(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は

  〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう

プティ と マクダウェル

「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。

 しかし、

〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」

 筆者

 :あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、

 そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない


 その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。

 仮想反論

 :「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」とするならば、

 心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)

(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)

 仮想反論の詳細

:仮定①:

 二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる

 (そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)

 仮定②:

 行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない

 結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない

「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。

 限定的内容といっても、それを妥当概念として了解できるかは明らかではない」

 なぜなら、

「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは

 まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。

 その具体的理由として、

 ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。

筆者

 :広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、

 民間心理学カテゴリーや分類が

 頭の中で起こっていることに関することに関する科学カテゴリーや分類に

 きちんと還元されるなどということは

 とてもあり得ないように思われる。

・民間心理学は、科学心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない

 世界を記述しない信念であり、なおかつ

 ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学記述の上には)存在しないことも可能

 民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?

 :

 他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、

 その人の身体の動きを予測し説明するための手段

民間心理学の主要な目的

 :

 世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること

(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴

①世界に対する感受性、すなわち感覚生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している

②世界をわれわれと共有している

③彼らは我々自身のもっと根本的な関心と必要の大部分を共有している

④彼らの思考の有用性は、

(我々自身の思考と同様に、)

 彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、

 彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている

 この特徴があるので、

「~したい」という欲求さえ同じであれば、

 神経生理学的な詳細は関係なく、地球人にも火星人にも有効。

・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている

・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、

 さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)

 筆者の見解

 :私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、

 行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである

 ……関連する行動を可能にするものとしての、

 根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、

 そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が

 対応している必要はない。

――

 筆者の意見は全体論である。(行動全体に網をかけるから。)

 ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか

<Fordor>

意識の全体論というのは、

命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」

 という考え方。

 これに、Fordorは懐疑的

命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)

われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題認知的連関)を共有しているとは思えない。

 なので、意味全体論はありえない。

 →信念の内容が、その認知的連関に依存するということを否定。

 信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。

 外延的意味論の一形態に賭ける

:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである

「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」

</Fordor>

筆者

 :Fordorの間違い

 全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。

 Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。

Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。

筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている

 全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)


 一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。


(1)民間心理学は、狂人や言葉の通じない相手には使えない

(2)民間心理学は、長い間停滞している不毛な学問である

(3)民間心理学は、神経科学ときちんとつながっていない

(3)に対して、

 民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである神経科学とつながることを目的とはしていない

(1)に対して、

 民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない

(2)に対して、

 民間心理学の目的は限られたものである

 なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。

整理。

 心的状態に関するわれわれの常識的理解と民間心理学は、違う。

 民間心理学には、きちんとした定義がある。

 これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」

 因果関係と、構成的関係の区別

構成的関係

 :

 研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ

因果的に関係

 :

 因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、

 それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる

ということはない。

チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)


・広域的内容の理論認知科学は心を解明しえない

・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている


科学(物質、プログラム

(構成的関係)

科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。

では、構成的関係とは何か。


構成的関係←→因果関係

構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること

因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない

(駒はなくてもチェスは打てる)

