はてなキーワード: 多神教とは
増田諸兄も予想してたと思うが自民の金が2chに流れていたらしい。
まあそんな事はネトウヨ以外の殆どの人間が予想していただろうが
自分が気になったのは情報統制コンテンツの消費速度が明らかに加速している事
多神教の消費速度>数千年
一神教の消費速度>2千年
新聞>数百年
TV>数十年
インターネット掲示板>数年
この先情報統制は価値をなくして、先進国でも発展途上国並みに政権批判に対して罰則でも設けられるんだろうか。
とおもったがこの考え方はおかしいな。権力者が2chを捨てるとは思えない。
仮にジムにバックがいなくて2chへの反乱だとしたら2ch>自民>CIA経由でジムはフィリピン海に沈む。
考えられるシナリオとしては
1.日本独立計画説・・・アメリカからの独立を画策し始めた勢力が日本国内にいて(おそらく自民に近い勢力)、アメリカが自民潰しのために2chの内情を暴露した。
2.アメリカの支配強化説・・・アメリカの日本に対する統治が強まり、既存の支配者層である自民=2chのリストラが行われている。
個人的に説1当たりが正しい気がするんだが、まだよく分からんな
日本人はなにかトラブルが起こった時、裁定者を求めるのが普通である。例えば、駅前に停めてある自転車が邪魔だと思ったら、自分で自転車の所有者に文句をつけるのではなく、市役所や駅員にどうにかするよう言いに行く。
これは日本人の個の弱さだ、と喝破する論説を読んだことがある。その時私は、これは日本人なりの文明的な態度なのだ、という感想を持った。揉め事が起きた時に当事者同士で言い争うのではなく、第三者に訴えて両者裁定を待つのが日本人的だと思ったのだ。
そんな日本だからこそ裁判を活用しそうなものだが、日本は訴訟国家ではないというのがアメリカと比べての結論らしい。とすると日本では裁判沙汰になる前に決着が着いてしまう、ということなのだろう。裁判官以外の第三者の裁定で納得してしまうのだという推測ができる。
なるほど、これはたしかに個の弱さだ、と今になって思う。
この日本人的な気質がどのように作られたのか、というと、その答えは天皇陛下の存在以外にはない。あの戦国時代でさえ、各武将は「陛下のため」というお題を錦に掲げていたのだ。日本人には従うべき絶対者がいる、というのは多神教が支配する日本の中に存在する一神教的な点であり、非常に興味深い。
さて、島国日本ではそれでよかったが、翻って大陸ではどうだろう?同じ神を信じる者同士であれば司教などの裁定が通じたが、宗教が違ってしまうとそれも出来ない。つまり、どこまでも個以外に頼るものがなく、個と個の激しいぶつかり合いがあった。それは、彼の地で生まれ育った人々の気質にも大いに反映されているはずだ。というか、そうした個の強さこそ世界のスタンダードだといえる。
日本が外交をする際に、こうした日本人と世界一般の人々の気質の違いを踏まえていないと、大変な火傷をすることになるだろう。
例えば領土問題。この問題を国際裁判所に訴えればいいという言論があるが、これは一概にそうとはいえないのではないか。これは日本人同士の争いではなく、国と国の争いなのだ。人種はもちろん宗教も憲法も違う国と国の争いを裁定するのは何者なのか。その裁定にはどんな意味があるのか。これを、普通の裁判と同じように考えてしまってはならない。
国際裁判所には、裁判は争いあう両国の同意があって初めて成立する、という大前提がある。これはある意味当たり前のことだ。国という個が裁判結果を受け入れる姿勢がなければ意味が無い。司法裁判でもないからなんの強制性もない。だからこそ、どこまでも個がぶつかり合う国際社会の場では裁判という問題解決方法はあまりにも意味を成さないのだ。
つまり、国際社会に日本の主張を受け止めさせたかったら、どこまでも主張を続ける以外にない。第三国の裁定も裁判と同じだ。争う両国にその裁定を受け入れるという最低限の同意がなければならない。誰かに問題の解決を頼むのではなく、自力で問題解決に向けて行動するしかないのだ。
まぁそれも誤解なんだけどね。実際には、彼らが言う厳格な無宗教・無神論の人間なんてほんの一握りしかいないよね。
