http://anond.hatelabo.jp/20150127005951
元増田です。
反応してくださってありがとうございます。
元彼女と同じように感じる人がいるってわかってよかった。
あの人が何か不満を押し殺してるのは気づいてた。
親しくなればなるほど感じてたから、なんでか聞いちゃったんだよね。
多少のすれ違いや誤解はあってもおかしくないと考えてた。
普段は途切れることなく楽しくお話してたから寛容で優しいと思ってた。
こちらの言い方や態度に落ち度があったことも事実。
結婚を前提にお付き合いしてて、お互いの両親に会ったあたりで爆発されたものだから。
もう限界だったんだろう。元彼女は「相性が合わなかった」とも言ってた。
確かにそのとおりなのかもなと今なら思う。
終始大人な対応してる相手に「ぶつかってきてくれ」なんて子供じみてた。
ぶつかりたくなんかなかったんだよな。そういう気持ちわかってあげられなかった。
あの時こうしていればと、ここ数日なんども考えてたけど、そうじゃない。
なるべくしてなった結果だと納得できた。
一生、偉くなれない人。
・素直さ、真面目さ、優しさ、正直さが無い、
・チャレンジしない
・行動しない
・反省しない(開き直る)
・努力しない
・すぐに、ネガティブなことを考える(後ろ向き)
・意地が悪い(人の不幸が大好き)
成功者に嫉妬して攻撃する前に、ここらへんの性格をまず改善した方がいいよね…。
時間が経てば、上記とは正反対の人との差がどんどん開いてくるんだよね。
成功者の人格をどんなに批判した所で、非成功者よりも成功者の方が、
非成功者は、その事実を言われると「キー!!」ってなるんだけどさ…。
オタクは闘争心や性欲が薄いんじゃなくて、人一倍強い(けど満たすことができない)それらを防衛機制で他のものに無理矢理置き換えて見ないふりしてるだけ。
オタクは差別されて当然と言って憚らない反差別活動家とか、オタクはキモいというフェミニストとか、オタクはもう十分に強者なんだからちょっとバカにされた位でガタガタ言うな!とおっしゃる思想家とか、素晴らしい面々が色々言って下さるので、頭が痛い。
男の中身は、虚栄心とエロ心しかないんだろうか。男は、隠しきれないほどの競争心=一番でありたいという欲望と、いかに女を獲得するかという欲望しか持たない。要は自己中心的で、他者への思いやりや気づかいなど本心では持ち得ない。その救いようのないエゴイズム、そしてそれを隠そうとする姑息なやり口。ゲームに勝つためだけに駆動する、サバイバル本能しかないエゴイステッィクな動物だから、女を出し抜いて、これまで歴史を、社会を占有してきた。女を貶め、あるいは利用して自らが優位に立つことだけが重要で、そうしたシステムを作るためにあらゆる詭弁、こじつけをこさえてきた。封建制度なんぞクソくらえ。単に男のご都合主義で作り出した制度にすぎない。男の作り上げた道徳、社会認識にさんざんぱら振り回され、苦しめられてきた女たちに、いっぺんの思いを馳せたことはお在りか。結婚しなければならない、子供を産まなければならないなどと、誰が決めたのか。結婚すればセックスがいつでも得られて、己の子孫となる子供を産ませれば女=母親にその世話をすべて押し付ける。欲望は拍車がかかるものだから、妻に飽きれば外でより若い女と浮気する。浮気は男の甲斐性、とはどれほどのご都合主義か。男は自分の欲望を満たすためなら、どんな虚言も欺瞞も厭わない。いかなる感情操作も試みる。
そういうのが「男」のスタンダードなら、オタクの男はむしろそうした闘争心の薄さや、女を獲得する行動に出ないだけ、実害が少ないともいえる。ヴァーチャルで事足りさせる辺りも自己充足していて、むしろ害を自らに向けるオートマトンと化している。しかしいっぽうで、現実の女一般に対してはルサンチマンを抱えている。ミソジニーを強め、ますます現実の接触から遠ざかろうとする。それは単に、本来持つ競争心や性的欲望を現実に行動して解消できない欲求不満が、女への憎悪へと反転してしまったのか。彼らは妄想を強めるばかりで、彼らの苦しみもまた解決しない。ともあれ、オタク男が忌むべきはリア充男であって、女ではない。リア充こそ社会的利権を一挙に掌握しながら、その暴挙によって苦しむ者がいることに気付きもしないのだから。
ライトノベルに限らないが、構造的に「馬鹿にされる」場合がある。
定義が曖昧で、玉石混交で、定性的に評価されるもの全般のことね。
すると、自分の感性で都合良く石だけピックアップして馬鹿にできる。
定量的に計測できたって、好きに時系列を切り出して、定義付けを恣意的にすればなんとでもなる。
そして、「なんとなくこういう批判がある・こういう擁護がある」と藁人形を用意すれば、
そこで、馬鹿にするのはどういう人か、何が批判足りえるのか、振り返ってみよう。
「無い」事の証明は難しい。
だから「有る」もので「ライトノベルで無い」モノを追いだしていこう。
だから、「絵が恥ずかしい」というのは、表紙絵に対する批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(勿論、「アニメ絵は恥ずかしい。太宰治もあれじゃ買い難い」とする批判はあるが、ライトノベル批判とは別軸)
キャラ立ちという意味で、ホームズを超える名探偵は出てきただろうか。
だから、「類型的なキャラクターが出てくるだけ」というのは、その手の小説批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(以後省略するが、そういう批判は当然あって良いが、ライトノベルとは独立)
