はてなキーワード: 2chとは
ガンガン便乗値上げされてて、2chの試算では実質16%の負担増。まあこれは2chソースだから実際そこまでひどくないにしても消費税以外に色々上がってるし、正直辛いと思うんだけど。
日本では物事をメリットとデメリットの両面から考えることを子供の頃から教わらず、教科書などには公正さを期するため物事の良い点悪い点の両方が書かれていることがあるとはいえ、そうした両面的な考え方が身についている子供が多いとは言いがたい。受験勉強にしたって勉強内容の公正さに対して疑問を持つことなく丸暗記に近い勉強ばかりしている有様である。
これが社会に出ると丸覚えは機械的作業を行うだけの底辺労働者にしか通用せず、高い結果を出すには学習内容の公正さを疑う視点が求められてくる。ここに至ってメリットだけでなくデメリットも考えねばならないことをようやく教わるのである。曰く、おいしい話には裏がある。「これはいける!」という新しい策を導入する時にはちゃんと悪影響の可能性も考えましょう。物事の悪い部分ばかり見て手を拱いていてはいけませんぞ、などなど。
一方、欧米では子供の頃から学校でディベートやライティングをしっかり教わり公正な思考力を鍛えられるし、家庭でも社会の暗部を見せられさまざまな視点からライフプランを考えるように促されることが多いというのは、アメリカかぶれの評論家が口を揃える有名な話である。ディベートでは政策(やそれに類するもの)に対して賛成と否定の両派に分かれて激論が酌み交わされる、いや取り交わされる。本心は賛成派でも否定派のチームに入れられることやその逆のパターンも多い。こうして賛成にも否定にも回れるような柔軟で両面的な思考法が身につく。さらに1980年あたりから欧米では多民族国家であることや同性愛問題の表面化などを背景にdiversity(多様性)を尊重する思潮が強まり、民族や性や思想の多様性を学校でも明確に教わるようになった。最近Mozilla CEOが性差別的法案を支援して問題になった件で「Mozilla Statement on Diversity」という声明を出したのは記憶に新しい。このように物事の両面性・多面性を重視する風潮・思考法になっている。
ttps://blog.mozilla.org/press/2014/03/mozilla-statement-on-diversity/
日本人の多くは社会に出ると「国際社会だし欧米のように多面的思考をしないといけない」と耳が痛いほど聞かされ、その一環としてメリットデメリットを考えることが大切なんだなと学び成長していくわけである。そしてメリットデメリットさえ考えてれば多面的思考法が出来ていると勘違いしてあぐらをかいている人も多い。
1つには可変性である。例えば、自社の管理システムに新製品を導入する時には導入するメリットとデメリットを考えてメリットが大きいと判断されれば導入するという単純な思考プロセスで問題ない場合もあるが、新しい人材を取り込む時には必ず成長性を考える必要がある。ある分野が得意だからってさらに伸びるとは限らないし、ある分野が苦手だからって苦手克服できないとも限らない。人材ならまだ分かりやすいが、管理システムの場合はどうか?システムが時代とともに適応していけるような柔軟性を備えているか、また経験にしたがってブラッシュアップしていけるような成長性を備えているか。そうした可変性も加味しなければならない場合が多い。
子育てや学校教育においても、長所を伸ばすという聞こえのいい古い考え方が未だに蔓延しているが本当にもっと伸びるのかと言いたくなる。得意分野だと成功体験を積みやすい?いやいやそれは他人と比べるからで、比べなければ得意で伸びにくいものより苦手でも伸びやすいもののほうが伸びしろがあるため成功体験を積みやすいのは明らかだろう。大切なのは成長の楽しさが得られるかどうかであって、得意なものをやるよう押し付けることではない。そのためには得意でもどれが伸びてどれが伸びないのか、苦手でも伸びるものがあるのではないか、伸びるとしてどれくらい伸びるのか、といった一段階緻密な検討を経て合理的に判断をしないといけない。なんでもかんでも得意分野を持て囃すような風潮はもう終わりにしよう。
これまで見てきたように良い所と悪い所だけ見て両面的に考えてるぞとドヤ顔する風潮は打ち破られるべき悪しき因習と言える。逆に言えばこれからの熾烈を極める国際社会競争においてきちんと可変性を加味した多面思考ができる人間だけが生き残るとも言える。