Permalink | トラックバック(0) | 15:30

2011-11-16

本当に大切なモノは目にみえないんだよ。

今日は「お金」について話しをしようと思う。

お金」って何だろう?生活するために絶対必要なもの。そうだね。



でも、お金ってものは本当は「リアルじゃない」ものなんだよ。あくまでイメージ

リアルなのは「信用」とか「信頼」って言われるものの方なんだ。

まりお金は信用の代わりでしか無い。

から恐慌天変地異が起きて、貨幣への信頼がなくなったときにはお金は単なる紙切れにしかならない。



僕は昭和55年生まれで、戦後間もないころの新円切り替えを知識としては知っていても、現実味のあるものとしては受け取れていない。

でも、日本においてはこの新円切り替えがここ最近で一番貨幣への信頼がなくなったときだよね。



多分、みんな薄々感じてると思うけれど、21世紀の「新円切り替え」は刻一刻と近づいてきている。20年以内には高い確率で起きるよね。

そう考えたら、20年以上先の年金の事なんか考えても仕方ないし、もっと別のことを考えるべきだよね。



さて、脱線してしまたから元に戻そう。

お金は信用の代わりでしかない。リアルではないもの。みんなが信じているもの。」という話しをしました。

そのお金を稼ぐために一生懸命がんばっているわけだけど、みんな大切な事を見落としているんじゃないだろうか。



お金は信用の代わり」ということは「信用」のほうが本当は大切なモノなんだよね。

この「信用」というのがやっかい。目にみえない。

信用ってのは泥臭いもの

信用があるっていう状態はどういう状態かというと、僕の定義では

お金は払えないけど衣食住の面倒を見てください」ってお願いして

まず快諾してもらえること。



そして「信用を積み重ねられる人」というのは

お金を払わずに衣食住の面倒を見てもらっているにも関わらず

その世話人に「もっと居て欲しい」と言ってもらえる人のこと。



から、なんらかの過去のしがらみで元々「信用がある」状態でも

面倒を見てもらっている間に何もしなければ、どんどん信用は世話人の中で消費されていく。



信用を積み重ねられる人というのは、消費される信用以上に世話人に対して信用を上乗せ出来る人のこと。

一人前になるっていうのは、この信用を上乗せ出来る人になることを言うのだと思う。

信用を上乗せしていくためには

まずは「逃げない覚悟」が必要。

逃げグセがついたら、いつまでたっても逃げまわることになる。



次に「相手に言うことを自分への肯定・否定に受け取らない」こと。

言い換えれば、相手の言うことに対して、いちいち突っかからないこと。

自分に言われていないセリフであれば冷静に考えられるのに、自分に言われたときは冷静でいられないというのは相手と自分を同一視してしまっている。



当たり前だけど、相手と自分はあくまで別人格

もちろん自分に向かって言われているのだけれど、それを自分を肯定・否定したセリフだと受け取らないこと。

そうすれば毎回自分を守らなくて済むし、「何で?」と思ったことは素直に「何で?」と聞くことが出来る。



次に「約束をちゃんと守ること」

約束を守らないような人間は、例え大金持ちでも「幻想としてのお金」を持っているだけであって、いざというときに周りの人は支えてくれない。

約束を律儀に守ることによって、少しずつでも信用は蓄えられていく。

逆に約束を破った瞬間に信用はガタ落ちになる。最近で言えばオリンパスショックがまさにその典型だよね。



最後に「会話が楽しめること」

会話というのはキャッチボールに例えられるけれど、相手の求めているボールを投げてあげて

自分の求めているボールが投げられてきたら、そのキャッチボールはとても楽しいものになる。

信用というのは、こういう小さなたわいのないところでも形成されていく。



もちろん、他にももっと色々な信用の積み上げ方があるとは思うけれど、とりあえず思いついたところを書いて、今回はおしまい

2011-11-15

[]2011年11月14日

サーカスがやってくるらしい。

そして派手なポスターを見ると、この歳になっても、

つい、さらわれるんじゃないかと身構えてしまう。



そして昔を思い出す。

まだ小学生だった頃。

夏休みに同級生のN田くんが突然消えた事を。



N田くんの失踪当時の新聞で神隠しか?などと騒がれ、

川や山など大捜索したが結局は見つからなかった。



俺の地元は、当時はまだ至る所に空き地があったけど、

その中でも工場の跡地だったか、なんだかの大きな空き地サーカスが来ていた。

そして僕と仲の良かったN田くんはこの田舎町にやって来たサーカスという非日常に興奮し、

テント毎日通っていた。



もちろん中には入れないので、僕とN田くんはテントの周りをうろうろしているだけだったけど、

おじさんやおねえさんとそのうち仲良くなり、馬に乗せてもらったりしていた。

子どもも何人かいて、学校はどうしているのかな?と思っていた。



そんなある日、N田くんが突然「僕サーカスに入るわ」といいだした。



予兆はあった。

冗談っぽく、サーカス団長から「うちに来ないか?」「センスあるよ」とN田くんは言われていたのだ

(僕はバランス感覚が皆無で全くダメだった。N田君は簡単にボールの上にのれ、練習用の綱渡りも簡単にやれた)。

そして、彼はまんざらでもなかった。



N田くんは俺に「親は絶対に反対するから」といって、

「絶対に内緒にだよ」っと二人で指を切り秘密にすることを誓いあった。



N田くんの家は医者で裕福な家庭だった。

小学生だったのにピアノチェロも習っていたし、塾にも通っていた。

そんな彼がなんでサーカスに行きたいと言い出したのか俺には今でも分からない。

親もすごく優しい方で、どこに不満があったのだろう。



それから数日後、9月になり学校がはじまった放課後に本当に彼は消えてしまった。

仲が良かった俺はいろいろな大人にN田くんの好きな場所や、

行きそうなところを訪ねられたが、本当の事は決して言わなかった。



から俺はサーカスを見ると思う。

あの小屋の中でN田くんはピエロになってチェロを弾いているのだろうかと。

綱をわたって、ダガーをなげたりしているのかなぁと。

でも俺はさらわれたくはないと、畏怖心が心の底から沸いてくるのだ。

・・・・・

<追伸>

彼に弟がいることを思い出した。

どこで何をやっているのだろうか。ふと懐かしく思った。

2011-11-14

今日知った豆知識

日本人全員を一箇所に集めると、直径50mのボールの中に全部入っちゃうんだって

2011-11-10

[]2011年11月9日

匿名ダイアリーが体を蝕む

・・・・・

お札が今日も入っていた。

ふざけろよ。



警告のボールを2回落とす。

カツーンカツーン。

シタからこっちに、カツーンカツーンとボールを返してきやがった。

戦争だ!戦争だ!もう平和はないんだよ。


ああああああ、血液の流れる音がうるさいうるさいうるさいうるさい。

2011-11-08

[]2011年11月7日

匿名ダイアリーが私を戦いに導く

・・・・・

階上と階下の人間にはさすがに頭にきたので、

罰を与えることにしたい。



しかし、腹が立つといっていきなり罰を与えるのは、

人間としてどうなのか。獣じゃねーか俺はよぉ。

ちきしょう。獣の俺は人間なのか。

葛藤した。そして警告を与える。



どうせここを見て俺の行動を監視しているんだろ。

分かってるんだよ。こっちはよ。




俺が、お前の行動が分かっている時、いらついている時は、

床にボールを1回落としてやる。

次は2回だ。

それが3回コツコツと音が天井から鳴った場合は、

俺様リミットからな。

2011-10-29

主審の決定は「絶対」であるということの意味

 サッカーにおいて、主審は「絶対だ」。でも僕はその絶対性を大きく見誤っていた。

 以下は先日ちょっと話題になった「試合終了の笛のあと、それを覆した主審の決定」についての、高体連の判断。これは日本サッカー協会との相談の上での判断だから、JFAも同様の見解であると考えてもいいだろう。

 試合映像は、多摩目黒高校のゴール前で帝京高校に与えられた間接FKが行われる前に、多摩目黒高校の選手が前進し、規定の距離を守らなかった事実が確認できる一方、その後、多摩目黒高校の攻撃に移った後、主審試合を終了していることも確認できます。さらに、副審多摩目黒高校の反則について旗を上げていたことから主審はそれを採用して試合終了の決定を覆し、帝京高校に再度間接FK を与えていることを見ることが出来ます

 現行の競技規則第5条・主審の決定によれば、「プレーを再開する前、または試合を終結する前であれば、主審は、その直前の決定が正しくないことに気付いたとき、または主審裁量によって副審又は第4の審判員の助言を採用したときのみ、決定を変えることができる。」となっており、主審試合を終結させた後に帝京高校に間接FK を与えたことは、競技規則を誤って適用したことに

なりますしかしながら、同時に同条前半には「プレーに関する事実についての主審の決定は、得点になったかどうか、また試合結果を含め、最終である。」と規定されていることから、その後の延長戦での判定や試合結果を含め、変更することは出来ません。

 従いまして、東京高体連サッカー専門部としましては、平成23 年9 月18 日に行われました、多摩目黒高校対帝京高校試合結果を変更することは出来ないと判断することに至りました。

http://tokyosoccer-u18.com/SEN11/Tama&Teikyo.pdf

上の決定は、要するにルール違反した主審の決定は、有効である。」ことを示している。

ルールに則れば、当該主審試合終了の後に、決定を取り消すことはできない。だけど主審は「絶対」から、その決定を取り消すことができる。

いったいなにが起こっているのだろう?

たとえ話1

 例えば、とてもバカな主審がいて、キーパーはどこでも手を使うことができると勘違いしていた。キーパー試合終了間際のCKにあがっていって、何を考えたのか手でキャッチしてゴールに分投げた。主審はバカだったのでこれをゴールと判定した。ルールに則れば、手を使ってはいけない。これはファールである。でも主審は「絶対」なので、ゴールは有効である主審がバカなことに気づいたキーパーは、自陣からボールラグビーのように持って言ってゴールに入れる。主審はこれを認めることができる。ありえない想定だが、しかし、上の高体連の判断に則れば、これは有効な試合である

たとえ話2

 今回の判断によれば、主審試合が終わったあともそれを覆すことができる。ところで、主審はいつまで主審なのだろうか。フィールドから出た時?審判ユニフォームを脱いだ時?家に帰って奥さんと子どもに「ただいま」をいった時?試合の報告書を提出した時?分からないが、主審主審であるかぎり試合は覆せる。もし彼がいまだ主審ならば、マラドーナのゴールを今から取り消して再試合をさせることだってできるのだ。バカバカしいが、しか主審は絶対である

まとめ

主審の決定は「絶対」だってよくいうけどこんなに絶対だとは思いもしませんでしたまる

2011-10-13

本当は萌えるハックルちゃん

齋藤孝ではこうは行かない。彼は見た目の通りインテリ眼鏡って感じだが、

ハックルさんはもう私の中で完全に萌えキャラと化した。



http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111013/1318467309  (世の中ってのはこういうもんなんだ。私は私の好きなようにやるぜ)

のあとに

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111013/1318467309  (最後根性よ!自分が正しいと思うことを貫いてたらきっとみんな分かってくれる)

という記事を書く、その流れの完璧さにもう萌えが止まらない。さやかあんこイチャイチャしているようにしか見えなくて困る。




萌え王道に忠実なハックルさん

わたしこういう人物像が大好物どまんなかなんだわ。



平凡な子が、偉人伝とか読んで、自分もかくありたいと憧れる。

いや、憧れるじゃなくて、自分もそうなるのだ、ならなくてはいけないと決意する。

自分をそういう人たちと一体化させて、同じように行動し、同じように思考しようと普段から務めるわけだ。

努力して努力して、周りに何を言われようともそれを貫くのね。

まぁたいてい自分は強くなったけど誰も周りはついてこないってオチになるよね。




そうやって張り詰めた生き方をしている人が、ふと孤独を実感する瞬間でうおおって興奮する。

そんな時に、ちょびっと不安を覚えながらも、自分は間違ってなんかいないと涙を拭いながら、

夜中に一人でボールを磨いたり、魂の書を読み返したり、家族の位牌なんかと会話したりとかね。





さらに、実は一人じゃなかった、数少ないけれど、自分を理解してくれる人がいたってことがわかる瞬間が続くと・・・鼻血出そうになる。





さらにさらに、そういう子が、仲間と一緒に挫折を乗り越えて何かに到達するってなところまで来ると・・・

もうベタでもなんでもいいよ。これぞ物語だよ。すべてを許せる気分になるよね。




最も有名なシーンは「SLUM DANK」の赤木メガネ君だと思う。

私が腐女子になったきっかけもこの作品だったわー。

あの時のメガネ君が輝いて見えた、あるいは涙で霞んで見えたのは私だけじゃないはず。



いまこういう熱血シーンは少年漫画ではできなくなって全部少女が行うようになってる。

少女ファイト」とか「ロウキューブ!」とか「ゼロの使い魔」とか、

神のみぞ知る世界」の空手娘とか、作品名忘れたけど剣道部ポニーテール主将さんとか。

最近で言うと「輪るピングドラム」のりんごちゃんとかもあのまま貫いてたらいい感じだね。

真剣で私に恋しなさい!」の川神一子なんかもすごく良い感じ。

とにかく私はこういうのが好きなんだ。

そういや「百年の孤独」とか軒並みSFって、スケールや壮絶さが全然ちがうにせよ大枠ではこういう話だわね。




ハックルさんの存在はオッサンに勇気(?)を与える

こういった、今は「女の子の特権」みたいな印象がある話を、女でない、若者ですらないオッサンが頑張ってる。

これを新たなムーブメントとしなくてどうするよ。

働きマン」でもあったじゃん。50歳から女子高生恋愛する物語を企画して成功する話が。

お前ら「うさぎドロップ」みて、ニンマリしただろ? オッサンになっても人生終わりじゃないよ。むしろこれからだよ。

そう言ってくれてるように思える。応援しなくてどうするよ。




からこそ「もしドラ」は許せない

こういうのが大好きな私にとって、「もしドラ」という作品がいかに期待を裏切るクソ小説であったかは分かっていただけるかと思う。

多くの人がもしドラを「良質の百合」と表現した。私もそのとおりだと思う。途中までは完璧な展開があった。

来るべきラストシーンへの期待に胸をふくらませ、ドキドキしながらページをめくったわけだ。

からこそ、あのオチは許せないわけだ。絶対に許さないよ。

そういう話じゃねーからコレ!

