2020-01-09

多様性の受容にまつわる、不可避な不適応の注入について

つの対照的ブログを読んだ

「結局、多様性を認めるかどうかは、崇高な理念ではなく、コストとリターンの兼ね合いで決まる。」

https://blog.tinect.jp/?p=63446

「なぜ学校ワープロを受け入れない? - 「現実」に過適応していると未来が失われる」

http://mazmot.hatenablog.com/entry/2020/01/08/223755

あらかじめに言っておくと、自分は前者にはがっかりし、後者肯定的である

後者で「過適応」という言葉が出てくる。もともと人間には生存能力として環境適応する力が備わっている。ところが、その適応が終わりに近づくと、それにつれて適応必要はなくなっていく。そのような状態に長く居続けると適応能力のものが失われてしまう。そして(不可避なことであるが)、ひとたび社会に変化が起これば、突然全く違う環境に放り出されるのだから、うまく適応できず、ハイさようなら、となる。人間、を組織社会のものに置き換えてもかまわない。『失敗の本質』なんかでも日本軍敗戦理由として、こういったことが述べられている。

最適点からのずらし、つまり多様性の受容やらその他の変化やらのことだが、には不適応の注入(コスト不快感)が必然的に付随する(ああ、それが最適点の定義だ)。だが、それこそが柔軟性を保つためのストレッチであり筋トレなのである。これを常にしていないと関節の柔軟性や筋力が衰えてしまう。

短絡的な視点に立てば「コスト=悪」でしかないのだろう。前者のブログではそこまで断言はしていないが、それは話法に過ぎない。今を生きるビジネス世界ではそれが「一次解」なのだろうし、「そう思う(安心した)」という旨のコメントも見られた(ブコメ批判が強かったが)。だが、社会は高度に複雑化し自明な解には限りがある。だから「より多くの自明な解が視野に入るようにするために、社会をどう変えていかなければならないか」という「二次解」の視点社会投資する必要がある。そういう視点が前者ブログには欠落していた。

日本社会は惰性が強いから、「多様性は崇高だ」という論点だけからでは、問題の軽減にすら到達できそうにない。「二次解」の視点を持った政治・経済言論でのリーダーシップ。それについていく側の同じ視点を共有したフォロワーシップ。これが、様々な多様性を含む社会変革を取捨選択しつつ実行し、現代日本の閉塞感を打破するために必要なことだ。

  • 社会の多様性ってのは公共のルールにまつわる問題。個人の選好(の幅)とは別次元。シロクマさんの文章はいつ見かけても地頭がへちょいなーと思う

    • でもキモくて金のないおっさんを個人の選好に基づいて公共の場にいるだけで不審者呼ばわりし警察に通報するような人を批判したりはしないんですよねわかります

  • 自分は前者のブログに肯定的なので、貴方の言い分を「多様性はコストである」という認識を是としたまま採用するのがいいと思う。   つまりだ、筋トレだストレッチだといったって、...

    • 「朝飯食ってるガキは成績がいい」って聞きつけて、朝飯だけ食わせようとしてるような空しさがあるんだよな いや全く意味がないわけじゃないけど根本的な原因はそこじゃねえぞ的な

記事への反応(ブックマークコメント)

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