はてなキーワード: 封建社会とは
ラックスマン来航(大黒屋光太夫が同行)時に、幕府は慌てて直接蝦夷の国境警備を行おうとする。
さらに最上徳内・近藤重蔵らの調査により、北方警備の怠慢・アイヌ人虐待などの不祥事が明らかになり
松前藩は直轄領にされ、さらに翌年函館奉行の預りとなり、20年あまり藩を召し上げられることになった
※とはいっても、この間にアイヌ人は人口が2割以上減少するなど、それ以上に悲惨な境遇だった)
※今まで騒乱が起こったレザーノフ時も、ゴローニン事件(この時高田屋嘉兵衛がロシアに行く)も、どちらも幕府直轄時代の騒動。
その後返還がかなって34年経ち、去年ようやく松前城の新築が完成したばかりだったが
この松前城はいきなり時代遅れだったりしてどうしようもないので幕府が直接統治して国防拠点としようとする。
「樺太が日露雑居となり函館開港となれば待つ前には荷が重い」という理由で松前藩から土地没収)
(松前藩の言い分としては、幕府にしたって外国船上陸のさいにろくな対応ができていなかったし
そもそも松前藩が十分に対応出来なかったのは、対応の権限が松前藩にない上、情報すらよこさなかった幕府の怠慢が原因であるし、
今まで騒乱が起こったレザーノフ時も、ゴローニン事件(高田屋嘉兵衛)も、どちらも幕府直轄時代の騒動なのだが、そんな道理が通じる幕府ではない)
実際は、函館開港が大きな利権になること、その他蝦夷地に寄港する船舶からの租税徴収権などに目を付けられた形。
松前藩は領土返還、通行税回復を幕府に願い続けたがかなわず明治維新を迎える。
勤勉実直な父と、陽気な母の性格、さらにとびきりの好奇心を受け継ぐ?
(福沢諭吉の命名の所以は清国の法律書「上諭条例」から一文字とっている)
下士身分であったゆえ、身分の壁に悩む。諭吉も父を見て封建社会を憎むようになる。
父は諭吉が2歳になる前に病死。その後福沢一家は中津藩に戻るも福沢一家は言語・風習の違いから疎外されたりもする。
(父の死後も母が常に父の偉さを子供たちに話し続けたため、父の教えは強く受け継がれる)
幼い頃は、家事手伝いや内職をして過ごし、内職名人として有名に。
少年になってから親戚の中村家の養子に(跡継ぎが耐えないための保険にすぎず中村家に養ってもらったわけではない)
中津藩では儒学のみならず「鉄砲とそろばん」の教育にも力を入れていたため諭吉も儒学のみならず算術に大いに才能を発揮する。
子供の頃の諭吉の夢は「日本一のお金持ちになって好きなだけお金を使いたい」であった。
諭吉は西洋文明に出会う前からかなりの合理精神の持ち主であった。
14~15まで一切本を読んだことがなく、当時としては勉強を始めるのが非常に遅かったが
白石塾に入門した時身分制度の障害にぶちあたり、なにくそと死に物狂いで勉強。あっという間にトップに。
しかし能力で抜きん出ても認めぬ身分制度になおさら嫌気が刺していたところで、中津藩にも黒船来襲。
18の時に砲術訓練の名目で長崎行きを志願し、中津を離れ、長崎ではじめて蘭学に出会う。
クリミア戦争は兵站補給、爆薬、衛生学の3つで革命をもたらしたとされる。
ロシアはノーベルの父エマニエル=ノーベルにより機雷を発明したり戦力的には奮闘したが、
産業革命により鉄道輸送を実現したイギリス・フランスとくらべて長期戦において不利を取り敗れる。
アレクサンドル2世は、国家の経済を中世以来の農奴制に依存してきたため産業革命が遅れ
クリミア戦争の敗北を招いたことを大反省し、農奴解放例を打ち出す。
大改革の過渡期には様々な矛盾が一気に吹き出すもので、逆に一揆・反乱・独立運動が続々と起こり
それらの打開策のため皇帝は軍事力を強め、国外戦を起こすにいたり、大改革は、大混乱へと突入していく・・・。
(日本も時間の余裕さえあれば、こういうことを経験できただろうということもできるし
逆に時間の余裕がなかったために、ロシアのような悲惨な流血時間や長い内乱をある程度避けれたと考えるべきか)
現代の愛国心というのが観念的な薄っぺらいものであるのに対し、
間宮林蔵は、この時代の誰よりも日本全土を自分の目と足で実際に把握し抜いた。
さらにロシア船が日本沿岸を海賊のように荒らし回った時に、択捉島で直接砲火を浴びつつ応戦するという経験までした。
ここまでくると、日本という領土に敬意を示さず土足で日本に上がりこむ外国人に激しい怒りを燃やすようになった