ナルキッソス」やってんじゃねーんだよ。「いつから半分の月がのぼる空」になったんだよ。

そういう物語をやれる構成じゃなかっただろうが。なんでいきなり路線変更してるわけ?

おとなしくスラムダンクやってりゃよかったんだよ。「本当、女子高生は最高だぜ!」で何が不満だったわけ?

小説の読み方の教科書」で「筋書きを予想しながら読むべきではない」ってドヤ顔で書いてたけどそういう問題じゃねーよ。

筋書きはぶっ壊せばいいってもんじゃないんだよ。読者の予想を裏切れば良いってもんじゃないんだよ。

それならそれで、納得出来るだけのものを書けなきゃいかんのにできてないやん。

夕紀の死を支えるだけの備えなんて物語のどこにもなかっただろうが。徹頭徹尾二人の物語だったろうが。

書かれていない行間からチームメイトとの絆を読み取れっ・・・てそりゃねーわ。

わけがわからないよ。これコミック版でどうにかなるのかよ本当に?



と、昨日までは考えていたのだけれど考えを改めた

彼にはまだ「この結末」が書けなかったのだと考えた。

逆に考えるんだ。ハックルさんはまだメガネ君がいない未完成、つまり一番美味しい状態だと考えるんだ。

実際彼は発展途上の人物だ。未完成からこそ面白い。こじんまりと完成してない所が魅力のキャラなのだ。

そう考えると、これからますます楽しみだ。目が離せないね

2011-09-30

死のうと思っていたんだ

いや、もちろん死ぬのは怖い

臆病だからよく生きることも出来ず

また臆病だから決断することも出来ずにいた

そんな宙ぶらりんの生活



数日前から家を出てぼんやりと彷徨っていて

気づくと横浜にいた



観光地をぶらぶらしつつ地図を確認すると

横浜スタジアムの文字が目に入る



野球



もうかれこれ15年くらいスタジアムには足を運んでいなかった

ずっと東京に住んでいたのに

もともと出不精な性格だし

人気の凋落とともに興味も失っていたというのもある



調べてみるとちょうど今日試合をやっているようだった

巨人戦



もともとトラキチ読売ぎらい

当然のようにライトスタンドチケットを買い

外野最前に陣取って練習から観ていた



巨人の打撃練習

バッターバットを振り抜く

ほんの少し遅れてコーンという乾いた音

美しい放物線を描いた球はスタンドをめがけ飛んで行き

係員のけたたましい警笛の音

そして空の席にゴーンと当たる



打撃練習ともなればさすがに柵越えは楽なのか

それとも練習だから飛ぶボールを使っているのか

かなりの確率スタンドインする

そのうち一球は僕の座席の50センチ横に飛んできた



ライトの球拾いは往年の名投手斎藤雅樹

平凡なライトフライを当然のように捌く

意外にも気さくな人で

ボールくださいとお願いするハマファン

応える場面もあった



日が傾くとともに照明に灯りがともり始め

両チームの守備練習、バッテリーの発表

スタメン発表に伴う応援合戦

ボルテージは否が応でも上がる



そしてプレイボール



その時ふと思ったんだ

もし横浜が勝ったらとりあえず死を思うのはやめようと

なんとかやり直す方法を考えようと



何をやってもうまく行かず

リーグお荷物になっている横浜

自分とダブったのかもしれない



分の悪い賭けだ



でも、勝った

から僕は今こうしてこんなくだらない文を書いている



人間はそんなに急に変わることはできない

所詮自分は糞人間

今日を境に心が入れ替わるなんてことはないだろう

また困難にぶち当たったら逃げてしまうかもしれない



でも今日試合は忘れない

これから横浜を応援するよ

ハマスタにも足を運ぶよ

やっぱり生で見る野球面白い



いい試合ありがとう

2011-09-26

見知らぬフランス人との邂逅

小学5年生の頃。

ある日、俺は休日サッカーの練習をしようと学校に行った。

すると、誰かがボールを蹴っている。

よく見ると、かなり大柄な外国人だった。

田舎小学校外国人がいるという不思議な状況に興奮した俺は勢いで話しかけた。

幼少の頃海外で住んでいた俺は英語が得意だったので、拙い英語自己紹介をし、相手の反応を待った。

すると、相手は満面の笑みで自分のことを話し始めた。

フランス人で、自国の下部リーグでプレーするプロサッカー選手である、妻が日本人なので日本にきている、とのことだった。

サッカー選手を目指していた自分としては海外サッカー選手が目の前にいるという状況に興奮を抑えきれなかった。

案の定サッカーを教えてもらうという展開になった。

1対1の勝負をしたが、やはりプロなだけあってレベルが違う。しかし、やはり子供ということで少し手加減をしてくれる。

サッカー国境を超えると誰かが言っていたが、まさしくその通り俺は彼とすぐに意気投合した。

一通りボールを蹴ってから、校庭のタイヤに腰掛けて話をした。

すると、急に彼がが切ない顔をした。

俺が「どうしたの?」と聞くと彼は「明日フランスに帰らなければならない。」と言った。

何故自国に戻るのに悲しそうなのかが理解できずに怪訝な顔をしていると

「僕はサッカー選手をクビになってしまった。実力が足りなかったんだ。今はゆっくりしようということで日本に来ている。帰ったら工場で働くんだ。」

と今にも泣きそうな顔で彼が言った。

知り合ったばかりの見知らぬ外国人のことなのに何故か俺も泣きそうになった。

そんな俺を見て彼は続けた。

「坊や。君に人生重要なことを教えてあげるよ。この世には感謝すべき人も多いけど、それと同じくらい敵も多いんだ。でも自分だけは自分のことを信じていなければいけないよ。

 誰かに『お前には無理だ』なんて言われても絶対に諦めちゃいけないんだ。僕はそれに負けた。『自分には無理なんだ』と思った瞬間今までのように頑張ることができなくなった。

 そして大好きだったサッカーから離れなければいけなくなった。僕は絶対に理想を曲げてはいけないと思う。理想を曲げて楽に生きるより、理想を追って苦しんだほうがはるか

 いい人生だと思うんだ。」

そう彼は言って「サッカー頑張るんだよ。」と俺の頭を撫でて帰っていった。





俺はサッカー選手にはなれなかった。まさに「お前には無理だ」という周りに負けてしまった。自分に賭けることができなかった。

今は次の目標ができてそれに向かっている。でも、そこでもすごい人達を目の当たりにして動けないでいる。

俺には才能がない。もう遅いんじゃないかって。

そんな時に彼と出会ったことを思い出して勢いで書いた。

彼が言っていたことを本当に痛感している。俺は諦めない。

名前も覚えてないが、彼と出会えて良かった。

彼がその後の人生でちゃんと理想を追えていることを願う。

2011-09-23

処女厨などと勝手カテゴライズ軽蔑し見下し罵るのはやめろ

多くの婦女子諸兄には処女というのは特別意味のこもったワードらしくこのことについて書かれたブログやら何やらというのはまま見かける。

そしてそこに頻出するのが処女厨という言葉。もしこの単語が出てきたならば大体のところどんな主張を仰っているのかその想像はつく。

往々にしてこんな感じだろう。「処女勝手に神聖視するな、処女をモノ扱いするな、処女厨こわい、きもい」

いつもならば眉を仰角30度くらいに吊り上げ一文字に結んだ口許からぐぬぬとでも漏らして終わりなのだが、今日ははっきりと言いたい。相手に処女を望むことの何がそんなにどうじてなにゆえ問題なのだ?

花も恥じらうご処女様と宮沢賢治よろしく欲にまみえむ童貞様が心も体も心身ともに結ばれ幸せそのものセカチューばりのプラトニックラブIT'S A BEAUTIFUL WORLD

実に美しいじゃないか

しかして正すべきのなにものもないこの世界に土足で押し入り踏み荒らしていくのが勝手処女厨などとカテゴライズしたあげく遥かお天道様をも下す高みから見下ろしたもうたる輩だ。

彼等彼女等によれば女性に対して処女性を求める人物というのは分類学上の処女厨という範疇に収まり、それはもうおもわず目ン玉ひん向いてしまうくらいにリンカーンビックリなご高配を賜る栄誉に預かるわけなのだ。

曰く、処女厨とは女性に対してワガママ妄想を抱いたあげくそ自分本意な欲望を押し付けてくる怖くてキモい存在なのだそうな。

で、この処女厨ってなんなんだ?