ファンタジーやSF、ミステリから哲学に至るまで、子供向けに書かれた本を読む大人は多い。
だから、「子供向けに書かれた小説を大人が読むのは」というのは、その手の読者批判であって、ライトノベル批判とは違う。
これに関しては、まさに定性的な(感性の)話になるため、具体例は省略したい。
ここでは、スタージョンの法則(啓示)を引用するだけにしよう。
SF(science fiction)の90%は、ゴミでカスでクソだ。
同じ基準を使って、映画、文学、民生品等々の90%がクソだと示せる。
だから、SFの90%がクソだという主張(または事実)は、究極的には何も意味しない。
だから、「ライトノベルの大部分はクソだ」という批判は、何の情報量も無く、ライトノベル批判とは違う。
ハワイ沖で行われる海軍の多国合同軍事演習のさなか宇宙人が侵略してきて、自衛官と海兵隊員が反目しながらも撃退するという
まあ、インディペンデンス・デイと戦艦ミズーリを足してブリトーで割ったような映画だ。
素晴らしく面白い、愛すべき馬鹿映画だが、批評家からは当然のように酷評されている。
何が言いたいかというと、批評家の評価と、馬鹿であるかどうかとは、分けて考えられている。
ビール片手にゲラゲラ笑いながら見るような「ジャッカス」みたいなのを「馬鹿だ」と言うのは、批判ではない。
さっき言ったように、「馬鹿」であることは、比較的独自の軸になる。
その上で、馬鹿にしているのは、例えば「パンチラの絵を付けて恥ずかしくないジャンルは馬鹿にされて当然」のような、
「ライトノベル」を「小説の一ジャンルとして、格下である」とする主張しか、残念ながら観たことがない。
これは、BLを趣味とするのは気持ち悪いだとか、サラリーマンが通勤中に漫画雑誌を読むのはガキっぽいとか、そういった類の主張だ。
好悪の主張であって、それはそれで、仕方がない面はある。
雑誌の表紙に水着の女性を持ってくれば売上部数が上がるが、職場で休み時間に読むのはどうだ?というレベルの話だ。
ワリと珍しいのだが、硬派なSFとライトノベルSFとが全く同じ題材を描いているものがある。
アーサー・C・クラークの「楽園の泉」と、野尻抱介の「ふわふわの泉」だ。
(まあ、内容的にはチャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」のもじりの方が相応しいとは思うのだが)
両者とも、「ロケット以外で宇宙に進出するための、巨大構造物を作り上げる人物」が主人公だ。
ポイントは、「楽園の泉」がハードSFか否かであるとか、「ふわふわの泉」がラノベかどうかではなく、
この両者を比較して、「どちらが低俗か」を論じる意味があるかないか、だ。
「どちらがより高尚か」や「どちらの方が格上か」でも良い。
ここまで題材が同じだと判りやすいのだが、
「大人なら、『ふわふわの泉』ではなく、『楽園の泉』を読むべきだ」
とは、ならないだろう。
だって、違う作品なのだもの。それは批判ではなく好悪の主張だ。
「『楽園の泉』は、建築家の名声について拘りすぎて主張がボケている、『ふわふわの泉』の方がSFとして良く出来ている」
なんていうのは、馬鹿にしているのではなく、(正しいかどうかは別として)SFを軸にした批判になる。
アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」と、司馬遼太郎の「梟の城」と、佐島勤の「魔法科高校の劣等生」とを、
一緒に並べて比較して、「魔法科高校の劣等生を読むのは馬鹿だけだ」と言うことに、意味があるだろうか?
俺TUEEEE系の源流をたどって、湖の上を歩く男の話まで遡ったり、本邦においては勧善懲悪の仮託先であるとか、
そういった論文を描くことは意味があるかも知れないが、「馬鹿にする」というのは比較的には品のない行為だと思う。
例えば、今話題のピケティの「21世紀の資本」を読むのが大人で、百田の「海賊とよばれた男」を読むやつが馬鹿にされてもしょうが無い、みたいな言い方はしないだろう。
現代ソマリア海賊を描いた「キャプテン・フィリップス」を見て「『パイレーツ・オブ・カビリアン』を見るとか馬鹿にされてもしょうが無い」みたいなことは言わない。
というわけで、馬鹿にする方の品性を疑うべきだと言うのが、オレの意見になる。
どんな作品でもファンは居て良いと思うし、蓼食う虫も好き好きと言う。
例えば俺はバトルシップが大好きだが、蛇蝎の如く嫌う批評家が居るのも否定はしない。
アナと雪の女王よりはベイマックスの方が面白いとは思うんだが、GoGo好きなだけだろと言われれば否定はできない。
というように、主観的な好悪と、その技芸における比較批評、そのジャンルでの売上高なんてのは、全て独立の話だ。
そう言った点で、ラノベの中に上手い下手、エロに寄り過ぎだとか構成が稚拙だとか、そういった批評はあって良いと思う。
ただそれは、作品単位、出来ても作家単位の話であって、「ラノベ」全般に広げるのは主語が大きすぎて乱雑に過ぎる。
9割のクズを観てそのジャンルを否定するのが愚かであることは映画や絵画においては一般的なのに、ラノベがそうでないのは不幸なことだと思う。
いや、単純にどこにも触りたくないってだけだよ。
偏見を正当化して屁理屈を並べれば、ページビューが稼げてウマウマですね。
そういう人がいないとまた困っちゃうんだよね。うちの担任もそうだったの。だからこそラノベの快楽的後ろ暗さや甘美な罪悪感が理解出来たわけ。世の中の役に立つ、明るいラノベなんて、ほんと、困るんだよね。でも、最近、そういう人が増えてきたから、そっちの方が問題だろうね。