メリットデメリット分析の2つ目の落とし穴はもっと根本的なもので、定性分析である点である。分析と名前がついているから数理的な分析だと勘違いしやすいがそうではない。多くの場合、メリットデメリット分析は定性的な分析、つまり物事の良し悪しに関わる性質を列挙しているに過ぎない。だからメリットとデメリットを量的に比較するのは難しく、比較できたとしてもそれはこじつけになりがちで、結局「メリットのほうが多い」「デメリットのほうが多い」といういい加減な形で分析結果を利用されてしまいやすい。たまたまメリットのほうが多く思いついただけかもしれないし、数え方の問題で多いだけかもしれないし、数が多いだけで重要度の低い項目だらけかもしれないのに。
実はこれは、賛成派(メリット)と否定派(デメリット)が戦う競技ディベートにおいてもしばしば問題となる点である。ディベートの勝敗はディベート経験のある審判が理屈をつけて決めているに過ぎない。論拠の数が多いから説得力があったとか、質問されて答えに窮したから説得力がなかったとか、おおよそ論理とは無関係な価値判断で決まることが多いのだ。
ディベートだけでなく2chの信者VSアンチの論争にも言えることである。それが偏った事実の寄せ集めであるかどうかにはお構いなくとにかく論拠の数を沢山用意しておき、次々と論拠を提示しては主張を繰り返して圧倒し、反論・質問された時にも用意した論拠で即レスするようにすれば、たいていスレの風潮を支配できるという、あの荒らしまがいのやり口を思い出してほしい。この手の荒らしが手強いのは殆どの場合において定量的に擁護または叩きを行うためのデータが存在しないか少ないからだ。そんな時は膨大な定性データを粘着的な調査力で収集して印象操作で圧倒するのが比較的容易である。
facebookとlineはやっていないがtwitterはやっている。
職場関係の人間と関係性は恐らく普通であるがプライベートでの付き合いはほぼないし、
リアルにおいて自分の趣味が漫画アニメゲーム歴史と同人創作及びフィギュア収集だなんて言えるわけが無い。
(ジャブをかまして同類を見つけソイツと友達になるなんて芸当が出来る術を身につけていたらリア充になれたろうに!)
つまり自分にとってのリアルで趣味に没頭できるのは自室のみのオンリーワンということになる。
でもやっぱり趣味について話をしたい!・・・うん、結局それに尽きる。
かといってお互いの人格を把握した上で語るとなるとどうしても相手を意識して言論を控える。
となるとfacebookとlineはほぼリアルでの人間関係になってしまうから自分みたいな人間には端から論外のツールで
ある程度匿名性が保たれるとはいえ、twitterも会話は@を飛ばす一対一になりがちで
所謂学級会のように不特定多数が一箇所に集まってガヤガヤ一つのテーマを語り、色んな相手と無節操に会話できるのは
まとめ民はまとめとそのコメント欄で自分の意見を肯定されたと満足を得るのだろうけども
まとめでは熱気をはらんだまま語れないし。
專スレだとノイズもさほどないし、気になるなら專ブラや2chmateであぼんすればすっきりする。
そんな訳で自分にとって唯一自分の立場を気にせずに多数と語れる場は2chしかないので2chを使ってる。
(話はそれるが)
自分はネラーだが世間でザ・2ch!の代名詞に掲げられるようなケンモだのvipだのニュー即だの使ったことがない。
あそこはネラーでも自己顕示欲が強い人間ばかりにしか見えないし、あんなところより専門板專スレの方が情報集約されてる。
無断転載問題といわれても他のサイトソースをそのまんま持ってくるってのは上で上げたザ・2ch!代名詞の話であって
自分の常駐場所だとうpった写真が転載されて・・・ってのが酷かった。
スレまとめwikiがあるだけに、それがアフィに使われる事への不満たるや。
jimとひろゆきの騒動はひろゆきの訴訟回避故に会社を売って~から起因しての金銭トラブルっぽいけど
旧運営のようにアフィブログ経由して利潤をホウボウに提供する土台になる「転載元ソース2ch」ってのはいやだな。
2ch運営のまとめブログなりwikiで2chスレをまとめて2ch内で帰結し
そのポエムって「そこそこ良い(人によってはすごく良い)」程度のもんで、インパクトや突き抜け具合がちょっと足りなかったんだろうな。
ネットでとある有名な詩人が優れたポエムを書いていた。それを某2chで紹介した人がいたんだよね。