ネット上には確かに非処女は肉便器とのご高説を垂れる手合いがいるが、ああいった連中のことだろうか。

ならば話が早い、あれは処女厨ではなくただ全方位に対してヘイトを撒き散らすのが目的の集団か、処女厨隠れ蓑にした膜厨のどちらか、もしくはその両方を兼ね備えた人達だ。

まずヘイト集団は便所の落書きそのものだ、まともに相手をするのはバカと暇人だけでいい。

問題は自称処女厨処女にあらずんば人にあらずなどとのたまう膜厨共だ。

まあこいつらの主張はごくシンプルで膜が有るか無いかの一点にのみことの是非が集約されている。膜があればよし、膜がなければわるし。

この単純明快理論だがどう見てもおかしい。普通におかしい。ちょっとあたまおかしい。

突っ込むまでもなくこいつらはただの膜好きだ、論ずるに値しない。

まあ実際にはおお真面目に膜が云々と書き立ててる奴などそうはいないのだが、こいつらの言う所を噛み砕いてやればそういうことなのだ。

まり肉体的に処女であればいい、肉体的処女厨である

とここで対になるのが精神処女厨という言葉なのだが、これこそが言いたかったことの一つだったりする。

精神処女厨とは女性に対して膜の有無ではなく、それが初恋であることを求める人間のことだ。というか俺のことだ。

断言するが肉体的処女厨なんてのは2chを中心としたネタに過ぎない。

あえて矛盾点をしこたま抱え、通る道理のない所を無理やり通してしまう。

無茶な理論だと分かっているからこそムキになって反論してくる相手の存在が心地よく、横暴に振る舞えば振る舞うほど快感を覚えることのできる、そんな趣味の悪いお遊びだ。

そして冒頭に戻るが大抵の場合処女厨と言われればこの肉体的処女厨のことを指している。いいかこんな奴はいない、存在しないんだ。

確かに処女膜という記号に萌え燃えるやつはいるだろう、しかそいつらは非処女を忌避しているわけではない。

ましてや肉便器肉便器などと呪文を唱え据え膳食わぬどころか膳には唾棄するべしというような信条をもったやつらでは決してないのだ。

詰まるところ相手が処女だと聞いて喜ぶような輩はいても膜がないからといって、それのみを理由にボールストライクゾーンから一つも二つも外してしまうような輩はいないのである

肉体的処女厨というのはたけのこ厨、きのこ厨と同じお遊びの産物に過ぎない。

では熱意と情熱をもって処女に対しそのほとばしるリビとーを思うがままに開放している彼等の言は全てがお遊戯なのかと言われればそうではない、

一分に真実の叫びが混じっており、それを担っているのが精神処女厨というわけだ。

異性への好意、その最初の相手が自分であることを求める、つまり初恋でなければ許せないというのが精神処女厨であることは先程述べたが、

逆に肉体的には無理矢理にレイプされていようが知らぬ内にネットペニスとやらに貫かれていようがそこに心理的な同意がなければ全くの無問題である

なんのことはない運命赤い糸とは言わないが好きになるのならそれが最初の恋であってほしいという叶わぬ夢であること間違いなしの想いなのだがただそれだけのことである

で、これのどこにカースト制度ばりの侮蔑を投げかけられる要素があるというのだろうか?

例えば特定の相手ができたとすればその相手には精神的な処女性を求めたいとただそれだけだ。俺はでかい乳にそそられるだとか、貧乳こそ正義だとかそんな好みの話である

別に精神的"非"処女の方々を蔑んでいるだとか嘲っているだとかそんなことは一切ない。

けれど、にも関わらず、しかるにだ、なぜだか勝手に虚空の存在である処女厨とやらにカテゴライズされた挙句、ご丁寧に被害者面して散々ディスられ、いつのまにやら上下が逆転しもうちょっと大人になられたら如何でしょうかと諭されるのである

被害妄想?そうであればよいのだが彼等彼女等が指すところの処女厨というのには確かに俺が含まれている、実際にはそれがいもしない肉体的処女厨に向けられた言であってもだ。

大体個人の好みの問題になぜ割って入ってくるんだ?そんなに憎いのか?否定も肯定もされていないというのが嫌なのか?そこに有るというただそれだけがそんなに許しがたいことなのか?処女厨という架空藁人形を編みあげてひたすら釘で打ち据えるのがそんなに楽しいのか?

女性にも男性にも多種多様趣味嗜好があり、時にはそれに惹かれ時には魅せられやがて心が通い合って結ばれるのだろう。

俺の精神処女厨という好みだけが棄民の如く差別されて然るべき対象に成り得るというのならばそれは貴方のエゴではないのか。

2011-09-20

25mg feat. FUE

(ぼくはきみと空を手にとるように)

偽りのない空を眺めては祈りつづけていた

きっと誰かにこの気持ちを伝えることができるだろうと信じて

そのおもいはいつも夕闇に消されてしま

手探りで何かおもしろいことを探しつづけている

変わったことをしようとひとり黙々と考えたりもする

誰かがぞくぞくすることを与えてくれるなんておもってはいない

自分で探さないかぎり見つからないのが少ない人生のなかで知ったこと

(ぼくは)

きみは何を求めて生きています

きみは誰かのために生まれてきたのです

きみは愛するものを見つけることができましたか

そっと囁きかける言葉は切ない予言

予言 きみに届け)

突然あらわれる現実と突き出される真実

虚言癖のある人

知りたかったこと

知ってしまったこと

教えてくれたこと

教えてくれなかったこと

その真実を知ってしまった

白い椅子と白い壁

トロレビスの神様が見守っている

きみは退屈そうに窓に映る自分の姿を見ていた

垣根のなかに入ってしまったボールをぼくたちは見つけることができなかった

それから何かが変わってしまったような気がする

からだが思うようにうごかないのもすべて

25mg と書かれたこの粒を飲んだら何かが変わるのだろうか

25mg でほんとうに幸せになれるのだろうか

誰かに言わせるとそれは毒薬らしいけど

きみはどこの空に消えてしまうのです

この世界を愛しています

こころの傷口から入った毒はどうやってとりのぞいたらよいのです

消えてなくなるというのはどういう気持ちです

おもう言葉

あらわれては

消えていく

ひどく頭が痛むんだ

ふたつの世界で起きている真実

目のまえに広がるふたつの世界

ふたつの銃弾は

(銃弾は)

ひとつはきみに

ひとつはぼくに)

