はてなキーワード: メサイアとは
あの言葉は「人を助けると自分にも利益があるので人を助けましょう」という意味だ。
つまり、助ける価値もないし、恩が返ってきそうな気配もないし、そいつを助けたことで自分の評判がよくなりそうでもないし、気分がよくなるという訳でもない奴が「情けは人のためならずって言うだろ?」なんて口にして助けを乞うのは大間違いなんだよ。
「情けは人のためならず」の反対の言葉は何だと思う?
「無償の愛」だよ
一見すると無償の愛に見える行為の裏にもあとあと恩が星の銀貨みたいに返ってくる事を期待してるスケベ心があるもんなんだって言葉なんだよ。
そこを分からずあたかも無償の愛を推奨するような言葉みたいに使うのは止めてくれないかな?
正反対なんだよ。
本当に無償にしかならない人助けなんてのは別にしなくたっていいんだぜって言葉なんだよ。
そりゃまあちょっと人より優位な立場に立って軽くメサイア・コンプレックスっぽい気持ちに浸ってみようかなって好奇心を満たしたくなる日だったら無償の人助けだってあったりするぜ?
マクロスΔは萌え豚と腐に対する媚を100歩譲って許したとしても機体がダメ
シリーズ最新作の最新のバルキリーがメサイアの焼き回しとかクソ&クソ— アリシア@ファランクス機完成 (@0_4ALICIA) 2016年4月3日
うわぁここまで媚ないと視聴者獲得できないくらい落ちぶれたのマクロス— ecu (@ecu_400ps) 2016年4月3日
あとはマクロスΔが有りがちな媚に媚びるだけのアニメとならない事を祈るばかり— かまぼこ (@kamaboco0710) 2016年1月8日
最近のマクロスは萌え豚と腐女子に媚びまくってるからなんかなぁぁ— じゃむおぎさん (@jamogisama) 2015年12月31日
それにしてもマクロスΔはオタクに媚過ぎて好感持てないな 7並の神作であることを祈ろう— 山本タカヤ (@eins_zwei_drei4) 2015年12月14日
Fはまだ漢らしいキャラが居たから好きになれたが
萌えと腐女子に媚売るようなタイトルにはして欲しくなかったな・・・
初代マクロスから観てる俺からしたら— 優@今年こそゲーム三昧 (@suisan0080) 2015年10月29日
ちょっとマクロスΔはオタクに媚びすぎじゃないですかねぇ...— 髑髏本卍丸 (@terekyasu2525) 2015年10月29日
次のマクロスで豚に媚びうったらもうしらねぇ— キイロイリコチャン (@LIONHEART_FF) 2015年10月29日
でも、マクロスは媚売りしないで欲しい。
歌と戦闘で魅了して欲しい— 490Power_zip (@sigure_s15) 2015年10月29日
マクロスΔの媚に来た感— なるほどなー。 (@b8b02990a3bc4ff) 2015年10月29日
はあ????????????????????????????????????
こいつら正気でこんな事言ってるのか
超時空要塞マクロスは当時からオタクに媚びまくり100%の作品でまともなSFファンからは叩かれていたっていう、大前提であるべき歴史認識が出来ていないのか今の自称アニオタって。
媚びて媚びて媚びて媚びて媚びて媚びて媚びて媚びて媚びて媚びて媚びて媚びて媚び抜いてこそのマクロスシリーズなのと違うの????