自称プロポエマーの俺から見てもそのポエムは凄いもので、「はああああああ、こんな凄い詩があったのか!」と感激した。この感動をみんなと分かちあいたい。さあお前ら絶賛したまえ。そんな気持ちになった。
ところがどっこい、これがもう酷評の嵐だったわけよ(笑) 代表的な感想が「痛い」「アイタタタタ」。
どないなっとるねんこの世の中ァ!もうこれはポエムとしての出来どうこうじゃなくて、ポエムというもの自体に「痛い」「厨二的」といったレッテルが貼られてる。
そういう時代なのだな、特にネットはそういう身も蓋もない文化なのだな、と衝撃を受けたと同時に納得した。納得したらポエミーな笑顔がこぼれた。
で、ここで考察を終えては建設性がない。なぜ痛いのか?そこを考えてみたい。ポエマーなそこのお前は必見だ。
私見では「痛い」の思想は、日本古来の恥の文化なんだよね-。正確にいうと恥の文化から派生したのが「痛い」の文化。
つまりどういうことかってーと、ポエムがここにあったとするわな。それを自分が書いたと想定するわけだ。そして「うわ!これはハズい!」と思う。これが「ポエムが痛い」って感覚。
日本語を学んでいる外国人よ。これが日本の「痛い」の文化だ。分かったかね?
この感覚の強烈さは日本特有だと思うよ。海外でもあるけど、外国人は日本人みたいに自虐的な人少ないから。だから自分が書いたと想定しても、「うわはずっ!」にはならず、「痛い」が分かりにくい。
もちろん外国人といっても様々だ。中には自虐的な国とか自虐的な個人もいるだろう。そういう人は日本の「痛い」の文化に造詣が深いと言える。
いや、言えないけど。素質はある。少なくともぷにぷにぽえみぃがカブトボーグなど比べものにならぬ位の黒歴史アニメだということは痛いほど理解できるだろう。
さて。ここまででだいたい、厨二とかポエムとかが日本でことさら「アイタタタ」扱いされる理由(わけ)が分かったろう。そうだろう。
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続いては自虐という心理について解剖してみよう。現代人は自虐という病理に突き動かされて日々過ごしていると言っても過言ではぬわーい。じつに根深いものなのだ、自虐というものは。
だもんで、当然現代人特有の「痛い」とも密接に繋がってくる話だ。
手始めに「自虐風自慢」という学術用語があるな。これは自虐という体(てい)で堂々と自慢しようという魂胆よ。と思いきや、そうじゃない場合もあって、ほんとに自虐していることもある。
例えばイケメンがその容姿と少しでも関連する(と解釈できる)自虐をしようものなら、立ちどころに自慢と捉えられてしまう。かやうなる現象も「自虐風自慢」だ。
で、問題となるのは前者だ。なぜ自慢するのに自虐のフリしないといけないのか。自虐の構え(ポーズ)してるだけで実質自虐してないのはミエミエなのに、
なぜ人々は自虐の構えが免罪符(エクスキューズ)として通用すると思ってしまうのか?これらの問いに答えるにはたった1つのことが分かっていればいい。
オタクと対照的な扱いをされる文化圏のことを指してると思ってた
テラスハウスを視聴するモチベーションがあるような、恋愛に意欲のあるタイプの人たち
先日テラスハウスを毎週楽しみにしてる知人と少し話した
しかし口から出る言葉は「恋人と倦怠期でうまくいってない。空いた時間でネットばかり見てる。リア充になりたい」
知人の言うリア充とはどんな状態だろうか
それともさらに男女混合で週末遊びに行って思わせぶりな異性とおいしい展開になるトレンディドラマのようなイベントが欲しいのか
はてなや2chで充実しようがヲタイベントで充実しようが本人は実在してるんだからリアルだろ
「生活に充実感がある」状態がリア充なんだったら艦これのイベント攻略編成考えてるときなんか最高に楽しくて充実してるわ
恋愛や仕事だけがリアルだというなら、生まれてこのかたリアルが充実したことなんてない
こういうのはリア充に入るのか入らないのか分からないが、「リア充になりたい」「爆発しろ」とか言ってる奴よりは精神安定できてるんじゃないかと思う
おっさんと同世代の国立医学科志望の再受験生で大学受験生の子もいる俺が来ました。
現役時のスペックはおっさんより落ちる(筑波、立教、学習院に合格)。
田舎出身は一緒だが、参考書使っているやつなんて見たことなかった。
同志社立命館の赤本見た(MARCHは見ていない)がセンターよりぶっちゃけ易しい。
英語なんてなんでこんな単語に訳注ついているのかって単語がいっぱいある。
