はてなキーワード: プラネテスとは
野尻さんが言うように現実側が弱いのなら、それをカバーするためにデブリ解説本を出してほしい。
実害をもたらす相手に、これを読め、と投げ返せるような。
幸村さんにも協力してもらって、「物理的に正しいプラネテス」とか書下ろしを付けたら、プラネテスファンにとってもプラスな事だろうし。後日談でもいいからさ。
何とかこのムカつく出来事が、「昔こんなことあったよね」と笑い話になるように、これがきっかけで宇宙開発への理解が広まったと言えるように。
広島から北海道の上十二滝村に(ドライバー一人、)二泊三日で往復するというエピソードが、激しく煽ってくるんだよね。もともとリアリティはない話ではあるんだけど、幻想や酔った時の夢みたいなタイプの虚構から「都合のいいウソ」タイプにチェンジしてしまう。
「私、寝ないでも大丈夫なんで」という台詞も「大丈夫じゃないだろ」と。イラっとするわけは「若い女性なのにプロフェッショナルであるという誇りを持っている。自負だけでなく実力がある」という設定が飛んでしまうから。
徹夜明けで作業すると、そのとき注意力は、アルコールを何グラム摂取したのと同程度に低下する、という研究があったはず。
『竜とそばかす』の高知>武蔵小杉/世田谷も気になったが(ただし往復ではなく片道)、あの劇場が広島でなくせめて福島や北関東・長野だったら、ぐっと飲み込めたかもしれないのに。
ざっくり10年以上前、大学の時、プラネテスをおもくそ元ネタにしてスペースデブリの軍事転用ってネタで卒論かこうとしてた
結局書かなかったけど
そもそも当時はスペースデブリの論文もあんまなくて調査がほとんど進まなかった気がするんだよな
今思うとはずかしい
ってことを思い出したわふひい
プラネテスとか餡のとか慣性力のちゃちい動きだけを正確に描写するんじゃなくて曲をとめてサーーーーってホワイトノイズだけ流すやつをなんでやってくれないんやろなぁと思ってる
例えば
アニメ『プラネテス』は一生の財産にもなりうる作品だ Eテレでの再放送開始に寄せて
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/realsound.jp/movie/2022/01/post-942340.html
いきなり悪いところからかきだしてる
ちょっと前「メタバース」を10年前に予知していた!なんて盛り上がってたんだが
それって当時流行ってた「セカンドライフ」を取り上げただけだった
元JAXA職員と一緒にプラネテスを殴る→元JAXA職員、よく見たらホリエモンの一派じゃん!→ホリエモンのツイートに賛同→なんだポジショントークかよ→元JAXA職員炎上
だからもうプラネテス叩きからフェーズが元JAXA職員叩きに移ってる
なんかよく分からん古い講演会のビラだけど、たしかに九大の教授さんがプラネテスに触れてるね
「マンガで話題!」とかキャッチーで掴みに使いやすいからデブリ関係の研究者でプラネテスに触れる人は多かっただろうね
http://www.kyoei-ele.com/information/news/2013/20130116-2/file/2.pdf
全裸監督と新聞記者は言い逃れできないほど個人を対象とした上でその個人を蔑ろにしてるから問題なんだよ
詳しくは調べてもらえればと思うが、クリエーター目線として気になるのは
何らかの創作をする上で「○○をさせたい」「こういうストーリーにしたい」という思いから科学的事実を無視したとき
専門家や有識者から受ける批判をどう打ち返すべきか、もしくは創作に対する「科学的事実と異なる」「リアリティーがない」という評論や「評論者自身のビジネスに弊害をもたらしている」というコメントにどう心構えしておけばいいかだ。
おそらくタイトルだけ読んだ人は「いやそもそも向き合う必要はない」「そんなツッコミをする人間はこちらからお断りだ! 対象者じゃないんで見なくて結構!」「そんなの自分で考えろバーカ」と言っておけばいいと書き捨てるとは思うが、
創作をする上で専門家や有識者に届いてしまうのがコンテンツ、ひいては情報社会の常でもあるので、そこは抜きにして考えてみたい。