(最近は「いただきます」の意味すらしらない馬鹿が増えてるらしいが)
実際、海外と仕事するにあたって、それなりに日本のことを説明できるようになる必要が出たので、日本人の宗教観については英語で聞かれてもちゃんと説明できるつもり。一神教と多神教の違いから入り、日本では8ミリオンゴッズだと言い興味を引き、トイレにすら神さまが宿ると信じられているという話で笑いを取り、そこから「日本人の宗教観は相対主義(relativism)に近く、仏教とアニミズムや太陽信仰がルーズにミックスした状態でどちらかというと日常に暗黙的に(implicit)存在するのだ。だから日本人はあまりあなたがたが言うような信仰の形式は持っていないが、日本の街は比較的(遠慮した言い方)安全だし、おおよそ清潔が保たれるし、時刻にも正確だし、コミュニズムは流行らなかったし、個々の人間も職業倫理が高いのだ(と私は考えている)。」という話までするよ。
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
多神教がどうとか、食文化がどうとか、本当にくっだらないと思う。ちゃんとラヴクラフト嫁と思ったのでつらつらと書いてみる。
ラヴクラフトのクトゥルー神話が「ホラー」であるのは、「おれたちの信じているキリスト教の神さまの他にも神様がいるなんて!」ということではない。
ラヴクラフトのクトゥルー神話が「ホラー」であるのは、「自分の信じていた世界観はじつは嘘っぱちだ」ということにある。
例えば、俺は生きてメシをくって仕事をしてSEXをして子どもを育てるわけだ。
俺は日本という国に生まれて、その文化や自然や人々の共同体を愛しているわけだ。
そんな平凡な俺っちが、クトゥルーという存在を知ってしまうと、その全ては無価値なものだということに気付く。
日本という国も、そこで千年だか二千年だかの間にはぐくまれてきた文化というやつも世界全体から見た場合には実は無価値なのだ。
俺たちの人生や世界というものは、いってみれば犬の毛の中に住むダニたちが作り上げた世界と同じようなものだ。
それらは、クトゥルーがちょっと身じろぎしただけでも崩れ去るわけだし、今自分たちの所属している世界観が崩れ去ることは予め決まっている。
自分が生きていることも、生きて何か仕事を残したとしても、子孫を作ることも育てることも、それはすべてクトゥルーの前では無価値なのだ。
そういう認識に立った場合、俺は自分の存在することの意味が見いだせなくなる。
じぶんがここに存在することも、自分の子どもが存在することも、自分の親が存在することも、自分がなにかに努力していたとしても、何かに幸福を感じたとしても、それは全て意味がないのだ。
自分が拠って立っていた世界観が崩壊して、たったひとり、自分が何者かもわからなくなって虚空に落ちていく感覚。
おれ、大学のときラヴクラフト全集3冊読んだぐらいだから間違ってたらすまん。
それは魚介類だとか、自分の信仰だとか、そういうのとは本当にまったく無関係に「怖い」とおもったし、救いようのないアンハッピーエンドで終わる「セカイ系」のラノベ短編集みたいな感覚で結構面白かったよ。
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
この記事のブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/umiurimasu.exblog.jp/12210453/)が300を超えたので、逆張りというか、疑問に思った2点、『アメリカ人は本当にタコが嫌いなのか?』『「怖い」という感情に「一神教」と「多神教」は関係あるのか?』ということについて、考えてみる。
ブログ主のumiurimasuさんに対する反論というよりかは、ブックマークコメントの傾向に対する反論である。
1
>>ちなみに、魚介類を食べるのがあたりまえな島国文化圏の人からすると、アメリカ人のタコ嫌いというのは、それこそ冒涜的なまでに理解を絶する感覚ですね。
イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、韓国……などの国々は島国ではなく半島国だが、タコを食べる。中国でも食べる。
