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2021-02-07

最近の若者大人しすぎない?

未来がない上に多額の負債若者押し付けようとしてる国に住んでいてよく大人しくしてられるよな。脳みそなくて行動力だけで政治家殺そうする奴が出てきても何も驚かない段階まで来てると思うんだが。どんな政党選ぼうがウンコ味のカレーカレー味のウンコって言うけど実際そうじゃねえからな。少なくとも共産党投票してから同じこと言えよ。若者寄りのウンコ既得権益寄りのウンコかは選べるもんだがな。大人しく生きていられるのは思考を捨てた賜物なのか?精神的な持病もある俺には耐えられねえから貯金使い込んでタイコネクション作ってから生活保護受けちまったよ。今は日本だがお陰で毎日13時間眠って幸せに過ごしてるわ。何かの経緯で打ち止めになったり生活保護が使い物にならなくなったらタイ沈没する予定。俺みたいな奴のせいで日本は衰退していくだって馬鹿言うなよ、俺みたいな奴がいるだけで沈む船ならもうそれは沈みかけてんだよ。甲板まで沈んでるぞそれ。足元に気をつけてくれ。気づけてよかったな。何、礼にはおよばん。お互い助け合わんとな。高度経済成長期の恩恵による蒸気機関石炭だけで進んでる日本というタイタニック号は救命ボートに老人と既得権益しか乗せないみたいだぞ。ジジイ達が逃げ切る前に先に逃げちまおうって奴は俺以外にも水面下には結構いるみたいだ。もちろん胡散臭い連中も多いけどな。その反面、表面化でプベル馬鹿にしてる奴も労働感プベってる奴多くて、なんか地獄みあるよな。そんなもんなのか?うんざりするぜ。

いつか真面目に働いてる奴が、まともに評価されて、まともに還元されて、正直ものけが得をする、人情噺みたいな世界になるといいよな。皮肉じゃなくて、心の底から真剣にいつもそう思ってるよ。

俺の同期だったお前を死ぬまで追い詰めた上司。忘れるわけねえよな?昨日の夜、五反田で見かけたよ。3度見しちまった。あの斜めに曲がって半開きの口と気色悪い眼瞼下垂のナメクジみたいな目。銀のメガネフレームも当時のままだったよ。当時より前髪が後退してたけどな。路地裏に連れ込んでやろうと思ったけど、すげえ疲れた顔してた。魂入ってないんじゃねえかな。叩いたら空の音がしそうだ。俺はお前が死んだ後に仕事辞めたよ。その後も転職するまで時間かかったけどな。今はご覧の有様だ。思えばどうせ辞めるなるならアイツの顔に飛び膝蹴りでもいれてやれば良かったと思うんだが、あの時はお前も俺も酷く疲弊してたもんな。お前が死ぬのわかってれば、一緒に辞めようと手を引っ張るぐらいの余力ならあったんだがな。察しの悪い俺を許してくれ。お前の嫁さん未だに独身だぞ。新しい男1人も作ってないぞ。あんな良い女置いて何してんだよお前。馬鹿が。死ね。死んでんのか。幸せになって欲しいよな。ダラダラとのんびりお前の分まで生きるのが、お前への供養だと思ってるよ。

2021-01-24

鼻出しマスクと猫じゃらしの男

からマスクを出した増田を見てふと気が付いた。

私、よくマスクから鼻出してる。悪気はない。

自分でも何度も直してるのに、いつの間にか鼻が出ているのだ。

とても辛い。

原因について集中して自己観察したところ、これは猫じゃらしの呼吸のせいであった。

順を追って解説する。

私は鼻で呼吸をしない時がある。

気がつくと口が空いていて口で呼吸する。

鼻が潰れていて息が詰まるのだ。

口を半開きにして呼吸するはいいが、冬、マスクと言えど乾燥する。

すると口が乾く。

乾くと、良くないので、一度口を閉じて唾液ごっくんと湿らす。

そしてまた口を開けるのだ。するとどうなる。

髭だ。

髭がマスクに斜めに刺さっている。

こいつが猫じゃらしだ。

猫じゃらしを手で揉むとどうなる。

一方行に、にゅいんにゅいんするだろう。

マスクが呼吸の動作でにゅいんにゅいんと下がっていくのだ。

髭と、口呼吸の開閉でマスクから鼻が出るのだ。

ここまで無意識動作だ。身に染み付いていた歯車マスク可視化された。

喋ってる時もかなり頻繁にマスクポジション直してるの、同じ原因だった。

原因はわかったんだけど、対策はどうしたら良いだろう。

呼吸つらい。髭は剃ってるのに太い。こんな身体嫌だ。

開き直って、人とすれ違うまでは鼻出して歩いてる視線辛い。

みんなはどうなの。そんな苦悩ないの。

ふつうに鼻までマスクみんなしてて、羨ましいなぁ。

2020-12-27

自己診断ロマンスタイプさんに言いたいこと。

追記2020年3月7日

ロマンスタイプ普段敵意丸出しな方々は、一体何が何がそんなに気に食わないんでしょうか。

着飾らないと外に出られないロマンス悪口を言うのはやめてください。】

以前書いた記事が各所で反応いただけて、嬉しく思います

今回の記事自己診断ロマンスの方へ向けた記事です。

パーソナルデザインロマンスの人は、Twitterロマンスに憧れる人たちにウンザリしています

ロマンスタイプ勘違い美人の心の拠り所にするのは、やめてください。

ロマンスタイプかも?と言っている人たちのツイート毎日ますが、学生服で色気がすごいと言われるとか、すっぴんで色気があると言われるなど、色気色気と色気を魔法か何かと勘違いしていますが、すっぴん学生服で色気があると言われるのは間違いなくロマンスではありません。

