はてなキーワード: 募金とは
縁もゆかりもないのにパレスチナで起きている虐殺に心を痛めるくらいには生活にゆとりを持っている。だが募金をすることもなければデモに足を運ぶこともない。
作家をしている友人が停戦を求めるデモに足を運ぶのをインスタグラムに淡々とアップしているのを見て、罪の意識というほどでもないが、何もしていない自分がどこか責められているように感じる。
そして同時に「そりゃ戦争はみんな嫌だし止めたいけど、デモをやったくらいで戦争が止まったら苦労しないよ」とも思う。
そもそもそこまで貿易のないイスラエルに日本ができる有効な経済制裁ってあるの?とか主張を疑ってみたり
日本は米国と利害関係があり、米国はかのユダヤ人国家と利害関係があって、これを無視して人間として直感的に正しい主張を貫いてしまうと後で困るのは安全保障的にも経済的にも独立していない日本なので、まずは自衛軍擁立賛成デモからやらないんですか?とかニヒルに構えてみたり
デモに参加している人のアカウントの多くが反原発・#metoo・BLM・現行憲法・政権批判・性被害撲滅などの運動にも参加していて、なんか「被害を受ける弱い私たち vs クソ体制」って二項対立スタンスが強すぎてちょっとね、とかよく知りもしない参加者の属性を嫌がってみたり
仮にそうだとしても、私が世の中の醜悪な出来事に対してどんな形であれ意思表明をしない理由にはならない。
わかっているよ。それでも、やっぱりデモが苦手なんだ。
結局左翼って被災者盾にして政権批判できればそれでいいから嫌われるんだよな
そして被災者を「いい被災者」と「悪い被災者」に分けるのも左翼
旅行支援するとは何事か!と観光業で打撃受けてる被災者の気持ちは無視
これが左翼かとここ数日でよくわかったわ
能登の人間の中にも2月には無事なところに移転や間借りをしてして仕事再開する店も多く
観光客向けにどんどん商品卸したい製造業は無事なところには一刻も早く観光に来てくれと思ってるよ
かわいそうじゃない加賀には金落としたくない!かわいそうな能登にだけ金落としたい!じゃねえよ
元々能登の人間も加賀で働いてんの!マジでこのまま消費落ち込んで俺のボーナスでなかったらどうすんのすでにその瀬戸際だよ俺の実家能登だし金いるのにさ
コタツに入っていつ手元に来るかわからない募金をポチった後は被災者は被災者らしく施しの金で復興するまで黙ってろと言う人間に比べりゃ
名興文庫(まだ非法人だが出版社として法人化を目指している)さんが、下記の他社IP作品を題材にしたチャリティー批判本を出されたようです。
著:理不尽な孫の手
コミカライズ:フジカワユカ、石見翔子、野際かえで、米田和佐、日崖タケ
販売URL:https://www.naocoshibunko.com/00017-2/
価格は\15,000と少しお高めですが、原作者や関係者には無料で提供するとのこと。下記諸注意です。【名興文庫(まだ非法人だが出版社として法人化を目指している)さんの特設サイトからの転用】
・本批評で得た一定期間の収益は、日本赤十字社の令和6年能登半島地震災害義援金に手数料を差し引いた額の全額を寄付します。
・本批評の値段に対しての苦情は受け付けておりません。お問い合わせより連絡があったとしても返信はないものとご理解ください。
・本批評に関する個人的感情の範疇に留まる意見表明に関し、お問い合わせよりご連絡をいただいても個別に対応は致しかねます。お問い合わせの返信はないものとご理解ください。
この機会に、日本赤十字社/義援金等に直接募金しては如何でしょうか。
何度もあちこちで書いてるけど大箱埋めるアイドルのライブ行って思ったことと似てる
増田と似た(似てはないかも)思考で、人気アイドル推すより、同程度に好きな人気微妙アイドル推すほうを選んでた
選択権があるという驕りやら、コスパ(席の近さ、覚えてもらいやすさ)が良い、単純に小さな現場の雰囲気のほうが好き
など理由は他にもさまざま
で、たまに大人気アイドルの数万人埋めたり埋まらなかったりするライブにも誘われたり暇だったりしていったのだけど、
凄い区切りのライブの時に、いろんな理由つけていかないオタクの割合が増えればこの景色が見れなかったんだと思って
それ以来、区切りにライブには行くようにしてる。単純に久しぶりだと楽しいのと、昔のオタクに偶然会えたりするのと、後々マウント取るためと
という話はあんまり繋がってなく、それでも寄付とかもそうで、と続けるんだけど、
Aがβだけ支援するのはαに悪い(とか何とか理由つけて)と支援せず
2対2ではなくABCD……Z と αβγ……ω で考えると、どこかで取りこぼしや重複が起き、救われないものも出てくるだろうが