また、アメリカには昔からイタリア系、スペイン系、ギリシャ系、中国系の移民は多かったし、ポルトガル系や韓国系も少なからずいた。彼らはアメリカでも昔からタコを食べる。
しかも、いまでは寿司や日本料理、イタリア料理やスペイン料理、ギリシャ料理や中国料理はすっかりアメリカ全土に定着した。だから、イギリス系やアフリカ系のアメリカ人でもタコを食べる人は多い。
なので、これは「アメリカ人のタコ嫌い」ではなく「ラヴクラフトのタコ嫌い」にするべきではないか。
「昔のWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のタコ嫌い」にしてもいいような気もするが、やはり、「食べない」からって「嫌い」には直結しない。
タコが全面的に禁忌(「食べてはいけない」)とされているのはユダヤ教であり、キリスト教では一部の宗派のみ。
そもそも、「アメリカ人(あるいは、欧米人)はタコを悪魔の使いとして忌み嫌っている(忌み嫌ってきた)」という説は日本に広く流布されているが、本当なのだろうか。
この説の傍証は、タコは英語で「devil fish」と言われること、および、「クトゥルフ神話」や「宇宙戦争」などでタコが人間に敵対する悪役として描かれているから、ということである。
まず、「devil fish」であるが、現代のアメリカでタコを示す言葉のうち、一般的に使用されるものは「octopus」である。
「devil fish」でgoogleの画像検索をすると、真っ先に表示されるのはエイの画像で、タコが出てくるのは10番目以降である。
さらに、「devil fish」だからといって「タコ=悪魔」だと思っているとは限らない。
すくなくとも、エンゼルフィッシュを天使だと思っている人はいないだろう。
クトゥルーにタコが出てくるのはラヴクラフトが(個人的に)タコが嫌いだったから。
「宇宙戦争」の火星人がタコなのは、原作者のウェルズがタコを怖がっているからではなく、「火星は重力が少ないから頭が大きくなって手足が退化して、タコになる!」という疑似科学的な理論のため。
「インデペンデンス・デイ」などの宇宙人映画でも宇宙人はタコとして描かれていることがあるが、それは「宇宙戦争」(と、もしかしたら「クトゥルー神話」)へのオマージュのためではないか。
というわけで、「アメリカ人のタコ嫌い」という言葉は、「伝統的なアメリカ人」と「最近のアメリカ人」、「主流派(WASP)のアメリカ人」と「少数派のアメリカ人」のタコに対する態度の違いなどを考えたうえで使うべきであると思う。
アメリカ人が日本人に対して間違ったイメージ(「忍者、ゲイシャ」「エコノミックアニマル」「イエローモンキー」)を抱いていることが多いが、それと同様に、日本人がアメリカ人に対して抱いているイメージも、その多くは間違っている可能性がある。
さらに、「アメリカ人」という言葉が文化論において使われるときは、WASPを指すことが多く、黒人や黄色人種、アフリカ系アメリカ人や先住アメリカ人、カソリックのヨーロッパ系アメリカ人などを無視する場合が多い。
たしかに、一面では、アメリカの主流文化はWASPの文化であるが、マイノリティの文化の一部が主流になることも多いし、WASPの文化とマイノリティの文化が影響しあってできた新しい文化が主流になることもある。
だから、「アメリカ人」という言葉をつかうときは、その言葉はいったい何を指し示しているのか、自覚的になるべきである。
このような問題(主流文化とは何なのか?「〜人」は何なのか?)は、移民国家である「アメリカ」を論ずるときには特に注意されるべきだと思うが、日本やイタリア、中国やブラジルや南アフリカ共和国など、どこの国を論ずるときでも、注意したほうがいいことである。
2
ブログの記事内では、『ともあれ、そうした文化的理由でクトゥルー神話を本来あるべきように怖く感じられないのだとしたら、やはりちょっと残念です。アメリカ人はほんとうに、日本人よりも怖さを感じているのだろうか。それとも「いや別に、全然怖くねーよ」という感覚なのか。アメリカ人に直接聞いてみないことにはどうにも。』や『こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。』と書かれていて、慎重な姿勢が保たれている。
