はてなキーワード: 源平合戦とは
年 | 名称 | 概要 |
---|---|---|
463年 | 吉備氏の乱 | 雄略天皇が吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。 |
479年 | 星川皇子の乱 | 雄略天皇と吉備田狭の妻のあいだに生まれた星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。 |
527年 | 磐井の乱 | 朝鮮半島へ出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州の豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。 |
587年 | 丁未の乱 | 仏教の布教を巡って、大臣・蘇我馬子と、大連・物部守屋が対立し、戦に発展した。蘇我氏が勝利した。 |
645年 | 乙巳の変 | 中大兄皇子・中臣鎌足らが、朝廷を壟断していた蘇我入鹿を暗殺、続いて蘇我氏を粛清した。 |
672年 | 壬申の乱 | 天智天皇の後継者争いが発生し、皇太子・大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子が挙兵した。大海人皇子が勝利して天皇となった。 |
729年 | 長屋王の変 | 皇族の長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王は自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。 |
740年 | 藤原広嗣の乱 | 藤原四兄弟の死により藤原氏の勢力が退潮し、九州に左遷されて不満を持った藤原広嗣が太宰府で挙兵したが、朝廷軍により討伐された。 |
757年 | 橘奈良麻呂の乱 | 橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。 |
764年 | 藤原仲麻呂の乱 | 孝謙上皇と対立した太政大臣・藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。 |
780年 | 宝亀の乱 | 朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷の族長・伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純を殺害して反乱を起こした。 |
782年 | 氷上川継の乱 | 天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇の崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。 |
807年 | 伊予親王の変 | 藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王が自死したが、のちに冤罪と認められた。 |
810年 | 薬子の変 | 平城上皇と嵯峨天皇の対立が激化し、平城上皇は挙兵を決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇は出家した。 |
842年 | 承和の変 | 嵯峨上皇の崩御に伴い、皇太子・恒貞親王を擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王が皇太子となった。 |
866年 | 応天門の変 | 応天門に放火があり、大納言・伴善男が「左大臣・源信の仕業だ」と告発したが、逆に伴善男が真犯人だとされて流罪になった事件。 |
878年 | 元慶の乱 | 長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。 |
889年 | 寛平・延喜東国の乱 | 関東の治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望が勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。 |
901年 | 昌泰の変 | 右大臣・菅原道真が失脚し、大宰府に左遷された事件。左大臣・藤原時平の陰謀だとされる。 |
938年 | 天慶の出羽俘囚の乱 | 朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明。 |
939年 | 承平天慶の乱 | 東では坂東平氏の平将門が、西では藤原一族の藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。 |
947年 | 藤原是助の乱 | 伯耆の豪族・藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。 |
969年 | 安和の変 | 謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣・源高明が太宰府に左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。 |
986年 | 寛和の変 | 皇太子の外祖父であった右大臣・藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件。 |
995年 | 長徳の変 | 「花山法皇が自分の恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したことで藤原道長が台頭していく。 |
1028年 | 平忠常の乱 | 坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。 |
1107年 | 源義親の乱 | 源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲で乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏の繁栄のきっかけとなった。 |
1113年 | 永久の変 | 千手丸という童子が鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。 |
