それさー、親もそうだけど、彼女も抜けないと、結婚した時に自動的に増田が学会員の名簿にいれられちゃったり、それだけならまだしも子供も自動的に学会員とかなるのよなー。
2世だと熱心な人はもちろん少ないけれども、学会員である以上熱心な人が身近に現れてしまう。
創価2世だけど親が熱心なだけで自分は正直どうでもいいと思ってるって人は少なくないと思うよ。
知り合いの女の子にも一人、酔った勢いで居酒屋で「私だって普通に初詣とか行きたいんですよ!大作とかマジあり得ないんですけど!」って叫んで、全員でとりあえず押さえつけた経験がある(w
その子は今も実家暮らしだから実家ではそれなりに合わせてるけど、一人暮らししたらさっぱり足を洗いたいらしい。なんかそんなもんだったりする人も多いのかなーって、その時はじめて感じた。
母はいつも私の友人を見ると眉をひそめてあれやこれやと欠点をあげつらった。
小学生の時はいいなりだった。あの子はかわいくないから、あの子はバカだから、あの子はデブで怠けものに違いないから、あの子の親は変だから、だから付き合うなと言われて、遊びの誘いを断り続けたこともある。学校では仲良くし続けても帰り道の途中からいつも一人ぼっちだった。家に帰ってから遊ぶ相手は誰もいなかった。むしろ家に帰ってから遊びに出かけること自体が許されていなかった。
中学生くらいからそういう母の戯言は聞き流すようになって、ときどきは休みの日に遊びに行くようになった。とは言ってもお小遣いをもらっていなかった私はみんなの遊びには加われないことが多かった。プリクラもマンガの貸し借りも繁華街もゲーセンも私にとっては入ることのできない場所だった。次第に友人関係はフェードアウトしていき、部活のつながりだが残った。毎日毎日学校に行って帰るだけの日々だった。部活の練習試合に行くのすら気が重かった。母にお金をくれと頼むのがしんどかった。
金を出さないと言われたことがあるわけではない。でも、暗黙の了解で、遊びに行くのは禁止だった。休日は家にいなければならなかった。休日家にいないことは、私にとってはすなわちお金が必要だということで、そのことを母に告げるときの針のような視線が痛かった。
母は私の友人を見かけたり写真で見たりするといちいち欠点をあげつらった。まるで自分自身が責められているようでいつもつらかった。彼女たちは別に悪い人たちではなかった。未熟なりに欠点はあったにせよ、話をしていて楽しい相手だった。でも母はいつも彼女たちを気に入らなかった。私の嫌いな人たちに限ってほめちぎった。
しんどかった。話をしたくなかった。何も頼みたくなかった。私の交友関係に土足で踏み込んでくるそのやり方が気に入らなかった。
だから私はただ口をとざして、数少ない友人とだけ学校生活を過ごした。学校での生活は悪くはなかった。よくもなかった。少なくとも苦ではなかった。
休日は苦だった。家にいても外に行っても責められているような気がした。家にいればいれでなんやかんやと小言を言われたり、友達もいないのかと嘲笑われたりするのだ。かといってどこかに遊びに行けば、罪悪感がずっと心の中を支配していて楽しめなかった。実際に楽しい思いをすることもあまりなかった。お金がなかったから。そのくせ、どこかへ行くと母は必ずお土産を要求した。土産としてなにか買って帰らなければ家に入れてもらえなかった。ただちょっと近所に行くだけでも、友達の家に遊びに行くだけでも、土産を買って帰らねばならなかった。大した金額のお金を持っていない私にとって土産を買うことはとても辛いことだった。お金がないことがいつの間にか心の深く深くに根を張ってしまい、お金がないことを理由に誘いを断るようになっていった。友人たちはそうか、仕方ないよねといって特に責めなかった。誘いを断るたびに私はひどく落ち込んだが、友人たちは決して責めたりはせず、みんなで出かけた後は私にお土産をくれたりした。私はそれを返せないことをひどくすまないと思ったが、彼女たちは気にしなくていいと言ってくれた。本当に心優しい人たちだと思う。