今までのマクロスは媚びてなかったと本気で思うのならもう病気ですよ頭の。
オタクがオタクのために作ったオタクアニメの金字塔が超時空要塞マクロスであって、派生シリーズはその時代に合わせてマイナーチェンジしてるに過ぎないってのはもう常識だと思ってたよてっきり。
そーかー、今の若い人たちって昔のマクロスは「硬派」なアニメだと思い込んじゃうぐらい、見識が劣化してるんだね。
軽く絶望を覚えるわ。
腰の横に付くバルカン砲の廃熱スリットの穴を空けたり、肩付け根のブチ穴をちゃんと空けたり、お手軽だけど満足度の高い工作余地もあって作ってて楽しい。
塗装後は塗料のはがれが怖くて変形できないんだけど「もっとゆるゆるにして塗装分の厚みを計算したら変形できるはず!」という向上心にも繋がる。
楽しいかったので4つ作った。
太ももの左右を少しけずって痩せさせて足の付け根を少し詰めたらめっちゃロリな感じになってニヤニヤする。
手足のフリルの穴あけとか、こちらも簡単ながら効果的な工作ポイントがあって楽しく時間をすごせる。
デカールはわりと苦行だったけど出来た時の満足感はそうとう高い。
こちらは3個作った。
3:MG 1/100 MSZ-006 ゼータガンダム Ver.2.0
適度なパーツ数と作りやすい組み立て順序でランナー状態の印象よりもサクサクと楽しく組める。
変形する関係で改造するには向かない。
PGに匹敵する解像度と可動が両立されて作った後の満足感は完璧。
2個作った。
ガンプラばかり作ってると一々びっくりする精密なスケール感とよくわからない部品達。
こんな小さいのにさらに手すりとかエッチングパーツとかでディテールアップする技術がよくわからないよ!って感じて次作への向上心が芽生える。
5:1/100 バイファム
昔のキット。よく良作とか言われるけどそうかな・・・?アニメのイメージとはまったく違う気がするんだが。
昔のモナカキットなので改造が簡単。
なにも考えずエッチングソーでバラバラにして再接着してプロポーションを変えるのが楽しくなってくる。
そこだよね 翻訳と日本語のニュアンスの違いとかいろいろあるんだろうけど、
この物語は、『可能性の1つに過ぎない未来の自分が厄介なことに自分に文句つけてきた』
なんてものじゃなくて、『命題の結末』としての未来が、その命題が破綻していて
『間違っている』ことを告げ、お前は間違っているその在り方をどうするのかと問うてきた
士郎と切嗣の「全ての人を救う」という在り方は、そのものが最初から間違っている
でも 『誰かを救いたいという願い 全ての人に涙してほしくないという祈り』
それが決して『間違いなんかじゃない』というのが、士郎とこの物語の答えなんだよ
次回予告でそのポイントをちゃんと押さえてくれることが分かって凄く嬉しい
アーチャーは別の媒体だと自分の生き方を「サバイバーズ・ギルトの権化」だと言ってるな。
メサイアコンプレックスは英雄視されることが自己承認欲求の昇華に繋がるから士郎には当てはまらないと思うよ。
士郎は他人に自分を認めて貰いたいとかこれっぽっちも思わない人間だし、凛に心配された時すら凛のお人好しさに感動してるし。
むしろ自分の価値が低くて、生き残った事に罪悪感を持ってて他人を助けなきゃ!!ってなるから確かにサバイバーズ・ギルトの方が合ってると思う。
「士朗がアーチャーになる可能性はほぼ無い」ってのは、
きのこが凛というキャラを通じて残したささやかな救いであって、それ自体はこの話のテーマじゃない。
これは士朗の救済の話じゃなくって、あくまでアーチャー(士朗の未来)の救済の話。
「悔しいけど私じゃあいつを救えない」って言葉の通り、凛ではどうやってもアーチャーは救えない。
アーチャーは、他でもない士朗によって救済されるんだよ。
それは守護者でなくなるとか、そういう設定上の話ではなく、
アーチャーが苦しんでる本当の理由は、守護者になったからでも、地獄を見たからでもなく、自分を見失ったからなんだよ。
確かクリア後のタイガー道場(?)でアーチャーはセイバールートの士郎なのか?っていう疑問に対して
セイバールートではイリヤが生きているため士郎を止める人間がいるから、アーチャーになることはまずないっていう回答がある。
士郎は絶望しないからアーチャーにならないんじゃなくて、士郎一人だとどこまでも突き進んでしまうから、
その士郎を止めてくれる人が近くに居るかどうかが士郎のアーチャー化の有無に関わってるんだと思うよ。
止めてくれる人が誰も居ないとアーチャーのようになってしまう可能性があるってぐらいに思っておけばいいかと。
正しいだけだと「正しく出来なかった人達」を取りこぼす事になるからな。
最初の士郎の願いって、まさしく正しい答えを選べなかった(その場所にいなければ良かったという正解)人達をこそ救いたいってものだったわけで、だからこその正「義」の味方なんだろうな。
つまり、選択肢をミスった後に出てくるタイガー道場こそ士郎の目指すべきポジション・・・ってアレ?