しかし、ブックマークコメントでは、「キリスト教文化圏では、何を考えるにも常にキリスト教の神を超越者・絶対的存在としていちばん上に置くというものの見方が根底にある」や「日本人の場合、神も仏も混ぜこぜに、かつあいまいに信じていて、絶対的な何かを世界観のよりどころにしていないからでしょうか」という文章ばかり注目されている。
そもそも、欧米の文化や芸術作品・物語が紹介されるときには、「キリスト教的」「一神教世界観」などのマジックワードを持ち出し、日本の「多神教的世界観」と対比させて論ずることが多い(そして、往々にして、「多神教的世界観」の方が寛容で複雑で高度なもの、と優劣をつける場合が多い)。
しかし、例えば日本の文化や芸術作品・物語についても、「神道的」「仏教的」「多神教的世界観」だけでは論ずることはできないだろう。
文化や芸術作品の成立には、もちろん宗教や世界観も大きく関わるが、それだけではなく、自然環境・経済的環境・歴史・政治・偶然など、様々な要素が関わっているはずである。
また、フィクションに対して「怖がる」という反応は、宗教よりも時代と個人的な経験に左右されるものである。
ホラー小説の「人を怖がらせる」技術は年月を重ねるにつれて蓄積されるものであり、現代のホラー小説は過去のホラー小説より「怖い」、ということは一般論として言える。
スティーヴン・キングの作品は、ラヴクラフトの作品と同じくアメリカ人の作家によって書かれた、キリスト教的世界観の影響の強い作品であるが、日本の読者でもスティーヴン・キングの作品を「怖い」と思う人は多い。
「雨月物語」は過去の日本人作家によって書かれた作品であるが、そこに収録されている「吉備津の釜」は江戸時代の日本人が読んでも「怖い」と感じたであろうし、現代の日本人が読んでも「怖い」と感じる人は多い。
しかし、現代の日本人である鈴木光司によって書かれた「リング」は、おそらく「雨月物語」よりも多くの日本人読者を怖がらせると思う。
だが、スティーヴン・キングの「シャイニング」や「クジョー」と鈴木光司の「リング」のどれが一番「怖い」か、ということは、現代の日本人でも読者によってそれぞれ違う。
さらに、「リング」はアメリカ人が読んでも「怖い」という評価を得ている。
ここにラヴクラフトを代入すれば、ラヴクラフトが「雨月物語」よりも怖いと思う日本人もいれば、「リング」がラヴクラフトよりも怖いと思うアメリカ人もいるだろう。
彼らの「怖い」という感情には、多少は「一神教的世界観」「多神教的世界観」が関与しているかもしれないが、それよりも個人的な趣味や感性(「ホラーに慣れているかどうか、じわじわとくる恐怖に弱いかびっくりさせるような恐怖に弱いか」「日常的な恐怖に弱いか、非日常的な恐怖に弱いか」などなど)の方が強く関与しているだろう。
つまり、ホラー小説の話題で、「キリスト教の世界観」「多神教の世界観」にばかり注目するのは、適切ではない。
また、ホラー小説の話題に限らず、欧米の文化や芸術作品・物語について考えるときに、「キリスト教」「一神教的世界観」に還元させるのは適切ではない。キリスト教の影響はあるかもしれないないかもしれない。あったとしても、強いかもしれないし、弱いかもしれない。
「一神教的世界観」というマジックワードで説明されることで、安易に「理解した」と思いこむのではなく、宗教や世界観以外の、他の側面からも考えることが必要である。
有名な神はイエスキリストが作り出した、全ての責任を転嫁させる抽象概念のこと。
科学などが発展していない時代に、この世の因果関係や現象を説明するのに全て神様が○○したと話したことから生まれたのだと思う。
あるいは、盗んではいけないといった共同生活するうえでの規律などを守らせるための、共通認識としての役割のために生まれた文化的な装置なのだと思う。それゆえに、神は絶対ですべてのルールでありうる。だから、神に祈れば絶対の神が助けてくれるし、悲しみも癒してくれる。一神教では、多かれ少なかれこういった類。
