はてなキーワード: 人生いろいろとは
色々間違ってる。
増田はナンパに引っかかるのはロクでもないメンヘラだけだと思ってるかもしれないけど、そんなことはない。
そりゃ即日セックスするなんてのはメンヘラが多いけど、普通に連絡先聞いて連絡取り合って~みたいなのは普通の人も多い。
自分の嫌いな世界にはロクでもない人間しか存在してはいけないって辺りが増田の狭量さを物語ってる。
そんで、いいセックスってのはananのセックス特集についてくる女用AVみたいなラブラブセックスかと思ってんのかもしれないけど、それも間違い。
後腐れない相手と一夜限りの変態セックスが好きな男もいるんだよ。
で、更に言うと自分の日常と近いコミュニティの中でだけ人間関係つくるってのは意外とリスクあるし、嫌いな人も多いんだよ。
それにナンパ師が社会的な地位がなくて、ニートでチビデブ禿短小包茎だけかって言うとそんなこともない。
普通に働いてる人も多いし、そういう人は周りにコミュニティなんてあるけど、敢えてナンパをしている。その意味がわかってない。
そして何より、いい年した男が同性の友達つくるのって、コミュニティに入って女紹介してもらってーみたいな打算じゃないんだよ。
良く分かってない世界を妄想して他人を見下して、少ない見識と妄想で作り上げた理想を他人に押し付けて悦に浸るのはなんだかなあ。
岡山県倉敷市の女児(11)が監禁され、5日後に保護された事件で、逮捕された岡山市北区の無職藤原武容疑者(49)は、大学院で哲学を学び、研究者を志した寡黙な青年だった。監禁容疑での逮捕から26日で1週間。県警は未成年者略取容疑での立件に向けて、事件の全容解明を進める。
「カントを愛している」
約20年前、大阪大学大学院の博士課程で倫理学を専攻していた藤原容疑者は、研究室の宴席で同窓生にこう打ち明けた。寡黙で勉強熱心。青春時代の藤原容疑者を知る人たちの印象は似通う。交友関係は少なく、存在感は薄かった。
地元の私立高校を出て、一浪して法政大学に進学。その後、ドイツの哲学者カントに心酔し、大学院の研究室で研究者を志した。
だが、学問の壁に突き当たる。学友が順調に助手や教職に就き始める中、1人だけ就職先が見つからなかった。ある同窓生は「進路が決まらず焦っていた。気まずかったのか、周りに気づかれないように単位取得退学した」と話す。1995年ごろのことだ。
大学院を退学した後は、家庭教師などの職を転々としていたようだ。96年~99年ごろは、大阪府内の公立中学校で夜間に校内を見回る宿直員として働き、宿直室で寝泊まりしていた。
同じ時期に勤務した男性教諭は「岩波書店の難しそうな本を黙々と読んでいた。無口だが愛想がよく、先生や生徒とあいさつを交わしていた」と話す。休日の電話番を引き受け、部活動の早朝練習に来る生徒のために、早起きして校門を開けていたという。
親族らによると、藤原容疑者は30歳のころに結婚したが、すぐに離婚した。今年初めごろまでの約10年間は、兵庫県西宮市に住んでいたという。築32年の4階建てアパート。家賃3万円の1階6畳一間。コインランドリーで洗濯する藤原容疑者を、複数の住民が見ていた。ある住民は「平日の昼過ぎで、仕事をしていない人だと思った」と話す。
暮らしぶりには不明な点が多く、岡山市の実家に戻ってからも人付き合いはほとんどなかった。ただ、洋室のリフォーム代や母親の介護費用などは工面できていたようだ。逮捕後に名乗った職業はイラストレーター。小学生くらいの女の子を描いたA4サイズの絵を見せられた人もいる。
女も「レディ」みたいな扱いに憧れるような前時代的な了見は捨てていくべきだ。
レディは封建時代の可哀想な幼稚な(幼稚で居ることしか許されなかった)女だ。
「愛され」とか馬鹿なこといつまで言ってるんだ。
レディが幼稚さしか選択肢がなかった可哀想な女性だったのかどうかはさておき、
脱愛され系目指す流れはホント欲しい。
なんかこう、被保護対象ポジの価値が過剰に高すぎてついていけない。
と思う反面、