>切嗣は覚悟があった。大勢を救うためならば少数を殺す事も必要であることを知っていた。その少数がたとえ肉親出会ったとしても引き金を引く覚悟があった。でもそれは間違いだったとアンリマユに気付かされた。
それが間違いだと気づかされたというのは違うんじゃないか?
切嗣は小数を殺さずに済む方法を聖杯に求めたが、自分自身がやっている少数の犠牲の受容を極端な形で拡大解釈して大勢を犠牲にして小数を救うという最悪の回答しか得られなかった
少数の犠牲の受容という現実的解決方法そのものが間違いだったのではなく、それ以外の方法は結局ないんだということに気づかされた
しかも、聖杯はそれよりももっと最悪な解決しか引き出せなかったんだ
アーチャーの場合は契約時点で理想を追求するには自身が無力すぎることを痛感している状況で理想を実現するための力を求めていた
契約して力を得ることで理想を実現できると思っていたが、力を得ても少数の犠牲を受容しなければならないという現実を覆すことはできなかった
それどころか、力があるがゆえにその現実をいやになるくらい体験させられたということだと思う
その結果の「絶望」なんだろうけど、彼のは厳密にいえば「失望」であって「絶望」とは違うんだよな(少なくともアニメの描写を見ている限りは・・・)
現にアーチャーはあれだけ失望し続けながら、なおも救おうとしているわけだし
100人を救おうとして1人も救えない。
1人を見殺しにして99人が救われる。
「動機」の観点では前者が正しく、「結果責任」の観点では後者が正しい。
考え方は様々だけど「全員が救われる事が理想である」という点では異論はないはず
仕方がないという現実は理想を理想でなくす理由には成り得ないし、
決して届かないとしても理想を追い求めることは間違いじゃないだろう。現実を見失わない限りにおいては。
現実と向き合いながら理想を劣化させることなく生きていくのは人として味わうことができる最上級の苦痛かもしれない。
その上、そこまでして行き着く先には何もない(理想は実現しない)というのだから、こんなに酷い話(現実)もないだろう。
それでも、それら全てを踏まえたとしても、「何が正しいのか」と問われれば「答え」は決まっているよね。
それは「誰かの願い」であって「誰もの願い」でもある。
士郎は目につく人みんなを助けたかった。人類全部なんかじゃなくかつての自分のような目の前で危機に陥ってる人を。せめて自分の手の届く人たちを。士郎はその通りのことをしようとした。でも自分は英雄なんかじゃなくただの人で無力だった。死後の命を預けてようやく英雄になり、英雄になってようやく目の前の人を救えるようになった。つまり「衛宮士郎は死後を売渡し、エミヤにならなければ人を救うことができない」英雄エミヤは間違いなく士郎の理想であり到達点。自分の理想を正しく達成した成功例。しかし死後、待っているのはただの殺人。救いたいはずの弱者を殺す役目。「人を救う」という理想を叶えるということはエミヤ(英雄)になるということ。
エミヤ(英雄)になるということは人を殺す道具になるということ。士郎の理想とする英雄では誰も救えない。
救う術を知らず、救うものもなく、誰かの為にならなければという強迫観念、憧れただけでは人は救えない。
エミヤが忘れていたのはその憧れただけの理想にも願いがあったこと。
エミヤはずっと正しい選択をしてきた。愚直に真っ直ぐに不器用に。でも"この"衛宮士郎は時には正しい選択を否定するという決意をした。
そうそう。士郎がよくUBWルートだと真相知ったから守護者にならないってSSでも結構あるけど例え全てを知っても士郎は守護者として契約しちゃうんだよ、ね。
ただアーチャーのように絶望後悔はしないって言ってるだけで。もし真相知ったから契約しないって言うのはすでに見返りを求めている、自己愛があるって事だからそれは士郎ではない。UBWのキモはそんな士郎を絶対に守護者にしないように凛が頑張るって話だから(詠唱にあるような誰にも理解されない士郎にはしないって言ってるklと)
アーチャーが数ある士郎の未来の姿の失敗例の一つに過ぎないのならアーチャーは士郎にこだわらないし