国立の筆記は昔とそんなに変わらん気がする。
昔との違いで思うのは、このくらい。
・参考書の充実(易から難までいろいろ)。どの教科はどのレベルだったらどの参考書使ってどの程度まわして、って情報も、勉強本なり2chのスレなりである程度確立している。
・東進や受験サプリといった、田舎民でもアクセスしやすい予備校コンテンツ
あと現在の高3からカリキュラムは変わっているんで、ここ何年かの受験生は赤本やりこんでも、本番で「ナニソレ」になるかと思われ。
おっさんがこうこう勉強すればかなりの大学に行けると理解することと、子供がそれを実行するかは別問題。
そこを無理強いすると悲惨なことになる。
昔2年くらい引きこもってた時、2chのニュー速+に入り浸ってた。
何らかの感想を持つと思うんだけど、ある時期を境に
「みんなの反応を見ないと、今思い浮かんだ感想を感想として形作れない」状態に陥った。
最初は、自分と同意見が書き込まれていたら安心するだけだったけど、
スレをざーっと読んだ後に同じ意見が多かった時だけもやを消す感じ。
何度思い出しても、あれは何かの病気だったんじゃないかと思う。
2chでもはてなでも、東京vs地方みたいな罵り合いがよくあるけど、こないだ俺のそばで起こった出来事。
ちなみに居住地とか出身地とかフェイク入れてます。悪あがきかもしれないが、女性相手のネタなので、特定されるとめんどくさいので。
俺は数年前に広島から出てきて、今は足立区の下町住まい。当初は関東の水に馴染めず、生活も家と会社の往復だけで友達もいない。そして人が冷たい。「お・も・て・な・し」という言葉が当時あったなら、全力で否定したくなる感だった。俺は元々酒が好きだから、会社帰りに駅近くの店にいってみたことがあるけれど、どこもイマイチで楽しくなく、もっぱら家飲みばかりで鬱屈とした気持ちがあった。ぶっちゃけ2chで「トンキンが!」と煽ってた時期であった。
ある日、地元の人が書いているブログに出会った。書いてる人は大島さん(仮名)という40代後半のおばちゃん。自称「足立区の女王」。この人のブログが、俺の行動範囲をカバーするように飲み歩いていて面白かった。しかしこのブログは、普通じゃ一見さんは入らないような場末の雰囲気の飲み屋から、通過するだけじゃ気づかないようなマニアックな居酒屋まで幅広くカバーしていた。内容も、下手な食べログの記事以上にお店の詳細が載っていて、あちこちのお店とも仲がいいらしく、お店のおすすめ料理はもとより特色や店長のキャラクターまでも紹介されていた。
後に大島さんがTwitterをやっていることもわかり、早速フォローして、色々と雑談や情報交換するようになった。銀座のホステスをやっていたというだけあって、話も軽妙で聞き上手。そして下町に住んでいるからか、豪快でサバサバした感じが「40代女子(キャピッ☆」みたいなのとは対極なキャラクターで、話をしても楽しかった。
そんな大島さんと交流するようになって、足立区の、いや東京での生活が好きになってきた。それまで生活するにあたって不安で不満だったのは、その土地で住む人々の顔がみえなかったから。ブログを通して、そんな人々の顔が見えるようになったことから安心感が生まれ、ブログに出ていた色々なお店を覗くうちに、足立区での友達も増えてきた。2chで煽ることもなくなり、むしろ煽りを醒めた目で見られるようになっていた。
そんなある日大島さんが広島へ行くという話をTwitterで聞いた。道中、リアルタイムで流れてくる広島での居場所に対して、こっちが知っている限りの情報を提供した。今までブログに助けられた恩返しのつもりもあったが、なにより自分の故郷である広島を楽しんで欲しい気持ちでいっぱいだった。
「広島は楽しかったけど、東京人は冷たいと言われて寂しかった」
「僕も当初はそう思っていましたが、大島さんのブログを見て、そこにリアルに生活する人たちの息遣いを感じて、東京人が冷たいという考えは間違っていると知りました。そう思ってしまう人は、大島さんのような人もいるということを知らないんですよ。冷たい人はいるかもしれませんが、少なくとも大島さんのことではありません」
そんなレスを返そうとした矢先、
「東京でスカしてるのも地方出身者!東京で犯罪を起こすのも地方出身者!」
吐き捨てるような勢いで流れてきた。
スカしてるのが地方出身者?俺の知り合いで、日本橋の卸問屋の四代目がいるけど、バブルの頃は毎晩六本木でブイブイ言わせていたの自慢してたけど?