青い煙がとおり過ぎる

冬に枯葉が散っていくようにぼくらも何かから切り離されるときがくるのだろうか

ときどきおもいだしては消えてゆく

しかったときは終わってしまった

他人のふりをするのは

もうやめよう

これはきみとぼくの内緒にしておこうよ

ぼくの想像する神様は人のかたちをしている

神様って人なの

2011-08-24

言葉人生を変える27の言葉たち

今回はこれは良いなって思った言葉をご紹介。

まず最初はこれです


1)良い言の葉は良い樹を育てる


とても好きな言葉でその通りだなって思います

生きているうちにたくさんの良い言葉出会えれば最高ですね。

それでは続けてご紹介。


2)冬来たりなば春遠から

3)思い込みを捨て思いつきを拾おう

4)辛いから逃げるのではなく、逃げるから辛いのだ

5)耐震構造は揺れるから折れない

6)流れ星の夢が叶うって話は、つまりは夢を即答できるか

7)苦労を貯めると幸せと交換できる

8)常識真実非常識が間違い。とは限らない

9)変わらないことのリスクは大きい

10)無いものねだりより、今あるのもから作る

11)ボールハンドリングがうまくてもシュートを打たなきゃ意味が無い

12)目の前のチャンスに言い訳しない

13)努力に逃げるな。挑戦しなさい

14)強いものが勝つのではなく勝ったものが強い

15)今日は恥をかきに行く。と決めたら良い

16)ダサいことを本気でやっちゃうのがカッコイイ

17)高い壁はいつかあなたを守る砦となる

18)四葉を探して三つ葉を荒らす。間違った幸せの探し方

19)若葉の傷が四葉を生む

20)謙虚と臆病は違う

21)見るべきは最先端よりも足元

22)誰かを自分にいつかを今に

23)人生は早く多く間違えよう

24)次に行きたければ人生にスペースを作らないと行けない

25)人は10の内、9つ幸せでも、残りの1つの不幸の不満を言う

26)どこへでも続く道はある

27)愛する人と自由な人生



良い言葉には瞬発性があると思います

自分もいつもちょっとやる気無い感じで過ごしてはいますが、

ここは頑張らねばって時には言葉に助けられています

自分はたくさんの言葉探しを学生のころからしていますが、

良い言葉出会って終わりでは意味がないと思いました。

良い言葉は3,4個を自分の心に添えて

持ち歩く事が大切なんじゃないかと思います

今回は27個も紹介してしまいましたが、

みなさんが持ち歩きたいと思える言葉があれば幸いです


今回はここまで。

言葉人生を変える27の言葉たち

今回はこれは良いなって思った言葉をご紹介。

まず最初はこれです


1)良い言の葉は良い樹を育てる


とても好きな言葉でその通りだなって思います

生きているうちにたくさんの良い言葉出会えれば最高ですね。

それでは続けてご紹介。


2)冬来たりなば春遠から

3)思い込みを捨て思いつきを拾おう

4)辛いから逃げるのではなく、逃げるから辛いのだ

5)耐震構造は揺れるから折れない

6)流れ星の夢が叶うって話は、つまりは夢を即答できるか

7)苦労を貯めると幸せと交換できる

8)常識真実非常識が間違い。とは限らない

9)変わらないことのリスクは大きい

10)無いものねだりより、今あるのもから作る

11)ボールハンドリングがうまくてもシュートを打たなきゃ意味が無い

12)目の前のチャンスに言い訳しない

13)努力に逃げるな。挑戦しなさい

14)強いものが勝つのではなく勝ったものが強い

15)今日は恥をかきに行く。と決めたら良い

16)ダサいことを本気でやっちゃうのがカッコイイ

17)高い壁はいつかあなたを守る砦となる

18)四葉を探して三つ葉を荒らす。間違った幸せの探し方

19)若葉の傷が四葉を生む

20)謙虚と臆病は違う

21)見るべきは最先端よりも足元

22)誰かを自分にいつかを今に

23)人生は早く多く間違えよう

24)次に行きたければ人生にスペースを作らないと行けない

25)人は10の内、9つ幸せでも、残りの1つの不幸の不満を言う

26)どこへでも続く道はある

27)愛する人と自由な人生



良い言葉には瞬発性があると思います

自分もいつもちょっとやる気無い感じで過ごしてはいますが、

ここは頑張らねばって時には言葉に助けられています

自分はたくさんの言葉探しを学生のころからしていますが、

良い言葉出会って終わりでは意味がないと思いました。

良い言葉は3,4個を自分の心に添えて

持ち歩く事が大切なんじゃないかと思います

今回は27個も紹介してしまいましたが、

みなさんが持ち歩きたいと思える言葉があれば幸いです


今回はここまで。

2011-08-20

【追記】「人生を楽に生きる8つの方法」は半分ウソだと思う。

人生を楽に生きる8つの方法

http://chaos2ch.com/archives/2982681.html

これを読んでいたらもやもやしてきたので書く。





4つだけは本当だということじゃない。

8つすべては「真実」に近いと思う。

実践できれば楽に生きれると思う。

それがいいとか悪いとかいう問題じゃない。

ただ、この理論だけでは結果的に不十分だとおもう。





いったいなにを欺いているのか?

この方法には2つのウソが隠されていると思う。

リンク先で語られている内容よりも

語られなかった内容に注意してほしい。






上のリンククリックした人は、それだけでかなり頭がいい。

つの方法を抜き出してみよう。




1、今に生きる

過去を悔やんでたらればを繰り返したり、起きてないことをあれこれ憂いたりするのは時間と労力の無駄遣いで非生産的

今の自分の状況や気持ちに行動原理をおく。




2、人や社会に期待をしない

求めたり「こうあるべき」とイメージを持ったりすれば、現実との差異にがっかりすることになる

基本は人生自己責任




3、他人は自己投影

自分が見ている他人は、他人という物質に反射して映った自分だと考える。

それが心地よくないものなら自分が変われば良い話




4、事象を引き寄せている(選んでいる)のは自分

その出来事を通して味わいたい思いや学びたいことがあるからそれを引き付ける。

災難ととるのではなく自分の選んだものと思って構える




5、自分がいなくても世界は回る

自分が思うより他人や社会自分を見ていない。

こうしなきゃ、こうでなきゃ、というのは自己満足であって、大抵の場合は不必要




6、ワクワクするものごとを選ぶ

自分の選択で他人が困っても、それは他人が対処すべき問題。

選択の連続人生で、自分の心がワクワクする方を正直に選ぶのが一番スムーズ。これができないと葛藤ジレンマに苦しむ




7、自分の行いは必ず帰ってくる

自分の行動は、空へ向けてボールを投げるのと同じ。

きちんと受け止めないでぶつかった時に、痛いと言って責任転嫁しようとしても事は進まない。

自分が受けたい言動をとればそのまま返ってくる。




8、物事は全て中立

「悪い出来事」「縁起の良い場所」なんてのは本当はなくて、全て中立な物事に自分意味付けをしてるだけ。

たとえば同じ場に居合わせ災害にあったとしても、ある人はたまたま見舞われたと感じるし、ある人は自分宗教の教えを遵守しなかったからと捉えるかもしれない。

自分の見方で世界が変わる。





方法自体はほとんど正しいとおもう。

ぐうの音もでない。

いろんな本を読んだり、テレビを見たり、人と話したりすれば

わりと納得できる考え方だなーと。

(というかこれがわからないとしんどい)






しかし、正しいということとそれが妥当であるということはまた別の問題だと思う。






でも、とりあえず

この方法実践することで人生が楽になる

ということはほぼ間違いないと思う。




世界じゅうの人がみんな

この方法を身につければ

きっと生きやすい世界が目の前に広がると思う。








ちょっと想像してみよう。





  • 過去のことは水に流してくれるし未来絶望しなくてもいいし(今に生きるから
  • あーしろこーしろとうるさく言われないし(人や社会に期待をしないから)
  • 相手を責める前に、まず自分の非を疑うようになるし(他人は自己投影から 以下略
  • 現状を肯定できるようになるし
  • 構ってもらえなくても大丈夫だと思えるし
  • 楽しいことを選ぶことを肯定できるし(仕事は厳しくあるべきなんてことも言わない)
  • 相手のことを慮ることが、自分をいたわることだと気付けるし
  • いいとか悪いとかい価値観に縛られなくなるし





現在あなた人生をおびやかす何者か

(親、兄弟、親戚、同級生、上司、同僚、社会のしくみ、政府日本テロリスト、なんでも)が

もし、これらの特性を身につけたならと考えてみよう。

こりゃパラダイスだ!

ぼくたちはお互いがお互いを認められるような

真に寛容な社会を実現できる!

誰と遊んでいようが楽しい

よーし!あの丘の上まで競争だ!






少なくとも2011年の今現在

これらの方法に従うことで楽に生きられると思う。







でもそれは「従うことができれば」の話。







つの方法としてまとめられた人生訓は

実際、どこの場でも目にする。

人生論」でも、「大往生」でも、「論語」でも、「エセー」でも、「徒然草」でもなんでもいい

長く広く読まれている「人生の教え」的な本を読んでると

最後にはだいたい前の8つくらいに収まる

(代わりにどっかの社長の話を聞いてもいいし、テレビ美輪明宏さんの話を聞いてもいい)。

昔の人は偉いなあと思う。






そういう感じの本はいろいろ読んだ気がする。

もちろん、まだまだ読み足りない。

なにせぼくはまだ今年から活字に触れはじめたばっかりだ。

きっと死ぬまで読んでも読み足りないのだけど

個人的には、ぼくの考えを

そういう本が「間違っている」と指摘してくれることを期待して

かばうんざりしながらもそういう本を読んでいた。






今のところ、ぼくの考えを「否定してくれる」本は見つからない。

いや、正確に言うと、否定してくれはするけども

それが納得できないのだ。

ぼくの読解能力がないだけならそれでいいんだけど

もしヒマならちょっとぼくの考えを聞いてほしい。








まず1つめのウソ

ぼくが言いたいのは

すべての人間がこれらの方法を実行するのは不可能だということだ。








古今東西のえらい人がみんな同じ結論にたどりつくなら

さっさとそれを実行すればいいのに

なんで同じ内容の本ばっかり書かれていくんだろう。

なんで大昔の本が現在ぼくらの胸に響くのかと聞かれたら

それが人間全体に広くみられる普遍的な問題だからじゃないかなあと思うけど

じゃあ、なんでその普遍的な問題が

大昔から今まで解決されないままなんだろう。






般若心経の新訳を読んだ。

あれもやっぱり8つの方法の言い換えみたいなもんだ。

聖書だってそんなに変わらないかもしれない。

ぼくらはなんで2000年も前の真理がいまだに実行できないの?








そりゃあれじゃないの?

本などの論理的なものほとんど触れないような

感覚で生きている人がすごく多いからじゃないの?








父ちゃんは「男はつらいよシリーズ」が好きで

こないだシリーズDVDツタヤで片っ端から借りてきて

大笑いしながら観ていた。





その中の一作で寅さんの「おいちゃん」が

実は若い頃は文学をやりたいと思っていたと話すシーンがある。





おいちゃんは父親にこう言われたらしい。







「団子屋に文学なんか必要ない」







男はつらいよシリーズフィクションだけれど、

しかに団子屋に文学はべつに必須ではないとおもう。

団子屋は文字より数字数字より団子が読めればいい。

団子屋が文字を読む必要がないなら、

本なんてまったく読まない人がいてもおかしくないんじゃないだろうか。







これは団子屋だけの問題か?