ロマンスタイプは着飾らないと色気が出ないタイプです。

そこを理解していない人が多すぎます

ロマンスタイプは間違いなく幼少期から学生時代に得をするタイプではありません、むしろ損ばかりのタイプです。

ステージに上がるようなスターでもない限り、ロマンスタイプの装いにロマンスタイプが辿り着くことなんてありません。

さなぎ状態ロマンスタイプはゴージャスな巻き髪に華やかなメイク、大きなアクセサリーが似合うなんてことに気づけないし、気付いたとしても幼少期から学生時代に積み重なってきたファッションに関する嫌な思いのせいでそんな格好で気軽には出かけられません。

気づくことには、気づくこともあるでしょう。

巻き髪の方がわたしは素敵になるなぁ

だけどこんな張り切ったように見えるかもしれないものを身につけていいのかな?と不安が勝つんです。

かに背中を押されないと、出かけられません。

ロマンスタイプすっぴんは頼りなく弱々しい、とてもじゃないけど見れたもんじゃありません。

そんな弱々しいスッピン自分が華やかなものが似合うと気付いても自分から装備できるはずがないんですよ。

舐められるなんてことは日常茶飯事、痴漢にもあいやすく、コスメカウンターで何も買うものがないと落ち込んだり、会社制服リクルートスーツを着て頼りなく見える自分に苛立ったり、そういうのがロマンスタイプ日常なんです。

タイプを見ても嫉妬連続なんですよ。

キュートタイプ女性適当にインスタに乗っている服装メイクで垢抜けて、顔立ちはさほど良くない、むしろぐちゃっと崩れていても男性が好む軽さゆるさを出すことができる。女性の敵にはなりづらい外見なので、こちらが悪者にされる。

グレースタイプ女性正統派美人の装いが似合い、ロマンスタイプ自分はイロモノ美人タイプなのだ自覚し落ち込む。

ナチュラルタイプはまさに自分の憧れを体現したものだと感じ落ち込む。さりげないのが一番様になるのが、羨ましい。

ファッショナブルタイプは自立した女性であり、一人でも生きていけそうな強い雰囲気と、滅多なことがなければ舐められないところと、いくらでも際限なく盛りが通用するという点に憧れを持つ。

フェミニンタイプ言わずもがな雰囲気美人といった感じで、婚活服を毎日着ていれば正解かつ、雑誌なども豊富にあり美人百科の安い付録を身につけてもサマになるのだろう。

そして、自己診断ロマンスは、ロマンスタイプロマンス以外の装いをしたとき体験したことがないからこそ、色気があるからわたしロマンスタイプ!などという勘違い美人発言をしてしまうんです。

ロマンスタイプの診断は、色気があるとかプラスの側面からではなく、マイナスの側面から見るべきです。

キュートの装いをしてイタイ人に見られた。グレースの装いをして弱々しく見られ、舐められた。

フェミニンの装いをして、自分キモチワルイと感じ、似合わない。評判も悪い。

ナチュラルの装いなんて、お笑いです。部屋着ですよ。犬のお散歩さえ行けません。

スニーカーなんて似合わないもの、欲しくありません。

ロマンスタイプあるあるとして、自分大人の女性であるなんて全く想像もせず対極のボーイッシュものに憧れるというのも、自己診断ロマンスさんは知っておくべきではないでしょうか?

わたし大学入学したてのころ、miniという雑誌のような装いに憧れていました。

ざっくりしたパーカーニットを着て膝上スカートを履いてスニーカー、大きめのリュックを背負って跳ねるように歩くことに憧れていました。

髪型はもちろん前髪があるショート〜ボブ。

ニット帽なんかにも憧れていました。

メイクもごく薄く、爽やかで弾けるような笑顔に憧れていました。

ですがそんな装いをしている自分評価は散々でしたよ。

自分が何者かさえわからなくなるような不安に襲われました。

今は全く真逆の装いをしていますよ。

ロマンスタイプの蝶の状態の苦労は、正直書ききれません。

胸下まで伸ばしたロングヘアは手入れが面倒で、乾かすのにも時間がかかって巻かないで下ろしているとただのメイク中の人になります

メイクだけをしても綺麗にはなれません。髪を巻くまでがメイクです。

女神降臨という漫画イラスト共感しつつ、すっぴんはこんなに酷いのかと落ち込みます

化粧をしない顔を見たくないので、ギリギリまでメイクを落としません。

スポーツの場に行っても、スニーカー必須なので、スニーカーが似合うタイプ嫉妬します。

日中歩き回ってもロマンスタイプの服なんてほとんど見つけられませんよ。

ロマンスタイプウィンドウショッピングとは無縁とまでは言いませんが、あまり好きではない人が多いのでは?

日中歩き回ってあっちの店へ、こっちの店へ、なんてことが好きなのはキュートタイプですね。

通販で買う方がずっと早くて、安くて、似合うものが見つけられます

スニーカー必要な場面ってあれこれあるけど、結局正解はなんだか分からないんです。

スニーカーひとつでそんなに苦労したいですか?

