はてなキーワード: ユアン・マクレガーとは
今現在不登校に悩んでいる中学、高校生の中にも死んでしまいたいと思って日々の時間が過ぎていくのをただ待っているだけの生活を送っている人がいるかもしれないけれど。地獄のような生活から逃げ出したい一心で自殺を考えている人には、少しだけでも楽しいと思えることができる日が来るのを待っていてほしい。どうか自殺へと行動を移さずに、今も流れ続ける時間を忘れられる方法で一日を過ごしてほしい。
そんな思いで書いています。
成人して数年、久しぶりに一本の煙草を吸ったらいろいろな記憶が蘇った。あの頃までは元気になんでもできるような気がしていたのに、ある時をきっかけに学校へも通えなくなった。
時を遡ると、高校に入学した15歳のころ。ある程度の学力がある人々が集まっていた高校なのに、私のクラスではいじめがあった。被害者はNくんとしておこう。Nくんは比較的活発なグループからまずいじめられはじめ、もともと彼が仲良くしていたおとなしめのグループからもいじめられるようになった。彼がいじめられる姿を見て、情けない姿を皆が嘲笑うようになった。私はそこに存在するただの傍観者だった。
時々、私は彼と帰った。Nくんは太鼓の達人が大好きで、放課後のゲームセンターで上手なプレイを見せてくれた。彼は確かに挙動不審なことが多かったが、それでもいじめられる理由にはならないはずだった。私はその中で、彼がいじめられ続け精神的に追い込まれ部活も行けなくなったこと。勉強も手につかなくなったことを知った。それでも私は彼とたまに帰宅する程度の仲を保っていた。
このころ、母が国指定の難病に罹患してしまった。そして私は最低の行為をしてしまった。うつ病の薬のこともあり記憶にもやがかかっているが、自分が最低のことを母にしてしまったことは覚えている。
体調を崩し脱衣所で四つん這いになったままの母に、私は「何してるの? 大丈夫?」という声をかけながら、心の中では私だって忙しいしつらいのになんで家事をしてくれないんだろうと母を責めた。もちろんそれは口に出さなかったが、それと同じくらい非道な言葉を母に投げかけた。
「体調が悪いふり?」なんて、今考えるとどうしてそんなことを言ってしまったのかわからないほどの言葉を投げかけたのだ。当時私は母が何に苦しんでいるのかつゆ知らず、難病のことも知らされておらず気を許せる友達もいない戦場のような高校に必死に通っていた。
母はまもなく入院となり、それが信じられなかったのかもしれない父は私には何も教えなかった。家庭から笑顔は消え、父は仕事、私は学校へ通い夜は二人で家事をするという無機質な日々だけが続いた。
母が数か月後家に帰ってきたとき、彼女は骨と皮だけのような姿になっており、帰ってきて階段を上がりきった途端にリストカットするような素振りで「死にたい」と何度もつぶやいていた。私は綺麗だった母が幽霊のようになってしまったこと、悲壮感に溢れた声にもならない声で言ったことに大きなショックを受けたことは覚えている。
数か月後、母は元気になった。朝に起きられるようになり、私の朝ごはんを作ってくれるようになるまで元気になった。抜け落ちていた髪も、青々と茂る夏の木々のように生えそろった。
朝ごはんを食べ終わり、自室に鞄を取りに戻って登校しようとしたある日、私は階段を下りながら涙を流してしまった。すすり泣く私を母が見つけ、その日は学校を休んだ。思えば、この日が私の不登校と出不精のはじまりになってしまった。今思うと、知らぬ間に心にダメージを負っていたのだと思う。
この数か月前から、授業を聴いていても何も頭に入らず、自分がひどく落ちこぼれたような気がして意気消沈していたのを覚えている。数学のテストでは一桁の点数を取り、頭の良い生徒ばかりの高校ではあり得ないほどの点数を取った私は、周囲から馬鹿にされた。盗み見られたその点数を見て。Nくんをいじめていた悪魔から「あたまわっるいね、馬鹿になっちゃった?」と言われたことを、今日煙草を吸いながら思い出した。
体調が悪いと言って登校しなかったその日から、私は完全に学校に行きたくなくなった。もうすぐ高校二年生になるころだったのに、私は自宅でうつろに日々を過ごすのみだった。このあたりの記憶は防衛反応によるものなのかほとんど残っていない。覚えているのは、今でも大好きな昔の映画を観たり、小さいころに観ていたポケモンのアニメを見ながら昔は良かったなと思いを馳せていたことくらいだ。まるで老人のようなその生活を見た母は、私を精神科へと連れて行った。そこでひとまず一種類の薬を飲むようになり、だんだんと種類が増えていったあたりから私は昼過ぎまで起き上がれなくなった。