(しかし、土地のありがたさを知らず軽んじる人たちにはそう感じなかったのかな?そこまで考えてたらきりないか)
#その他#
昔生きていた人たちが、この本の中では今も生きてる。そう感じられる。これはスゴイことですよ!(安彦良和)
子供の頃から「こういう漫画を誰か描いてくれないかなあ」と、本気でずっと思っていました。そうしたら、ズバリみなもと先生が描き始めて下さいました。「よし!」とばかりに読み始め、「こりゃなかなか終わらないだろうな嬉しいな読みでがあるなあ」と思っていたら、本当に終わらなくて、もうずっと読み続けられて嬉しいことこの上なしです。いつまでも描き続けてください。ちなみに、小学生の頃みなもと先生のキャラをソラで描けるのは、クラスで僕だけでした(京極夏彦)
のに何を言っているんだか。轟々に批難されるべき人でなしでも、面を向きあわせている間は危険を避けるためにお世辞などでやり過ごすだろうね、俺は。それにたとえ身の安全が完全に保証されている場でも精神的なものもあるしね。
例えば他人の悪口をネット上で放っているのが自分自身でも同じである。
それは恐ろしい事ではないのか?
ちっとも。基本、言いたい奴には言わせとけ。
とある人物に怒りを感じていてもネットですら不満を言えないことのほうが、比較にならないほど恐ろしい。
いつ自分が、自分の家族が、上地の立場に立たされるか分からない世界で
声高に騒ぎ立てている事に恐怖のかけらも感じていない。
感じても受け入れなければならない、実際に身に危険が及ぶような実効性のあるテロ行為の発言でもない限りね。
それに、俺に対して不満の声がある?そのうちのまともな部分だけは受け入れなければね。不満があるのに声が聞こえないことのほうがよっぽど恐ろしい。
わがままって言うけど全くわがままを認めない社会ってのも誰かのわがままで作られた社会、例えば封建社会みたいなもんだと思う。
信頼を与えることは、それを利用して楽をしようとする甘えとの表裏にもなるけど。
だけれども、そのバランスの極になるもの(対どころか3つも4つも極あるだろうけど)を話し合える、
つまり相手の言い分や感情も含めた価値観を理解できてないのが現状だと感じました。
ブクマで結局どういうものを求めているのか解釈しているもの、旦那であったり社会で会ったり奥様コミュであったり
ってなってるけど、そのどれも「余計なお世話機能」も持っているなーってのが引っ掛かった。
でも、この人たちに子育ての方法まで理解を求めるのは全く現実的ではないし、
誰もそこまで求めていない。
んじゃ何を求めているの??ってのが問題。
さらにその人たちに求めてもいいんだろうけど、助けてくれる対象ってのが那であったり社会で会ったり奥様コミュであったり
それらの何かってのを断定することがそもそもできないなーと思いました。
社会に助けてほしかったことってタイトルだし、そういう文脈だけど、本当に「社会が子育てを支援する社会」を目指しているのか?って
読んでいて思った。
ある程度は支援しなければならないだろうけど、元増田で求められているようなことを行えるのって何か?ってのが疑問で
それを感じてる人も多くて、元増田のような人の方が社会で子供を育てようと言いきってないように感じた。
理想論に偏りすぎている人いるって感じがした。
つまりお前に責任があるんだからきちんとなんでもやれってこと。
でも実際のところ無理だろう。
「人間だもの」ってのが全くその通りで、それを認めたうえでじゃあどうしようかって言うことも大切で、
それがないと結局同じ問題起こると思う。
親として責任があるといったうえでも、その弱さがあることを認めてもらうことが大事だと感た。
簡単に言っちゃうと甘えさせてやれよぅってことになるけど。
でも弱いって部分あるし、ほんとにダメなことなんだろうけどそこ汲み取れないと崩壊すること多い。
…なんか考えていたら鬱病患者とセーフティネットみたいな話なってきたw
あと、>そんな調子のいい「社会」はどこにも用意されていません。そして、用意する予定もありません。
ってのが唯一腹立った部分。
そうでない社会の部分も確かにあるだろうけど、そういうこと目指してる社会の部分ある。
どっかの胡散臭く見えたりする団体だったり、行政だったり、研究機関だったり、個人だったりするけど。
