はてなキーワード: りあんとは
もう復帰なので記録用に供養供養
育休中、4人の0歳児ママのグループが出来た。でもそのうちの1人のママがすごく変わった子で、ポエムのような長文相談をグループラインに連投してきたかと思ったら途端に「人付き合いがしんどい」と何も返って来なくなるようなママだった。そしてそのママはとうとう「もう子育てがしんどいから全部ベビーシッターに頼むことにした」と言って一切あらゆるオモテの場に出てこなくなった。グループや子の年齢が違う色んなママ達が「あのママちゃん最近どちらに...?」とおそるおそる話題に出していたから、少なくとも地域のあらゆる遊び場のどこからも本当にいなくなってしまったようだった。
というわけで実質前述のママが抜けて3人になったけど、増田はこんなところにこんなことを書く性格の女なのでゆっくりとハブられていった。そもそも残り2人のママは増田と違ってとっても綺麗めでインスタやってて、夫婦ともに大企業勤めで、若い頃からゴルフとか山登りとかするタイプで、休日は外車に乗って家族と海に行くタイプのママ達だったので元々増田とは畑が違った。だがその2人のママが児童館で口パクで「あとで」とか言って示し合わせてたり、買い物に出かけたらそのママ達が明らかにどこかで遊んで帰って来たのと鉢合わせたりするのが辛かった。小学生の時の友達がいなかった頃を思い出した。
病みそうだったので思い切って他のグループに移ろう!となりあんまり喋ったことないママたちと交流をすることにした。そしたら意外とすんなり入れて(って増田が思ってるだけかもしれないが...)もらえて、それこそおうち遊びしたりキッズランドみたいなところ行ったりといった新しいママグループに入ることが出来た。なんならこの慣らし保育中も子どもを慣らしている間にこのママ達だけで遊びに行くくらいの仲にはなった。もちろんこれからどうなるか分からないが。
話は少し戻って新しいグループに慣れ始めたころ、増田が元々いたグループのママ2人は本当可愛くてキラキラしてたので、新しいグループのママの一部からあのママ達とも遊んでみたいという声があった。が、ツテが実質増田しかなかったので、増田ちゃん経由で聞いてみても〜...みたいなことを言われることがあった。しかし忙しいみたいで〜...とかこのタイミングだとかえって迷惑かな〜...とか言って連絡をやんわり断り続けた。どうして自分をハブった人たちに新しい人間関係を紹介しないといけないのか。しかもどうせ仲良くなったらまた増田のことをハブるのだろう。みんなして。と思い頑なにグループ同士を繋げようとはしなかった。
そしてなんやかんや新しいグループで大きな遊び場に行くことになり、ピクニックしよう!とレジャーシートとお弁当を持って喜び勇んで行った。そうしたら、本当にたまたまなのだが、いたのである。2人ママのうちの1人だけが!子どもと遊んでいたのである!新グループのママたちはあ、どうしよ、声かける?でもお弁当とかね...とソワソワしていた。増田は多分すごくキラキラした顔で「声かけてみよ!」と言ったんじゃないかと思う。
少し遠くから「ママちゃ〜ん!」と声をかけた。自分1人、子1人で遊んでいて刺激のない時間だったのだろう、増田の呼びかけにぱっと顔を上げて子どもとともにこちらに来た。そして増田が1人だけではなくて集団でいることに気付いた。「みんな偶然?(ここに来たら会えたの?の意だと思う)」と聞かれたので「ううん、みんなでピクニックしよって言ってて!」と返した。少し声のトーンが下がって「あ、そうなんだ」と返ってきた。お弁当ある?一緒に食べない?と聞いたが何も持ってないし帰るね、と少しだけ遊ばせてからママは帰った。
キラキラママなので増田ごときにこんな普段やってることのカウンターをかまされてもまったくダメージにはなってない可能性の方が高いと思うが、増田は、増田はとんでもなくスッキリした。性格悪過ぎるが本当に心がスーッとした。強烈なコンプレックスはもう仕方のないことなので横に置いておいて、1回くらい、そして2人ともは無理だろうけど1人くらい、あなたたちが2人でキャッキャしてる時の増田が1人でいる時の気持ちを味わって欲しかった。前述の通りダメージになってないなら別に攻撃にすらなってないので何ともだが、増田は溜飲が下がった。
今はその2人のママのうち1人は今年に入ってから旦那さんの転勤が決まり、保育園も同じところが決まっていたが内定を蹴って遠くへ引っ越していった。餞別の菓子折りは渡した。もう1人のママも個人ラインをする仲では無いので4月以降の現状は知らないのだが、最後に遊び場で会った時に引っ越しを検討しているから保育園の内定を蹴ったと言っていて、本当に入園式にもいなかったので向こう数年以内にはこのあたりからはいなくなるのだろう。別に変に仲良くしなくて良いママ達だったってことか。と少し徒労だったなと思った。