結局このおばちゃん「東京人=冷たい」とレッテルを貼る地方出身者と同じメンタリティで、逆ギレしてるだけじゃん。てゆーか、最初の頃方言が抜けなかった俺に対して、わざと言葉が通じないふりしていた「冷たい東京人」そのものじゃねーの?
俺は、大島のブログをブックマークから削除し、Twitterから大島をブロックした。狭いエリアなので会うことはあるかもしれないが、どのみち顔を知らない間柄。一説によれば、大島のバナーはボディービルダー時代のむきむきな体だが、悪あがきも虚しく連日連夜の飲食がたたって、ジャバザハットになっているらしい。どこかの飲み屋でたまたま隣り合ってもきみまつかないだろう。そこで仮に俺が地方出身者だと紹介してみたら、一体どんな目で見るんだろう。
普段テレビは見ないんだけど、わりとウォッチしてるはあちゅう@ha_chuがTVに出るということで。
まぁジレンマの内容についてはどうでもいいんだけど。
ここではあちゅうについて。
本名、伊藤春香。慶應義塾大学卒業。元女子大生カリスマブロガー・プロデューサー。卒業旅行にお金をかけずに世界一周。大学卒業後、電通に入社。トレンダーズに転職。今はよくわかんない。
はあちゅうは行動力があって、恋愛のコラムを書かせても(一級品とまでは言わないけど)良い。大学生の自分から見ると華やかな世界で生きている人だから憧れもあったりする。
「はあちゅう 整形」
「はあちゅう ブス」
なんてなかなか失礼なことになってる。
確かにはあちゅうはブスとまでは言わないけど、決して美人ではないと思う。
友達には「いい子だよー」って紹介するけど、彼女にはしないというか。
それくらいなのかな、って思う。
彼氏はいないけど、遊んだりデートする男には困ってないってことをブログで匂わせてる。
あっけらかんとセックスの話もするから、それなりに経験もあるんだろうな。
ここで、はあちゅうってなんでモテてるの?って考えてたんだけどさ。
もちろん見た目だけじゃないし、頭のキレる人みたいだからそういうところを評価する男がいる可能性もある。
彼女が「はあちゅう」じゃなくて「伊藤春香」だったらモテてないんじゃない?って。
男は、彼女じゃなくて「はあちゅう」を抱いたんじゃない?って。
多くの男はセックスしたがる生き物だと思ってるんだけど、
「はあちゅう」の肩書を抱いたんじゃないかなって感じた「ジレンマ」でした。
個人的に言えば肩書とかステータスっていう属性も含めてその人の魅力だと思ってるから
全く問題ないと思ってるんですよ?私は。
はあちゅうのことも好きだし。
「一般的に見たらブス(少なくとも美人以下)のくせに、男は寄ってきて恋愛もしてカジュアルな異性関係も楽しんで、華やかにキャリアを積んで(たぶん)金持ち」
ってところ、
「ブス(少なくとも美人以下)のくせにモテている」にあるってのに気が付いて、
こんなに文字数要らなかったな、ごめん。
ああああああああああああああああああああ
自由気ままだった4年間が終わり刑期40年の社畜としての人生が始まる。(3年以内で仮釈放され非人になる人も多いらしいがそれはそれで)
思えば大学生活ほんとなんもしてこなかったな
バイトもサークルもせず友達も誰一人つくらずずっと家にいた。大学とスーパーと家を往復するだけ。暇だから1,2年で単位ほぼ取ってしまって3,4年はほとんど家にいた。
2chしてアニメ見てゲームして漫画見たり、アプリ作ったり、スポーツ中継みたり、ネット小説書いたり、お絵かきしたり、料理したり。
大学の勉強は最低限の講義とテスト前日の1,2hの勉強しかしなかった。
他人からは糞みたいな時間の使い方だが自分的には最高に幸せな時間の使い方だった。暇だと思った瞬間はなかった。