こうして”立派”な不登校になった私は、デ・ニーロのグッドフェローズやダニー・ボイルの(ユアン・マクレガーの名前を出したほうが分かる人が多いかもしれない)トレインスポッティングを観たり、破滅的な思考をなんとか創作の中で味わい続け、自殺を耐えていた。
詳しいことは知らないが、3年生に上がるころ担任から「3年生になると2年生のころのように不登校のままだと卒業ができなくなってしまう」ことを告げられ、私は仕方なく登校を再開した。
正直2年生のころも同じようなことを言われて、もうどうせ進級もできなくて中卒不登校のひきこもりになってしまう未来しか見えていなかった私は、4月から懸命に学校に通った。死にたいことを何度もほのめかす私を。父と母は応援してくれた。父は通勤用の車を私のために家に残し、毎日40分近く自転車を漕いで通勤していた。母は私を学校と自宅まで送迎してくれた。毎日だ。
途中、休むときもあったが基本的には登校ができていた。Nくんへのいじめが常態化していたクラスにいたことで脳にダメージがいっていたのか、相変わらず記憶が思うようにいかず勉強はさっぱりできなくなってしまっていた。1学期、定期テストではひどい点数を取り、受験どころか卒業が危ぶまれた。担任から何とかならないかと言われたけれど、何とかなんてならないことは私が一番分かっていた。
あのころどうしていたのかは分からないけれど、2学期からは死に物狂いで勉強をし、数学では及第点、1学期で0点に近かった世界史のテストでは90数点を取った。とりあえず3学期もまた90点ほど取れれば卒業はできるだろうと考えて、3学期も同じくらいの点数を取った。記憶がうまくできなかったので、本当に反復の反復、さらに反復のような状態だった。(今では治った)
大学ももともと目指していた高偏差値のところなんて行けるはずもなく、必死に受けたセンター試験を利用してそこそこの大学に入った。幸い、高校に入学するまでに相当勉強していたのでほとんど勉強しなくても9割近く3教科は取れたのだ。それでも自分にとってはショックで、大学に入っても落ちこぼれた印象はずっとついて回った。
心を入れ替え大学に通い始めたけれど、不登校の癖がついてしまっていて社会的生活に恐怖を感じていた私は、数か月で電車通学が苦しすぎて中途退学してしまった。
今、その大学に入りなおしてそろそろ卒業を迎える。内定も得て、自分のやりたかった職業にチャレンジできる未来が見えている。
それでも、いじめを見て疑心暗鬼になっていたことの私の時間は帰ってこない。電車に乗って高校生を見ると、あのころ違う高校に通っていればあんな思いもせずに記憶障害のようなものに悩まされることもなかったのかもしれない、と思ってしまって稀に目に涙が浮かんでしまう。
それでも時は流れ、日々は続いていく。あの頃は帰ってこないし、私ももう20台中盤だ。物事に折り合いをつけられるようになり、バイトまでできるようになった。他人と話すのが怖かったくらいだったのに、今ではコミュニケーション能力も高いよね、と年齢が上の方々からも言っていただけるようになった。(バイトを通して苦手だったコミュニケーションを何度も何度も練習するつもりで磨いた)
今、どうしようもなく不安になってこの日記を書いてしまったが、最近はうつ病のような症状も収まりひきこもる頻度も減った。それでも時折、元気がなくなると数日ひきこもってしまう。大学生活だってストレートにはいかなかった。体調を崩しひきこもった瞬間もあった。
それでも父と母は私を理解してくれ、応援してくれた。父に関しては昭和の男だから鉄拳制裁を喰らって殴り合いのけんかになってしまったこともあるけれど、いつの日かを境にうつ病を抱えている私を理解してくれるようになった。遊びに誘ってくれたり、断っても体調が悪いなら仕方ないと理解してくれるようになった。
うつ病の薬を断って、大学でのストレスからやせ体形だったはずなのに食にストレスをぶつけてしまって今では30㎏ほど増えてしまったし、今の体形の自分は嫌いだけれどそれでも毎日を楽しくは過ごせている。だからこそ、今不登校に悩んでいたり死んでしまいたいと思っている中、高校生や学生の同じくらいの年齢の方々に伝えたい。
どうか諦めずに、つらい今は好きなことをして時間が経つのを待ってみてほしい。
男だから泣くんじゃない、女だからはしたないことなんてするななんて声は無視してしまえ。男だって泣いていいし、女だって冒険をしてもいい。
頼られて、相手が求めていることをしてあげたら喜ばれるし、何より自己効力感みたいなものが発生して、頼ってきた相手に対して軽くマウントが取れるような気がするし。
3年半前から仲良くなった友人がいるのですが、彼女はASD的な行動の傾向があり、人間関係の悩みが多い人でした。