毎日毎日髪を巻いて、下着姿が一番マシなんじゃないかと思うのは気分が良くないですよ。

化粧を落として部屋着に着替えてガッカリしたいですか?

自己診断ロマンスさんは色気にずいぶん憧れがあるようですが、そんなにいいものではありませんよ。

冒頭でも言いましたがロマンスタイプなんて結局着飾らないと色気が出ないイロモノなんです。

だいたい自己診断ロマンスの人が思い浮かべるロマンスタイプの装いをしたら種類はどうあれ、誰でもそれなりに色っぽく見えるはずです。

谷間を出したり、やたらとオーバーリップにしてみたり、目や口を半開きにしてみたり、舌を出してみたり、二の腕を出したり安いキャバクラのお姉さんのような服を着て、自分には色気があるからロマンスタイプだ!などとつぶやくのはやめませんか?

ロマンスタイプは影か光かと言えば影ですが、品がない方と一緒くたにされることは不快ですよ。

色気という言葉ロマンスタイプを表すのにぴったりですが、そのせいで何か自分勘違いした自己診断ロマンスさんが多くいることを非常に残念に思います

どのタイプでもいろんな方向で色気は出せるのですから、色気があるからロマンスタイプだという発言はいい加減やめてください。

2020-12-10

anond:20201210104456

賢い人というか表情筋がしゃんとしてて目が何かを捉えている人は一見すると整った印象を与えそう。

同じ顔面構造でもボケーっと口半開きにして目が虚ろで首傾いてたらだいぶ印象違う。

2020-10-24

anond:20201024124424

はい、学びました。

ところが相手によってはオープンクエスチョンで答えられないからとクローズドクエスチョンにすると、はいかいいえの確答をすることから逃げる人がいるんです。

オープンでもクローズでもない、半開きクエスチョンでも編み出す?

2020-10-23

バハムートが死んだ

知恵袋みたいにアンサーが欲しいわけでもなく、でも自分の思いを誰にも知られないのが寂しくて誰か一人でも自分気持ちを知ってもらえたら楽になれるかもしれないと思ってここに書く。

2歳6カ月のバハムートが死んだ。

バハムート平均寿命は2歳〜2歳半だといわれているので寿命を全うしたといわれればそうだし、良くこれまで生きてくれたと思う。

でもやっぱり1日でも長く生きて欲しかった。

予兆全然なかった。

もちろん、ゆったりとした変化は感じ取っていて、例えば回し車で遊ぶ時間は前よりも少なくなったし、起きている時間も前よりは少なくなった。

バハムートは別荘を所有していて、時々放してやった、飼ったことがある人は分かると思うのだが一度放すと中々出てきたがらない。

お家に戻すときにエサを囮にして別荘から呼び出すのだが、前は一直線にエサに飛びついていたのに、最近は時々エサとは別の方向に向かうこともあって、目が悪くなったか、もしくは脳の病気になっているのかもしれないな、と思うこともあった。

でもそれでも、食欲はモリモリだし、下痢したこともあったけど今はそれも治って、歳の割には元気でその日もいつものように別荘出せコール(ケージをガジガジ)をしていた。

それで時間が経っていつものようにエサを囮に呼び出しても全然出てこなくて、探ってみたら、別荘に行き着く寸前のところで固まっていた。

生きている間はあまりじっくりと触れることはしなかったけれど、それをよくよく触ってみると背中の右側が明らかに左側よりぼこっとしていて、腫瘍ができていたのかもしれないな、と思った。

しかし、知恵袋に書いてあるような、くるくる回ったり、歩きづらそうにしていたり、食欲がなかったり、そんなことは一切なく、元気なじじバハムートだった。

2歳6ヶ月まで生きたことは、普通に考えれば、長生きしたね、と言ってもらえる歳だと思う。

でも、何で今日この日に死んだのかが全然からない。

直前まで本当に元気で、いやもしかしたら元気じゃなかったのかもしれないけど、でもケージをかじる余裕はあって、今日もいつも通りの日常バハムートにも私にもあると信じていたと思う。

もっと分かりやすく何か症状が出ていたら、それなりに身構えることができたのかもしれない。余命宣告でもされていたら、もっと、何かができていたのかもしれない。

そんなこともなく、コロッと逝ってしまった。別荘の前で倒れていたから、ケージから放してすぐのことだったと思う。食いしばったような歯で片目は半開きで横たわっていたから、恐らく苦しんで死んでしまったのだと思うけれど、死ぬ間際までそれなりに元気でいてくれたことは良かったとは思う。

そんな風に、予兆なく逝ってしまうのと、別れを予期しながら徐々に逝ってしまうのとどっちがいいんだろうね。

バハムートにとってはいつ死んでもおかしくない年齢とはいえ、やっぱり1日でも長く生かしてあげたかった。

もし、その日その時間ケージからさなかったら死ななかったのかもしれない、その日は寒かったから、ちょっと早いけど暖房もつけていれば死ななかったのかもしれない、1週間前に掃除をしなかったら今日死ぬことはなかったのかもしれない、考えたくないけれど、その日のおやつにははが鮭をあげなかったら死ななかったのかもしれない (でも最後の晩餐が美味しそうに食べていた鮭で良かった) 。