実績ぶっちゃけほとんど出てないけど、むしろそういう団体のせいでこんな現実にしたかもしれないけど
誰かのためなんかを社会に問いかけて解決しようとしている人否定してる。
高校の頃、学部について相談した時に「経済学は役に立たない」と散々聞かされた覚えがある。
大学生になってミクロ経済学を勉強するようになった。大学でよく聞かされるのが「実学=役に立つ学問ではない」ということだ
「有形において数理学(理論と実証)と,無形において独立心と」と実学は表現されている。
これを最近よく考えていて、実は封建社会へのアンチテーゼと実学というのは両輪の輪にあるんじゃないか?ということに思い至った。
例えば少なくとも1に1つ加えたものが2であり、それに1つ加えたものが3である限り、1+1=2であり、3+3=6である。
これは誰にも否定できないものだ。これは前提と論理が正しければ結論も正しいというある意味当たり前のことだ。この事実は誰にとっても公平だ。
その点において実学は、人に左右されず修めることができる。それは実学が論理的に人にある情報を強制的に与えるものだからだ。ある前提を認める限り必ず認めなければいけない結論というのは、直感的におかしいと感じてもそれを乗り越える力を持つ。
その点、非実学(福沢諭吉は朱子学を挙げていた)に関してはどうだろう? 例を分かりやすく、「老子」にとってみる。
「道の道とすべきは常の道に非ず(道可道、非常道)」という言葉がある。これはよくありがたがれる言葉だと思うが、これは多様な解釈が許されるものだ。この難解さ、解釈の多様性こそが老子の醍醐味であろうし、年月がいくら経っても評価される理由だと思う。
しかしこの非実学というのは非常に大きな問題を孕んでいる。それは、非実学から得るものが人によって大きく左右されるという側面だ。
例えば坂本竜馬が西郷隆盛を評して「大きく打てば大きく鳴り、小さく打てば小さく鳴る」と言ったらしいが、これこそがまさに非実学の本質ではないか。つまり、非実学というのはそれを受容する人によって内容が大きく変わるということだ。
これはつまり、いくら学問を修めたとしても、自分自身の内面が優れていなければ、「非実学においては意味がない」ということだ。
このような非実学の曖昧さ、内面性というのは非常に封建的であり階級的だ。なぜなら、非実学はその人間を直接変革するような力にはならないからだ。むしろこれは、人の固有の内面を固定化し、変革を妨げるような意味しかない。人は自分が解釈しやすいように解釈をするし、都合のいいよう物事を受け取ることになる。これは商人は商人らしく、農民は農民らしく、武士は武士らしく、という発想を補助するものに他ならない。
そういう点で、非実学というのは格差を固定化し、社会を保守的に動かしていく力なんじゃないだろうか?
このような非実学というのは今の時代において溢れていると思う。極端に言ってしまえば、このような非実学というのは「権威のある諺のようなもの」にである。情報を取捨選択ができ、またしっかりとした資料が要求されないインターネットとはまさに非実学の温床ではないだろうか?このようなインターネットの普及においては、人は自分の身の丈にあった情報だけを受け取り、ほかのものを無視していく。この中で、例えば人は派遣なら派遣らしく、官僚なら官僚らしく、主婦ならば主婦らしくなっていくのではないか。
乱暴な一般論化と言われるかもしれないが、念仏者たちを観察してきた経験上から言えば、
長いものには巻かれろとか、石橋を叩いて渡るならまだしも叩き過ぎて壊すとか、迷って迷って自分ではなかなか決められないとか、お上には逆らえねぇとか、どうせ生きてるの無駄だとか、どうせ俺なんてとか、人の幸せの為に自分を犠牲にしますとか、生意気なこと言うなとか、こういう権力者に迎合しやすくて女々しいナヨナヨな気質を作ったのは全て念仏思想ドグマだよ。
死んでから極楽逝きますとか言ってるから生きるちからが弱っちくなるんだよ。
釈尊はとんでもないスーパーマンで、凡夫はとうてい仏の足元にも及ばない馬鹿だから易しい教えしか救えないとか、経典の批判を直接しない代わりに、浄土三部教以外の経典を聖道門というレッテル言葉で持ち上げ褒め殺しにし、信仰の道を閉ざして有名無実の無用の長物にしてしまった。そんなのは中国のドンランが作った歪曲教義でしかない。
彼らは一見謙虚そうな態度にみせて、実は理想化された釈尊に押しつぶしされた卑屈根性に過ぎない。それは
