男の集団の中にいたら周囲が勝手に配慮するのが当たり前が女の子だよね
今の子供たちは信じてくれるだろうか?
家庭だけでなく、給食もファミレスもナポリタンとミートソースしか無かった。
もちろん、「パスタ」などという呼称は一般的ではなく、ましてミートソースを「ラグー」と呼ばれるのを聞いたことがなかった。
うちの父など、未だに赤くないスパゲッティはゲテモノだと思ってる。
おそらく赤くないスパゲッティが市民権を得たのはイタリアンブームが来たときのような気がする。
流行った頃。
初めて食べたカルボナーラに衝撃を受けた。
そのカルボナーラは、今に思えば日本式の別物ではあるが、スパゲッティが乳製品ということが衝撃たった。
スパゲッティだけではない。
サラミとタマネギとピーマンが必ず乗ったパン生地のアメリカ式で、タバスコをかけて食べるものだった。
マルゲリータなどなかった。
基本的に空気が読めない人なので、女社会の「皆が感じていることを察して共感するのが当たり前」みたいな感覚について行けない。そして女社会の「共感できないヤツは仲間はずれにしていい」という暗黙のルールにも納得できない。
よく女はきちんと説明せずに察してもらおうとするが、それは甘えも甚だしいと思う。「○○してほしい」という要求とか「××のときは△△すべきだ」という自分たちの世界の暗黙ルールがあるならきちんと説明しろと思う。自分の常識が何も言わなくても他人に通用すると思っていることがおかしいと思わないのだろうか。
たとえば職場内に嫌われ者がいるとき、「皆がその人を嫌いなのは当たり前だ」という空気が漂い、「なぜその人を嫌いなのか」「どこの部分を改善してくれたら嫌いじゃなくなるのか」みたいな議論や建設的な解決方法の検討はなされない。まぁ人の性格や行動は一朝一夕に治せるものではないけれど、その嫌われ者が重要な決定権を握るポストにいる場合、その人を上手く転がして自分たちの望む方向に持っていくのが賢い選択というものではないのか。「嫌いだから飲み会に呼ばない」ぐらいはまぁいいとして、ただ「嫌いだからそいつの言うことは聞かない」というのは単なる子どもだと思う。
自分がSNSに何か投稿すると、「イイネ!」を押してくれたりコメントを書いてくれたりするのはほとんど男性である。私は別段若くも美人でもないので、人気があると言うよりは同情票のようなものだと思っている。自分が何か女性陣の暗黙のルールに反することをやらかすと、速攻で仲間はずれにされている感じがして仕方ない。何で暗黙のルールを自動的に察しないといけないのか全然納得できない。私が誰かに何か失礼なことをしたならば、はっきり「○○さんにこういうこと言ったみたいだけどそれって失礼なんじゃないの?」と言ってくれる方がまだましだと思う。
最近こういうちょっとムカっとくる事件(ささやかで個人的なものだけど)が続いているので、発達障害の診断でも受けようかと思っている。「空気が読めない=悪」という価値観で生きている女どもに、「空気が読めない病気の人間もいるのだ」ということを突きつけてやりたい。それで人間関係が改善するかっていうと改善しないかもしれないけど、「察してくれるのが当たり前」という価値観が間違っているのだということを分からせたい。
100個作れるやつもこの世に存在するのに自分が出来もしないことを気にして何の意味があるの?
8個しか作れないのかよと言われたら素直にそうですけど?って返して後は無視しとけばいい
誰だっていいところと悪いところがある
はてなにはそういう方が多い、よ!!
で、どうすればいいのか、という話ですが
4C分析
Customer value Cost Convenience Communication
これらを上手に使いこなせば、うまく人生生きていける、よ!!
くっ…殺せ!
好奇心というのは全くゴキブリみたいね――人の触れられたくない秘密ばかりに、こぞって寄ってくる。鬱陶しくてたまらないわ。神経に触れるのよ、つまらない虫けらごときが#好奇心#ゴキブリ #化物語— 化物語 名言 (@bakemono77m) August 5, 2015
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それはちょうど、おばあちゃんが孫に昔話を聞かせるようなものだと思う。
そんな時に初めて教養が生きると思う。
「あの人は教養がない」とか
それは、ひどい勘違いだと思う。
↓これを見て思い出したので。。。
https://twitter.com/namigonda/status/1002892350979387392
上の話は女の人だけど、自分は男です。まあお世辞にも喧嘩は強そうに見えませんし実際強くないです。
数年前飲み会の帰りの深夜、バスに乗って足を組んでたら、隣に座った少しガタイのいいサラリーマンに足を軽く蹴り上げられた。
「お前の靴と違って俺の鞄は安もんじゃねーんだよ」
ちょっと頭のおかしい人だなと思って、無視してまた足を組んだらまた蹴られた。
ボクはほろ酔いで上機嫌だったこともあり、不思議と腹が立たなかったのと幸いバスも空いていたので、
そのサラリーマンの近くを離れ、斜め前の席に移動して足を組んで座ることにした。
正直これがサラリーマンの気に障ったんだと思う。
自分の降りる停留所が近づいても、さっきのサラリーマンが降りる気配がなく、正直「同じ停留所で降りたらややこしいなあ」
と思っていた。降りる一つ前の停留所にとまったその時、肩に何かぶつかった。
振り返るとさっきのサラリーマンと鞄が見えた。その瞬間反射的に自分の足が出てサラリーマンを思いっきり蹴っていた。
咄嗟過ぎてどこを蹴ったのか分からなかったが、おそらく尻だったと思う。
まさか蹴り返してくるとは思っていなかったのか、驚きと怒りが入り混じった表情をしていた。