彼女の人間関係の悩みを私は相談に乗りアドバイスをする、私から彼女には相談事や共感してほしいことは一切話さないで、私は聞きくこととアドバイスすることに徹するということが多い関係でした。
そもそも彼女は会話が苦手でした。こちらが世間話のような話を振っても、話が広がることはありません。嫌なな出来事があったことを聞いてもらおうとしても、共感するような素振りはなく、掘り下げてもくれることもありません。また、私の趣味の話をしても全く関心なしといった様子です。こちらが興味を持ってもらえるような話をできないという落ち度もありますが。逆に私が彼女の趣味や推しの話などを振ってあげると嬉々として話し、延々と自分の話を続けるのです。彼女は、私が話を聞いてあげているときと同じような密度と品質でもって私の話を聞いてくれることは全くありませんでした。
例えば、彼女は海外の俳優が好きなので、彼女が「最近ユアン・マクレガーにはまっている」といえば、私は「彼のどんなところが好きか、いつ好きになったか、彼の出ている作品で何が好きか」といったような質問をして話を掘り下げるのですが、私の好きなものの話、例えば鬼滅の刃の話をしても、「何がおもしろいのか、誰が一番好きか、いつから好きになったのか」といった具体的なことを聞いてくれず、「そうなんだ、ジャンプ系っていろいろあるよね」みたいな同意とも共感とも取れない、しかし掘り下げではない絶妙な相槌しかしてくれないのです。(たいていこう返されると沈黙が発生するので私が次の話を振るのですが)言葉で表現するのが難しいのですが、彼女からは私のほかの友人とは「何かが決定的に違う」感覚が会話をしていると如実に感じられるのです。
そんな彼女が自分自身に発達障害的な特性があることをカミングアウトしてきたのは知り合ってから2年目の時でした。その時彼女は「話し言葉で伝えられたことを理解するのが難しいからASD的な傾向があると医者に言われた」と言っていました。そのカミングアウトで初めて発達障害というものを知り、ADHAやASDという発達障害の特徴があることを知りました。
彼女は元ひきこもりだったので、コミュニケーションの経験が少ないから会話の機敏が分からないだけの「普通の人」だと私は思っていました。
しかしそのカミングアウト以降、私はこう考えるようになりました。「彼女に対してほかの友人と同じような、お互いが気持ちよくなれるコミュニケーションを期待するのはやめよう」と。その日を境に私は彼女を承認欲求を満たすための道具として見るようになりました。
そもそも私と彼女はほかに共通の友人がおらず、遊ぶ時はいつも二人という状況でした。そして私は彼女に何も期待していないので、遊ぶ時も彼女の悩みや話を聞くというようなことがほとんどでした。大体、月に1~2回は彼女とこのようにして会っていました。予告なしの悩み相談の電話は月に4~5度ありました。
このようにして彼女の悩みを聞くことで私自身は自己効力感を感じることができ、彼女に対しての優越感を感じられたので非常に気分がよかったです。
このようにして私は彼女から頻繁に頼られていたのですが、それが最近めっきりなくなってしまったのです。
今から五か月ほど前に、彼女は工場の仕事を辞め、住んでいる地方の町から東京に引っ越しました。彼女は自分の生活を変えるためにと言って東京へ行きました。
軽い送別会のようなものを二人だけでしました。私は「あっちでも頑張ってね」といった月並みなことを言いまいした。
私は彼女が心配でした。また彼女が人間関係で悩むのではないかと。でも、悩んでしまえとも思いました。心から彼女の成功を祈っていませんでした。
彼女が東京で暮らしてから四か月ほどは例のように相談の電話がありました。父がいかに厳しい人間だったか、父が引っ越しに対して何も興味を示さなかったといった話を四か月半の間にかかってきた電話の7回のうち5回はしました。話から聞くに就職先は決まったようで、仕事を覚えるのが大変だということも言っていました。
最後の電話があった、今から1か月まえから彼女からの電話やlineが途絶えてしまったのです。
でも私は心配にはなりませんでした。そのかわり苛立ちがありました。なぜ私を頼ってこないのだと。
私から彼女に連絡することはめったにないのですが、先週に電話をしてみました。どうせ前と同じ消耗をしているのだろうと思いながら電話をしていいかlineをして、電話をすることを彼女は了承しました。
彼女から電話で話を聞くと、消耗しているどころか新しい出会いを楽しんでいました。彼女は街コンで知り合った人と仲良くなり、その仲良くなった人のつながりでバレーボールの社会人サークルに入ったのです。彼女が言うには、サークルの人はみんないい人で、彼女は親密な人にしか呼ばせてないあだ名でそのサークルの人から呼ばれるようになった、ということやみんなでデイキャンプに行ったことなど楽しかったエピソードを言っていましたまた、彼女は私に、よかったらそのサークルに顔を出してみないかと提案してきました。