最後に、いくつになっても小学校5年生みたいな人間関係とエゴの中で生きている母でゴメンよ我が子。オモテでは絶対上手にやっていくからね。絶対ね。
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押す側の人はわかると思うんだけど、車椅子ってちょっとぶつかっただけで超痛い。
だから押す側はだいぶ神経使う。重いし。
繊細な人なんだなとか思われるかもしれないが、身内は人並に大雑把で人並に優しく人並に理不尽な人だ。
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例えば、人混みを通らなければならないとき。
介助者の自分は当然「すみません」って声をかけて通るんだけど、
乗ってる側としては「何で謝らなきゃならないんだ」って悲しくなるらしい。
そんなことで?ただの声かけじゃない?と思った。
大体人混み通るときって健常者だって「すみませーん」ぐらい言うし。
で、よくよく話を聞いてみると、そもそも「頭を下げないと道も通れないことが悲しい」というような旨を言う。
それは意味が違うと思うけどなあ…と思い、
そのときは「SorryじゃなくてPardonの意味だから、受け取り方が違うよ!」と慰めた。
そういうことを言う人でもなかったので、何となく引っ掛かりを覚えた。
よくよく考え、「そういう風に考えてしまう」こと自体が、身内の内情を表している、そんな気がした。
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金銭的に依存したいとか、恋愛的に依存したいとかは健全じゃないながらあると思うが、
『身体を動かす点において依存したい』という人間は、多分いない。だって不便じゃん。
最初は周囲に助けられてなんとかなるかもしんないけど、それがずっと、死ぬまで続くなら本当に毎日毎日うんざりすると思う。
周囲だって、毎日毎日世話することに疲れてくると思う。そう考えちゃうのも、周囲を信用できていないみたいでいやだし。
でも車椅子の人って実際こうなんだろうなと。
傲慢な人だとか、人を使役することに慣れている人なら、「でも俺は動けないし」で済むかもしれない。
本当~に一般の、どこにでもいる普通の人が突然そんな状況に置かれ始めたら、段々だんだん「申し訳ないな…」って気持ちになるのは必然な気がする。
「自分の要求のために絶対人が動かなきゃならない」が毎日毎日、この先もずっと…って考えたら、しんどくなるわそりゃ。
つまり、身内の中に蓄積された「また頼ってしまった」「また助けて貰ってしまった」という無力さと、
「それに対して自分が返せるものが何もない」という良心の呵責、周囲が自分をどう思っているかへの不安、
それらが蓄積した結果、「何で謝らなきゃならないんだ…」という最初の言動そのものになってるのかなと思った。
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いや、これはマジでよくない。と思った自分は「もっと外に出て元気でいて欲しいな」と安易に考えた。
だってずっと家にいるってことは、やっぱり生活に彩りがなくなるし、体力も筋力も落ちてくる。
これって、人によっては段々生きる気力が減退する場合もあるし、ネガティブになることも多くなると思う。
外に出て沢山刺激があった方が、色んなことが塗り替えられるじゃない。
でも、それも難しいんだよね、車椅子だとさ…。
だから多目的トイレを探さなきゃならない。で、もし使用されてたら使用が終わるまで待たなきゃならない。
車椅子用トイレが使用中で、仕方なく待つことはある。大体お仲間だったり、赤ちゃんだったりする。
ただ、10分後ぐらいに水を流す音もせず、ばっちりメイク決めたJKが出てくると流石にムッとする。
いや確かに多目的だけれども…苛つく気持ちは理性では抑えられない。
もしかしたら彼女も何か抱えているのかもしれないので口汚く言いたくはない。
かもしれないが…しれないが…しかし…世の中には多目的トイレでセックスをするアホもいたりするからな…。
健常者なら、許容できる範囲かもしれない。だってそんな苛立ちも抱えず他のトイレに行けば済むのだ。
車椅子の人だって介助者だって別に、自分に関係なければ許せるかもしれない。
そういうありもしない未来・過去がそのたびに去来し空しくなる。
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他の例だと、地方の美術館では2階に行けないこともあったし、砂利道はガタガタしすぎて危ないから通れないこともある。