それでもなにもしないよりはいい
今目につくことに支援するという流れが出来ていないと、自分が目についても支援されないという風潮になる
なので、自然災害のピンポイントでもいいし、難病で海外で手術の子供でも犬猫でもなんでもよいので個々が目について救いたいところに寄付したらよいなどと
そのために節約とかまでする必要はないが、節約したとしてその帳尻は内部留保溜めてる企業とかぜいたく品扱ってるまあ経営に問題の無い企業やお店に行くだけだろう
電気代とか節約したり、酒や馬鹿カロリー飯を控えると節約行為自体がプラスにもなるし
もちろん、寄付とか嫌いなおっさんが、地元の飲み屋で飲み歩き、スナックやらラウンジのねーちゃんに金払うのもそれはそれでよい
で、どうしても救えないところが出てくるので、そこは(ある程度)お国でなんとかしましょうと
残酷なことだけど、国の制度では救いきれず(そこを拾いだすと莫大なコストがかかってしまう)、さらに募金も集まらない、みたいなケースも残って当然
寄付募って生きながらえるなんてあさましいと考える人間、そういう親元に生まれてある意味であがいてもらえずに見捨てられた形になる難病の子供も居ても仕方ない
元増田の例は金銭が絡むからどちらも選ぶという選択ができない状況が大いにある。
寄付をすべきと常日頃から強く思うわけではないが、助けてあげたいと思わせる材料があるならそれに従う人がいるのは誤りではないとも思う。
募金とは言うけれど、実際金を払うのだから買い物と通ずるものがあるからだ。
ポメを買って黒い犬が売れ残ったとしても、それを気にしていたら仕方ないと思う。
まあ実際は募金だから売れ残りとかじゃあないんだけど、全てを選べるわけではないのに選ばなかったものに対しての差を意識するのは傲慢としか……。
それに募金であれば金額の不平等もあるわけで、Aさんは100万やったけどBさんが100円しかやらなかったらBさんの力なんてほぼなかったとも言えると思うし、誰もが公平に助ける力をもっていないからこそ「助けるフリをする」ことくらいは良いんじゃないと思う。
独善的な人がいても許してほしいというか。
この話でまず思い浮かぶのは心臓移植に募金した前沢や擁護した坂上が叩かれた話だろ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/kaigyou-turezure.hatenablog.jp/entry/2019/07/03/193556
ポメラニアンと大型犬の比較の極端な例が日本の子供と順番を飛ばされる外国の子供なわけだ
言いたいことはすごくわかる。
純粋にリソースの充て方という意味では募金も一つの使い道でしかないわけで、募金に使われなかったとしたら生まれていたであろう利益をつぶしているという見方もできる。
今回の地震が無く募金が無かったら夕飯がほんの少し豪華になって、募金で使っていたお金が八百屋さんか肉屋さんの懐に入っていたのかもしれない。逆に募金をしたことで彼らの売り上げは落ち、状況次第では買えたはずのものが買えなかったりサービスを受けられなかったりということが起こっているかもしれない。
彼らの懐に入っていたら彼らの生活がまたほんの少し良くなって、という感じでお金を使うことが回りまわって誰かの生活を助けているという社会構造からみると「被災地がピンチ!とにかく募金!」という行為が本当に正しいかどうかはよく考える必要があると思う。
募金で~円集まりました!ありがとうございました!ってやっている裏で損をしている業界があるのかもしれない。
預金から出しているだけだとしても、回りまわって自分が使うであろうリソースを蒸発させているだけのように思う。
実のところ自分は共同募〇会に近しい業務をしている団体職員だが現行の募金システムには疑問を感じている。
困っている方の支援や被災された方の話を聞いたりしたが、募金は社会システム上困っている人を助ける行為は無くてはならないもので、そしてその助ける行為の中で一番合理的で喜ばれるのはかさばらず臨機応変に使い分けられるお金渡しというのは間違いない。純粋な善意で募金してくださる方には頭が下がるし、募金をすることで善行を積んだ気分を買うのが好きな方も困窮者は助かるのでやらない善よりやる偽善という言葉の通りぜひ続けて募金いただきたい。
しかし募金というシステムが始まった昔とは違い今はデジタル化が進み、リソースの交換や変換のされ方が自由になっていると感じている。
救世軍のころから続く街頭募金や戸口募金みたいな善意や社会的同調に基づく徴収をして様々な団体を通して当事者へ渡す形より、直接的に困窮者へ届ける形がもっと広がるといいと思う。