士郎もアーチャーの言葉に信念が揺らいだりしない。士郎がアーチャーにほぼ必ず行き着く理由がある。
士郎もアーチャーも二人とも核が同じだからだ。「誰かを救いたいという願いが綺麗だから憧れた。」二人はこの核からなる人間。
その強い憧れを叶えるためにできることは限られている。過激な思想を持つ人間が行き着く先が銃を手に取るしかないのと同じ。
いやあ士郎はかっこいいよね。
例え絶望が約束されていても自分が間違いじゃないと信じた理想を貫き通す以上絶対に後悔しないと言い切ってるんだもの。
これは士郎の目指したものに共感できるかどうかとか関係ない熱さだよね。
特にアニメの演出では、結構クールな独白が多くて、ブレなさの表現が上手いから余計ね。
士郎は甘いのでも現実が見えてないのでもない、現実の悲惨さを知りながら揺らがないんのだものね。かっこいいよ
アーチャーが後悔したのは守護者になってからってのを理解してない人が多いのかもな
アーチャーは生前助けた人々に裏切られて絞首刑に処せられても一切そのことについて後悔してなかった今回士郎が言ってたように完全に正しかった正義の味方だった身を捧げる覚悟も出来てたしそれで良いと思ってた
そんな覚悟決まりきった正義の味方でも守護者として人類の滅びを救うために延々と滅ぼす可能性のある事象とその関係者を殺し続けることには耐えられなかっただけ
UBWの士郎でも正義の味方として突き詰めるならエミヤになるしかない。ただ凛が人間として幸せにしてそれは回避されるだろうけど人としての幸せ手に入れる時点で正義の味方として完全じゃない
たとえ本物になれなくても、抱いた理想が間違いでないと思えるならば、それを追い求めることは正しい、
といことがテーマだと、どっかのインタビューできのこが言ってたな。
ただ、それは非人間的な機械のように生きることには変わりないと。
一人の大切な人を守るために、理想に折り合いをつけ、機械のような男が人間になるはなしだと。
どちらが正しいという話でなく、それぞれの解答がある。
アーチャーが失敗例だと思って語ってる人が多いのはどうなんだろって思ったけど、来週で変わるかなあ
結局士郎は道を変えない(アーチャーと違う道を選んだりしない)ってのは話の肝だけど、伝えづらいよね
>「アーチャー(失敗作)を目撃したこと(と、遠坂との絆を得たこと)によって士郎はアーチャーと違う道を歩むことが約束された」
テーマとしてはむしろ正反対だよ。アーチャーが失敗例っていうならそもそも衛宮士郎自身が生まれた時から失敗例になってしまう
士郎はアーチャーに忠告されたからって違う道を歩むような人間じゃないってのがややこしいところだし自分殺しの動機でもある
今回の話も対比。抗魔術で身動きできない凛は瀕死のランサーに救われた。原作ゲームでは
凜は、なけなしの魔宝石でランサーを救おうとするシーンがあったらしいけど、人が誰かを
助けたいと思う気持ちに、何の打算もなく反射的な時もある。
慎二はランサーの槍先が刺さっただけで逃げ出したけど、それが普通の人間の反応。
何の覚悟もないし、痛い物は痛い。士郎はアーチャーに串刺しにされたけど、セイバーが
そばにいてアヴァロンのおかげで治癒したけど、それがなくても立ち上がれただろうけど、
それでは、何の解決にもならず、いずれ未来の選択肢の一つに負けていた。
だからこそ、ここで救われた弱い士郎は、心が折れず、正義の味方を夢見ていられる。
救いたいのは、他人のためでなく、自分の願いだから、正義はエゴなのだから。
衛宮士郎は、切嗣と凛、そしてアルトリアという3人にかつて命を救われた弱者ということを。
だからこそ、誰かを救える力を求めたけど、その理由を「人の為」と「偽った」から、アーチャーは
疲れてしまった。憧れたのは綺麗だったから、余りに幸せそうに笑った「爺さん」のために、
大勢の両親、友人、知人や知らない誰かを救えず、見捨てて、死を受け入れた虚無から生きよう
と思っただけなのに。アーチャーは力を得たけど、それ以上の暴力に打ちのめされ、滅私奉公