外出の選択肢として楽なのはアウトレット。舗装されてるし広いから一人当たりの占有面積もゆったり。でも数は限られてるし場所によっては早々行けない。
海辺の砂浜なんて車輪がもたれるから絶対だめだ。山を登ることも、ハイキングもできない。
エスカレーターも階段も使えないから常にエレベーターを探さなければならない。
エレベーターって意外と辺鄙なところにあるから、実際探し当てるまでもかなり大変な目に遭ったりする。
一度エレベーター縛りで移動してみると、面白いと思う。それをこの先ずっと続けるとなると辟易だと思うが。
見つけたとしても、必ずしも乗れるわけではない。混んでたりするからね。
降りて譲ってくれる優しい人がいると、この先この人に今の五万倍の幸せがあるといいな!と思う。有難いことこの上ない。
実際バリアフリーは沢山あるし、色んな公的機関では配慮されてることが多い。
障害者オンリーの観覧日を設けてくれる美術館などは本当に助かる。
若ければ車椅子サッカーとかバスケとか、そういった活動もあるかもしれないが、年をとるとインドアなことしかできなくなるので。
とんでもない角度の段差の補助?だったりすると「あーっ惜しいですね」となってスルーせざるを得ない。
エレベーター行くのに遠回りしなきゃいけなかったりするし。まあ、仕方ないんだけどね。やってくれるだけ有難い。
(この「やってくれるだけ有難い」も、身内の「何で謝らなきゃいけないんだ」の一部だとは思うが…)
施設は、入場料がいらなかったり、半額になったりする。
でもまあそれは「平等なサービスを受けられないことによる減額」なのかもなと思う。
美術館だと照明が反射して、絵がよく見れなかったりする。健常者と見る位置が違うから。
コンサートなら車椅子用の席は固定で、「可も不可もない中間よりちょっと遠い席」が普通かも。
たまに逆にえらい良い席なときもあるけど。最後尾があたる可能性もないが、最前席があたる可能性はない。
本人は車椅子に乗ったまま、介助者の自分はパイプ椅子…なんてこともあった。
クラシックコンサートだったが、ずっと尻が痛かった。ちゃんとした席が横にあるんだからそっちにして欲しかったなあと思ったけど、まあ仕方がない。
「尻が痛かった…」と少し溢すと、申し訳なさそうな顔をされて「しまった」と思ったりする。
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マジで行ける分いいと思うのだ。行ける分良い。でも、ざっと書いただけでもこれだけ大変なことがある。
自分が車椅子だったらと考えると、そりゃ外出たくないよなって思う。
望んだわけでもないのに、同じサービスが受けられない。周りに迷惑だと思われているし、介助者にも迷惑がかかる。遠回りさせる。自分がいるから存分に楽しめなかったりする。そもそも、自分の行動や欲求に付き合わせている。
そういった事実によって生まれた葛藤が『何で謝らなきゃならないんだ』、ひいては『何でいちいち感謝しないといけないんだ』になるのは、わからんでもない。
そういう立場を体験していない自分が、その感情を否定することはできない。
ただ「しょうがないよね」って茶を濁して共感することしかできない。無力だなあと思う。
身内の気持ちは身内にしかわからないから、ここまで考えているか感じているか実際は知らないけど、まあ大外れではないと思う。
当初は「そんなことで?」と困惑した自分も、もう肯定するほかないなと思ってる。
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社会に生きる人間は良くも悪くも社会にある程度迎合しなきゃならないというのが個人的な持論。
人間は全員が「違う」から。違うから、お互いを譲歩し適切な距離を保って、険悪にならない距離でコミュニケーションをとる。
これは最近のトランスジェンダー関係の話でもそうなのかなと思う。
自分のすべて受け入れてほしい!と思うなら、そういう社会に行くか、新しく作るしかないんじゃないだろうか。
平和に生きてる人たちを脅かしてまで自分を押し通したいと思う人と、手を取り合いたいなんて思わないだろう。
だからまあ、身内の心情に心をいためつつも仕方ないよな、なんて思う自分もいて、
なんていうか…罪悪感じゃないけど、申し訳なさを感じたりもする。
色々人生楽しめるものを用意できるよう、無理じゃない程度にやっていきたい。
無理させてると思わせるのが一番、本人にもよくないと思うので。
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そういうわけで(?)
