こんにちは。自分は、民主党内リフレ派が結局敗北したことを残念がる気持ちを元増田とシェアしています。いっぽうで、元増田が支持する現アベノミクスの金融政策については、実効性の面で重大な懸念が出てきているとも思います。とりあえず、いくつか事実関係の訂正をします。
一般会計税収はリーマンショック翌翌年の2009年が底で、そこからずっとコンスタントに増え続けています。2013年度に特に増えたわけではありません。キープペースです。
http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/010.htm
短期的に奏効するはずの「企業収益の押し上げ」は、この後で述べますが、実際には起こっていません。「失業率の低下」についてはどうでしょうか? 実はこちらも、2009年からほぼ同一ペースで一貫して改善しているのです。完全失業者は52か月連続で減少、就業者数は21か月連続の増加です。
http://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/tsuki/
http://jp.ecodb.net/country/trans/Z1F01301.html
こうして諸資料を見てみると「リーマンショックが日本経済を直撃した2008-9年以後の経済復調のペースは、実はアベノミクス実施の前後でそれほど変化していないのではないか?」という印象が出てきます。内閣府経済社会総合研究所の作る景気循環資料でも、2009/3から始まる景気上昇(第15循環)が、2012/4で一旦ピークを迎えて景気悪化に転じるものの、2012/11を景気の谷として再び第16循環が始まっています。
http://www.esri.cao.go.jp/jp/stat/di/140530date.pdf
たった2年前のことなのにみんな忘れてしまっているようにも見えますが、民主党の政権返上→解散コンボは、景況とは直接の関係はありませんでした。鳩山政権は安全保障問題で、菅政権は東日本大震災への対応で支持率を落とし、野田政権はねじれ国会の国会運営に行き詰まった末に、3党合意と引き替えての解散だったのです。
あまり報道されていませんが、中小企業景況調査報告書を見ると中小企業の景況感も良くなっています。
http://www.chusho.meti.go.jp/koukai/chousa/keikyo/137keikyo/137sokuho.pdf
直前四半期のQ2(4-6月)とQ3(7-9月)を比較すれば、そう見えるかもしれませんが…。業況判断DIのグラフを見ればわかるとおり、Q3はQ2の消費増税後の急激な落ち込みから何とか持ち直しの傾向に転じただけで、前年Q3と比較すれば未だマイナス推移です(中規模 ▲2.3, 小規模▲0.2)。一方で採算(経常利益)DI、資金繰りDIは全般的に昨年より悪化しています(全産業で採算DI▲1.5、資金繰りDI▲0.9)。この採算(経常利益)DIの悪化には、円安の影響が直撃しています。
円安状況が引き続いているために原材料・商品仕入単価DIが△12.4と急上昇しているにもかかわらず、マーケットの実需要が不足しているため、売上単価・客単価DIは△5.4アップと価格転嫁できていない。その結果、採算(経常利益)DI が悪化している。円安と需要不足で企業の採算性が悪化しているのに物価は上がるのだから、これはスタグフレーションですよね。
結局、アベノミクスの金融政策部分に正統性があるかどうかは、当時の日本のコンテクストでこの理解が正しかったのか、という点にかかってくると思います。経済学の教科書では、デフレーションの原因は:
の2つとされますが、日本の景気問題は、おおむね人口オーナスにより総供給が総需要を上回っている=実体経済自体が弱っていることが主因であって、ゼロ金利と量的緩和によって市中のマネーサプライを増やしても需要自体の創造ができるわけではないですよね(需要を創造するのはアベノミクス第2の矢の財政政策で、これは2013年に実質GDP2.2%を記録しただけで効果が切れ、今年のGDP推移はご承知の通りです)。
紐を引いたら物をたぐり寄せることができたからといって、紐を押せば物を押しやることができるわけではなく、その物を反対側で引く力(需要)がなければ紐がたるむだけです(銀行のマネー余剰)。結局のところ「量的緩和は(潜在的な消費力によって)奏効することもしないこともある」というのが、2010年代に欧・米・日の金融政策を見てきた我々の経験ではないでしょうか?