自分も酔っていたからなのか、負けじと相手が向かって来たら蹴りを出すつもりで睨みかえした。
「お前気をつけろよ!」
サラリーマンはそう捨て台詞を吐くと、何もやり返さず降りて行った。
正直ほっとした。
勘違いしてほしくないのは、これは別に武勇伝として話しているのではない。
(実際カッコいいものではないし、この話自体知り合いにも誰一人話していない)
最初はマナーを人に説いていたサラリーマンが、降り際にわざと鞄をぶつけるという超マナー違反を侵し、
自分がとんでもない低スペックな人間であることにここ数年で気がついてしまった。
独身の時は自分がスペックが低いななんて感じることもなかったと思う。
飛び抜けて優秀でもないけど、人並みに仕事していたと思う。
ところが結婚して数年、すぐに出来ると思っていた子どもが全然できなくて、やっと授かった子どもの学費を稼ぐためにも働きに出ることを決意したけれど…。
バイトなら学生時代にもしていたはずなのに、今は出来ない。遅い。
ライン作業に入ればテンポ良く出来なくて迷惑をかけ、加工の仕事をすれば他の人が10個加工する時間で私は頑張って努力して8個。
とにかくトロい。
情けないし、つらい。
佐川氏の退職金 513万円減額 財務省 | NHKニュース https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180604/k10011464271000.html
一方で「優れた若手研究者に(中略)研究に専念する機会を与える」ことを目的として日本学術振興会が採用している特別研究員-PDの支給額は月額362000円、年間で約434万円になります。
日本学術振興会特別研究員-PD 平成31年度(2019年度)採用分募集要項 https://www.jsps.go.jp/j-pd/data/boshu/pd_yoko.pdf
単純計算で、佐川氏の退職金は学振PD十人に一年で支給される額に相当するということですね。
もちろん学振PDには研究費補助も含まれているので正確に十人分まかなえるわけではないですが、それにしても七人や八人分にはなりそうな金額です。
大学院生を対象としたDCの月額はより低く、年額240万円となっています。佐川氏の退職金の五パーセント程度です。
各研究機関の研究費も苦しい状況が続く中で、国内の研究者志望者はほとんど例外なく学振研究員への採用を志望し、学振DCやPDは駆け出し研究者にとっての試金石であると同時に貴重な生命線でもあります。
日本学術振興会は文部科学省の下部組織であり、学振研究員の予算は財務省からの物言いを経て決定されています。
当然研究者としても、スポンサーたる関係省庁のことを常に意識しながら研究し申請しています。
研究者たちが日本学術振興会、文部科学省、ひいては財務省の顔色を窺いながら申請書や報告書を作成している一方で、当の財務省では職員たちが公文書を改竄し、責任者はDC二十人分の退職金を受け取っているわけです。
公文書の改竄という事件は、単に虚偽を報告し事実を隠蔽したということ以上の深刻な意味を持ちます。
官僚が我々私人よりも大きな権限を与えられているのは、彼らの行動が法によって規定されているからです。
国家システムの一部として法により支配されているからこそ彼らは行政行為を許されているのです。
公文書を適切な手順を踏まずに改竄したという事実は、官僚が有するべき行政としての正統性を揺るがす大問題に他なりません。
もちろん佐川氏の退職金を剥奪しろと主張するつもりはありません。
彼の容疑(公文書偽造罪になるのでしょうか?)については刑事裁判によって解明されるべきであり、罪が認められた場合には法によって定められた罰のみが与えられるべきです。
行政に対して正統性を求めるならば、刑罰に対しても正統性を求めるのが然るべき筋というものでしょう。
ですが、研究者を目指している(半ば「いた」になりつつありますが)身としては、感情論としてどうしても思ってしまうことがあります。
はーーーーーーーーーーーーーーーーーアホくさ
科学予算は好き放題削るくせにお仲間の退職金はポンと出すんかいな
こっちはヒイコラ書類を書いて、目を皿にして書き損じが無いか気を揉んで、くじ引きみたいな倍率の選考で三百万や四百万もらえるかどうかで一喜一憂してるというのに、財務省では公文書を好き放題改竄した挙げ句に何千万ももらってるのか
バカバカし しょーもな やってられんわこんなこと
去年の10月に恋人と別れた。はじめて付き合った人だった。半年も持たなかった。
周囲の人たちから「大丈夫?話聞くよ?」とか「何があったの?」とか聞かれるのがつらかった。話したくなかった。けれどそう聞かれると話さないといけない気がした。心配してくれていて好意で聞いてくれているのは分かってた(それと少しの好奇心)。だからより一層、話したくないと言うことができなかった。それがみんなの最大の関心事でもあるのは分かっていたので、話さないと場の空気が気まずくなることも分かっていた。
なぜ話したくないかというと、現実を受け止めたくなかったから。同情されたくなかったから。同情されるとプライドが傷つく。相手のことを悪く言われるのも耐えられなかった。
別れた後にはじめて知ったことも多かった。私が別れたくないと奮闘していた時、彼は既に別れたいと周囲に漏らしていたらしい。全て友人達から聞いた。私は知らなかった。私は知らなかったことを彼女達は知っていたのかと考えるとつらかった。みじめだった。知りたくなかった。
つらいことや悲しいことがあったときに、誰かに話を聞いてもらいたい人間もいる。けれど同じように「話を聞くよ」と言われるのが苦痛な人間もいる。それをプレッシャーだと受け取ってしまう人間もいる。
良い人に出会えるといいな。