車椅子を押す側として思うのは、優しく見守ってくれる人がたくさんいてくれればいいなと思う。
助けてくれなくたっていい、通り過ぎたって全然良い。
舌打ちしたり、からかったり、邪魔になることはしないでくれれば。
こんなん、健常者でも当然のマナーだと思うんで、改めて言うのも変な話だけど。
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おまけ
テレビの某野外音楽フェス特集を見て「一回ぐらい行きたかったなぁ」と言われた時は「それは…無理だな…」と思った。
「そりゃ車椅子なんだから無理でしょ」って当然のように言う人はいると思う。
いや無理なんだよ。そりゃそう。無理なの。物理的に。
確かに頑張れば行けるかもしんないけど。知らないけど、配慮もされてると思う。
でも立ち見の音楽フェスに行くというハードルがそもそも高い。そこに行くまでの道程のハードルも高い。
立ち見だから見るとしても多分後ろの方でしっとり見るしかない。車椅子にぶつかると怪我させちゃうだろうし。
そういったリスクをひっくるめて考えて「無理」となる。勿論フェスを非難してるわけではない。
「金がないから無理」とか「忙しいから無理」とかと違って、「車椅子だから無理」は本人にはどう努力もできない「無理」だ。
介助人としては軽く「え!行きたいなら頑張るよ!」なんて返したりするけど、身内は難しいことを知ってるから、何も言わずに首を横に振る。
こんな無力なこと、ある?
自分はまあ行こうと思えばいつでも行ける。
身内はこの先あの景色を体験することはないんだ。と思ったら無性に悲しくなった。
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初めてガラケー持ち始めた時から出会い系サイトみたいなものは山程あって、よく捨てアド使っておっさん釣って遊んだりしてた。書き込みするだけでとんでもなくキモいメールたくさんきて面白かったけど、出会い系ってこんな感じなんだなーって思ってた。
SNSもそんなに整備が進んでなくて、出会い厨なんてワードもあったくらいネットを通じて出会うことがそこまでポジティブに捉えられてなかったし、上記のこともあってやっぱりあんま良い印象もなかった。オフ会とかもしたけど、数年ボイスチャットしながらゲームしてやっと会うくらいの感じ。ネット絡みの事件とかも割と取り上げられてたしね。
そのまま歳とって、スマホが普及してきてマッチングアプリが登場した。
要するに出会い系サイトやん、どうなるんかなーって思ったけど結局クソ流行った。なんなら今の時代の主流ですらある。時代のニーズに刺さってるんだろうけど、ずっと違和感がある。
ガラケー知らないような下の世代が受け入れてるのはまあわかるんだけど、同じ時代を過ごしてた世代がどっぷりハマってるのがわからん。
特に女性。たかがペラ一枚の自己紹介しかない知らん奴に会うって抵抗ないんかな?それが本当かもわからんのに。ちゃんとした企業が運営してるからとかいう問題なんだろうか。
Twitterで じーっと人を見る人の話を見かけた
あと 車を運転中の人が 歩いてる人に声を掛けた不審者情報が大袈裟だと
自分は 10代前半のころから広場恐怖症(人の目線が怖い、公共交通機関が怖い、1人で外出するのが苦手)で苦しんできたけど 小学生の頃からこういった不審者やじーっと見る人の目線のせいで悪化したんだと思う
自分の住む地域は 前回も書いた通り可燃ごみを持ち去る異常者や 子供への声掛け 露出狂 大声をあげながらつきまとう 注射器が落ちてたり(それは特定の1人だけど)なんとなく治安が悪く