丁寧にお断り、これ一択。
これで引っ込まない奴はちょっと異常な奴、おかしいのは向こう、と烙印を押していい。
まぁもしあなたが余程隙だらけでヤれそうオーラを出しているキャラだったならば、寄ってくるのもそれなりのグレードの奴になってしまうのはもう仕方ない。似たもの同士で潰しあえーとしか言えない。
そうでないと言うのなら、尚更丁寧にお断りを貫けばいい。
ていうかまあね、コンだの会だのと名のつくものに参加している以上お前も目的は同じだろ? と思われるのは必然。参加に費用などのハードルがないものなら更に有象無象度は上がる。わかってるでしょ。
魚釣りに行ったら虫に食われたり汚れたりするのはセットなんだよ。後始末しながら文句言うな。
最初は墓地の近くに住んでいたが、やがて孟子が葬式の真似事を始めたので母は家を移した。
移った所は市場の近くで、やがて孟子が商人の真似事を始めたので母は再び家を移した。
次に移った所は学問所の近くで、やがて孟子が学問を志すようになったので母はやっと安心したという。
この話は孟母三遷として知られ、史実ではないとされているが、子供の育成に対する環境の影響に関して良く引き合いに出され、鄒城市には孟母三遷祠が建てられている。
「絵画、記念物、機械、製作物などの文化的財の全体が、そして特に、生まれた家庭の環境を構成している全ての文化的財が、ただそこに存在するだけで教育的効果を及ぼすという事実」
最近はどうかわからんけど、小室全盛期の90年代JPOPの英語歌詞はほんと酷かったよなあ。
子供だった当時から酷いと思ってはいたけど、英語がある程度わかるようになってから見ると恥ずかしさで卒倒しそうになるレベル。
「オレサマ オマエ マルカジリ!」みたいな感じの珍妙な英文を切なさマックスで歌い上げるという、シュルレアリスムも真っ青なヤバさがある。
傘を持っていたんだけど自転車に乗るときに傘をささないで帰って来たら翌日風邪を引いた。
自転車に乗りながら傘をさす人がいると思うんだけど、あれが信じられなくてめちゃくちゃ危ない。信じる必要は無いし何言いたいのか解らなくなってるけど、傘をさしながら自転車に乗るのはめちゃめちゃ危ないってことなのに無謀な運転をしている人が思いの外多い。
質の良い文化的財は、ただそこにあるだけで「全般化されたアロー効果」(ブルデュー)を発揮する。「アロー効果」とは、アメリカの計量経済学者ケネス・ジョゼフ・アローの言葉で、ブルデューはこれを以下のように解釈している。
「絵画、記念物、機械、製作物などの文化的財の全体が、そして特に、生まれた家庭の環境を構成している全ての文化的財が、ただそこに存在するだけで教育的効果を及ぼすという事実」。
単に裕福な家庭の子が進学で有利というだけでなく、
文化資本(上品で正統とされる文化や教養や習慣等)の保有率が高い学生ほど高学歴であることを統計的に証明した。
またその子供も親の文化資本を相続し、同じく高学歴になることも統計的に証明した。
彼はこれを文化的再生産と呼んだ。特権的文化の世代間継承と、学校がそれに果たす役割を解明。
社会構造が再生産され変化するメカニズムについて考察し、現象学的主観主義を発展させることも目指した。
「客体化された資本」(家庭の中にある文化的なもの、本、楽器、美術・骨董品、蔵書等)、
「身体化された資本」(ハビトゥス;慣習行動を生み出す諸性向、「構え」「ふるまい」)
の3つの客体がある。
国家貴族になる学生は、実は統計学的に両親の学歴資本、文化資本、経済資本、社会関係資本が高いことが挙げられる。
4歳までに、専門職家庭の子どもなら自分に対して発せられた言葉を5000万語、聞く。労働者家庭の子どもは3000万語、福祉家庭の子どもは1200万語だった。
就業人口の4割近くを占めるはずの生産労働者は美術館の観客全体の4%でしかなかった
自分のことを賢いと思って生きてきたし、実際勉強はそれなりに得意だ。
だが今、周りの賢い人たちにまったく付いていくことができない。自分がバカすぎてつらい。生まれもっての思考様式が違う生き物にしか思えない。頭のよさは、努力で超えられる壁なのだろうか?
自分が頭がいいと思う人の特徴は、
・一見正しそうにみえる論理の抜け穴がすぐ分かり、指摘できる。(そもそも、自分を含む大多数の人間が表面的な論理っぽいものにすぐ同様に惑わされてしまうというのも逆に不思議だ。)
(自分は発散思考にいつも陥ってしまい、論点がすぐにずれてしまう。よって建設的議論ができない。)
・以上のことを一瞬のうちに行う
(自分が熟慮を重ねてようやく分かるようなことを、彼らは一瞬のうちに理解できてしまう)
・むやみに難しい言葉で語らない
頭のいい人たちの議論を聞いていると、何を話しているのかさっぱり分からない。単語だけが横滑りしていく。
思考スピードが速すぎて、何か事前に打ち合わせでもしていたのではないかと思ってしまうくらい、理解できない。
さらに、頭のいい人の質問の意図が、自分にはすぐに理解できない。いつも見当違いの返答をして、苦笑されてしまう。だが、何が聞きたいのか、一体全体自分には分からないのだ。
自分は地図がまったく読めなくて、メタな空間的認知ができない。空間を把握するとき、自分と対象の関係性しか考えられない。
ふと、それが関係しているのではないかと思った。
つまり、頭のいい人たちには論理関係が空間的に把握されているのではないかと。
いったい、頭のいい人たちの頭の中には何が見えているのだろう?