しすぎて、正義が摩耗し、絶望のあまり、己れの願いすら呪いと捻じ曲げてしまった。
士郎は、救われる以前から、弱いからこそ、負けられない頑固者だったのに。
アーチャーは失敗作なんかじゃない。英霊エミヤってのは正義の味方を目指した衛宮士郎としては最高傑作だ。衛宮士郎が正義の味方であることを突き詰めるとどうやってもあぁなる。凛との繋がりが出来てUBWの衛宮士郎はエミヤにはならないことが確定してるけど、それって特別な一人が出来たことで正義の味方としては不純になるってことでもある。
ところでやっぱり、Zero…というか、虚淵さんのセイバーの像が、原作と深刻なズレを起こしていますな
Zeroしか通過してこなかった視聴者は、原作であるSNのセイバーの行動や思考がわからずに、なかなかに頓珍漢なことを言っている
あと相変わらず慎二にヘイトためってる人は、型月的にも平凡な人なんだな
非凡以外の何者でもない、あの作品の大半の登場人物たちにとって、慎二は本当に極限まで「どうでもいいやつ」なんだ
数回前の凛にも怒られてたけど、自己犠牲が強すぎて中身がない。手段が目的になっている。
その原因は「キリツグの代わりにその夢を叶えてやろう」っていうだけのものでしかなかった。
そのまま大人になってしまったから英霊エミヤという存在が生まれてしまった。
でも今ここで、未来や過去の自分と向き合うことで、手段に意味を見出した。
「キリツグの夢」が「自分の夢」とイコールになったと言えばいいのかな。
これからもやることは変わらないだろう。でもそこには〝中身〟がある。
きっともうエミヤようにはならないだろう。
今出来ないことを出来るようになりたい、苦手・弱点を克服したい、
ウィークポイント・コンプレックスを消すことではるかに生きやすくなります。
しかし、克服したものに囚われていたら、そこで自分は頭打ちになります。
分かりやすい例として、ここでは、「いじめ経験者がカウンセラーを志すことの欺瞞」、として記事を書きます。
克服。
[名](スル)努力して困難にうちかつこと。「病を―する」(デジタル大辞泉より)
couldn’t→canということですよね。
「克服出来てない人の手助けをしたくなること、克服出来てない人をばかにすること、搾取すること。」
僕としては、これは克服とはみなせません。
例えば、昔いじめられていた人が、同じようないじめられている子を助けたいがために、カウンセラーを志す、
そういった理由でカウンセラーになりたいという人を多く、見聞きしてきました。しかし、人間的に全く魅力が無い、冴えない。
結局そこの世界しか見えていないからです。克服して何がしたかったか、その先が無い。
自分の成功談を語り、他人にアドバイスし、克服出来てない者から賞賛され、自分が認められる。価値を感じられる。
満足感は得られる。しかし、それをしていたら、それ以上にはなりえない。メサイアコンプレックス。
それはなぜか、克服が目的になっているからです。その先が無い。
違う、、、克服というのは、「何かに打ち勝ち、それを”当然”とすること、その先を生きること。」
それを克服したことを糧として、自己効力感を高めつつも、それを無かったものとして生きること。
人が怖くない、、、そんな状態、怖くない人からしたら当然。
対人恐怖を克服したら、もちろんその先がある。その先に壁があり、成長がある。
それなのに、克服した事実にしがみつき、克服してない人を見て、その手助けをする。
結局、その「対人恐怖」「いじめ経験」という柵からは逃れられていないわけです。
当然、自分のことも考えるし、それは時にフラッシュバックする。
そうではなくて、「対人恐怖克服」「人が怖くない」そんなのは当たり前の、当然のレベル、意識にも登らないようなレベルへと昇華させて、
ここでは対人恐怖を例に上げましたが、これは何にでも言えることです。
成長したい、何か出来るようになりたい、克服したい、、、、
であるならば、それを「当然のものにする」この意識でやるべきです。
出来るようになって、喜んで、それは大事ですが、
それにしがみついて生きていては、結局同じことです。