それ以前に、病が原因で死んだとしても、何が分岐点今日死んだのか、分からいから辛い。

まだ、ケージは片付けていない。いつでも戻ってきていいんだよ、居場所はここにあるよ、寂しくないよ、って思っていることを伝えたいから。親から何か言われない限りは四十九日まではそのままにしておきたい。

でも、知恵袋によると、遺品をそのままにしておくとバハムート成仏できないらしい。そしてバハムートの魂は遺品に宿るわけではなく私たちの心の中に宿っているらしい。

そういう、成仏とか魂の話は、尖った言い方をすると生きている側のエゴであって、死んだ側には魂もクソもなく、死骸が腐敗して土に還るだけだと思うのだが、実際自分が大切にしていた人や動物が死んでしまうと、しっかり成仏して天国に行ってずっと美味しいものを食べてくれたらいいなと思うし、天国に飽きたら輪廻転生してこいよ、と願ってしまう。

残念ながら、成仏しようが魂が生まれ変わろうが、私の家にバハムートが戻ってくることはもう二度とないわけで、それはとても悲しい。しかし、バハムートに限らずそれは犬にも鳥にも親にも私にも必ずいつかはやってくることで、死は何も特別なことではない。そう分かってはいても、やはり死は悲しい。

私は今でもケージに向かってバハムートの名を呼ぶし、バハムート匂いを嗅ぎに別荘を覗くこともある。私とバハムート日常は変化し続けながらも、まだそこにある。

ハムスターが死んだ

知恵袋みたいにアンサーが欲しいわけでもなく、でも自分の思いを誰にも知られないのが寂しくて誰か一人でも自分気持ちを知ってもらえたら楽になれるかもしれないと思ってここに書く。

2歳6カ月のハムスターが死んだ。

ハムスター平均寿命は2歳〜2歳半だといわれているので寿命を全うしたといわれればそうだし、良くこれまで生きてくれたと思う。

でもやっぱり1日でも長く生きて欲しかった。

予兆全然なかった。

もちろん、ゆったりとした変化は感じ取っていて、例えば回し車で遊ぶ時間は前よりも少なくなったし、起きている時間も前よりは少なくなった。

ハムは別荘を所有していて、時々放してやった、飼ったことがある人は分かると思うのだが一度放すと中々出てきたがらない。

お家に戻すときにエサを囮にして別荘から呼び出すのだが、前は一直線にエサに飛びついていたのに、最近は時々エサとは別の方向に向かうこともあって、目が悪くなったか、もしくは脳の病気になっているのかもしれないな、と思うこともあった。

でもそれでも、食欲はモリモリだし、下痢したこともあったけど今はそれも治って、歳の割には元気でその日もいつものように別荘出せコール(ケージをガジガジ)をしていた。

それで時間が経っていつものようにエサを囮に呼び出しても全然出てこなくて、探ってみたら、別荘に行き着く寸前のところで固まっていた。

死んでいるとすぐに思った。こんなところで寝るはずがない。

触れるのが怖かった。冷たくなってしまったハムに触れてしまうのがとても怖かった。

生きている間こそあまりじっくりと触れることはしなかったけれど、冷たくなったハムを抱いてみると背中の右側が明らかに左側よりぼこっとしていて、腫瘍ができていたのかもしれないな、と思った。

しかし、知恵袋に書いてあるような、くるくる回ったり、歩きづらそうにしていたり、食欲がなかったり、そんなことは一切なく、元気なじじハムだった。

2歳6ヶ月まで生きたことは、普通に考えれば、長生きしたね、と言ってもらえる歳だと思う。

でも、何で今日この日に死んだのかが全然からない。

直前まで本当に元気で、いや元気じゃなかったのかもしれないけど、でもケージをかじる余裕はあって、今日もいつも通りの日常ハムスターにも私にもあると信じていたと思う。

もっと分かりやすく何か症状が出ていたら、それなりに身構えることができたのかもしれない。余命宣告でもされていたら、もっと、何かができていたのかもしれない。

そんなこともなく、コロッと逝ってしまった。別荘の前で倒れていたから、ケージから放してすぐのことだったと思う。食いしばったような歯で片目は半開きで横たわっていたから、恐らく苦しんで死んでしまったのだと思うけれど、死ぬ間際までそれなりに元気でいてくれたことは良かったとは思う。

そんな風に、予兆なく逝ってしまうのと、別れを予期しながら徐々に逝ってしまうのとどっちがいいんだろうね。

ハムにとってはいつ死んでもおかしくない年齢とはいえ、やっぱり1日でも長く生かしてあげたかった。

もし、その日その時間ケージからさなかったら死ななかったのかもしれない、ちょっと早いけど暖房もつけていれば死ななかったのかもしれない、考えたくないけれど、その日のおやつにははが鮭をあげなかったら死ななかったのかもしれない (でも最後の晩餐が美味しそうに食べていた鮭で良かった) 。

それ以前に、病が原因で死んだとしても、何が分岐点今日死んだのか、分からいから辛い。

まだ、ケージは片付けていない。いつでも戻ってきていいんだよ、居場所はここにあるよ、寂しくないよ、って思っていることを伝えたいから。親から何か言われない限りは四十九日まではそのままにしておきたい。