考えてみたいとは言ったものの、前向きに言い返そうとすると労力がかかる。創作に対する批判は古代から行われているはずであり、19世紀以降の○○主義(忘れた)や「テクスト論」のような「作者」と「読者」の関係とか
読書論というような話を持ち込めば、前向きな議論は可能だろう。だが、クリエイターはいちいちそんなことで議論する暇はない。その余暇時間は創作のための知識を学ぶか、創作に当てたいものだ。そこで無視するという心構えだ。
また専門家や有識者が創作を否定するとき、たいていのケースで専門家や有識者はその創作が描くジャンルで飯を食っている可能性が高い。こうした煽りやプロレスを仕掛けることで自分たちのビジネスの知名度を高めたり、
例えば創作物を否定したりした後で謝罪、和解の形に持っていくことで関係性を築き、自分たちのビジネスに引き入れるというような選択肢も取れるだろう。こうした面倒事を回避するなら「無視する」は優秀な選択肢の一つになる。
とはいえ、無視するのはどうだろう?と考える人もいるだろう。少し考えてたが、結局はこの一言に尽きてしまうのではないかと考えられる。創作、とりわけプラネテスのようなSFは科学的事実と演出を織り交ぜたフィクションなのだから、
ウソだとか間違ってるとかそういう批判はちょっと知らないなという答え方だ。これは手塚治虫がブラックジャックの描写について東大医学生から批判を受けたときに似たようなコメントを残している。
本作には、医学的リアリティと大胆なフィクションが並存しているが、これは医学的事実よりも物語性を優先した、手塚の作劇術の一環である。異星人やミイラ、幽霊、感情と自我を持つコンピュータを手術するなどという突飛な設定の話も存在する。架空の病気も登場したほか、ブラックジャックやピノコの医学的設定も現代の医療技術を超越している。ブラックジャックがスターシステムで登場する別作品『ミッドナイト』では、ブラックジャック本人に人間の脳交換手術について「その様な事は漫画だから可能だ」と言わせている。手塚治虫自らが語る所によると、当時東大医学部の学生から嘘を書くなと抗議の手紙をもらったとの事である。それに対して手塚は、東大生ともあろうものが、漫画に嘘があることすら知らないのかとコメントしている。
また今回話題になった評論に対してプラネテスの原作者も同様にウソですよとコメントしている。まさに模範解答といえるだろう。
(もう少し踏み込んで書こうとすればそもそも「創作とは何か」とかプラネテスの件に合わせて考えると「SFとは何か」(19世紀ごろの宗教と科学の歴史を振り返るところから始まると思われる)のだが、それは大変面倒なので割愛する)
初心者向け、中級者向けにもちょっと納得できない人にオススメしたいのが「そもそも世の中の9割は弊害である」という「スタージョンの法則」の応用だ。
スタージョンの法則はSF作家が大学の先生から「やっぱりSFってクソでしょ?」という疑問をぶつけられたときの返しで「そもそも世の中の9割はクソだ」と答えたものから作られた。
「最低の作例を引っ張り出しては叩く」という悪意の攻撃に対して、自分から直接反撃しているのだ。90%のSF作品をゴミカス扱いするのと同じ基準を用いれば、映画、文学、消費材などその他あらゆるものの90%も同様にゴミである。
言葉を変えれば、「SFの90%がカスだ」という主張ないし事実のもつ情報量はゼロである。なぜならば、SFは他の芸術/技術の産物と同様の質的傾向を示しているに過ぎないからである
現代において創作は媒体を通じて消費者に届けられる。創作それ自体もこのプロセスも結局はビジネスの質的傾向を示しているのに過ぎないのだから「創作したものがビジネスの弊害になっているというが、
そもそも世の中の9割はあなたのビジネスにとって弊害でしょ」という正論で攻撃し返すのである。
上級者向けを利用した場合は大変面倒なことになると思うので一般的には初級・中級の心構えでいくべきだとは思うが、出るところは出るべきなので最終手段として上級者向けの考え方を知っておくと良さそうだ。