大学に進学して、そこで私は愕然とした。お金の使い方がわからなかった。一人暮らしを同時に初めて、そこで買い物ができなかった。スーパーのどんな品物も高く思えた。すぐにお金が尽きてしまうような気がして、しばらく空腹のまま過ごした。私の中でお金は使ってはいけないもので、遊びにいってはいけないものだという固定概念がすでにできてしまっていた。もちろん遊び方もわからなかった。飲み会も初めてだった。休日にどこかに行くというのは考えられなかった。学校とバイト先の往復、友達ができても遊びの誘いを罪悪感から断っていたらすぐにフェードアウトして行ってしまった。頑張って何度か遊びに行っても、同じような金の使い方はできなかった。なくなってしまう、生きていけないという思いの方が強くてお金が出せなかった。ファミレスの食事など地獄のようだった。高い。高い。どこへ行ってもお金がかかる。どんどんお金が飛んでいく。私は恐慌状態だった。生きていける気なんてしなかった。その結論として選んだのが、部屋にできるだけひきこもり、友人を作らず、とにかくアルバイトをし続けるということだった。
通帳にはどんどんお金がたまっていった。それでも私には足りなかった。どんなに稼いでもためても、すぐになくなってしまう気がしてしょうがなかった。100円のものを買うのにすら何十分も悩んだ。自販機で缶ジュースを買うことすらできなかった。コンビニは私の敵だった。
やせ細っていく私を母は笑った。一人暮らしなんてできるわけがないと思っていた、帰ってきなさいと笑った。でも私は帰らなかった。母は怒って私の通帳を取り上げて新車を買ったが、私はただ黙々とまたアルバイトをしてお金を貯めた。歯をくいしばって泣きながら、体も壊して、でも働き続けた。いつもお金がなかった。お金を取られないように細かくいくつもの通帳に分けて管理した。徹底した管理で家計簿の一円単位まできっちりと毎日記録した。毎日お金のことしか考えていなかった。
大学時代の友人はいない。あの時をどうやって過ごしたのかも覚えていない。時々、高校時代の友達が遊びにきてご飯を食べに行くと、高いけど大丈夫?とみな聞いた。私は泣きそうだった。泣きそうでも大丈夫と答えて笑った。みんなやさしかった。私の頼む量が少なくても何も言わなかった。私が店の前でためらうと別の店にする?私あんまお金ないんだよねと先回りして気遣ってくれた。
その優しさに私は何も答えられていない。なにも返せていない。
社会人になった年は特にひどくて周囲の人と合わせてお金を使うことがひどくストレスだった。それでも我慢して使っていたら慢性の胃炎とめまいと貧血が常に襲ってくるようになった。表面上は笑って過ごしても休日は布団から起き上がれなかった。ただ、救いだったのは同期はみなお金がなかったことだ。無計画に使って、給料日前には後いくらしか残ってないとげっそりした顔で言っている同期もいた。スーツが買えないと愚痴をこぼしている同期もいた。その中でお金がないというのはそれほど苦痛ではなかった。お金がない、という状態を誰かと共有したのはその時が初めてだった。いや、正確に言うと私は今も相変わらずあまり使うたちではないので彼らよりはずっとお金があったのだが、でもあとこれだけしか使えないという感覚の共有とそれを口に出してよいことが新鮮だったし、救いだった。彼らに合わせるのは大学時代よりは苦ではないということに気づいたのはしばらくしてからだった。それからは徐々に体調も戻って、少しずつ使える額を増やしていけるようになった。同期とは今も仲良くしている。たまに飲みに行くこともある。休日にまで会うことは少ないが、でも浅くゆるくつながり続けている。