なにも教わってこなかった子供だったので 子供ながらの自衛で生きてきたけど 露出狂や夜道で一方通行を逆走するバンに並走されたり 大声をあげながらつきまとわれたり 通学途中では当時では援助交際おじさんが金額を言いながら付き纏ってくるし 通学もしんどくなって諦めてコロナ禍を経て広場恐怖症が悪化して 心療内科へ駆け込んだ
自分の親も前回書いた通りあんぽんたんなので 心療内科=薬漬けにされる!みたいな考えだったのか ただ通院させるのがめんどくさいのか いままで歯医者以外親に病院に連れてってもらった記憶がないので 純粋に病院という施設が嫌いなのか知らないけど 医療ネグレクト系親だったので 貴重な10代後半 今までを過ごしてきたなと
画像が貼れる匿名掲示板のふたば☆ちゃんねるが最近ちゃんと殺害予告してるレスが被害者の目に留まって警察に被害届が出たりあんまり動かない管理人が通報した報告とかしてるらしい
増田でなんか書こうと思ってたらちょうど1年前くらいにも同じこと書いてた
https://anond.hatelabo.jp/20220908012728
1年経っても特に状況は良くならず、むしろ悪いところは更に悪化してんじゃないのと、まぁなんとなくわかってたけど
5ちゃんもXとか他のSNSも荒らしや改悪が続いて人が離れたり何だりで次の居場所探しではてなやふたばに流れた人も居そう、いい人だけじゃなく悪い人も
俳優兼インフルエンサー、技術者、消防士、スタントマン、トラック運転手、
様々な業種の人が猫とのふれあいで癒され、生きる糧と語られている。
猫の愛らしさにほのぼのしていると、冒頭のインタビューで「猫を飼う男性は変わっていると思われがちだ」と語られまず驚く。
その後も「友だちに猫を飼おうと思うんだ」と相談すると「ありえない!」と言われ
「猫が好きっていうことも、人に話すことはなかった」と語る人、
あるカップルは猫好きが高じてパートナーになったが女性が語ったのは
「猫が好きで一緒でもいいという男性を見つけるのは難しい」ということだった。
この映画は猫を飼い始めてから夫が猫を愛し、より柔らかく、思いやりのある人に変わったのをみて
同じようにポジティブな変化をした人の記録を残したいというところから始まったそうな。
猫は犬のように懐かない、という固定観念から猫の多様性を知り、
弱音を吐いては「男らしくない」という呪縛から解かれた人たちのストーリーだった。
というカルチャーショックを感じつつも、観ている方も猫に癒される良い映画だった。
映画の軸になっている路上生活者デヴィッドとラッキーという猫が波乱万丈で
彼の支援者から、こういう人が居ると連絡があったが既に撮影に入っており迷っていたが
映画では2022年までの情報しか得られず、その後がどうなっているのか気になる形で終わっているのだけど
監督は度々連絡を取っているらしく、2週間前に連絡した今も元気でやっているということもきけました。
良かった。
直接聞けて面白かった話がもう一つ。
ゴロゴロ音に並々ならぬこだわりを感じる……と思っていたら、録音・編集担当もした監督の夫が
「撮影中はやっぱり難しかったので、うちの猫のゴロゴロを録って編集をね、しました」って
流暢な日本語で話してて笑ってしまった。その話して大丈夫なのか?と思っていたが
些細な感想でもRTしていた公式アカウントが、この内容を含めた感想ツイートには
いいねだけしていたので、やっぱりあんまり言っちゃいけない事だったのかもしれない。
それにしても、「猫が好き」も言えないレベルだったとはなあ。