唯一苦労したのは就職活動だった。正直に私はほぼ家に引きこもっていました。と言って採用するところがあるはずがない。自然に嘘が言えるようになるまでは苦労した。結局入ったのは2chの某業界の偏差値ランキングでは下の方でボロクソ言われてた企業だから結果うまく言ったとはいえないかもしれないが。でも希望の職種につけて、着きたくないと思ってた職種は回避できたのはよかった。
書いてて思ったのは2,3ヶ月の就職活動がこの文の中で大きな割合を占めてる時点で私の大学生活がいかに薄っぺらかったのかを表している気がする。この文を見た10年後の自分は果たして何を思うのか。やはり月並みに後悔するのだろうか。
基本「現代社会では女の方が有利だし女の方が生きやすい」って思ってる人の中身は女だと思う。
なぜなら世の中は、尊敬されるには男の方が有利で、愛されるには女の方が有利な仕組みだから。
女の方が生きやすい、女が羨ましい、女に生まれたかった…と思うのは、尊敬されるよりも愛されたい証拠。
そういう男は社会的要請によって男性的外面を取り繕ってるだけで、内面は女性的なんだよ。
美少女が登場するエロいフィクションの楽しみ方も、美少女を犯す側に自己投影しているとは限らなくなっているでしょう。
別にこれは現代の若者に特有の病理というわけでもなくて、女装して街に出るオッサンとかジイサンとかって昔から居たよね。
男にも「性的視線を浴びたい欲求」を持つ人が居るんでしょう。男らしくないといって圧殺・黙殺されてきたけど。
で、「性的視線を浴びたい欲求」だけをみたすには、男に生まれるより女に生まれたほうが断然有利。
若い女だったら多少ブスだったりデブだったりしても、露出の多い格好すれば、浴び放題だからね。(同時に軽蔑の視線も浴びることになるけど)
ここで考えたいのは、性的視線を浴びたい欲求を持つ男はなぜ不利なのか、ってことだよ。
わたしは、
・男の価値は性的魅力ではないので、男は性的視線を浴びたがるべきではない(そういう奴は男じゃなくて女の腐ったような奴だ)と思っている男
・男は女の性的価値を認めて金を払ったり面倒を見たりするべき存在なので、男自身が性的視線を浴びたいなどと望むべきではないと思っている女
こういう人間が寄ってたかって「気持ち悪い!」「甘えんな!」と言って迫害したり、特殊な変態の事例として"わたしたちの社会"から切り離したり、
存在自体を見なかったことにしたりして、性的視線を浴びたい欲求を持つ男を圧殺してきたからじゃないかと思ってる。
(というより、わたしの両親がまさに、こういう男とこういう女だった。でも両親だけでなく2chの恋愛板なんかでもこういう言説は頻繁に見るし、
リアルでも保守的な年上の人らはこういうこと平気で言うよ。で、わたしは「すべての攻撃は過剰防衛だ」と考えているので、
差別意識や嘲笑や頭ごなしの否定などをかます人は、何か絶対に守りたいものがあってこういう行動を取っているんだろうなあと邪推している)
わたしは、男が性的視線を浴びたい欲求を持つことを悪だとは思わないな。犯罪さえ犯さなければ好きにしたらいい。
前段落で挙げたような人たちにとって不都合な欲求だから、利己的な理由で悪と認定されてきただけなんだと思う。
悪認定とまでは行かなくても、嘲笑の対象にするような人もいっぱいいるよね。
でも人の性欲を嘲笑すると、その嘲笑的視線は自分の性欲に対して跳ね返ってくる。
自分の性欲を客観視して、人から嘲笑されないよう怯えたまま、一生自己開示出来ないまま生きていくことになりがちだ。
みんな嘲笑しないし嘲笑されないようになればいいんだけどね。(まあ、無理だろうね)
だから要するに中身が男の女でも、中身が女の男でも、どっちでもいいと思うよ。
もちろん中身が男の男も、中身が女の女も、いいと思うし。
二村ヒトシすごくいいと思う。AVは見たこと無いけど、彼の主張がかなり好きだ。
前からなんとなく感じていたことが、彼の主張を読んでまとまったり補強されたり、っていう部分は多いね。
「女に生まれた人間の既得権益」が羨ましくてイライラ・モヤモヤしている男は、彼の記事を読んでみたらいいんじゃないかなと思う。