はてなキーワード: 環境権とは
憲法の自由権規定(大まかにいうと10条〜40条)は基本的には「国家が制限できない権利」を規定していて、そこに規定してある権利を制限する立法や行政手続は違憲無効になる。
で、確かに憲法に書かれていない権利は憲法上保障されていない(法律で制限できる)のだけど、13条が広く抽象的なので、明示的に書かれていないものでも「憲法制定当時は気付いてなかったけどこれも制限されちゃまずいよね」っていう権利はだいたい13条で保障されてることにする。
だから、現在直接に環境権を保障してるのは建築基準法とか工場法とか各種の個別の法律だけども、もし仮にそういう法律を改正して住宅街のど真ん中に石炭工場を建てても良くなるような規定に変わったら、その規定変更が13条違反で違憲無効だったり家の隣の工場の建築確認が13条違反で違憲無効だったりする。
このように憲法の自由権規定は、制限を禁止する効果だから、憲法で保障されていない行為も、法律で禁止されていない限りは自由(法律を勉強したことのない人がよく「愚行権」という俗語を使うやつ。)。
たとえば憲法24条についていえば、結婚に両性の合意以外の条件(たとえば戸主の同意とか民族の同一とか)を設けて結婚を制限する法律は違憲無効。なので、たとえ結婚に戸主の同意を必要とする法律があってもそれは違憲無効なので戸主の同意無しで結婚できる。
他方で、両性の同意のみという条件内の制限立法は可能なので、同意したら婚姻届を出せっていう手続き要件を課すのは合憲とされている。
そういうわけで、大抵の憲法の教科書は24条を紹介する際に「のみに基いて」の部分を太字にして上記のような説明を加えて、「両性の」の部分についてはいちいち気にしてなかった。
「婚姻はXのみにおいて成立する」とあるとき、婚姻はX以外の要素、つまり
・「両性」とは異性同士を示すという憲法解釈のもと、同性同士の合意
によっては「成立しない」。ここまでは分かる。
で、この「成立しない」は「憲法上保障されていない」(立法裁量に委ねられている)と「憲法上禁止されている」(立法裁量は無い)のどっちなの?
もっと言うと、憲法によって言及されていないものは「憲法上保障されていない」(立法裁量に委ねられている)と「憲法上禁止されている」(立法裁量は無い)のどっちなの?
環境権どうするの?
自由主義増田とかいう適当なこと書いてるやつが900user超えててビビるわ。
しかも好意的な反応がほとんど。マジで?はてブの知性やばない?
Twitterでも消極的自由・積極的自由についてさも前から知ってましたみたいな体で誤った知識を語りだすやつが増えてて笑える。
お前ら騙されすぎで本当不安になるよ。
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そもそも、今回の件は消極的自由・積極的自由の議論と関係がない。
消極的自由というのはつまるところ自由権(=国家からの自由)のことで、積極的自由は社会権(=国家による自由)のことだ。ここはもう1回Wikipediaでも読んでくれ。
察しのいい方はこの言い替えだけで先のエントリの違和感に気づくかもしれない。
バーリンは国家と個人の自由との関係を論じているのであって、個人間の自由が衝突しているのをどのように調整するかという議論である今回の件とは全く別問題。
「表現する自由」と「それを見たくない自由」は、どちらかを優先すればどちらかが損なわれるというトレードオフの関係性だ。
一方、自由主義増田が例示しているような「六本木から強制排除されない自由」と「六本木に住むための補助金を受ける自由」って別に衝突していないしトレードオフの関係じゃない。
強制移住させずに住む自由を保証しても、補助金は出せるでしょ。実際出すかはともかく。
(というか、この例示も「消極的自由が優先される」という結論を印象づけるために恣意的に選ばれていて卑怯だよね。強制移住させられて居住の自由が直接侵害されるような状況だと補助金が重要じゃないのは当たり前。)
誤読マンが多いのも、自由主義増田が国家対個人の自由なのか個人間の自由対自由なのかを混同して意味分からんこと書いているから仕方がない。