今でも時々悪夢で目覚める。所持金も口座もすっからかんになっている夢だ。そのくせ必要な出費が次から次へと押し寄せてきて途方に暮れる夢だ。いまだにあの感覚が私の中に残っているのだと知って暗澹たる思いに打ちひしがれる。あの底知れない闇の底を思い出して恐怖する。いまだに、ケチくさいなどと嫌味を言われることがある。それでも少しずつ、人より遅い成長をして、なんとかつかみ取ってきた。異常から正常な方へ、誰かの親切や優しさに導かれてやってくることができた。この感謝は誰に返せばいいのだろう。与えられたものは誰に返せばよいのだろう。どうやって返せばよいのだろう。お金で返すのは汚いだろうか。そういうことをなぜかぐるぐると考え続けている。
つきあいはじめてもう数年にもなる、結婚も考えてるような彼女が、ある日こういう話をした。
「おばあちゃんの家には鶴のマークの仏壇があってさあ。ちっちゃい頃はあれが我が家の家紋なのかと思ってたさ」
「おばあちゃんといっしょになんみょーほーれんげきょーって唱えてたさ」
鶴のマークってなんぞ、と詳細を希望したところ、創価学会様式の仏壇なんですってね。なんでも彼女の父方の祖母が創価学会にころんで、祖父も巻き込んだのだという。その祖父が亡くなった頃は(まだ日蓮正宗から破門を喰らう前なので)お坊さんも呼んで結構大きな規模の葬式をしたのだが、祖母が亡くなるころには(破門後なので)お坊さんを呼べなくなったのをいいことに伯父がめっちゃケチくさい葬式を出してそれでよしとしていたので腹が立った、とかなんとか。
法事を創価学会式でやる、てこたあ、祖父母個人に止まらず、家族全体が創価学会に属してるってことになる。少なくとも、形式上は。
だからといって彼女やその親御さんが世間のイメージにあるような、折伏だとか公明党選挙とかいうような「濃い」創価学会員かというと全然そんなことはない。というか、彼女自身は創価学会が日蓮宗系統の何かだってことはうっすら承知していても、じゃあその唱えてた「なんみょーほーれんげきょー」はどういう意味かだとか、日蓮本仏云々とか、そも学会が日蓮正宗から別れたもので対立した経緯があってだとか、そういう教義的なあたりはまるで理解してないのであった。ていうか俺が当の彼女にそのあたり説明しててどうすんだよ、とか。
とまあ、俺が創価学会に入れとか公明党に投票しろとか言われることはないので、その限りに於いては彼女らがどういう宗派でも構わないんだ。だがこれが(仮に首尾良く彼女と結婚したとして)彼女の家の法事とか葬儀とかになると、学会の流儀で執り行うしかないのよな。そうすると、学会って日蓮正宗から破門喰らってて坊さん呼べない(ことになってる)から、法事や葬儀のたびに「濃い」学会員呼んできて執り行わせることになるので、それは俺の身にも布教とか求められそうでやだなあ、とは思うのだ。それを避けるには彼女の親御さんを学会以外の何らかの「まともな」仏教の檀家にさせるくらいしか思いつかないんだが、それもどうなんだろうか、とか。
……ということを↓読んで連想したのさ。
ヘインズとレーシーが誰かわからない
告白してふられて奴に彼女ができて、そんで四年の月日が流れた。その間私にも彼氏ができたり別れたり色々あった。でもやっぱずっと彼が好きだった。ふられた直後のぎくしゃく期を経て、静々と仲を深め距離を縮め続けてきた。
そんでこの週末にとうとうセックスに至った。後悔はない。ただ純粋に嬉しかった。けれども、キスをされなかったこと、突っ込まれはしなかったことが悲しかった。そういうことなのね、と、思った。それを含めて、何故こんなことするのか問いただせない自分の弱さを責めた。
