今出来ないことを出来るようになりたい、苦手・弱点を克服したい、
ウィークポイント・コンプレックスを消すことではるかに生きやすくなります。
しかし、克服したものに囚われていたら、そこで自分は頭打ちになります。
分かりやすい例として、ここでは、「いじめ経験者がカウンセラーを志すことの欺瞞」、として記事を書きます。
克服。
[名](スル)努力して困難にうちかつこと。「病を―する」(デジタル大辞泉より)
couldn’t→canということですよね。
「克服出来てない人の手助けをしたくなること、克服出来てない人をばかにすること、搾取すること。」
僕としては、これは克服とはみなせません。
例えば、昔いじめられていた人が、同じようないじめられている子を助けたいがために、カウンセラーを志す、
そういった理由でカウンセラーになりたいという人を多く、見聞きしてきました。しかし、人間的に全く魅力が無い、冴えない。
結局そこの世界しか見えていないからです。克服して何がしたかったか、その先が無い。
自分の成功談を語り、他人にアドバイスし、克服出来てない者から賞賛され、自分が認められる。価値を感じられる。
満足感は得られる。しかし、それをしていたら、それ以上にはなりえない。メサイアコンプレックス。
それはなぜか、克服が目的になっているからです。その先が無い。
違う、、、克服というのは、「何かに打ち勝ち、それを”当然”とすること、その先を生きること。」
それを克服したことを糧として、自己効力感を高めつつも、それを無かったものとして生きること。
人が怖くない、、、そんな状態、怖くない人からしたら当然。
対人恐怖を克服したら、もちろんその先がある。その先に壁があり、成長がある。
それなのに、克服した事実にしがみつき、克服してない人を見て、その手助けをする。
結局、その「対人恐怖」「いじめ経験」という柵からは逃れられていないわけです。
当然、自分のことも考えるし、それは時にフラッシュバックする。
そうではなくて、「対人恐怖克服」「人が怖くない」そんなのは当たり前の、当然のレベル、意識にも登らないようなレベルへと昇華させて、
ここでは対人恐怖を例に上げましたが、これは何にでも言えることです。
成長したい、何か出来るようになりたい、克服したい、、、、
であるならば、それを「当然のものにする」この意識でやるべきです。
出来るようになって、喜んで、それは大事ですが、
それにしがみついて生きていては、結局同じことです。
いじめカウンセラーがいじめを「克服」してないからなんだっつーんだよ ばっかじゃなかろか