1156年 | 保元の乱 | 後白河天皇・藤原忠通派と、崇徳上皇・藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇は流罪となった。 |
1160年 | 平治の乱 | 信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝がクーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。 |
1180年 | 治承・寿永の乱 | いわゆる源平合戦。平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府が樹立された。 |
1184年 | 三日平氏の乱 | 平氏の都落ちのあと、伊賀の平田家継、伊勢の平信兼・藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。 |
1189年 | 大河兼任の乱 | 奥州藤原氏の家臣だった大河兼任が出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。 |
1199年 | 梶原景時の変 | 源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉を追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。 |
1201年 | 建仁の乱 | 梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠の越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府に鎮圧された。 |
1203年 | 比企能員の変 | 将軍・源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵の北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍の地位を追われた。 |
1203年 | 三日平氏の乱 | 二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢・伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅に鎮圧された。 |
1205年 | 畠山重忠の乱 | 平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。 |
1213年 | 泉親衡の乱 | 北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方をくらませた。続く和田合戦のきっかけとなった。 |
1221年 | 承久の乱 | 後鳥羽上皇が北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇は隠岐に配流された。 |
1293年 | 平禅門の乱 | 平頼綱は北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権・北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。 |
1305年 | 嘉元の乱 | 得宗・北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。 |
1325年 | 安藤氏の乱 | 津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官・安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。 |
1324年 | 正中の変 | 後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝が佐渡へ流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。 |
1331年 | 元弘の乱 | 後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。 |
1335年 | 中先代の乱 | 最後の得宗・北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉を占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。 |
1336年 | 建武の乱 | 後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏が勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇も吉野に逃れて南北朝時代が始まった。 |
1366年 | 貞治の変 | 室町幕府で権勢を振るった斯波高経・斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。 |
1375年 | 水島の変 | 九州に派遣された今川了俊が、同じ北朝の少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏や大友氏などが離反した。 |
1380年 | 小山氏の乱 | 鎌倉公方・足利氏満と下野守護・小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。 |
1387年 | 小田氏の乱 | 常陸の小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満が小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。 |
1389年 | 土岐康行の乱 | 有力守護の弱体化を図る将軍・足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。 |
1392年 | 明徳の乱 | 一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍・足利義満の挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。 |
1395年 | 田村庄司の乱 | 白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。 |
1399年 | 応永の乱 | 六カ国の守護である大内義弘が将軍・足利義満と対立、鎌倉公方と手を結び、土岐氏・山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。 |
1411年 | 飛騨の乱 | 飛騨国司・姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵、幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。 |
1413年 | 伊集院頼久の乱 | 島津家の後継者争いをきっかけに、当主・島津久豊と対立した重臣の伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。 |
1416年 | 上杉禅秀の乱 | 関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。 |
1422年 | 小栗満重の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東の武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。 |
1423年 | 越後応永の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護・上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。 |
1429年 | 大和永享の乱 | 幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝の越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。 |
1438年 | 永享の乱 | 鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立から、室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。 |
1441年 | 嘉吉の乱 | 三カ国の守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍・足利義教を暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。 |
1443年 | 禁闕の変 | 南朝復興を唱える勢力が御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍に鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。 |
1455年 | 享徳の乱 | 足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。 |
1457年 | 蠣崎蔵人の乱 | 陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。 |
1457年 | 長禄の変 | 赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。 |
1467年 | 応仁の乱 | 畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから、東軍・細川勝元と西軍・山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。 |
1476年 | 長尾景春の乱 | 関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。 |
1479年 | 毛利次郎の乱 | 赤松氏らの支援を得た因幡の国人・毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。 |
1486年 | 江戸城の乱 | 扇谷上杉氏の当主・上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城を占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。 |
1487年 | 長享の乱 | 享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。 |
1487年 | 長享・延徳の乱 | 将軍・足利義尚が自ら軍を率いて近江守護・六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。 |
1489年 | 山名新九郎・小太郎の乱 | 前伯耆守護・山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護・山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。 |
1490年 | 佐竹の乱 | 佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠を攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。 |
1502年 | 伊庭氏の乱 | 長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔・挙兵するが、最終的に鎮圧された。 |
1507年 | 永正の乱 | 越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護・上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いから関東を二分する戦いに発展した。 |
