2009-10-25

家族が自ら命を絶った。

その知らせをうけて、病院に行った。

事実上亡くなっているということは聞かされているが、

親族が死亡確認をしないといけないという。

そうしなくてはいけないと理屈では分かっていることでも、警察医師も冷酷だ。

一番その事実を受け入れたくない人に、それを確認させるのだから。

法律的なこと以外にも、それが現実と向き合うために必要なステップだという理屈もわかるけど、

最も近しい人にあの役回りをさせるは酷だと思う。

ベッドに寝かされていた足が見えたときの絶叫が、なかなか耳から離れない。

こういう瞬間にどう振る舞えるか、

ショックに打ちひしがれ、悲しみと不安にくれている大事な人にどんな言葉をかけてあげられるか。

こういうところで、これまでの人生で積み重ねてきたことが試されるんだなと、そんなことを思った。

だが、気のきいた言葉は1つもでてこなかった。

いくつかの文章が浮かんだが、そんな言葉では誰も守ることができそうになかった。

この場で発することができるのは、本当に意味のある言葉だけだと思った。

そして、それは言葉ではないのかもしれないと思った。

僕にできたのは、ただ肩を抱いて、大丈夫、そばにいる、と言い続けることだけだった。

なぜそんなことになったのか。

いくら考えたって答えは出てこないということだけは分かっていた。

それは本人にしかわからない。

心の病にかかっていたのだから、きっと本人にも分かっていなかったのだと思う。

誰を責めるべきでもなければ、誰をうらむこともできない。

その場に残されたのは、あの時こうしていれば、という後悔だけだった。

皆それが意味のない行為だということを分かっていながらも。

法要の時にお坊さんが

「悲しんだり、後悔している暇などない。われわれは生きていかなくてはいけない。」

と言われていたのが心に残った。

そう。遺された僕たちは生きていかなくてはいけない。

これからの稼ぎはどうしていくのか、

幼い子供はどうしていくのか、考えると不安なことは山のようにある。

でも、そんなものは生きてさえいれば、きっとどうにでもなるのだ。

目の前の問題を1つずつ解決して進んでいくしかないのだ。

そしてきっとその積み重ねを何年か後に振り返ってみれば、

あの時大変だったよね、

という思い出にかわっていく。

とにかく生きてさえ行けばいいのだ。

命があるということは、どれだけ貴重でかけがえのないことか。

一度失われてしまうと、どれだけ手を尽くしてもどうしようのないことか。

そして、遺された人たちにどれだけの傷跡を残していくことか。

あれ以来、日本では年間3万人が自殺するというニュースを、すごく重く見るようになった。

あんな思いをしている家族たちが、年間に3万も存在しているなんて、すごく悲しいことだ。

人生いろいろなことがあるので、だれだって自殺をしようと思うこともあると思う。

でもどんな手段を選んだとしても、遺される人たちには重い、深い傷跡をのこすものだ。

それを知って、一人でも思いとどまってくれる人が増えてくれればなと思う。

生きてさえいれば、ほとんどのことはなんてどうにでもなるんだから。

可能性が低いとしても、一度失われてしまえば、命はもう取り戻すことができないのだから。

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