男女どうこうとかあんま関係ない部分で、いわゆる「おごられ上手」的なスキル磨いておかないと今後は死ぬかもしれない気がする。
個人的におごられんの苦手なんだよね。自分で自分のケツも拭けないみたいじゃん。
でも人生いろいろあるわけだし、「気分良くおごらせてくれる相手」が必要な日だってあるじゃん。
いい大学のリア充とかそこらへんすごい洗練されてるんだよね。「おごられつつ媚びずしかしフォローも完璧」的で何かこう最強。
「自分は相手を必要としつつ、相手からも必要とされてる」的なあの感覚を人にもたらすのがすごく上手い。
そういうの見てるとケツ拭きとか単なる意地じゃね? そんな安いプライド捨てれば? みたいな気分になりながら、
いや安かろうと高かろうとそれがオノレなりの自己評価であり価値観であって
いわば組み上がった立体パズルのピースみたいなもんだからそんなあっさり捨てるべきじゃねーよ、と我にかえったりして面倒くさい。
10数年悩まされていた胃炎が治ったので誰かの参考になるかと思い筆を置く。
タイトル通りだが。
俺は大学卒業後にIT関連業種に就職した。IT関連だけあって半端なくストレスが溜まるところだった。食べることで発散していたのだが、案の定、俺は激太りしてしまった。2年で20キロは太っただろう。周りでも就職してから急激に太るか、ガリガリに痩せるかした人が多かったので、こういう経験をしている人はいるのではと思う。
ある日に飲み会の写真を友達にもらい、フグのように膨れた自分の顔にショックを受け、それをきっかけにダイエットを始めた。ダイエットの方法は人それぞれ、人生いろいろダイエット法もいろいろ、ここでは詳細は省略する。たまたま俺は上手く痩せ、太る前の体型に戻った。
ここまでは単なるダイエット自慢だ。所がジョージ、面白いことにダイエットの前後で劇的に変わったことがあった。
前者は変わってないだろくそが。いやそれはいいとして後者の胃炎は小学校低学年のころから悩まされていたので本当に助かった。
これが治ったのだから俺は神の奇跡を感じずにはいられない。本音を言えば神の奇跡でもなく俺が神だっただけだが。勿体ぶらずに治った方法を教えろ、だと?いや教えてくださいだと?教えてくださいお願いしますだろ!まあそんなことはどうでもいい。
さて、本当ところダイエット中に俺は自分の性格に合わせた食事の量を減らすための工夫をしていた。これはちょっとした腹八分目のためのほんのささいな工夫の積み重ね。せっかくここまで読んでくれた増田読者のためにも具体例を挙げてよう。
具体例とは言え製品名は避けた。勧めたい製品があるが、味覚や食感、予算は人それぞれだ、どれかが合わないだけで辞めてしまうのを危惧したので避けた。宣伝と思われ胡散臭くなるのも嫌だしな。要望があればまた別の機会に書く。
とにかく食の量を減らして胃炎はなくなったし、腹が減って飯は上手いしいいことずくめだったよ。
追記
これだけで痩せたわけではないし、これはあくまで食事量を減らした方法だけであるので注意してくれ。後は仕事のストレスが解消できればいいのだが。山岡さんは何だったのか。
それが誠実さってことだと思う。
だけどそれがbullshitの引き金になったりして。
最初はこの文章、さよならディスコミュニケーション、さよならフランクファート
そして、こんにちわ「人それぞれ」
そう書きだしてみるつもりだった。
だけどちょっと気が変わった。フランクファート読んだことなかったから読んでみることにした。
いくら衒学趣味でもちょっとくらいは真面目なところを見せたのだ。
フランクファートはアメリカの道徳哲学やってる人なんだけど、日本語訳されてるのは、on bullshitって本だけ。
邦訳は、ウンコな議論。
これは僕の独断。本文中では、おためごかしって言葉が使われてたりするけど、これはちょっと一般的じゃないだろう。
翻訳者の山形浩生は、ウンコな議論の具体例として、小泉元首相の、「人生いろいろ」という発言を例にあげている。
ウンコな議論は嘘を言っているわけじゃない。