日本だけの話かな…
アメリカなんかじゃフェミに限らずポリコレ活動全般が「沈黙は共犯」とか言って敵味方分かれて壮絶な源平合戦を展開してるが
すごい本場のマルキシズムを感じる
基本は「闘争」「反体制」「暴力主義」ってことでいいと思いますよ。
沖縄の米軍基地で何やら暴力をふるったとか振るわなかったとか話題になっている。
沖縄の米軍基地だとか、今のフェミニストだとか、その辺でリーダーシップをとっている人たちを調べるとおそらくだが、直接に果敢説にかは知らないがマルキシズムの影響を受けていると思う。
フェミニズムでいうところの上野千鶴子はWiki見れば一発でわかる。
マルキシズムを雑に言うならばこんな感じだ。
世界は労働者(プロレタリアート)が資本家(ブルジョワジー)から搾取され抑圧されている
プロレタリアートはそんなブルジョワジーに対して不満を蓄積し続けている
プロレタリアートたちの不満が一定レベルを超えると世界中で労働者による暴力革命が起きる
世界はそんな簡単な構図じゃないし、労働者ならだれもが不満を持っているかといえばそうでもないし、そもそも不満が一定レベルを超えたら革命を起こす前に転職を考えるという点でこの思想はあまりにも現実を無視しているものになるのだが、「お前もそうだろ!?なぁ!?違う!?じゃぁ死刑な!」ってなった国がかつてあったことも記憶に新しい。
とはいえいまだにマルキシズムそのものをダイレクトに信じている人はいるとはいえ表舞台からは姿を消して今もどこかで人知れずぐつぐつと煮えこまれているんだが、このマルキシズムの流れを汲んだ、もしくはその思想の影響下にある思想というのはたくさんあり、そのどれもが以下のような特徴を備えている。
抑圧された被害者としての自分たちと犯人であるほか全部という雑なグルーピング
自分たちを守るため・敵を攻撃するためならどんなめちゃくちゃな論理でも立ててくる
問題提起から解決までに期待される時間が異常に短いか何ならマイナスになるくらいに急進的
フェミニズムというのは本来的に言えばマルキシズムとは全く合わない思想だ。なぜなら、弱い女性を守る名目とはいえ社会から排除されてきた女性が男性と手を取り合って一緒に仲良く協力して社会を作ろう、というものだからだ。敵対関係でもないし、暴力革命も起こらない。
だが、マルキストたちのフィルターを通過したことでフェミニズムは日本では異様な変質を遂げている。
私はこういった変質そのものについては歓迎されるものとも考えている。なぜなら新たな視点や論点を持ち込むチャンスでもあるからだ。
だが、それはオリジナルも等しく持ち込まれており比較できれば、という条件が付く。
マルキストたちは情報統制でもしているのかはわからないが、諸外国は「自分たちのフェミニズムが達成された楽園」であり、日本は「いまだに男が女を抑圧し続けている地獄のような世界」という筋機でしかものを見ない。
暴力革命をそのコンセプトに置いているマルキシズムは、結局「革命を達成するためなら何でもあり」というように考えている。そりゃそうだ、何なら資本家を皆殺しにする勢いの思想名だし、それは労働者の楽園を作るために必要な「正義の行動」だからその行動に制約を貸す必要もないしブレーキをかける必要もない、ひたすらアクセルを下手踏みにして何の問題もない。正義だからな。
私はマルキストたちはこうやっていろいろな思想を改変しては日本に導入して次の飯の種をせっせと育てていると思っているのはこういう理由だからだ。
マルキストたちは一体いつになったら暴力を否定するのだろうか。
くちでは暴力はだめだよねと言いながら行動で暴力をふるい続けていることに気付いている人たちもいるだろうが、それは彼らにとっては自分たちの暴力はきれいな暴力だから許容されるべきという内部ルールで勝手に納得しているからあのようなことも矛盾を感じずにやることができる。
しかし暴力を肯定している限り味方は増えないだろうし、社会に受け入れられるかといえば受け入れられない。
本当に差別問題とか解決したいんだったら、暴力革命じゃダメだろうと俺は思うので、早く自分たちがマルキストであることを認めて、暴力革命を否定し、言動も行動も変革したほうがいい、今の資本主義者たちの様に。
何も分かってないな
暴力革命をすべきと言ってるんじゃなくて、必然的に暴力革命が起こるっていう客観的な分析を行ってるんだわ
歴史見れば明らかだろ
民主主義革命も暴力、明治維新も暴力、そうやって暴力による革命が起こって、新しい社会体制ができたってだけだ
資本主義が何故、そうなるかって、資本主義が今までの階級社会と本質は何も変わってなくて、労働者の搾取で成り立ってるからなんだわ
しかも、その構造が複雑で一見、搾取が起こってない平等な社会のように見えるんだわ
AIが完全に生産を担った時どうなるか?人の仕事は無くなるだろう
そうなった時に資本を独占してる企業や資本家が全ての生殺与奪権を手に入れる
そうなった時にもはや私有財産などとは言っていられないだろう
全ての人が生きるだけの資源が生み出せるのに、それを一部のものが私有財産権の元に独占する事に必要性がないわけだ
だからその資本を共有財産とするための革命が起こるとこう言ってるわけだ
それなのに、何を今の共産国家を作った奴らは勘違いしたのか、暴力革命を起こせばそのような社会が早く訪れると勘違いしたのか、はたまたその理屈を自分が権力を手に入れるために利用したのか
資本主義はその構造上、搾取が起こり、寡占独占が進むように出来てるんだわ
だから、その資本主義の構造を分析してるから資本論と言ってるわけで、そもそも資本主義と言われ出したのはマルクスがこのように今の社会を分析する上で理解すべきなのは資本だと名付けたからなわけで
こうやって、不満持ってる奴が変わるべきなんだから、お前らの自己責任なんだからってやるほど暴力的な革命に近づくんだわ
穏便に社会が変革するようにしたいなら、不満を解消すべきなんだわ
言ってる事が独裁者と同じなんだわ
自民党もどうせこんな考えなんだから、無敵の人は増え続けるやろな
貨幣ってのが資本主義の構造を隠す役割を担ってるわけで、金融の構造を見てると経済学で言われてる事と全然違うぞって、ウォーレン・モズラーが気づいたところから始まってるんだよな
政府に予算的な制約がないのなら、失業者は全員雇えるってところが重要なのに
実物的な制約はあるわけで、その実物の生産を担ってる労働者を保護しろってのを無視して、金刷って景気良くなればみんなハッピー理論だと勘違いしてるんだよな
