はてなキーワード: 小鳥とは
私が子供の頃、公園で小鳥が死んでいたことがあった。 死んでいる小鳥を囲んで他の子供達は泣いていた。
私は素早く小鳥を掌の上に乗せて、母の所へ持って行った。
母は 「小鳥さんかわいそうだね、お墓作ってあげようか」
私の頭を撫でて優しく言った母に、私は「これ、食べよう」と言った。
「え?」
母はぎょっとし隣にいた他の子のお母さんも驚いたのか目と鼻と口が一斉にガバリと開いた。
その人が私の手元を凝視しているのを見て、
そうか一羽じゃ足りないかと思った。
「もっと取ってきたほうがいい?」と聞いて
二、三羽並んで歩いている雀に視線をやると
母が咎める様な声で叫んだ。
「小鳥さんはね、お墓を作って埋めてあげよう。皆も泣いているよ?死んじゃって寂しいね。かわいそうでしょ?」
「なんでせっかく死んでいるのに食べなきゃもったいないじゃん」
私の疑問に母は絶句した。
私は家庭で喜んで鶏肉を食べているところしか想像できなかった。
母は懸命に「小鳥さんは小さくて、かわいいでしょう?あっちでお花をお供えしれあげようね」
と言い結局その通りになったが私には理解できなかった。
皆口を揃えて小鳥を可哀想だとか言いながらその辺の花の茎を引きちぎって殺している。
「綺麗なお花。きっと小鳥も喜ぶよ」と言っている皆が頭がおかしいのかと思った。
作られたお墓を見て母は「ほら、悲しいねかわいそうだね」と母は何度も言い聞かせるように囁いたが私はそう思わなかった。
こういうことが何度もあった。
せっかく愛知県在住なんだしと思って行ってきた。メモがてら書く。
どんな作品が展示されてるかは主催側が用意したサイトがあるから、そちらを見てもらった方が良いと思う。 https://censorship.social/artists/
会場は愛知芸術文化センター8階。名古屋の中心部にある地下鉄栄駅から直結。トリエンナーレのメイン会場は10階で、そこでチケットを買ってから下りる形になる。ちょっとわかりにくかった。
「表現の不自由展」というくくりで、あくまでもトリエンナーレの展示の1つ。割当も他の展示と同じ「1部屋」で、映像作家の作品を大画面で流してるだけの部屋と同じ。展示場所は会場の中では角地にあたり、ここを見なくても他の展示を見れる順路になってる。また、薄いカーテンで区切られていて、その前に、展示の趣旨や「SNS公開禁止」の注意書きが書かれている。
薄いカーテンの向こうは、結構な人口密度。他の展示とは明らかに違っていて、関心の高さを伺わせた。ただ、これは展示レイアウトも悪い。入り口すぐの廊下状の細いところで、そこそこ長い映像作品(「映像・遠近を抱えて」)を流してるから、そこで人が滞留してしまうのだ。
入ると大浦信行「遠近を抱えて」。昭和天皇肖像写真のコラージュ作品。1986年に富山県立近代美術館での展示が問題視され、図録も焼かれたという。「本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる」という言葉が浸みる。
また、その後に作られた同趣旨の映像作品が流れている。戦中の音声に乗せて「海ゆかば」が流れる。年配の女性がそれに合わせて口ずさんでいた。その次の従軍看護婦の手記の朗読では、その人は涙ぐんでいた(隣の若い女の人も)。そして、その後、昭和天皇の肖像が焼かれるシーンに移るのだが、そのシーンではなんとも言いがたい表情をしていた。
ちなみに、映像を見ていたら、金髪の芸術監督が通っていった。ちょくちょく様子を見に来てるのかな。
大きな音ではないが、ヘイトスピーチの音声が聞こえる。展示の1つとして、慰安婦写真展示への反対活動のドキュメンタリーが流されていた。
正面に慰安婦像こと「平和の少女像」。やはり客の関心は高そう。