勉強するくらいなら技術を磨けと教えられた人は

かなり多く存在してるんじゃないのか?

それでなんの不自由もなく生きていけたなら

感覚だけで生きていくことを恥じることもない。

それどころか、論理的なことをバカにさえするかもしれない。






ぼくのお父ちゃん電気会社に勤めている。

難しいことはわからない。

バック・トゥ・ザ・フューチャーを何十回も観てるのに

なにがどうなっているのかいまだに理解できてない。

過去に戻ったり未来に行ったりすると

物語の内容がつかめなくなる。





でもそれがどうした?

父ちゃん電気会社に勤めている。

たんまり儲けている。家族を養っている。

バック・トゥ・ザ・フューチャー理屈がわからなくてもなんの不自由もない。






熱心な仏教徒

敬虔キリスト教徒のうちで

その「教え」に追随する人はいったい何人いるの?





わかりにくいな…。

例えば新興宗教信仰者なんかだと

ただ一つの「救われた経験」を足がかりにして

熱心に信仰する場合があるみたいだけど

その最初の救いを信じていたら

つのまにか犯罪者の仲間入りをしていたことだってあるみたいだ

オウム真理教の元信者のそういうエピソードを読んだことがある)。






大昔の日本の百姓のいったいどれだけが

仏教意図を理解していたんだろう。

念仏を唱えれば救われる」って

そそのかされただけじゃないのか?






文学がわからない団子屋。

バック・トゥ・ザ・フューチャーがわからないお父ちゃん

教えがわからない「熱心な」信仰者。

念仏を唱えるだけの百姓。

そういう人たちがいるかもしれないと思ったことは?






まり、ぼくが言いたいのは

人生を楽に生きる(たった)8つの方法でさえ

読めない人がいるかもしれないということだ。

読んだ人に待ち受けているのは

やるかやらないかの差でしかない。

でも、読んでない人はどうすりゃいい?

つの方法論理的にほとんど正しい気がする。

で、その論理を理解できなかったら?ほったらかし?





ぼくは8つの方法を否定したいわけじゃない。

くり返し言うけど、これらを全ての人間が理解して実践できたら

そりゃあもう素晴らしいことになるとおもう。





でも、現実はそうじゃない。

つの方法をはじめとする人生訓が何を語っているか、よりも

何を語っていないかをもっとよく考えたほうがいい。

この人生訓がなぜいいのかということを

絶望的なまでに理解できない人がいる。

そういう人たちは人生訓が提示されるたびに足場が少なくなっていく。

要するに勉強ができない、感覚で生きている人たちをないがしろにしているのだ。

このたぐいの人生訓すべてが。

掛け算までしかからない子どもに、方程式の素晴らしさを説いているようなもんだ。

上から目線で「こうしたらいいのに」と言ってしまってることになる。

いつまでも掛け算のところでつまづいて

文句ばっかり言ってる子どもはほったらかして先に授業を進めるべきなの?

掛け算のところに戻って教えなおしたほうがいいんじゃないの?






やっと言いたいことの一つが終わった。

冗長になりそうだけど

もうひとつ言いたいことがある。

更に絶望的な想定だ。








理論としては正しいのに極少数の勝ち組しかトクにならない?







さて、こんな文句をどこかで見たことがあるだろうか。



  • 時間は戻ってこない。目の前のことに集中しよう。(今に生きる 以下ry
  • 現実は甘くない。
  • 人のせいにしない。自分の態度を改めよう。
  • 自分ごまかさない。自分うそをつかない。
  • あなたがいなくても代わりはいます
  • 他人の選択で自分が困っても泣かない。
  • 責任を取りなさい。
  • 運、不運のせいにしない。





つの方法をもうちょい過激に言い換えてみた

(まちがってたら言ってください)。

なんかさぁ…

内容自体はそんなに変わらないのに

急にうっとうしくなった気がしない?





どこかで見たことあるなあ…

これどこで見たんやろう…

ああ、そうか








就活の時の企業パンフレットに載ってたわ。







「これ、うちの経営理念やわ」っていう人いる?

こういうことを上司先生や親に言われて

「だから頑張れ」で締めくくられて説教されたことある

その時どんな気分がした?

殺したくなった?

泣きたくなった?





人生を楽に生きる8つの方法

その2つめのウソにして、絶望的な想定はこれである

正義づらした誰かに強制されるのだ。

それが「楽に生きる」とは真逆の事態を連れてくる。

底辺を鼓舞搾取)するための大義名分になってしまう。

ぼくみたいなゴミクズ人間はそのことがよくわかる

(このたぐいの説教は何回も何回も聞かされているから)。

から近づきたくないのだ、こういう人生訓には。

うんざりするのだ。自己嫌悪するのだ。





この想定のたちの悪いところは

その大義名分が「間違ってない」というところだ。

誤解なら間違ってると指摘することはできるけど

これは単に曲解しかない。

各々の解釈の違いでしかない。





冒頭に述べたとおり、8つの方法

ほぼ正しいと思う。楽に生きるためならね。

え?

間違ってないなら実行できない人が無能怠惰なんだから仕方ないって?





wikipediaによると2009年の時点で日本ニート総数63万人

しかだんだん増えている。

彼らがみんな死んでしまえばいいと思うの?

賢くて強い人だけ生き残ればいいと思ってるの?

ニートだけじゃない。実際働いている人でも

これらの大義名分に苦しめられている人はいると思う

(実際これだけの説教レパートリーがあれば人格破壊するには充分すぎるとおもう)。




1つめのウソで挙げた、感覚で生きている人を合わせると

この方法に従えない人はかなり多いんじゃないかと思う

統計を出すつもりはないけど)。






1つめのウソで言及しているような

感覚で生きていて、なおかつこういう人生訓に苦しめられている代表選手

DQNとか低学歴低賃金職人とか派遣社員とかだ。




2つめのウソで言及しているような

搾取され支配され無能呼ばわりされている代表選手

ニートとかひきこもりとか普通会社員とかだ。





こういう人たちはまとめて死ぬべきなのか?

損する人のほうが多くないか





そう考えたら、「人生を楽に生きる8つの方法」が最後の答えだと思えない。

この考え方を否定してもらいたくてそういう本を読んでいた。

でも納得できない。

これでは救いにならない。

でもいつまでも状況に進展がない。

だれか否定してくれよ。

「おまえ間違ってるよ!」って。






1つめのウソについては別の解決策が見当たらないし探そうともしてないけど

(ぼくは感覚で生きる人間ではないからあまり真剣になれない)