そして、その信仰の意識すらないものであっても、念仏ドグマの影響に毒された思考のひとをたまにみる。
しかし、
そして、阿弥陀仏も西方浄土も、どこか遠い違う世界にあるのではなくて人間の心が生み出した概念に過ぎない。
現実にはありもしない西方浄土や阿弥陀仏を追い求めるのは現実逃避のオカルトだ。
鎌倉時代の封建社会のなかで権力者に念仏が重宝がられたのは、民衆を無力化して大人しいく飼い慣らすためだ。
法然が仏教を仏に成る宗教から、仏にすがる宗教に変質させたのだ。
だから俺は、織田信長のように念仏嫌いだ。
一つ勘違いがあるようだけど、私立に入ったからといって塾に通わなくてもOK、ではないよ。
俺は名門私立の中高一貫校卒だけど、東大医学部とかを目指す連中は、中学のうちから鉄緑会とかの難関大学専門の学習塾に通って勉強する。学校の授業自体は、確かに一般の中高と比べれば進度は速いが、それでも6年でやるところを5年でやる程度に過ぎない。高2や高3にもなれば、学力レベル別にクラス分けして夏に特別授業をやったりするが、あくまで受験に向けて最低限の基礎を押さえるというレベルで、これだけで志望大学に受かるというものではない。親や生徒もそれを分かってるから、早いうちから塾に通いだすし、教師側も学校の授業だけで東大に受からせるなんてハタから考えてはいない。
そもそも、俺の母校のような名門私立に入ってくるのは、元々学力が高く私教育にカネを出せる奴しかいないわけだ。東大合格者が多いのは、単にそういう奴がたくさん入学してくるからに過ぎない。それでさえ、東大早慶クラスの入試をパスできるのは、うちの場合上位三分の一程度。残り三分の二は順当なところに落ち着く。
まとめると、特定の名門校に入れば一流大学へのフリーパスが保証される、というのは単なる幻想に過ぎない。そこへ上れるだけの意思と資質とリソースを持つ奴が名門校を通過している、というのが正しい。
http://anond.hatelabo.jp/20081123171535
公教育だけでも社会の支配階層に食い込めるようなシステムづくりをしなければ
一流会社を頂点とする階層構造が実在し、それに乗っかること以外は重要ではない、と仮定するならそうだけどね。
ただ、上でも書いたけど、仮にそれが事実だとしても実際に「支配階層」とやらに入れるのは、一流の学校に所属している人間の中でもさらに極一部に過ぎない。俺は、そんな「機会」とやらのために全ての教育リソースを傾けるくらいなら、もっとオルタナティブの可能性を追求してもいいんじゃないかと思うんだけど。
早い話が、公教育(教育、じゃないよ)の目的は一流大学に入って一流会社に就職できるようにサポートすることなのか、ということだな。
公教育だけでも社会の支配階層に食い込めるようなシステムづくりをしなければ
なるほど。
それなら、「そもそも学校現場に「罰」が必要な場面ってあるのだろうか?」ということから話が必要だと思うな。たとえば9×9ができないことは「罪」なのか?罪じゃないとしたら罰が必要なのか、という。
・宿題やるよう命じられた→やらなかった→必要な指示に従わなかったことに対する罰
・授業中騒いだ→静かにするように言われたが従わなかった→必要な指示に従わなかったことに対する罰
なんだろうけど、軍隊の上官と部下じゃないんだから命令に対する従順さを訓練してるわけじゃない。前者に関しては、「それが本人の学力を向上させる上で必要かつもっとも適切な(かつコスト的に優れリスクの低い)手段か?」が問われなくてはならないし、後者についてもそれが本人及び周囲の……という点が問われなくてはならない。その際「罰」が身体的なものであるか無いかは本当はそれほど大きな問題ではない……たとえば純粋に精神的な罰(首から札を下げて玄関口に立たせる…みたいな「羞恥刑」とかだって、大いに問題はあると思うしね。
まあ、いずれにせよ「罰を与える」「指導に従わせる」というのは教育のための手段であって、目的ではないんだよね。それに対して
と考える人に対しては、それは必ずしも社会常識とは限らないだろう。学校は「集団生活のルールを学ぶ場」ではあっても「封建社会の身過ぎ世過ぎを教える場」ではない、と反論しておく。学校の目的は学問を習いに来る人間に学力を付けることにある、というその本道を一歩踏み外すと、やはり訳分かんなくなると思います。だから「罰」自体が必要か否か、というのは考える値打ちがあると思う。