彼女は今までこんなにたくさんの人と仲良くなれたことがなかった、と言っていました。
私は「いい出会いがあって本当によかったね」とまた月並みなことを言いました。
電話を切ったとき腹が立ちました。なぜ彼女は消耗していないのだと。なぜまた同じような人間関係の悩みで私を頼ってこないのだと。なぜまた孤立していないのだと。なぜコミュニケーション能力が貧弱な人からそんな提案をされなければならないのだと。なぜ街コンに行って男性と打ち解けることができるのに、今まで私の話を聞いてくれなかったのだと。
そんな彼女を取り巻く環境の変化があっても、彼女自身は変わってませんでした。私の話を一切掘り下げて聞いてくれないことと私の近況の話をしても全く話を広げてくれないことは変わってませんでした。
そして、私自身が彼女に対して執着し過ぎていることもわかりました。
私が何のために彼女とつるみ続けているのかも考えました。彼女を見下して優越感に浸ることもできないし、彼女は私の期待に応えてくれない、そう考えると自分に嫌気がさしました。
対等でない「友人関係」のようなものを続けてることは不健全だと思ったし、相手に何も期待できないのに関係を続けても無駄だと思ったのです。
総括
私はもう彼女に対して「一般的な友人に対する期待」を持てないのは確かです。また彼女が自身のASD的な特徴のせいでサークルや職場で理解のない扱いを受け孤立しても、支援者的な立場で彼女と接することはないし、もちろん友人として接することは今後一切ないです。かつての彼女にとって私との関係が救いだったとしても、私にはそれは重荷でした。だから、頼られることによる承認欲求を得るための道具としてしか彼女を受け入れることができなかったのです。彼女自身につらいことがあって相談に乗ってあげたことは何度もありました。彼女を便利な道具として扱っていたことは確かですが、それでも彼女の悩みが解決すればいいなと少しは考えて相談に乗っていました。ですが、彼女はわたしにつらいことがあっても「わたしと同じような対応」をしてくれないのです。以前、一緒に濡れてほしいのですと言った生きづらさ系のポスターがありましたが彼女は私に傘をくれる段階すらいないのです。それは友人としてとても虚しさがあります。
傘よりも、一緒に濡れてくれる方が、うれしい。 pic.twitter.com/G2WBArXt3c— メンヘラ.jp (@menhera_jp__) 2018年11月8日
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おそらく今後彼女からの連絡が少なくなると思います。私はそのまま疎遠になって関係が自然消滅していまえばいいなと思っています。
「スターウォーズ」の父息子要素の扱い方はかなり好きだけど、ギリギリ主題ではないと思ったのでノーカウント。マンガだけど「鋼の錬金術師」も同じ。「ゴッド・ファーザー」はマフィアものにカウントされている。
複数の父息子を扱うと、子供はより重要になる。無垢さが傷ついたり、顕著に成長したりも。成人した息子と老父も好きですが。
血縁だけが息子じゃない!養子関係はもちろんのこと、師匠と弟子という関係でも、弟子が師匠に父親の影を見れば、父息子映画になりうる。
対比があると、よりテーマ性が際立つので。擬似息子と実の父息子、子供と大人など、組み合わせの妙が楽しめる。
物語全般への好みです。
王位を争うなどのパターン。「ゴッド・ファーザー」も1より2のほうが父息子要素は強い(私のなかで)。兄弟争いも別のツボは突かれますが。
骨肉の争いが見たいわけじゃないんだよね…。
基準を全部満たしていた!どこを切っても好き!
「そして父になる」
家庭内で母親も絡むけれど、父息子要素ド直球なのと映画自体の質が非常に高いこと、「与える側が与えられている」という自分の大好きなテーマに収束したので。
これも、好みじゃない要素が混じっているのに大好き!ユアン・マクレガーの魅力、ティム・バートンの物語への愛情が見えたのもツボだったようです。
映画自体は好きですが、おじいちゃんの挙動のおぼつかなさにハラハラしてしまった。いたわりよりも、超克のほうが好みなんです。
「MUD」
基準をすべて満たしているのに、そこまでツボではなかった。「スタンド・バイ・ミー」タイプのひと夏の冒険ものに見えたからでしょうか。
前情報入れずに見て、途中で「やったー!父息子映画だー!」と気付いて脳内で万歳三唱しました。だから、過剰な補正が掛かっていると思います。超暗いし長い。