2つめのウソはぼくにとっては生死に関わるまさに死活問題だ。

そして、その解決策をこの場で披露することを許していただきたい。






働きたくない働きたくない働きたくない

枠組みを作ろうと思う。

ぼくみたいなクズ人間ものほほんと生きていける枠組みだ。

ほとんど働かなくてもいいような枠組み。

楽観的な言い方をすると、これは収益を生み出せるかもしれない。

そうして、口やかましい人たちを黙らせる

(ぼくはこれが実現できないとリアルに死ぬしかなくなる)。

http://auauai.tumblr.com/post/9080858048

幸せものさしの種類がもっとあってもいいと言うのなら

生き方の種類だってもっとたくさんあってもいいはずだ。






これはブログでも書いてるけど

やりたいことはphaさんのギークハウス構想に似てると思う。





クズ人間を数人集めて家を借りよう。

クズ人間がお互いのクズ性を認めあう場所だ。

クズであることを糾弾されないリアル空間だ。

リア充は入っちゃいけない。怖いから。

ネットのような優しい空間であることを目指す。

優しくて閉鎖的な空間だ。

個人的にはなるべく一人でいたいんだけどそのためのコストが高い。

でも家の外にはクズ人間の敵がわんさかいる。

そういう人と連帯を組むことはしたくない。

じゃあ、ぼくが怖がらずに近づけるのは

同じ穴のムジナであるしかいない。

落伍者うつ病患者社会不適合者、怠け者…

そういう人たちととりあえずお互いを認め合う。

自信を少しずつ取り戻す。

まずはそこからだ。

だって生きていていいんだという相互理解をつくることだ。






心底、世の中に絶望していた。

人生訓の本にはそうあるべき人の生き方が載ってたけど

どれも納得できなかった。







太宰治とかの救われない小説

共感をもたらしてはくれたけど

やっぱり現実はしんどいままだった。







鴨長明吉田兼好良寛みたいに

山の中に草庵でも建てて住もうと本気で思っていた

(いまでもその選択肢を考えてる)。







いくら本を読んでも

現在の恐怖と、わずか数年後の不安を解決してくれるものすらなかった。








でも最近考え方が変わった。

それもやはり本を読んで変わった

(次に挙げるだめ連の本とはまた違う本だ)。








だめ連の本によると

一人の時に負うコストリスク労働量も精神的負荷も、

連帯すると分散される(当たり前か)。

家賃10万円の家を10人で借りたら一人1万円だ。そういうことだ。

だめ連はけっこうハチャメチャなことをやってたみたいだし

近隣の人の援助もあったらしい。

それはちょっとできるかどうかわからない。

でもぼくらにはインターネットというツールがある。

それもだめ連の時よりも更に強力に整備、普及されたものだ。





ニコニコ動画の「歌ってみた」からプロデビューする人がいたり

レゴ作って2chスレ立てるだけでプロビルダーになる人がいたり

自分の顔を毎日撮って繋げただけの動画Youtubeで何万再生もされたり

「ありがとごじゃいます」って歌って動画として公開するだけでテレビに出演できたり





要するに「好き」とか「やってみた」とかの

草の根レベルのちょっとしたアイディアを発表するだけで

負け犬から注目される人になる可能性がぐんと高くなっている。

ということは

そういうしょーもないアイディア収益化する可能性があるのだ。





リスクコストのかからなくて

ちょっとでもおもしろそうなことはなんでもやってみりゃいいのだ。

社会不適合者が集まっているということだけでもちょっとおもしろいかもしれない。





誰が許さなくても本当は関係ないんだよね。

自分が感じる心苦しさより欲求が勝てば、そっちの選択のほうがワクワクするものなはず



冒頭のまとめスレにはこんなレスもある。

心苦しさを飛び越えるほどの、欲求があればぼくらは動ける。

外にある楽しいことに手を出すのは怖いしめんどくさいけど

ネトゲくらいならちょっとやってみようかなーなんて思える。





とりあえずヒマならその家に集まってみて

生きるのに向いてない人がリラックスできる場をつくる。

なんかちょっとやる気出たり、アイディアわいてきたら

そういう人たちの「好き」とか「アイディア」を片手間でネットに発信してみる

(ぼくもいくつかアイディアがある)








奇しくもこの考え方は

人生を楽に生きる8つの方法の6つめに従ったやり方だ。

楽しいことだけを追い求めて生きていくことが可能かどうか確かめたいのだ。





収益化ができてしまえばあとはどうとでもなる。

しかし、生きるのに向いてない人がラクになれる場所

SNSでの付き合いで世界のツラさを「ごまかす」だけじゃない場所だ)

これができるだけでも意味はあると思う。





もうだから早く家借りよう。

とりあえず、ツイッターmixiメールかなんでもいいから連絡をください。

http://twitter.com/yukkun1986/

http://mixi.jp/show_profile.pl?id=25533767&from=navi

breed0902@gmail.com

ぼくは幸運なことに個人情報晒すことはあまり怖くない

(悪いことをまったくやってないってことじゃないけど)。

これが実現できないと絶望するしかない。

ぼくにとっては個人情報なんか出し惜しみしてる場合じゃない。





ぼくらクズ人間同士でつながろう。

もうイヤやねん。働きたくないねん。怖すぎるねんこの世界

たすけてくれよ。「私も怖かった」って言ってくれよ。

怖いよねー(*´・ω・`)(´・ω・`*)ネーって慰め合おうよ。

別に住まんでもいいのよ家には

慰めとか遊びとかアイディアの拠点にするねん。

もう疲れた。

もう待てない。

もう泣きたくない。

誰かが泣くのも見たくない。

ぼくが許せないのは自分と誰かが死ぬことそれだけだ。

きみは死ぬな。

どんなに腐ったような人間でもかまわんから生きてよ。

ぼくだって生きててもなんの価値もない。

それでも生きれるようにしたいのよ。

ぼくもきみも。

これがぼくらの「楽に生きるための一つの方法」じゃないかと思うんだ。






追記

コメントに返事を書く!




なげーよ。

ごめんなさい。短くしようともしてませんでした。

短く的確に書ければいいなと思います

書いていくだけでその練習になればいいななどと虫のいいことを思ってます




誰も強制してないし、できない奴を馬鹿にしてもいない。自意識過剰自分以下を眺めて満足したいだけでは?/「5. 自分がいなくても世界は回る」の「自分」は語り手を選ばないからこそ「楽」につながる

途中で途切れてしまうのでトラックバックとして書きます

2011-07-25

節電を訴えながら電力を垂れ流すテレビ局

27時間テレビバスケボールをぶつけ岡村イジメ? YouTubeコメント炎上

http://news.livedoor.com/article/detail/5731678/



フジテレビは金が有り余ってるんだな。

金が有り余っているのはスポンサーの方か。

こんな番組を垂れ流すんだったら、27時間放送を止めればいいのに。

2011-07-19

女の子の声を目指してみたら、日常生活がすごく捗った。

いや、びっくりです



女声ボーカルの歌を原音で歌えたら楽しいだろうなーと思ってました。

それで、http://www.amazon.co.jp/gp/product/4798029025/Amazonで高評価なのをたまたま見て、駄目元で

買ってみて付属CDトレーニング4日ほどやったんですよ。

そうしたら、女の子の声には全然ならないんですけど、普段の声がびっくりする程きれいで楽に出るようになったんです



普通に喋るのに「楽」とか「大変」とか大げさなと思うでしょう。

僕も今まで考えた事も無かったんですけど、いや、これ本当に楽なの。まるで、のどに羽でも生えたかのよう。

普通に話した声が良く通るし、ささやきみたいな息の量でもかすれずきちんと喋り声になってくれるんです

逆に、いままでいかに喋りだすときに体が構えてのどに力を入れたりしていたのかと、愕然としました。



で、楽に発声できるようになると、頭の中で喋ろうと思った言葉がまるで坂道を転がるボールみたいにそのまま声として出ていくんですね。

なので、喋りだしにどもったりしなくなったし、無意識に発してた「あ」とか「えー」とかいった言葉が少なくなった気がします。

声質がよくなって以前より通る声になったおかげか相手にもきちんと話し言葉が伝わっている感じがするし、

以前はわりと一杯一杯だった話してる最中、気持ちに余裕が生まれてきた。




正直、僕は喋るのが苦手で雑談とかも出来れば避けたい感じだったんです

声変わりしたときにうまく喋れなくなって、どうもそれがコンプレックスになってたようで。

それが、ちょっとしたトレーニングで嘘のように解決ですよ。世界が輝いてみえます

まあ、今から考えればそれがどう考えても正攻法でしょうけど、僕自身がちゃんと正面から向き合ってなかったのかなぁ、と。



あと「オタクっぽい喋り方」って発声方法に大きく起因してるんだろうなって思いました。というのも、僕の喋りがまさにあんな感じだったから。

単語あいあいまにある「デュフ」的な息の音ってきちんと発声できてないからなんだな、と。



というわけで、ボイトレの教材として、僕はこの本、十分にもとがとれました。



女の子の声になれるかどうかは、わかりません。

追記

思わぬ反響にまたびっくりですこんなことなら、自分ブログに書いてアフィリエイト張るんだった



一応断っておきますが、「※.個人の感想です。効果には個人差があります。」ですからね。

明らかに人並み以下だったのが、人並みに手が届くかもくらいのところまでたどり着けたという話ですから

ちゃんと喋れてる人にはそれほど効果を感じられないかもしれないですし、

トレーニングの相性みたいなこともおそらくあるでしょう。



あと、書いた本人もこれじゃあ本の宣伝だよなぁ、みたいな事は思ってます。申し訳ない。

ただポイントはそこじゃなくて、ボイトレすると救われる人は他にも居るんじゃないか、っていうところです

Amazon検索すればボイトレに関する書籍は沢山有るようですし、

興味を持った方であの本に抵抗をお持ちの方はそういう物を選ばれるとよいと思います

まあでも、僕はこういう形じゃなかったらボイトレをしてみようなんていう気は起きなかったと思いますし、

本を手に取ることもなかったな、とは思います

さすがに本屋で買うのは恥ずかしいので、Amazonポチりましたが。



ちなみに、付属トレーニングCDは、地声が大体25分でファルセット20分の合計45分程度の練習コースになってます

結構、みっちり発声させられますが、内容的にはおそらく一般的な発声トレーニングだと思いますファルセットの分量が多めだったりするのかな)。

アマゾンのレビューにあった「おなかすいたにゃー」みたいな「女の子の声」的なものは、練習コースというよりも

講師の模範演技として掲載されているものです(あんまり模範になってないですが)。

羞恥プレイ的なトレーニングはないのでご安心を。

最後のほうで感謝してることをあらかじめ書いておく

http://anond.hatelabo.jp/20110719114224

あんたが「小学一年生」のくだらない問いをしたから、

怒りが有頂天だったけど、

逆に俺が求めてたものが明確化された。

そこの部分にいくまでの文章が長いから、

最後のほうで

感謝してることをあらかじめ書いておく。

 

で、

コーチングの話とかは知らないしどうでも良いよ。

そこなんだよ。

あんたはさ、

俺があのエピソードで、

メタ情報が欲しかった」

みたいに書いたのだって

線形代数メタ情報なんて教えるの、土台無理だよ」

と切り捨ててるんだよ。

 

まり、そっから先に進まないんだよ。話が。

あのエピソードが成立した条件について、考えて欲しいんだ。

たまたま」じゃなくて。

俺は他人のツッコミからも有益な情報がほしいんだ。

たまたま」って言われたり、

「そんなの無理」って言われたら終わりじゃんかよ。

 

まず、俺もレクチャーしてくれた友人も同じ授業を受けた。

俺はよく理解できなかった。

俺は試験勉強して悩んだ。

試験前に、よくわかる友人と雑談した。

そしたらテスト問題が簡単に見えた。

テスト問題が何を問いたいのかがわかった。

 

もしだよ?