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ちなみに、消極的自由が積極的自由に優先されるのが現代の自由主義の主流なんてことはなく、この点でも間違っている。
自由権と社会権は両輪であり、一方を欠けば他方も真には達成されない。また、教育を受ける権利と教育の自由など、どちらにも峻別できない権利もあるし、環境権などのどちらの特色も持った新しい人権も出てきている。
こうしたことから、現在では、この2つをある程度区別することに意義はあるが、厳格な峻別が不可能だし両方重要だよねってのが一般的な学説。
バーリンの主張では、当初他者からの強制や干渉のみを消極的自由の欠如としていたが、貧困などの手段や能力の欠如といった積極的自由の要素も含むことになった。こういう点でも当然批判も多い。
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自由主義増田の主張に従えば、献血ポスターが仮に適法的に作成されたヌードやAVだって問題ないということになる。
なぜなら、今回の宇崎ちゃんの表現者の自由とそれを見たくない人の自由と、より過激な表現の場合の、表現者の自由とそれを見たくない人の自由とに法益の差がないから。
「よほどの理由がない限り」消極的自由は制限されない世界で、見ない自由・子どもに見せない自由はよほどの理由じゃないらしいので、表現をより過激にしたところで条件は同じだ。
でも、実際のところそれでよしという人はおそらくほとんどいないだろう。
結局、国家による表現の自由が保証されている中で、どのような表現までならOKかというのは、市民の中で議論して線引きを決めていくしかない。
なお、私見を述べれば、今回のポスターは、場にふさわしくない程度に性的ではあるが、セクハラというほどではないと思うので、全く問題ないとも絶対にありえないという意見も持てない。
ポスターに反対しないという意味では自由主義増田と同じ立場だが、元増田のような健全な(=暴力的ではない)批判を誤った原則論で封殺してしまう自由主義増田は、むしろ悪貨であると言わざるを得ない。
http://mainichi.jp/articles/20160419/k00/00m/040/009000c
この記事では、全国世論調査で「近所に保育園ができるのを迷惑だと思うか」という質問に対し、「迷惑だと思わない」という回答が86%を占め、一方で「迷惑だと思う」という回答が6%にとどまったことをうけて、「保育園を『迷惑施設』と考える人は少数派」と結論付けています。
最初に断っておくと、単純に数字だけの比較でいえば、保育園迷惑派が全体に対する少数派であることは客観的に明らかであると言えます。しかしながら、この質問は、保育園が実際に近所にある状態を経験している人/したことのある人と、そうでない人では結果の絵姿は変わってくるだろうと思うのです。
では、保育園が近所にある状態を経験している人々は、全国にどの程度存在するのでしょうか。簡単な分析をしてみました。
保育園が近所にあることにより、何らかの不利益をこうむる場合、保育園ができることは迷惑であるということになります。ここでは、この不利益を、子どもの声・お遊戯の音楽等による騒音に的を絞って考えます。
資料1によれば、日常生活で「静かだ」と感じるのは45db(デシベル)以下とされています。対して、「うるさい」と感じられるのは、60~70dbを超えたあたりです。70dbはどのくらいかというと、騒々しい街頭やピアノの音にたとえられていますから、保育園の騒音はだいたいこの程度のものと考えておくと良いかと思います。また、同資料による「音の距離減衰」をみると、70dbの音源からだいたい50mほど離れれば、静かだとされる45db以下におさまることがわかります。騒音防止法の規定により、そもそも保育園で何らかの防音対策を試みているものと考えられますが、ここでその対策を無視すると、少なくとも保育園から半径50mの範囲内では騒音による何らかの影響を受けやすいと考えることができます。本分析では、多めに見積もって保育園から半径100m(約0.03平方キロ)の範囲を「保育園が近所にある」状態と考えることにします。