ちなみに「有形力の行使」と「体罰」は、本当は混同されてはならないです。自分個人の意見として言いますが、、もちろん『差し迫った命や身体の危険がある場合、有形力を行使してもそれを止めなければいけない場面』は当然あると思います。「話して聞かせてる状況じゃないだろ!」という場面。ものすごく比喩的に言えば、子供が崖の上で遊んでる場合、「そこは危ないから降りた方がいいんじゃないかな?そこから転落して地面に激突する際の運動エネルギーはこれこれで、それは人間の肉体を構成している骨や筋といったものの耐久限度を…云々」などとやるのは馬鹿の所行であって、そういう場合に腕をひっぱって無理矢理ひきずりおろすのは最善で唯一の対処だと思います。一見すると体罰と誤解されやすい『有形力の行使』は、そういう非常に限定的な局面で許されるもののことを言うのであり、罰や懲戒として『有形力を行使』することとは分けて考える必要があると思います。
キリスト教は神を人間を超越した存在として人間はそれに従属化される。念仏思想の阿弥陀如来もそれと同じように人間を超越した存在として人間はそれに従属化される。
両者は人間の自立を説くのではなく「神仏にすがる。」という姿勢が同じである。
その長い者には巻かれろ的な思想が、国家権力には都合上よろしくてそれぞれに文化として国に根付いて当時の封建社会を支えてきたのである。
近代に入ってからは科学技術の発達とともにマルクス主義や民主主義思想が台頭して、宗教的権威主義は近代哲学の科学的な反証から批判をされた。
しかし、現代でも日本人は(それが念仏思想の影響)とも知らず知らずに、違う形でその名残を残している。それは、現代社会を覆う無気力と諦めと虚無主義がそれだ。
日蓮が立正安国論で警鐘を鳴らしたのは、この社会全体を覆う閉塞感と無気力感の元凶に対してである。
さっき金曜ロードショーでマトリックス2作目を見たんだが、「これってスピリチュアルな世界じゃないか」って思った。
劇中ではやたらと運命が強調され、登場人物は運命と自分の選択との葛藤に翻弄される。これ、西洋的、アラン・コーエン的スピリチュアルそのもの。[isbn:978-4478910146]を斜め読みしたところによると、彼は、自分の正直な選択は必ず意味深い結果に繋がるという運命思想を持っている。ただし、同時に「前世など、あなたを規制するものは何もない」とも断言してる点には注意ね。神秘主義というより、自己啓発に近い雰囲気がある。
また、マトリックスの中では物を浮かせることが出来る人間がいたり、抽象的な言葉ばっかり使ってつかみ所のない言葉を乱発する預言者がいる。青白いヒーローにはソウルメイトもいる。スピリチュアルな夢世界そのもの。そして何より、マトリックスという「この世界を超越した存在」を肯定し、かつ旧来の宗教によるような「超越した存在」への絶対的な善という扱いをしない。
つまりマトリックスは、「スピリチュアル的世界観を、仮想現実とコンピュータネットワークというサイバーパンクで解釈いたしました」というご提案だったわけね。
一方、日本でのスピリチュアリズムは、三輪・江原に代表される「先祖」「前世」「守護霊」とのつながりを基調とした封建社会的なものが主流で、運命と個人を直接つなげるような個人主義的な西洋スピリチュアリズムはあまり受け入れられていない。マトリックス的なスピリチュアリズムは、日本的スピリチュアリズムとは明確に相反していると言っても過言じゃない。
幸い、1作目の時点では、サイバーパンク物としてのマトリックスは攻殻機動隊と特に比較され、その手のファンには受け入れられた。だが、2作目ではやたら運命と選択が強調され、新たなサイバーパンクのご提案や世界観の拡張もなく、抽象的な長台詞とCGで埋められた時間には我慢の限界があった。
こうしてマトリックスは、1作目の大ヒットとは縁遠く、単なるシリーズ物の定番の一つに成り下がったわけだ。
と、映画を見ながら思って、若干スピリチュアルにかぶれたうちのかみさんに、「これってスピリチュアルだよね。運命とかwww」などと話し掛けていたら、少し不機嫌そうな顔で「なに?この映画嫌いなの?」と言われたので、「いや、そんなことはないんだけど…」とだけ答え、それ以降黙ってしまうしかなかった。
お陰で、今夜は増田日和だ。