日本の神道や原始宗教だと多神教だけど、基本は一緒。太陽が街を照らすのは太陽の神様のおかげ。
雨が降るのは雨の神様というような・・・。とまぁ、それっぽいことを書いてみた。
横だけど。
否定するわけではないけれど、それって一神教のひとが異教を受容するある典型という気がする。
神々がひとつの聖なるものの現れ、という図式は、やはり一神教の図式であると思う。
諸々の神々は、ただ威力ある聖なるものであるという共通点を有するだけであって、勿論、それらの間には血縁などの関係はあるかもしれないが、
密教なんかはそのへん一神教的で大日に集約されてしまうところはあるけれど。
たとえばお父さんと私は血縁があるし、系譜的な連続性も、人間であるという共通点もあるが、
だからといって、祖父が、或るレイヤーにおいて、お父さんであり、かつは私でもある、などとは誰も考えない。
わけみたま、の観念をそういう本体=表現つまり、ほんちすいじゃく的にとらえるのもあるかもしれないが、やはり違うと思うわけで。
みたまをわけたら、わかれちゃうんだとおもうんだよなあ。
うーん、ただ「かんなぎ」とかでも出てきたけど、普遍的な本体たる神はいないにせよ、そういう本体論的な統一の関係にあるわけみたまの関係の
観念もある気もするし、どうなんだろう。
ちょっと話したいことがあるから会わない?と誘われた先日。頻繁というほどでもないけど、一ヶ月に一度は飲みに集まってる友だちだったので二つ返事でOKした。喫茶店で落ち合い、このところのことなどひとしきり話したところで、「ところであんた、月末何か予定あるの? 実は私、応援してる政党があってね。」と。
出たな学会員!というのが、その瞬間の正直な感想。まさかこの発言から、別の政党がくるとは思ってない(あっても幸福実現党か、共産党だろう)。案の定「公明党なんだけど。」と。その子は以前私がファッキン創価学会!と発言した時に「創価にもいい子いるんだよ、友だちにいるけど。」と言ってたので、グレーなのかなとは思っていた。政教分離の原則をガン無視してるとことか、しつこすぎる勧誘、F票集め(以上二点はこれまでに遭遇したことないけれども)、芸能関係にはびこるお遊戯会状態に反感を抱いているので、私は学会嫌いを公言してはばからない。
この時点では完全に彼女の話を聴く気が失せてしまった。というか、これからこの子とどう付き合っていこうかと考えていた。繊細で、思いやりのあるいい子だ。共通の趣味でよく盛り上がるし、年下の私になついてくるのがとても可愛い子だ。距離を離すか、フェードアウトか、カットアウトか。沈黙とともに態度を決めかねていた私に、彼女は熱心に、公明党がどんなことをこれまでに実現させてきたのかを語った。「こんなことを考えている公明党を、私は応援したい。だからあんたにも、投票してくれとは言わないけれど、偏見やマスコミの報道だとかに惑わされないで、ただ知ってほしいんだ。」と、続ける。ゴリ押しされると思ってた私は、若干拍子抜けした。「考えてみるわ。」と、曖昧な返事をしてしまったチキンな私に、彼女は嬉しそうだった。
それからしばらく、宗教の話をした。私は宗教と神様は、人が幸福になるために人が生み出したものだと思っている。そして神は押しつけられるものではなく、自分で見出すものだ。ので、「布教される」ことに対して私は否定的でいる。もちろん布教活動ってのは、「こんなにも自分を幸せにしてくれたこれに参加してもらうことで、あなたにも幸せになってもらいたい!」っていう純粋な願いが根本にあってのものだ、というのは理解しているけれども。だって私は私であり、あなたはあなたなのだ。私はもう、音楽っていう神様を見つけてしまっている(個人的に、音楽というのはたくさんの神様を抱いた多神教だと思っている)。あなたが学会という信仰を持っていることは否定しない。ただ、そうなんだね、と思うだけ。県民の友だちが先日の都議選で、「都民の友だちに公明党に入れてくれるようお願いして」「何区の人が何人いれてくれた?」とお願いメールを山のように受けてうんざりしていた。もしあんたがそんなふうにゴリ押ししてくるようだったら、友だちを止めようと思った。けれども、考えて欲しいとだけ言うのでびっくりした。考えるだけの私をそのまま認めてくれたので嬉しかった。これからも友だち付き合いを続けていきたい。
