2015-02-24

「克服」するとはどういうことか。〜いじめ経験者がカウンセラーを志す、という欺瞞

今出来ないことを出来るようになりたい、苦手・弱点を克服したい、

ウィークポイントコンプレックスを消すことではるかに生きやすくなります

しかし、克服したものに囚われていたら、そこで自分頭打ちになります

分かりやすい例として、ここでは、「いじめ経験者がカウンセラーを志すことの欺瞞」、として記事を書きます

克服。

[名](スル)努力して困難にうちかつこと。「病を―する」(デジタル大辞泉より)

couldn’t→canということですよね。

しかし、克服した人が陥りやすいのが、

「克服出来てない人の手助けをしたくなること、克服出来てない人をばかにすること、搾取すること。」

僕としては、これは克服とはみなせません。

例えば、昔いじめられていた人が、同じようないじめられている子を助けたいがために、カウンセラーを志す、

そういった理由カウンセラーになりたいという人を多く、見聞きしてきました。しかし、人間的に全く魅力が無い、冴えない。

結局そこの世界しか見えていないからです。克服して何がしたかたか、その先が無い。

自分成功談を語り、他人アドバイスし、克服出来てない者から賞賛され、自分が認められる。価値を感じられる。

満足感は得られる。しかし、それをしていたら、それ以上にはなりえない。メサイアコンプレックス


それはなぜか、克服が目的になっているからです。その先が無い。

違う、、、克服というのは、「何かに打ち勝ち、それを”当然”とすること、その先を生きること。」

それを克服したことを糧として、自己効力感を高めつつも、それを無かったものとして生きること。


人が怖くない、、、そんな状態、怖くない人からしたら当然。

対人恐怖を克服したら、もちろんその先がある。その先に壁があり、成長がある。

それなのに、克服した事実にしがみつき、克服してない人を見て、その手助けをする。

結局、その「対人恐怖」「いじめ経験」という柵からは逃れられていないわけです。

当然、自分のことも考えるし、それは時にフラッシュバックする。



そうではなくて、「対人恐怖克服」「人が怖くない」そんなのは当たり前の、当然のレベル意識にも登らないようなレベルへと昇華させて、

次の自己実現ステージへと向かうことです。



ここでは対人恐怖を例に上げましたが、これは何にでも言えることです。

成長したい、何か出来るようになりたい、克服したい、、、、

であるならば、それを「当然のものにする」この意識でやるべきです。

出来るようになって、喜んで、それは大事ですが、

それにしがみついて生きていては、結局同じことです。

それが「当然」になった時にはもう、次のステージにいます

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん