はてなキーワード: ブッダとは
前半より
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/06/post-12364.php
体罰の議論は悪く言えば物語的な説得に終始してしまうことが少なくないところ、この記事では体罰についての研究結果、それに基づいたアメリカ心理学会の声明、体罰に代わる指導教育方法の提示まであり、大変興味深く読みました。本発表の中から一つ読むならこれがおすすめです。
https://medium.com/@tumada/do-not-find-your-passion-a7b2f290b5a
「情熱を探そう」という指針への批判的検討を行い、「情熱ではなく、ちょっとした興味を見つけて、それを育もう」と呼びかけています。Web2.0時代への郷愁と共に読みました。続編の記事も良かったです。
iPhone等で使っているPocketアプリの読み上げ機能は未読処理の効率を大幅に改善してくれました。感謝。Pocketの同機能はiOSのそれよりも
・多数の記事を立て続けに読み上げてもらうことができる
・複数端末の連携が容易。スマホ、タブレット、パソコンから取り敢えずPocketにつっこめばいい
という点で優れています。
ただ、引用部分を2回読み上げる不具合(?)があり、治らないかなーと宙に念じています。
https://www.newsweekjapan.jp/yukawa/2019/02/50transtech-conference.php
悟りのような状態を「Persistent Non-Symbolic Experiences(PNSE、継続的非記号体験)」とし、その状態にあるという人たちに対してインタビューをした研究を大本とした記事です。通常の感覚と異なるPNSE状態の感覚の描写が興味深いです。さらにそれより考えさせられたのは、ブッダらの宗教家が仮にこの状態から教えを発したのだとして、その教えが常人とは異なる非人間的ともいえる程の感覚から出たものであることが知られないまま(PNSE状態の異質性の程度が認知されないまま)大衆に流布され、生きる指針とされているとしたら話が違ってくるんじゃないかという点です。そこに壮大なスケールのディスコミュニケーションがあるのではないか、とSF的な世界観の揺らぎを与えてくれたことに今年の大賞を授与したく存じます。
「また、ブッダとは歴史上に現れた釈迦だけに限らず、過去にも現れたことがあるし、未来にも現れるだろうという考えはすでに大乗仏教以前から出てきていたが、大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、娑婆世界とは別にある他方世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えた。この多くのブッダの中に西方極楽浄土の阿弥陀如来や東方浄瑠璃世界の阿閦如来・薬師如来などがある。また、歴史的存在、肉体を持った存在であった釈迦の教えがただそのまま伝わるのではなく、大乗仏教として種々に発展を遂げ、さまざまな宗派を生み出すに至る。三法印などすべての宗派に共通する教義も多々ある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99
それブッダでいうと何巻に出てくる?
良いことは以下になる
清潔さに心がけ潔癖症だと言われる
挨拶やお礼を欠かさず行い冠婚葬祭は必ず参加し年賀状は老若男女全てに出す
人の目が気になるようなことは行わず建前で生き、家に戻ると本音になりグチグチ文句をいう内弁慶
素直さはバカ正直で1円を拾っても交番へ届ける。たとえ通勤途中であっても。
他人に気を使い、おもてなしの心などといって建前だけはしっかりとしており裏表のあるやつだと言われる
話し合いでしか解決できず閉鎖的な空間で命の危機がせまっても話し合いで!と一点張りでボコられる
ブッダ、キリストのような生き方をしているので尊敬できるが真似はできないなと言われ続ける
コンプレックスはない。
新興宗教だったりしたら、私が増田の知人友人なら全力で止めるけど、増田がどうしても宗教にすがりたいと言うのなら否定しないよ!
個人的なおススメは、なるべく穏当な、何千年も前からある宗教の方がいいかなと思う。入信する前に教祖についての本を読んだりして調べるのもいいよ!手塚治虫のブッダとか漫画で読破!のシリーズでも教典ものがあるからそれでもいいし。新興宗教だったとしても母体になってる宗教(池田大作教は大元は法華経あたりがベースだったっけ?)があることが殆どだからその大元の教典を読むと面白いと思うよ。神道系なら古事記でOKだし。
でも、宗教に進んでいくその前に、手の届く範囲にいる人(親や兄弟や学校や職場の知人、友人、私やその他色んな人)と、今より、もう少し良い関係を作るために、自分は何かできることがあるかなと考えてみるだけでも、全然変わるとは私は思うんだよね。
NHKBS1
BS世界のドキュメンタリー「アフリカの少年ブッダ」[二][字]
アフリカ南部の国々に、中国語で中華思想をたたきこむ全寮制の学校が根付き始めている。学校側の思惑とアフリカ的な価値観の狭間で悩む少年少女たちの成長物語。
詳細情報
番組内容
アフリカに中華思想を根付かせることを目指し設立された学校では、貧しい農村部から家族が養えない子どもたちを受け入れて中国名を与え、数学などの基礎学習に加えて、仏教や少林寺拳法などの中国文化を徹底的に修練させる。一方で、学生たちの中には、アフリカ的な価値観が排除された教育に疑問を感じ、自分の将来進むべき道に悩みを持つ者も現れている。二つの文化や価値観の狭間で、多感な10代を過ごす少年少女たちの成長物語
~2019年 マラウイ/南アフリカ/スウェーデン THINKING STRINGS MEDIA/MOMENTO FILM制作~
どんなものに対しても、「これに意味があるんだろうか」「価値はあるんだろうか」と思考してしまう病に罹っていた。
まず、この社会で生きるということは、そういった価値判断を行いながら生きるということだ。
誰かが作った"良い"とか"悪い"とかいう価値の中にすべての物事を、もちろん自分さえも当てはめていくことだ。
人間はそうやって見出した価値を求めてきた結果、高度な文明を発展させてきたし、
それを否定するつもりはない。
多くの人はその事を良いことだと捉えているような気がするし、
それが人間の持つ知性の持つ素晴らしさであり、
そんな素晴らしい知性を持つ人間は素晴らしい存在だということを信じて疑わない人たちも多い。
でも、そういう"素晴らしい"とか、"良い"とか"悪い"は、あくまで人間が独断で決めたもので、
この世界の大半の存在にとっては、何の関係もない狭い世界の話だと薄々気づいていた。
ただ私もそんな価値判断が当然である社会に生まれ、気がつけばそれに染まり、あらゆるものに価値判断を行う癖がついていた。
物を認識した瞬間、"意味"とか"価値"を考えてしまう自分がいる事に憂い、苦しんでいた。
何より人々が作り出した価値基準の指標に、自分さえも当てはめていかなければいけない事に虚しさを感じていた。
大人になるにつれ、自分は社会の価値基準にそぐわない事がわかってきた。
自分は素晴らしいとされるような人間の一員になれる気がしなかったし、そもそもなりたくもなかった。
だが、素晴らしくない人間は生きるのが大変だ。
だから「死にたい」と思っていた。(これはもちろん「この社会では死にたい」という生への執着なのだが。)
でも、社会の価値観に既に染まっている私は「自殺」は社会に迷惑をかける"悪いこと"で、"無意味なこと"だと言われるのを知っていたし、
そこからとあるきっかけで『スッタニパータ』という、ブッダの死後100年程で作られ始めた仏教の経典の中で最も古いと言われている経典を読んで、
実際に価値判断の世界から"解脱"し、その方法を人々に示してくれたその人の言葉に勇気づけられ、納得させられて、
もう社会の価値に心理的に振り回されることはないという非常に軽い気持ちになった事を詳しく書こうと思ったんだけど、
この"疲れたのでやめる"という行為も、以前はできなかったのですが、そこに"善悪"の判断が必要ないと知ってできるようになりました。