というようなことを話した私に、彼女は、あんたが受け入れてくれてよかった。本当は今日、こうして話をするのはとても怖かった、と、言った。日本では信仰を持つというのは、それだけで差別を受けかねない。あんた(私)が、そういう考えを話してくれる人でよかった。私は私、あなたはあなたっていうあんたの姿勢を、私も否定しない。考えてくれる、ただそれだけでいい。
きっと彼女の周りには、第三者視点で見ても善良な活動をしている学会員しかいないのだろう。ネットでよく語られる、狂信的な人々はいないんだろう。だから、柔らかい姿勢のままでいられる。
私の返答は、正直ではなかったかもしれない。卑怯な部分が多分にあったかもしれない。けれどもなんだか彼女と前より少しわかりあえた気がして、嬉しかったのだ。
しかし彼女は、世間的に思われている学会の姿や、彼女が言う「一部の人たち」(私の言う狂信的な人たち)がどれだけの数いるか知っているんだろうか。何故信仰しているんだろうか。音楽業界で働いていたあなたは、学会ネットワークで決まってしまう仕事がたくさんあることについてどう考えているのか。その辺りを避けて会話してしまったのが心残りなので、いつかまた話し合えたらいいと思う。
政治と宗教を分けなければならないというのは、必ずしも普遍的な真理ではない。もともと、政治と宗教は一体のものだった。
ただ、キリスト教とイスラム教や、新教と旧教の対立によって、弾圧や戦争が絶えなかった西洋世界から出た、約束事に過ぎない。
東洋の宗教は、仏教にしろ、道教にしろ、日本神道にしろ、基本的に多神教であって、他の宗教に対して寛容なものが多かった。だから、大きな対立は無く、「政教分離」という考え方は生れなかった。
「政教分離」というのは、キリスト教が偏狭、または未熟であるが故の方便に過ぎない。
日本では、開闢以来、祭政一致が当り前であった。戦後、有無を言わさず政教分離を受け入れさせられただけ。
政教分離については、以下の文書に尽されている。
例えば、
6 「信教の自由」に関する問題点
第二十条のつくり方は、かなり混乱を呼んでいる。「学問の自由」と同様に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」だけでよいのであり、あとは法律でつくればよい。「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」というのは、もとは国家神道のことを意図してつくったものだが、条文を正確に読めば、天皇制自体も、これに当たる。
また、第八十九条は宗教の範囲を制約して縛るものである。「信教の自由」の下に言うならば、政治的な宗教も、政治的ではない宗教も、当然ありうる。「政治は、宗教的なるものを、一切、反映してはならない」というならば、それは唯物論国家である。
要は、信教の自由と政教分離規定が矛盾している、というのが幸福実現党の主張である。憲法が禁止しているからこの種の主張をしてはならない、とするならば、同様に憲法第九条の改正の議論もできなくなる。憲法の方が間違っている(というか、憲法自体が矛盾している)と言うこと自体は、違法でも何でもない。
それから、
2 憲法は何を守ろうとしているのか
第九十九条の条文は、憲法遵守の義務は国民にあるのではなく、公務員及び公務員の上にある天皇や国務大臣等が守らなければいけないとある。つまり、憲法は、主として権力者から国民の権利を守るためにつくられたもので、国民を縛りつけて、自由にさせないためにつくられたわけではない。
憲法を守らなければならないのは、支配者の側である。一般国民が守る必要はない。仮に当選して、議員として働くことになれば、その行動に於て憲法を守る義務は発生する。ただし、考え方や主張までは制限されない。
あと、よく、幸福実現党が天皇制を廃止を主張しているとか言う話も目にするけど、そんなことは一言も言っていないですから。寧ろ逆で、天皇制はあった方がよいと言っている。