ここで最初に戻るんだけど、「人それぞれ」もそうなんだ。
嘘を言っているわけじゃない。確かに人それぞれだ。
だけどそれは解答の放棄だ。
正解が何種類あるかはわからないにしても、全ての人が正しいってことはないだろう。
相対主義(つまり、人それぞれってこと)は何も生み出さない。
衝突も、議論も、止揚も、向上も、疑問さえも。
勿論それは日常生活をスムーズに送る上では必要なことなんだけど。
だけどその考えがウンコな議論を必要としない場にも入り込んでくるんだ。それはよくない。
言語は思考を規定する。それがビッグ・ブラザーがニュースピークを作った理由だ。
つまり、自由と言う概念が存在しなければ、人は自由について考えることをしない。
もし仮に誰かが自由について話したとしても、他の人はそれを理解できない。
ウンコな議論だってそうなんだ。ウンコな議論と真の議論を見分けられなければ、ある出来事に対して適切な理解をすることが難しくなるんだ。
ウンコな議論に慣れ過ぎていると、真の議論は乱暴で粗野なものに見えてしまうんだ。
大事なことは二つ。ウンコな議論かどうかを見分けること。
関係ないけど、ちょっと前にテレビで放送されてた保健のCMで、生まれたての赤ちゃんが会話をするヤツがあった。
それが、すごい嫌いだった。見ててムカついた。
一方の赤ちゃんが「これからの人生いろいろな事を自分で取り組んで、政治をも変えたい!」と野望を語るんだが、もう一方の赤ちゃんは「そういうのは政治家にまかせようよ・・・プロにまかせとけばいいって」みたいな冷めた意見をいって野望を語る赤ちゃんをバカにする。最後「保健の事は保健のプロにまかせましょう」みたいなCMなんだけど、すごい危険だと思った。
なにが危険って、国という単位が、いかに脆いかを認識できていない現代の日本人をまさに描いたようなCMだったから。
このCMにおける、オーディエンスというか、多数派として支えられてる、もしくは支持されるだろうと想定されてる意見の姿ってのは「キバって夢をかたるより、政治とかはプロの人に全部まかせて、ボクらは地道に生きていければそれでいいじゃん」という、なんとも投げやりで他力本願なもの。
国、政治に働きかけたり、なにかを自ら変えようっていう意志を嘲笑う、野望を持って暑苦しく語る事そのものを毛嫌いするCM内容だった。
でも、そういう事をあざ笑って見下す態度をとるのって、非常に危険。
危機意識をまるで持たず、プロなんだからって肩書に全てをまかせてればそれでいいじゃん、自分は関係ない。みたいなスタンスがわけわからん。自分が関係なくないから。確実にそういうスタンスで見過ごされてきた政治的な悪行で国が傾いてる。
でも、それは政治的なレベルだけじゃなくて、家を建てる時でも、髪の毛を切る時でも「相手がプロなんだから」って全部を投げ出してまかせるわけがない。自分で細部まで確認しないと信用おけないよ?ってのは、学ばないといけない基本なんじゃないの。人を疑うって事。
年金だって、明らかに破綻してるのに、いわば「国に詐欺をされた」って認識を政党に持っている人間がどのくらいいるかっていうと、かなり居ないと思う。
キレイな社会を目指すけど、こころの中では社会を疑ってるのが本来あるべき姿で、今定着してる汚い社会を認知してるけど、心の中では社会を信じてるようなスタンスは非常に危険。
家族が自ら命を絶った。
その知らせをうけて、病院に行った。
事実上亡くなっているということは聞かされているが、
親族が死亡確認をしないといけないという。
そうしなくてはいけないと理屈では分かっていることでも、警察も医師も冷酷だ。
一番その事実を受け入れたくない人に、それを確認させるのだから。
法律的なこと以外にも、それが現実と向き合うために必要なステップだという理屈もわかるけど、
最も近しい人にあの役回りをさせるは酷だと思う。
ベッドに寝かされていた足が見えたときの絶叫が、なかなか耳から離れない。
こういう瞬間にどう振る舞えるか、