彼女が浮気したら絶対振る、と言う彼にはしかし現在一応彼女がいる。いくら私に「友だちでしょ」と言ったところで、あなたのしていることは完全に黒ですよね、と、思う。そういうことができちゃう人なんだなあと、思う。彼は今とても疲れていて、その上彼女が会ってくれないので、誰でもいいから女の子に触りたかっただけなのだろう。首から下だけでよかったのだろう。頭は撫でてくれたけれど。
それでも好きだ。バカだ。知っている。こういうことができる人は、私と付き合ったとしても同じことを繰り返すのだ。それも知っている。
好きだし、そうしてあげたいし、そうされたいと思ったのだ。私は私に嘘を吐かなかった。
共通の友だち曰く、彼女とは数ヶ月単位でちっとも会っておらず(彼が長期出張で不在がちというのもあるだろうけれど)、頼りたくて彼が電話すれば喧嘩、みたいな状況なのだそうだ。そういうタイミングもあって、週末のできごとがあったのだろう。
攻めるなら今だなと思う。実るのか実らないのかは知らない。私という存在によって、雨降って地固まるのかもしれない。それで、私が不幸せだとしても、彼が幸せになれるならそれでかまわない。
私が変えられるのは私自身だけだ。守りの姿勢でいたってなんにもならない。私の行動が、道を造っていくのだ。
今動かなきゃいつ動くんだ。最後に泣いたっていいじゃんか。がんばれ私。
幼馴染の康平の祖父は、非常なサッカーが好きな老人だった。高校生を代表するスポーツは何かと問われれば真っ先に高校サッカーだと答えたし、正月になると駅伝なんぞには目もくれず天皇杯だけを観戦し続けていた。
そんな祖父の血が色濃く流れているのか、最近になって康平はサッカーにはまり始めている。それまで全く見向きもしていなかったくせに、熱中し始めたら早かった。今ではお気に入りの選手はもちろんのこと、贔屓のチームも、そのチームのサポーターにも加入してしまっている。ものすごい機動力だと思う。
なんて言ったって、僅か二ヶ月の間に起こった大変化だったのだ。いろいろと不思議に思うところはあるけれど、本人が心から好いているのだから横から何かを言うことも出来ない。知り合いは、何か憑き物でも憑いているんじゃないかと面白おかしく口にしていたけれど、あながち的外れじゃないんじゃないかなと私は思っていたりする。
でもまあ、そんな康平の変化など正直どうでもいいのだ。所詮は幼馴染。もう大人なんだし、やりたいようにやればいいと思う。
そんなことよりも、私には康平に誘われるがままに、足しげくスタジアムでのサッカー観戦に付き合っている私自身のことの方が気に食わなかった。
取り立ててサッカーが好きなわけではないのだ。康平に好意を抱いているわけでもない。なのに、何故かお誘いにほいほいと返事をしてしまっているのだ。私には、他の誰よりも私自身のことが一番分からなかった。
嘆息を吐きながら頭を抱えるのと同時に、康平が贔屓にしているチームのフォワードが、ゴール目前でまさかの蹴り損ないをしてしまった。落胆のあまり周囲には、どっと数百人分の嘆息が溢れ出す。もちろん、隣の康平もがっくりと項垂れてしまっていた。私はしばしの間、筆舌に尽くし難い負の感情に包まれてしまう。
堪らなかった。たかがひとつの失敗ではないかと叫びたくなったくらいだ。一喜一憂するのは別に構わなかったが、あまり入れ込んでいない私まで巻き込まないでほしかった。気が滅入りそうになって、思わず面を下げてしまう。
試合は、贔屓のチームが0対1で負けてしまった。康平は一年分の溜息を今日一日で吐き出さんとするかのように落ち込んでしまっていた。