でも、知恵袋によると、遺品をそのままにしておくとハム成仏できないらしい。そしてハムの魂は遺品に宿るわけではなく私たちの心の中に宿っているらしい。

そういう、成仏とか魂の話は、尖った言い方をすると生きている側のエゴであって、死んだ側には魂もクソもなく、死骸が腐敗して土に還るだけだと思うのだが、いざ自分が大切にしていた人や動物が死んでしまうと、しっかり成仏して天国に行ってこいよ、天国でずっと美味しいものを食べてくれよ、天国に飽きたら輪廻転生してこいよ、と願ってしまう。

残念ながら、成仏しようが魂が生まれ変わろうが、私の家にハムが戻ってくることはもう二度とないわけで、それはとても悲しい。しかし、ハムに限らずそれはお家の犬にも鳥にも親にも私にも必ずいつかはやってくることで、死は何も特別なことではない。そう分かってはいても、やはり死は悲しい。

私は今でもケージに向かってハムの名を呼ぶし、ハム匂いを嗅ぎに別荘を覗くこともある。私とハム日常は変化し続けながらも、まだそこにある。

2020-09-16

祖母が死んだ。一昨日の日曜の夕方に。

去年の今ぐらいだったか脳梗塞をやって植物状態になってしまった祖母のお見舞いに行ったのは。節電廊下電気がついていなかったのもあって、白い、年数を感じさせる病棟内が西日に包まれていたのを覚えている。

病室に入ると今まで見たことがないほど痩せこけている祖母と、その口元には祖母の命を支える人工呼吸器。

人工呼吸器が空気を入れ込む度に強制的身体も「がくん」と動く。その半開きの目は、そんな身体の動きを介さず中空を見ている。

人が生かされているという姿を初めて見た。

既に何度かお見舞いに来ている両親はテキパキと必要ものを補充したり、祖母に声を掛けたりとしている中、自分はそんな祖母の横に佇むしかなく。まだ祖母は生きているというを実感を感じたくて、俺は祖母の手を両手で握った。「おばあちゃん」と何度か声を掛けた。何か少し、握り返してくる力があるような気がした。さらに、腕にも痙攣のように明らか目に見える動きがあった。父親曰く、たまに僅かながら動こくことはあるが、ここまで動くことは初めてだと。

それはただの不随意な痙攣なのか。そして、いやむしろそうであってほしい。本当に、そう心の底から思った。

俺はもはや震えていると言っていいその手を握り返すことしかできなく。

半開きの目は変わらず中空を見ている。が、それだけだ。

ある、間違いなくまだ意識がある。それが意識と呼べるものかはわからないが、少なくとも俺を認識している。それを表現する術がないだけであって。

どうしようもない辛さが自分をえぐる。せめて、せめておばあちゃんが楽になればと、憂いなく安心して眠れるようにと、俺は、僕は大丈夫から、と耳元で囁くことしかできなかった。

あれから何度かお見舞いに行ったが、あんなことが起こったのはあのときだけだった。

2020-08-25

anond:20200825223018

まず前提として、CERO-Aより性的描写が強いものは、公共広告としてはNGだと思うんだ。

ゲーム意図して避けられるけど公共空間はそれができないし、対象年齢も物心いたこからからね。ゲームより公共性が高いよ。

その辺注意していれば、「のうりん」の絵は修正対応必要だと気づけたんじゃないかなと思う。残念ながら世に出てしまったが。

次に、だいたいエロ認定される箇所ってある程度指摘されてるからこれをはじく。表情(下がり眉、紅潮した頬、半開きの口等)、胸元(谷間、横乳露出)、太もも露出)、股間(シワと線)

これである程度はじけるんじゃないかなと思ってる。


炎上して回収や撤去ってのは大変だから公共向け広告ではこの対応した方がいいんじゃないかなと思ってる。これらを対応しても、千歌ちゃんの魅力は描けているからね。

2020-08-14

ビデオ通話してるとさ

無意識自分顔面他人顔面比べちゃってテンション下がる。あと、通信環境が悪くて画面が固まった時に口半開きで白目向いてる不細工顔面見られてると思ったら泣けてきた。友人の顔は静止しても綺麗なのにな。

2020-08-13

anond:20200813220012

いや、「アニメ表現に慣れていない」は俺の仮説ではあるんだが、

そんなにアニメとか見てない層は、やはりちょっとエロ漫画っぽく感じてしまったようだ。

その後自分マーケもの感受性の違いが気になって調べたんだが、第一弾とエロ漫画手法は近いんだよな。

エロ表情の描き方とかで調べたんだが(何やってるんだ俺・・・)困り眉、目を潤ませる、頬の紅潮とツヤ、半開きの眉、等の描き方があって、第一弾はこれと近い。

エロく見せる手法が含まれているので、エロニュアンスがどうしても漂ってしまうんだろうな、というのが俺の仮説。

から、この辺の手法を避ければwin-winじゃないかなと思ったよ。

どうしてもこっそりエロニュアンスをしのばせたい場合win-winにはならないが。

2020-06-11

死んだ猫の重みを知る人へ

 この世界人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である

 数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。


 この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに分けられる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である

 どんな記憶忘却可能性を含んでいて、それがいか尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである

 とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるものだ。例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類だ。

 これから話す記憶は――意外だと思われる人もいるかも知れないが――恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は(少なくとも僕にとっては)、一度忘れしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要記憶ではないということになる。

 あるいは、死んだ猫の重みを人生最後まで引きずっていく人もいるのかもしれないけれど、僕がこの世界からいなくなる時に、多分、死んだ猫の記憶は僕の傍にはいない。


 人生というのはタフなもので、多くの場合予断を許さない。例えば、猫は前触れなく死んでしまう。そこに救済は存在しない。

 猫は突然死ぬ

 重要命題である

 だからこそ、我々はタフにならなければならない。タフな(きつい)人生に耐える為には、我々自身精神的にタフにならなければならないのである

 して、タフな人生を生き延びるために重要資質とは何だろうか?