ショックに打ちひしがれ、悲しみと不安にくれている大事な人にどんな言葉をかけてあげられるか。
こういうところで、これまでの人生で積み重ねてきたことが試されるんだなと、そんなことを思った。
だが、気のきいた言葉は1つもでてこなかった。
いくつかの文章が浮かんだが、そんな言葉では誰も守ることができそうになかった。
この場で発することができるのは、本当に意味のある言葉だけだと思った。
そして、それは言葉ではないのかもしれないと思った。
僕にできたのは、ただ肩を抱いて、大丈夫、そばにいる、と言い続けることだけだった。
なぜそんなことになったのか。
いくら考えたって答えは出てこないということだけは分かっていた。
それは本人にしかわからない。
心の病にかかっていたのだから、きっと本人にも分かっていなかったのだと思う。
誰を責めるべきでもなければ、誰をうらむこともできない。
その場に残されたのは、あの時こうしていれば、という後悔だけだった。
皆それが意味のない行為だということを分かっていながらも。
法要の時にお坊さんが
「悲しんだり、後悔している暇などない。われわれは生きていかなくてはいけない。」
と言われていたのが心に残った。
そう。遺された僕たちは生きていかなくてはいけない。
これからの稼ぎはどうしていくのか、
幼い子供はどうしていくのか、考えると不安なことは山のようにある。
でも、そんなものは生きてさえいれば、きっとどうにでもなるのだ。
目の前の問題を1つずつ解決して進んでいくしかないのだ。
そしてきっとその積み重ねを何年か後に振り返ってみれば、
あの時大変だったよね、
という思い出にかわっていく。
とにかく生きてさえ行けばいいのだ。
命があるということは、どれだけ貴重でかけがえのないことか。
一度失われてしまうと、どれだけ手を尽くしてもどうしようのないことか。
そして、遺された人たちにどれだけの傷跡を残していくことか。
あれ以来、日本では年間3万人が自殺するというニュースを、すごく重く見るようになった。
あんな思いをしている家族たちが、年間に3万も存在しているなんて、すごく悲しいことだ。
人生いろいろなことがあるので、だれだって自殺をしようと思うこともあると思う。
でもどんな手段を選んだとしても、遺される人たちには重い、深い傷跡をのこすものだ。
それを知って、一人でも思いとどまってくれる人が増えてくれればなと思う。
生きてさえいれば、ほとんどのことはなんてどうにでもなるんだから。
可能性が低いとしても、一度失われてしまえば、命はもう取り戻すことができないのだから。
友達とかさ、みんな結婚し始めたりしちゃって、子供なんかがいるのも、ざらなのよ。云い忘れた。僕は去年 30 歳になった。おっさん乙、なんて云われちゃうのかな?去年まではこんな僕でも、結婚しようと思ってた。まぁ人生いろいろだな。仲のいい友達は何人かいるし、同じ歳でもまだシングルの連中も何人かいる。いや、正確には何人かしかいないのか。
この間、なんとなく遊びにいった友達の女の子のところ。他にも何人か来る予定だったのだけれど、結局僕とその子の二人だけだった。部屋で飯を食って映画を見た。何となく飯を食ってる間、この歳になると、シングルであることが如何に腹立たしいことか(友人の結婚式のパーティとか、もっとカジュアルに週末のブランチによばれない、とか)、愚痴り合った。驚いたのは、彼女みたいに一人でよろしくやってそうな感じの人でも(寝る相手に困らないとかそういうことじゃなくて、いつも友達と一緒で楽しそうにしてる、って意味でね)、そういう風に感じるんだ!ってすごく驚きながら、頷いていた。実際そうだなって思う。
僕は非モテとか非コミュとかそういう議論はしたいんじゃなくて、個人的な感覚をなんとなく記しておきたいだけなんだけど。もう結婚は出来ないなぁ、と思ってる。もう十分に傷ついたし。でも子供は欲しいなぁ。何となく。
あと10歳、年をくうと、またもっと惨めな気分になるのかな?それとも、もうあきらめがつくか…
だと思うんじゃないの?