その帰り。途中で康平と別れた私は、病院の個室で寝たきりになっている祖母の許を訪ねた。認知症が進むところまで進んでしまった祖母は、もはや孫である私のことはおろか、実の娘である母のことまでも他人と区別がつかなくなってしまっている。二週間ほど前からは意識も朦朧とし始めてしまっていて、ずっと昏睡状態が続いていた。
医師は、もう長くはないと告げてきていた。母は泣かなかったし、私も泣かなかった。本音を言えば、ほっとしていたくらいだった。
個室の扉を開けて、眠っている祖母の様子を確認する。道中で買ってきた花を花瓶に差し替えると、そっと祖母のベッド横に近づいて安らかな顔を撫でてあげた。
つい数週間前まで半狂乱に近かった状態にあった人物だとは思えない寝顔だった。
「また来るね」
そう耳元で声をかけると、意識など無きに等しい祖母が微かに微笑んだような気がした。
表情に、不意に温かな感情――罪悪感や愛、喪失感や感傷など――が込み上げてきた。視界が滲み始めるような気配がにじりと忍び寄ってくる。
でも、私は踏ん張った。
泣く権利は自らの手で捨て去ってしまったのだ。今更涙を見せるような真似だけは、祖母を愚弄する行いだからこそ、することができなかった。
渦巻く感情を胸の中に仕舞いこんで、私は病室をあとにする。立ち去る時に、着ていた服の裾を握り締めていた枯れ木のような掌が、過ぎ去った幸福な過去を呼び起こしてくれた。
帰路に着いた私は、一応康平に電話を入れることにした。会話の中で意識がないはずの祖母が服を握ったことを話すと、康平は一言、よかったねと返事を寄こしてくれた。
うん。まったくその通りだ。本当によかった。
思って満点の星空を仰いだ私の耳に、そう言えばさ、と康平の声が流れ込んできた。
「そう言えば、今日梓が着てたユニフォームな、ジジイが大好きだった選手の番号だったんだよ。帰ってから遺影を眺めてて思い出したんだ。確かそれ、お前が適当に選んだやつだったろ? 珍しいこともあるもんだよな」
言ってにししと笑った康平に、私はそうだねと、やはり笑いながら返してあげた。
お互いに笑いが収まると、少々の沈黙が生まれてしまった。康平が気恥ずかしそうに次の約束を口にする。
「あのさ……また、一緒に見に行ってくれるよな?」
きっと電話の向こう側で康平も私と同じように真っ赤になっているんだろうと思うと、変な勇気が湧いてきた。
「まあ、当面の間は一緒に行ってあげてもいいよ」
返事がなかなか返ってこなかった。電波が途切れたのかと心配になり始めたころに、ようやく微かな笑い声が聞こえてきた。
無邪気な笑い声だ。まるで子供の頃に戻ったかのような。暖かな視線に守られているかのような。
やがて釣られて笑い出してしまった私は、康平と一緒にくすくすと笑うだけの電話をしばし続けた後で、またねと言って通話を切った。
和やかな気持ちが、胸いっぱいに染み渡っていたのがよく分かった。
翌日、私の祖母は息を引き取った。
「男性諸君みたまえ、紳士というものは女性に都合のいい男であります」
混じれ酢すると、初めて逢ったときの盛り上がりと再会のその間に
お互いなにかしらの人生経験をつむからそういうことになるでしょうね。
元々アレげなコードだがなぜか投稿が失敗するのでコード削ったら、
さらに何が言いたいコードかわからなくなった。
私がC++でコーディングするとき気にしてたのは以下のポイント
なので、なるべく以下のようにコーディングしていた。
多分、C言語勉強した時によんでいたココのページ(10章)の影響。
http://www.kojima-cci.or.jp/fuji/mybooks/cdiag/index.html#mokuji10
人前でやられるとちょっと嫌。
趣味で他人の迷惑にならない場所で話しかける分には、別にいいんじゃないか。縄跳びを趣味にしてるひとが電車の中で縄跳びしたら迷惑だろ? 場所を選べば文句はない。
あつは夏いから、蚊いちゃうんだろ。