 僕が思うに、恐らくそれは一種判断能力である。つまり重要もの重要でないもの区別する為の判断能力である

 この世界において、重要もの重要でないもの比較すれば、前者は圧倒的に少なく、後者は圧倒的に多い。これは考えるまでもなく当然のことである重要ものが我々の前に際限なく溢れ返っているのであれば、我々の人生もっと救済に満ちたものになる筈だからだ。でも、現にそうなってはいない。人生における重要事物は泥の中の砂金と同じである。それは、恐らくは多くの人が感じていることだろうと思う。

 そう、我々が人生を全うする為にもっと重要能力は、数少ない重要物事出会った際に、その重要出来事を迷わず掴み取る能力なのである

 タフな人生を本当に生き切る人間に備わっている素質は、恐らくはそれだ。彼らは汚泥の中の砂金を迷わず掴み取り、幸運の女神の前髪を毟り取らんばかりに握る。僕も、そういう人間になろうと日々心掛けてきた。この世界に溢れ返る物事の中に、ほんの僅かに存在している、かけがえのない事柄。あるいは、溢れ返る人々の中に存在している、かけがえのない人々。そういう人(もの)に出逢えば、できるだけそれを失わまいとしてきた。

 人物だけではない。記憶に関しても同様の態度を取ってきた。

 我々の心の中には無数の記憶存在している。その多くは、断言するに無意味記憶に過ぎない。病院記憶体育館記憶商店街記憶――はっきり言って、その殆ど無駄記憶だ。重要記憶というものは一握りしか存在していない。

 我々の人生には限りがある、その限られた人生の中で、無意味記憶無意味な情愛を注ぐことだけは避けなければならない。情愛を注ぐべき人を選び、情愛を注ぐべき記憶を選別すること――自分にとって重要ものを、重要でないものの中から選び抜くこと――それが本当に大切なことなのだ。だから、我々は、警戒しなければならない。一見重要であるように装っておきながら、実際には全く我々の人生無意味事物……そういうものへの執着を捨てなければならないのである

 書いていて思うが、幾分このような視点には屈折の気配がある。勿論、それは自分でも分かっている。でも、やはり我々の人生は貴重なものであり、貴重でないものと触れ合うことで、その輝きを鈍らせる必要はない――そういう視点が一抹の正しさを備えていることも、また事実なのだ

 はっきり言おう。

 これから語る記憶は、決して僕の人生重要ものではない。むしろ、どうでもいいものなのだと。

 

 大した記憶ではない。

 道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。

 その肉体の損傷は一見して分からなかったが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っていた。既に絶命していた。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの運転手ゆっくりと車を走らせていた。つまり道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。

 猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉運動はとっくに停止している。

 僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を自転車に乗って通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見ていた。

 通り過ぎる。

 川沿いの道を走り、こじんまりとしたアパートに辿り着く。駐輪場自転車を停め、アパートの裏手へと回り込むと、階段を上った。

 階段を上る度に、カンカンと乾いた金属音がこだまし、やがて僕は二階の自室の前へと辿り着いていた。

 鍵を開け、扉を開け、自室へと体を滑り込ませる。

 薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。

 猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートル距離があって、僕はあらゆる意味当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。

 再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートル距離時間はそれほど掛からず、辿り着いた時にも猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。

 僕は歩道自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に轢かれる心配のない路端へと引きずった。

 そう、引きずったのである

 抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。猫の頭部がごろりと動いた。

 猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレン手袋に付着した。

 そこには愛情は無い。僕の人生残留するべき温かい思念というもの存在していない。

 だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミング忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。

 僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである

 猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである

 ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。

 僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。

 初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路中間辺りから続く夥しい血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、たまに、盗み見るように視線を向けた。本来当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。

 やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。

 彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。


 やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車だった。

 この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフ二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。

 僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレン手袋を処理した後で、日常ルーチンへと戻っていった。


 多分、この記憶は僕の人生残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が死んだ猫の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。

 しかし、それはあくま一般的な教訓に限っての話だ。僕個人の、個人的な教訓に関しては、少しばかりはあるかもしれない。


 多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタルな――欠くことのできないほど重要な――部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情記憶であり、誰かから愛情記憶である

 そういうものを欠くと、我々のバイタルな部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。

 とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。

 これまで僕が延々と語ったこ記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。

 でも、と思うのだ。

 この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。

 記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者記憶の方が圧倒的に多い。この世界殆ど記憶後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。

 それでも、と僕は思う

 その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。

 僕の記憶の中で息をしている。

 猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。

 多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。

 僕が猫のことを忘れ去るその時を。

 じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。

2020-06-10

死んだ猫の重みを知る人へ

 この世界人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である

 数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。


 この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに大別できる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である

 記憶というもの原理的に忘却可能性を含んでいて、それがどんな尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるのだ。

 例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類の記憶だ。

 これから話す記憶は、恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は、恐らくは一度忘れしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要記憶ではないということになる。