思わないよ。人生いろいろだからね。見た目でわかるとも言ってない。
だいたい、30代を親や祖父母の介護で費やしてしまった人とかは、元記事には出てこないよ。
Dr.MのSEX相談室・セレクト版
http://www.westcl.com/sexbbs/selection.html
●太郎 題名:もてすぎる男とは? 投稿日 : 2003年9月24日<水>23時09分 返信
前のサイトでDr.Mのご回答でこんなのがありました・
「これはもて過ぎる男の宿業です。おそらくあなたが100回生まれ変わっても、
その業は形を変えてついてまわるでしょう。
決してこのような経験をすることはできませんので、
羨ましいといえば羨ましいことだと思いますが、
男は人生で最低一人は女性を幸せにしなければならないのでございます。」
決してこのような経験をすることはできません」
とありますが、ぎくっとします。実は私がそうなのです。
もう50歳を過ぎていますが、つい最近までまったくありませんでした。
そこでしかたなくお仕事の女性とお相手したのですが、自分は膣不感症のようでした。
いわゆるオナニーではすぐです。
私もそろそろ、これからの人生を潔く決めなければなりません。
このまま一人セックスで満足するか、わずかな可能性を求めて相手を探し続けて苦しむか、
あるいは言い方は悪いのですが、お金でお相手をしてくれる女性を求めるか。
決心がつきません。
やはり女性にもてる男性というのは決まりきっているのでしょうか。
------------------------------------------------------------------------
Res:Dr.M 題名:男の35才 投稿日 : 2003年9月25日<木>11時56分
男は35才の時どういう状況にあったかで、
大体その後の人生も決まっていることが多いのではないでしょうか。
ちょっと極論かもしれませんが、おおむねそのような傾向はあると思います。
35才の時点でそれが決まっていれば、大きくぶれない延長線上に後の人生があるものです。
(これを読んでギクリとした方も多いかも・・)
ですから35才までもてなければ、それ以降突然もてることも希でしょう。
本人も自分は一生もてることはもう無いのだという諦観にいたるのは40代なのかもしれません。
しかし、そのような状況を過ぎて50代になり初めてもてる要素ができてきたりしている場合があるのです。
残念ながらそれを本人は気づかないことが大半なのですが、
服装も若い頃もてようとして失敗していたセンスではなく、
ある程度お金に余裕があって自分から楽しみながら洋服を選んでいたりする。
すでにギラギラとした性欲も失せていてお金で性的快感を得ることもなんだか面倒になったり、
それがかえって爽快感につながり、今こそもてる要素がにじみ出ていたりする。
甘い辛いの人生経験と知識も教養もあり、話をきいているとなんとも面白い男性になっていることも。
しかし自分は絶対にもてることはないのだと強固な固定観念ができてしまって、
女性と接する世界からどんどん遠ざかってしまっているような状況です。
これが決定的な敗因といえるでしょう。
だからこれを100回繰りかえす前に、どんな「もてないスパイラル」に入っていても希望はもちましょう。
Res:太郎 題名:なるほど 投稿日 : 2003年9月26日<金>21時48分
あることはあっさりあきらめて別のことに熱を入れるのもいいかもしれません。
ありがとうございました。