俺が雑談したのが、

同じ授業を受けていない数学の出来る友人だったら?

数学は出来るが、面倒見のよくない友人だったら?

どうなってたと思う?

どっちともたぶん駄目だったと思うよ。

あるいはブクマで指摘されていたけど、

試験勉強しないで雑談してたら、どうなってた?

 

ここから考えれば、

例えば、大学講義でこう考えられないか

試験を含めず12回分の講義が予定されていたとする。

教える内容を12回に割り振るのと、

11回に割り振って12回目で内容を最初から振り返るのと、

どちらが効果的だろうか?

TAは毎回1人を付けたほうが良いのか?

6人を中間と最後の2回の授業に動員したほうが良いかも知れない。

こういうことなんだよ。

俺があんたに食いついたのは、

どうも大学関係者っぽいなと思ったからなんだよ。

 

それなのに、

それなのにだ。

 

以下の問いが、どんだけ何も考えずにその場しのぎで作ったか

俺の怒りが有頂天だよ。

例えば、小学一年生に「なんで足し算とか勉強するんですか?」って聞かれたら、どう答えます?(こういう事聞いてくるのは、逆に賢い子だと思うけど)

答えに詰まるでしょ?それ、線形代数でもあんま変わらんから

小学校一年生の「なんで?」と、

学部生の「なんで?」が、

同じものだと思ってるの?

 

小学生の「なんで?」は「やりたくない」って意味なんだよ。

から答えは、

「足し算は基本だ」とか

「足し算ができないと将来大変だよ?」とかじゃないんだよ。

そんなこと小学生でも知ってるんだよ、

小学生なめんなよ。

でも、楽しいこと我慢して勉強するのがいやなんだよ。

共感してやれよ。

テレビみたいの?じゃあ、あと5問やったらいいよ」

とかでいいんだよ。

で、約束通り5問できたら褒めてやればいいんだよ。

 

学部生の「なんで?」は、

「この概念をどう使ったらいいの?」なんだよ。

目の前の試験を乗り越えたいんだよ。

もちろん「やりたくない」って意味で使ってるのもいるが、

それは置いておく。

で、ここで最初に書いたことが出てくる。

俺は、線形代数教授が、

講義を通して、

何を学ばせたいのか?

試験でどういうことを問いたいのか?

それがわかんなかったんだよ。

からメタ認知という話になったんだよ。

俺自身がそこを明確に認識していなかった。

あんたが、

小学一年生」の問いをしたおかげで、

そこが明確になった。

 

俺にレクチャーしてくれた友達

数学がわかるから

先生はここを重点的に説明してるな」とか、

授業中の雑談から総合して、

「この人は、こういうことを教えたいんだ」ってことが、

きっと、わかってたんだよ。

から、俺は彼と雑談して、

彼が講義エッセンスを説明してくれて、

俺自身にも、そのエッセンスを理解するだけの準備が出来ていて、

あの雑談意味が生まれたんだと思うのよ。

 

あんたは、こうも書いた。

俺は別に「あんたが悪い」と攻撃してるわけじゃなくて、線形代数を教える人に「どうしてこれをやるか?」って聞くのは無茶だって言ってんの。「例えば何に使うんですか?」なら、まぁ良いけども。そういうつもりで書いたんだけどな。

太字引用した部分、そこがコーチングなんだよ。

わかってない人間ていうのは、何がわかってないかさえわかってないんだよ。

からちゃんと方向付けてあげないといけないんだ。

この例だと、学生が質問に来たときに、

「君の質問に答えることは、一応できるけど、

 君が本当に知りたいのは、

 この定理数学重要性ではなくて、

 この定理の使い方なんじゃないか?」

と聞き返せば、質問に来た学生はきっと目を輝かせるんじゃないかな?

 

どうなるかと思ったけど、

思わぬ会話になったな。

しかったぜ、兄弟

 

***

 

追記なんだけど、

一応、もう一つ、エピソードを紹介したい。

 

スポーツで、

「足腰を鍛えるのは基本だから、とにかく走って鍛えろ」

と、そういう教え方をする人がいる。

「足腰が基本」であることは、誰だって分かっていること。

この場合の「足腰」には「心肺能力」という意味も込められていることは、

スポーツやったことがある人なら経験的に知っている。

そこに、例えば、

「1500mを4分台で走れるようになるのが最低条件」

というふうに、何か加えるだけでだいぶ違う。

さらに、根拠をつけるなら、

「歴代のレギュラー選手の90%は、1500mを4分台で走れた」

となれば、さらに「走って鍛えろ」の意味が増す。

 

俺は、野球をやってた。

今では気晴らしにバッティングセンターにいく程度だが、

行くと、ほぼ必ず見かけるものがある。

ちびっ子がお父さんに叱られながら、

バッティングしてる姿だ。

曰く「脇をしめろ」

曰く「最短距離で打て」

この金科玉条は、

俺は本質ではないことを知っているから、

そういう親に教わっている子は、

かわいそうだなと思う。

この金科玉条は、迷信とさえ言っていい。

まりこれを否定すると、

各所からDisがやってくるので、

補足すると、

「脇をしめる(ようなイメージで)」

「最短距離で打つ(ようなイメージで)」

が正しい。

本当にに脇をしめたら、

スイングスピードはでないし、

最短距離で打ちたければ、

構えた位置からバット軌道は、

ボールの進行方向の法線上になることは確定的に明らかだ。

打撃で大事なのは

この3つでしかない。(配球の話は置いておく)

極論、この3つがうまく出来るなら、

どんな打ち方だって構わない。

でも人間の体には制約があるから

上手な人の打ち方は似通ってくる。

似通ってくるが、

素人が見てもわかるように、

それぞれに個性的だ。

 

高校生の頃、

スイングスピード

最も相関性の高い筋力は「握力」だと聞いた。

から馬鹿みたいに握力を鍛えた。

大学生になって、

全身の筋肉量と最も相関するのが握力だと知った。

から、体力検査で握力を測定するのだと。

なんだよ、スイングスピードと握力の相関って、

全身の筋肉量との擬似相関じゃねーかよ、と。

そんな切ない、エピソードさ。

 

追追記

REV ボトルネックが、握力と、腕と体幹協調、という話?

全然、そんな大層なものじゃない。

ってか、バイオメカニクス的な部分まで踏み込まない。

馬鹿な高校の野球部員が

プロ選手を調べたら握力が強いほどスイングスピードが速かったんだって

と聞いて、「相関関係因果関係とは違う」という箴言を無視して、

「握力鍛えれば、スイングスピードあがるんじゃね?」

と思って、頑張った。

普通に考えれば、全身を鍛えるだろうが、

そいつ筋トレが好きじゃなかった。

でも、握力を鍛えるリストカールやハンドグリップはお手軽だった。

から飛びついた。

で、大学になって、何かが違うことに気付いた。

 

で、余談だけど、握力が全身の筋力量に相関するのは、

最終的な力の伝達部分が、握力の影響を強く受けるからじゃないのかな?と思う。

数学得意な人は体育の分野にくればいいのにー。

2011-07-18

http://anond.hatelabo.jp/20110718195628

だったらプロスポーツなんて存在しない。

1on1では『競技』という言葉で片付けやすいかもしれないが、

それなら山中で一人ボール蹴りを極めるべきだ。

チームが選手給料を払うのは、観客を喜ばせて人を呼んで収益を上げる為だ。

『勝利給』が存在する以上、チームと選手サポーターに共通する利害は勝利だけだ。

それを全員で目指すからプロスポーツなんだ。

あんたの言うのはアマチュアリズムに乗っかったオリンピック的なモノだね。

- 転職ならen
- 派遣ならen
19ページ中1ページ目を表示(合計:459件)