 タフな人生を生きようとする人間功罪の常で、僕は重要記憶とそうでない記憶峻別することができる。多くの場合その判断は極めて正確だ。

 僕は自分にとって重要物事とそうでない物事を多くの場合峻別できると思っているし、何よりも、自分にとって重要人間とそうでない人間峻別できると思っている。そこが功罪なのである人間自分にとって重要人間とそうでない人間並置し、比較し、時に冷徹判断する。いざという時に切り捨てることのできる人物と、そうでない人物を頭の中の整理棚に分類する傾向がある。とは言え僕は冷酷な人間を自認してる訳ではなくて、基本的に分け隔てなく親切に接することをモットーにしてるのだけれど。それでも、自分にとって大切な人物とそうでない人物は分けて考えなくてはならないと考えている。

 さて、そんなこんなでこ記憶は恐らく僕の人生においてそこまで重要記憶ではないと、僕ははっきりと峻別している。


 大した記憶ではない。道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。

 その肉体の損傷は一見して分からないが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っている。既に絶命している。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの車はゆっくりと車を走らせていた。つまり道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。

 猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉運動はとっくに停止している。

 僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見た。

 さて、帰宅する。薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。

 猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートル距離があって、僕はあらゆる意味当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。

 再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートル距離時間はそれほど掛からず、辿り着いた時には猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。

 僕は歩道自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に引かれる心配のない路端へと引きずった。

 そう、引きずったのである

 抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。

 猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレン手袋に付着した。

 そこには愛情は無い。僕の人生残留するべき温かい思念というもの存在していない。

 だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミング忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。

 僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである

 猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである

 ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。

 僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。

 初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路中間辺りから続く血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、偶に、盗み見るように視線を向けた。本来当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。

 やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。

 彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。


 やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車であった。

 この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフ二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。

 僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレン手袋を処理した後で、日常ルーチンに戻っていった。


 多分、この記憶は僕の人生残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が猫の死体の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。

 しかし僕自身にとっては多少の教訓と呼ぶべきものはある(どっちだよ)。


 多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタル部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情記憶であり、誰かから愛情記憶である

 そういうものを欠くと、我々のバイタル部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。

 とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。

 これまで僕が延々と語ったこ記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。

 でも、と思うのだ。

 この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。

 記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者記憶の方が圧倒的に多い。この世界殆ど記憶後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。

 それでも、と僕は思う

 その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。

 僕の記憶の中で息をしている。

 猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。

 多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。

 僕が猫のことを忘れ去るその時を。

 じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。

2020-05-19

チー牛式・快適怒られ術

チー牛のみなさん、ごきげんよう今日ヘイトを集めているかね?

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さていきなりだが、本日はぼくの開発した「怒られ術」を伝授しよう。これは多くのチー牛を救う為の知恵であり、社会での試合の為の必須スキルであると、ぼくは考えているからだ。

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なぜチー牛向けなのかというと、無能なあまり週6で怒られが発生する(休日出勤があるなら週7)弱そうなオタクは、皆判を押したようにチー牛だがらだ。そしてそういう無能は、同じく無能だがイキり上手なハゲにしばしば標的にされるからだ。

.........

予め言っておくが、この手法をまともな人相手にやらないように。彼らの叱責は中身を伴う実に有益な内容の物が多いからだ。そういう時は大人しく耳を傾け、糧にしよう。一方で自身無能を棚に上げてイキりたいだけのハゲに対しては、なるべく相手の怒りを空回らせ、自分は無傷で済むように立ち回ろう。どうせ無駄時間を取らされるのなら、少しでも楽しんだ方が得なのだ

........

ステップ1:姿勢を正そう

叱られている人間として正しい姿勢はある。となれば、イキられている時の正しい姿勢も当然ながらある。このステップでは、相手の怒りを増幅させるのに最適な姿勢を伝授しよう。

ポイントは表情と声のトーンだ。顔の力は極力抜き、口は半開きにする事。難しければ、意識して口呼吸を行い、上の歯と下の歯がまったく接触しない様にしてみよう。かなり効果的な表情になるはずだ。

目は相手の目を一切見ないようにし、少し俯こう。目を合わせると「抵抗意思あり」と判断される。

声のトーン、つまり相手質問に答える時は、喉に力を入れて小声で答える。この表情とトーンでイキられ体勢は完成だ。「なあ、話聞いてんのか?」とか、「はっきり喋れよ」と言った常套句相手から発せられるのも時間問題だろう。運が良ければ、声を荒げてくれるかもしれない。そうなれば、もうこっちのものだ。

.......