説明文として「《平和の少女像》に込められた12の象徴」という説明文。肩にとまっている小鳥や手の形などの意味についての説明がある。像の後ろに「ハルモニ(おばあさん)になった影」が描かれているのは初めて知った(画像を見ると大使館前の像にも影がある)。
椅子は自由に座れる趣旨のことが書いてあった。写真を撮る人が途絶えたタイミングを見計らって座ってみたら、スタッフ札を付けた人に声をかけられた。「叱られるか!?」と思いきや、「写真を撮りましょうか」と。撮ってもらったら、なんか囚人みたいな写真が出来上がった。他に座る人はあまりいなかった。自分がいた間で、他に1人ぐらいかな。
個人的に興味深かったのは、Chim↑Pomの「気合い100連発」「耐え難き気合い100連発」。福島県相馬市の若者達がガレキの中で円陣を組んで「気合い」を入れる様子を描いた映像作品。「福島ガンバレ!」「彼女欲しい!」とか叫んでる中に、「放射能最高!」とかヤケっぱちの言葉が混じる。「国際交流基金よりNGが出た」ときに提案した「NGワードをぼかすような編集」版と同時に流れていて、そちらは、たまに「ピー」音が入って英語字幕にも黒線が入る。編集版と同時に流すことで、ある意味完成した形にも見える(ちょっとヤラセくさくも感じた)。
観客の様子も気になっていたのだが、本当に「普通の人たち」という感じだった。普通の美術展よりは、少し若め&男性が多めだったかも知れない。
「映像・遠近を抱えて」の前半部分は、かなりの人が涙ぐんでいた。それだけに、後半のパートの衝撃は大きいだろう。まさしく現代芸術だ。
最後に。
「抗議の声も含めて作品」「政治家の横槍も含めて作品」と言う人もいるが、「表現の不自由展」は、この一部屋だけで作品としてしっかり完結していると感じた。「表現の自由への反対」という声すら守れない、あるいは何の罪もない職員が身の危険を感じるような状態は、決して看過してはいけないだろう。
オタク趣味は一般的になったんじゃなくて、誰からもその弊害を忠告してもらえなくなったんだと思う。読書、バーベキュー、楽器、フットサル、語学、その他習い事のほうが人生を豊かにすると教えてくれる人がいなくなったのよ。オタクは大企業にとって一番騙しやすいカモだから。— Moritsugu Keiko 森次慶子 (@W_Fei_hung) 2019年6月15日
そうそう!
これなんだよなぁ。久々に膝を打った。アニオタってぜーんぶ受動的なのよ。
食い終われば「次のアニメまだですかー?」ってな具合。
お口をあんぐり開けてパクパクする小鳥のようだ。みっともないったらない。
こんなことの繰り返しで五年・十年経っても人間的な深みや教養なんて育まれるわけがないだろう。
類は友を呼ぶで周囲も白痴みたいな奴が増えていくんだけど、その異常さに気付く社会性が身に付かない。
で、これに対する反論で間違いなく来るのは「同人活動は能動的だろ!」というやつね。
題材になるアニメが違うだけで毎回同じことやってるだけでしょう。
以上。
デレマスは相変わらず良く燃えここでの増田の肥やしになってるがちょっと本家765の話がしたい、正確にはそこにいた絵師達の話。
直球で言えば今まで765の13人+小鳥さんしか描いていなかった絵描きが他のアイマスキャラと並行して描くようになった。しかもその比率は徐々に765が減り、最悪765を描かなくなった人も多い。
さらに酷いことに765の話題すらしないようになった。今や話題になる展開すらないせいではあるが…決定的なのは誕生日を祝う絵すら描かないことだろう。体裁を保つためか765関連の絵をRTする程度の絵師は本当に良く見る。
なぜこんなことになったのかと思えば、2年前のステラステージの時点でアウトだった気がする。グラフィックがとにかく進化したことは話題になったがいかんせん発売以降の話が少なかった。
絵師というのは基本的に作品の人気に敏感なものである。特に商業に関わっている人間ならなおさら。残念ながら沈む船という判断が下された模様。