天皇制自体は、何らかのかたちで遺しておいたほうが、日本の国にとってはよいだろうと思っている。ただ、外国から見ると、誰が元首なのか、誰が意思決定をするのかよく分からない。これが、日本が外国から信用されていない理由である。「内閣総理大臣に元首としての責任がある」と明確にするか、大統領制を敷くなどの、意思決定者をすっきりさせないと、日本という国は信用されない。
しかし、戦後日本の「宗教」に対する偏見は、抜きがたいものがある。信仰というのは、本来、地上で最も穢れのない、美しいものであるのに、全く逆のイメージを植え付けられてしまっている。GHQは、日本人のその驚異的な精神力の源を、信仰の力によると考えて、その背骨を抜いたのだ。信仰を持つ人は洗脳されている、なんて思ってるかも知れないけど、洗脳されているのは、無神論者の方なんだよね。
神仏は蔑むものではない、尊敬すべきものである。神仏の声を伝える正しい宗教家も、尊敬すべきである。これが世界の常識だと思う。
LeafのPCゲームソフト『君が呼ぶ,メギドの丘で』を中古で買って遊んでみた。RPGをやるのは久しぶりだ。戦闘バランスが厳しめで難しいがなかなか楽しい。ただ世界観に癖があり,混乱させられる。頭を整理するためにテキストに書き起こしてみる。
物語を抽象化すると,「人を恣に扱う無慈悲な神に対する反抗」となる。作中には聖書からの引用や十字架など,キリスト教的ガジェットがあふれている。また一部の登場人物の名もユダヤ/キリスト教的背景を暗示している(例:マリア,ヤハ (Yahweh⇒Yaha),ナタス(Satan⇒Natas),エレミアなど)。そのため,ともすればこの反抗対象となる「神」はユダヤ/キリスト教におけるそれのように思われる。
しかしそう素直に受け取るわけにはいかない。物語の終盤には,「神」が少なくとも2回代替わりしていること,そして先代・先々代の神は現在の神に使役されるだけの存在になっていることが示される。先々代は竜。「私の頃には神はたくさんいた」という竜のせりふから,これは原始多神教における神であることが推察される。そして,竜を征服した先代の神がヤハウェである。……ということはつまり,現在君臨している「神」はキリスト教のそれではない。
ニーチェ的に考えれば,古き神々を殺したのはキリスト教の神であり,そしてキリスト教の神は超人によって殺される。超人とは外在的な道徳に縛られず己の欲するところをなすものをいう。この図式をそのままあてはめれば,メギド世界において人々を苦しめているのは超人ということになってしまう。この視点を念頭に,「事実」を整理してみよう。
神々はメギド世界の創造以前から存在したとされる。現在の神は,先代を征服したのち,メギド世界を創造した。これには目的があり,人間の繁殖率を調査するためであった。神は自らの代理人を作成して世界を改変する権限を与え,創造の補助にあたらせた。役目を終えた後,代理人は権限剥奪ののち解体されて人間を生み出すもととなった。実験目的であることから,人間が一定の人口に到達したら自動的に世界を自壊させる仕組み(世界時計)が設けられ,また人間の生息域は砂嵐によって画定された。なお,代理人から生まれた人間の一部は,世界の改変権を剥奪されずに保持していた。彼ら(=救世主)ならば世界時計を停止できる可能性をもつ。幾度となく救世主を中心に遠征班が組まれ,世界時計に挑んだがいずれも敗退した。
こうした「事実」からもユダヤ/キリスト教的な神の姿はうかがえない。信仰ではなくデータをとるために人間を創造した。作中では繰り返し,神の不在が強調される。姿を見せず,導きも罰も与えず,人間を滅ぼすことすら世界時計に委ね,世界に対しては完全に無関心である。私が連想したのは,ライフゲームを実行する科学者だった。オブジェクトをメモリ上に展開すること,終了条件を定めること,実験が終わったらメモリを開放することに,科学者が罪悪感をいだくはずがない。個々のドットの動きに対して導きや罰を与えるなど思いもよらないことだろう。