ステップ2:質問をし、意味不明言い訳をしよう

ここからはやや高等なイキられになる。相手のこ問いかけに対しては「つまり、こういう事ですか?」と、一聞するも筋の通った、しか不適切解釈を述べる。ステップ1の姿勢と併せて最大限の頭の悪さをアピールする。

すると相手はどう思うか?「イージーすぎてクソゲーだわ」と、動かないCPU相手格ゲーをやっている気分になる。ここで更なるイキりを見せてくるようなら、完成だ。そうなればその勢いは既に度を過ぎたものになっているだろう。おっと、ポケットレコーダー最後までオンにしておく様に!無抵抗の者を攻撃する事はジュネーブ

2020-01-21

昼の風呂

仕事に行かず、まっさらな浴槽にたっぷり湯を張って入る風呂は最高にきもちいい。

当然、風呂のフタは脱衣所に出してしまう。 普段半開き状態で入るが、こういう日は別。

どぶりと浸かって、溢れる湯も気にしない。

2019-12-15

彼女ができないやつにありがちなこと

髪型モッサリ・眉毛ボーボー・唇カッサカサ・眼鏡レンズ汚れすぎ・チェックのシャツミリタリーテイストコート・薄汚れた靴・服にポケットが多い・口が半開き猫背反り腰・ガニ股・独り言・爪を噛む・ウォレットチェーン・トートバッグ・常時イヤホン(ヘッドホン)付けてる・全身黒・爪を噛む癖

思いついたら追加するよ。言及してくれたやつも追加していく。

2019-11-19

anond:20191118235356

ペットボトルなら、口半開きにして下唇にボトルの口置いてちょっとずつ流し込む

俺この飲み方だから、歩きながら飲めない

2019-07-05

軽い知的障害者に道を訊かれた。気持ち悪かった。

軽い知的障害者に道を訊かれた。

スマートフォンでお店のサイトに出てる地図を見せられて、「ここに行きたいんです」って。

まぁ歩いて1分の所だから普通に説明した。

何を見ているのかわからない虚ろで半開きの眼。

黒々とした鼻毛が何本も出てる鼻。

気持ち悪かった。

みんなも障害者まれそうになったらちゃん中絶しような。

2019-06-22

イエローハットCMが怖い

全身イエローで顔がない人たちがうじゃうじゃと出てきて怖い。こっちに向かって手招きしたりガン飛ばしあったり、挙げ句の果てにはうじゃうじゃ踊りだしたりして怖い。太った人もいれば痩せてる人もいて、限りなく人間に近い容姿をしているのに顔だけはのっぺらしてて不気味で怖い。

それなのに金髪おかっぱの女の子達だけはちゃん人間容姿をしていて笑顔を振りまいていて、周りの全身イエローとは明らかに一線を画して存在していて、アンバランス世界観が怖い。ネオン眩しいビルが密集している謎の空間にだだっ広いステージがあって、近未来のような過去のような既視感があるようで無いような感覚になって怖い。


一番怖いのは中盤で、女の子達が一続きになったタイヤをでかい包丁のような物でカットしているシーン。こちらに気付いた女の子たちが一瞬ニヤって笑ったときの表情が怖い。特に、左側の女の子が「あ、見ちゃったんだ…」と言いたげな冷たい目と半開きの口をしていて怖い。

CMの冒頭からの流れを思い出すと、このCMは1人称視点での映像となっていて、きっとこのイエローティに迷い込んだ人間を描いているのだと思う。

道を見失ったこ人物はおぼつかない足取りで周りをキョロキョロ見渡しながら歩いた。不思議人達が道を闊歩している。途中ではタイヤカットする女の子達を見かけた。女の子達は不敵な笑みを浮かべていたが、その意味は分からなかったのでとにかく道を進んだ。たどり着いた広いホールのような場所爆音が響く中、全身イエロー達はノリノリで踊っていた。圧倒されながらも、ふとステージに目をやると先ほどの女の子達がいた。おかしい、女の子はい自分を追い越していったのだろう。まあいいか、このリズムに身を任せてみよう。ああとても楽しいいつまでも踊っていたい、いつまでも

そして、……。

イエローティに迷い込んだが最後、帰ることは出来ない。イエローティから出てくるのは店舗へ送られるタイヤのみであるタイヤ製造方法社員さえも知らない。そして今日イエローティへ迷い込む人間が一人……。(おわり)

マジでこれ考えてたら眠れなくなってきた。

2019-06-13

ダイエット中で色々健康に気をつけた食事したらなんか顔がはっきりしてきた

これがむくみがとれたってやつかな〜と思って油断して昨日サッポロ一番塩ラーメン半分だけ作って食べた

今日は目が半開き

2019-06-05

anond:20190605221938

ちっちゃいヘアブラシ100均のでいい)で

髪とかとかしてあげたりしたら、

反応割と良くなるよ(うちの母の場合ですが)

半開きの眼が、ぱちっと開いたりする。

頑張ってください。

2019-03-05

俺が山本一郎を嫌いな理由

彼のプロフ画像半開きになってるでしょ。

あの締まりのないアホヅラ見てゾッとするの。

画像変えてくれないかな。

2019-01-29

今日あった面白い出来事

会社からの帰り道なんだけど、バスに乗っててさ。バス降りるときに、俺の他にもう一人降りる人がいたんですよ。

なんかその人急いでるみたいで、降りたら走って行っちゃったんだけど、背負ってるリュックの口が半開きだったみたいで。走った拍子でリュックから物が落ちていくわけよ。まずバスを降りてすぐ手帳みたいなのを落としたね。でもその人、気づかずに走っていくんだわ。そんで10mくらい先でスマホ落としたの。これも気づかないんだな。さらに走って今度はペットボトル落としたんだけど、それには気づいてさ、ようやくリュックの口開いてるの分かったみたいで、ペットボトル拾って、リュックに入れて、口しっかり締めて、で走って行ったんだわ。

いや、手帳スマホも落としてるからwww

しょうがいから俺は、手帳スマホを拾わずに、その人を追いかけることもなく家に帰ってきたってわけ。

いやいや、他人ちょっとした不幸は面白いね。

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