資料2(厚労省の調査)によれば、全国に公営・私営を含めた保育所は22,992件あります。
日本の人口(およそ1億3千万人)を総面積(およそ38万平方キロ)で割った人口密度(約340人/平方キロ)に0.03平方キロをかけると半径100mあたりの人口(10.18人)が算定できます。
これに日本の保育所数を乗ずると、保育所の近所にいる人口は約23万人となります。これを日本の人口に対する割合で示すと約0.18%となります。
この計算では、保育所を新設するにあたり十分なスペースを確保できる(つまり、実質的に保育所の騒音影響が無視できる)いわゆる過疎地についても考慮に入れてしまっているため、上と同じ計算を密集地域である東京都+指定都市(※)に限定して行った場合、保育所の近所にいる人口は約91万人と計算できます。これを日本の人口にたいする割合で示すと約0.7%(当該地域の人口比に対する割合は約2%)となります。こちらのほうがより実態に近い数字と言えるでしょう。
簡単な四則演算に基づいたもので、実際の数値とは乖離が認められると思いますが、それでも当初言及した「保育所が近所にある状態を経験している人々」は、どれだけ多く見積もっても日本の人口に対してたかだか一桁パーセントでしかないことがわかります。保育所に類する存在である幼稚園を含めても、一桁パーセントからそこまで大きなずれはなさそうです。
6%の内訳を知り得ない以上、保育所の近所に住んだことのある人の多くが保育所の迷惑さを感じていると簡単に結論づけることはできませんし、それが本エントリーの趣旨というわけでもありません。しかしながら、「迷惑たりうる事象を経験した可能性のある人口」が全体の数パーセントである限り、この世論調査はほとんど意味をなさないのではないかと思います。
そもそも環境権(騒音から守られる権利を含む)は国民の権利としてひとしく認められるものであり、多数決的に解決されるものではありません。保育所を迷惑がり建設に反対する人々のなかには、もちろんノイジーマイノリティというか、理不尽に声を荒げるような人もいるにはいると思います。その一方で本当に保育所の存在、騒音に対する無対策が特定の人々に身体的・心理的な苦しみを与えうる可能性は排除できません。こういった人々が存在する限り、保育所を望む人々がいるからといって何らの検討なく設立してよいという結論にはなりません。(もちろん、逆に保育所をこれ以上増やすべきではないという結論もあってはなりません。)
権利と権利の対立は、そう容易な善悪対立として解決できるものではないので、メディアの中の人は地に足つけてじっくりとものを考えて、慎重な報道をしてほしいです。
資料1: http://www.toho-seiki.com/info04_e.htm
資料2: 平成26年社会福祉施設等調査http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&listID=000001141016&disp=Other&requestSender=dsearch
※「指定都市」の定義は資料2に基づくもの(札幌、仙台、さいたま、千葉、横浜、川崎、相模原、新潟、静岡、浜松、名古屋、京都、大阪、堺、神戸、岡山、広島、北九州、福岡、熊本)。
住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数調査 2014年
ない。なぜなら刑罰権の主体は国家だから。犯罪者には刑罰を受ける「義務」はある。増田がみずから俺を罰しろということはできない。大赦/恩赦を受刑者側で拒絶することもできない。
誰か憲法13条の幸福追求権を持ち出すかもしれない。確かに同条は国民が各々の幸福を追求する権利を一般的に認めている。環境権やプライバシー権などの憲法上規定のない新しい権利が同条から導かれていることは周知の通りだ。増田にとって死刑を科されることが幸福追求における不可欠の条件であるならば同条の射程内に入るのではないか。そのような立論も不可能ではない。だが監獄における喫煙や中学校における髪型の事例に見られるように、わが裁判所は個人的趣味嗜好を法的保護に値する利益と認めることに消極的である。増田は玉置勉強でも読んで一人わが身を慰めるのが相当であると解する。