主人公たちが立ち向かっているのは,案外,知を手に入れて超人となり,神に死を言い渡した「わたしたち」なのかも,と考えると少し楽しい。私がもてあそぶプログラムが,私に対して怒りや信仰をもっていたら素敵だ。
anond:20090209153228 以下の一連のエントリを読んで。
一神教の世界観と多神教の世界観は互いに相容れないものだという指摘は確かで、さらにお互いの信じる神が違うからという理由で戦争が起こったりする。
今の日本みたいに、無神論者達の国というのは世界的にみても非常に珍しいだろう。元増田が言う様な不安も分からなくもない。
けれども、神は結局人間が使うために作り出したシステムだ、という考えも出来る。
なにかとてつもない不幸に陥ったときに最後にすがるためのシステム。戦争をしたいがための理由付けをするシステム。そんなものなら、捨て去ってしまった方が、神を殺した方が良いのかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20090120003918
モトマスダの科学をする人というのはいい着眼点。ブクマコメントの技術と科学の区分けが云々は、自分を特権化しすぎ。この議論のミソは、人は科学と技術を分けて話をしているのだろうかなので。
じゃあモトマスダをどう議論したら、説得力を持つのかということ。これはもう徹底的にコミュニケーションや行為に着目しちゃえばいい。
まず宗教って何?ていうのを観念的な一神教or多神教or云々みたいな話じゃなくて、デュルケム的に宗教とは事柄を聖/邪で区別し、聖堂に集まることみたいな、形に置き換えてしまうべき。現実には教会や寺にいかない人が増えてるとかあるけど。
じゃあ科学って何よ、といえば反証可能性やらパラダイムやらを持ち出さなくても、因果関係のもっともな説明をつくりだしていく過程で実は十分。傾向としてはよりシンプルな説明原理が好まれてるけどね。
そこで宗教を契機にしたコミュニケーションはいったいどういうものなのか。科学を契機にしたコミュニケーションはどういうものなのか。比較してみたらいい。
科学人類学とか科学についての社会学とかはそう言う分野。まぁ科学業界が宗教団体ぽいと示したら、他の組織と比較することが求められるんだけどねぇ。
ゲーム理論で「しっぺ返し戦略が最適」とされるのは、同じ相手と永久に付き合う場合であり
一回きりの付き合いであれば、攻撃が最適となる。
有限回の付き合いであれば、最終の対応は攻撃がベストとなる。
最期に攻撃されるのであれば、先手を打たなければならない。
他者は全て潜在的な敵となり、社会は崩壊してしまう。
という合理主義の行き着く結末を回避し、社会を維持してきたものが宗教である。
「死んだ後も魂はまだまだ続くよ!」と皆で信じることによって、
ライフゲームの「最後の手」を出させないようにするキリスト教やヒンズー教。
現世の人間関係の絶対性を徹底的に脳に刻ませる儒教、日本教、共産主義。
一神教vs多神教という差よりも、未来主義か現世主義かという差のほうが大きい。
そして危険性/安全性という観点や、タブーの多さという観点においては
どちらが優れているとも言えない。
一神教の根源的な問題とは一体なんなのだろうか。
どうあがいても、悪が「対生成」されてしまうことではないのだろうか。
自分たち = we を「善」とすると、自動的にあいつら = they が「悪」となってしまうのである。
(「人類最大の敵」 - 書評 - 人類は「宗教」に勝てるか http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51160646.html)
そう問いかけるid:dankogaiご自身は一神教なのか多神教なのか。当然多神教(あるいは限りなく無宗教)なのであろう。
んで彼は多神教を『we』と見なしてるのか『they』と見なしてるのか。
「一神教は悪の手先だ!世界を敵と味方に分ける危険な考え方だ!すなわち人類の敵だぁ!」
…ってこと? なんだ?そのブーメラン。
馬鹿じゃね?
気づかずにやってるとすれば馬鹿だけど、気づいてやってるとしたら悪質だ。
できればただの馬鹿髭だと思いたい。