日本だけの話かな…
アメリカなんかじゃフェミに限らずポリコレ活動全般が「沈黙は共犯」とか言って敵味方分かれて壮絶な源平合戦を展開してるが
すごい本場のマルキシズムを感じる
日本の沖縄左翼活動なんかも凄く親米的で、本場アメリカのポリコレ活動のロジックをよく理解して実践してる
マルキシズムは、当時はそもそもそんなものなかったから仕方がないが、労働者の権利が適切に守られないという状況を前提にしているので、労働者の権利を適切に守れるように日々改善を続ける今の社会には合わない、という欠点がある。
いまだにマルキシズムやってる人たちが永遠に労働者の権利を守れと大騒ぎする理由はよほどわけもわからず盲従しているんじゃなければ労働者の権利が適切に守られてしまったらマルキシズムは成立しなくなるということでもあるだろう。そして多くの人々は権利は適切に守られていると感じているから彼らの言うことがちっともわからないということでもある。
おそらくマルクスが看破したことの中で真理が一つあるなら「資本家はルールの中で最大限搾取をする」という事であり、裏を返せば「ルールがなければ無限に搾取する」ということでもある。
日本では企業有利な制度が敷かれているためほかの国よりもより搾取がしやすく、またそれを実行している社会でもある。企業は自分たちに有利な制度がある限りはそれを最大限活用し続けることからもマルクスの見抜いたであろうことは正しいと思っている。Youtube何かでは「経営者がいかに税金を払わないか教えます!」といって制度の活用方法を堂々と指南しているが、堂々と言えてしまうくらい「当然のこと」と認識しているのだろう。あれらの話が本当に適法かどうかはわからないし、みんながやりだしたらあっという間にふさがれるからいうメリットはないが、いうということは何かあると考えたほうがいい。
仮に制度ではお前が稼いだ金の80%まで搾り取っていいことになっているが、そんな搾取は嫌だから65%にします!なんていう商売人がいたら彼らの世界では失格の烙印を押されるだろう。株主の利益をわざわざ減らす行為でもあるから、多分速攻で解任されると思う。もしくはそのほうが搾取効率が上がるからやっているのかもしれない。
マルキシズムを勉強したっぽい人がレスをつけているが、この手のことを考えるためには、その時の社会情勢も併せて考えなくてはならない。
労働法制がきちんとできていないというか資本家が制度上野放しになっていた状況で資本家たちはいくら搾取しても違法にならなかったからいくらでも搾取をしたという大前提を抜きにして今の世の中でルサンチマンがとかアウフヘーベンがとか子揚がとか、暴力革命がとか言ったところで「今の時代には合わない」の一言で終わってしまう。なぜなら法制度によって資本家たちが無限に搾取できないようにしているからだ。
ただ、日本がかつて中国に工場を移転させたように、制度上問題ないなら自分たちの利益が最大化するように動くという性質は変わらないだろうが、それによって人々が被る不利益を労働者による搾取だと大騒ぎするならそれもまた見当違いだ。
だけどマルキシズムに夢を見た人たちはいまだにいつか起こる暴力革命を夢見て(というか今まさに自分たちがやっている気分になって)暴力をふるいまくっているという現実はどう考えても問題だし、そんな状態ではいくら言っても誰も納得しないし受け入れないだろう。
そしてマルキシズムの世界観を持つ上野千鶴子みたいな人がフェミニズムを魔改造して導入したせいでフェミニズムもおかしくなっているが、その裏にあるのはやはりマルキシズムがコンセプトにしている暴力や革命だと思っている。だからこういう暴力的なことを否定してきちんと自分たちの思想を再構築せよといった。
労働法制が出来上がり、人々が労働者の権利について発言しても何の問題もない社会なら暴力革命は起きない、というか起こすほどに不満をため込んだ労働者が少数になるから起こしようもない。
マルクスが言っていた社会というのは実は簡単に成立しない状態にできてしまうし、それを受け入れられない一部の狂信者たちが今日もそこいらじゅうに呪いをかけまくっているみっともない状態になるだけのものでしかなかった。
ていうか、大河ドラマ自体みるの初めてで、面白すぎでびっくりしてる。毎回こんなのなの?
鎌倉ストーリー、歴史クラスタはよく知ってるのかもしれないけど、
しかわからないし、なんならそれが何かも知らない夫婦にとって、ネタバレなしのリアルタイム鎌倉ストーリーはめちゃくちゃ面白い。
頼朝、鎌倉時代にずっと生きてないの?頼朝死んだら次の時代にならんの?ってびっくりして調べたら鎌倉時代、200年以上あってびびる。
そして旦那は「頼朝死んだから、次は戦国時代やな(キリッ)」って言ってたけど、調べたら次は室町時代だった。
室町は一休さんの時代っていうのはわかってたけど、アニメの将軍様が、平安貴族みたいな格好してるから、もっと平安に近い時代かと思ってたら違った。
何にも歴史を知らない夫婦だけど、ワイワイ言いながら、ドラマ見てびっくりして、スマホで色々調べて、週末の夜を過ごすのが楽しい。
【追記】
源平合戦知らないの?
→この戦い知ってる!扇を弓矢で射るやつだ!って思ったけど、射らなかった。
→Wikipediaです!って、もう一回みかえしたら150年しかなかった。引き算(●´・ω・)
那須与一は何で知ったの?
→多分国語の教科書。那須与一って名前は覚えてなくて「よひょうが、ひょうと射るやつ!」って知ってる感じで旦那に言ったけど、射なかったし、よひょうでもなかった。
「射らなかった」じゃなくて、「射なかった」
殺してしまったら上から下まで総スカンやで。天皇自体に権威があった (古来からの儀式とかの継承者) からというのはそうだけど、洋の東西を問わず権力掌握のために主君殺すってなかなかない気が...「主君すら簡単に殺す奴が他の勢力ならもっと簡単に潰しに来る」みたいに思わるので相当な根回しが必要やと思う。
臣下に殺されたっていうので思いつくのは三国魏の高貴郷公やけど、これは高貴郷公自らが兵を率いて司馬昭を始末しに行って逆襲されて殺されたから 、後白河が直接平家にぶつかれば殺されるかも?高貴郷公の件は名ばかり皇帝に落ちぶれた東晋の皇帝がこのことを知ったときにそら(皇帝殺して皇帝になったら)そう(権威なんてなくなって名ばかりになる)よ...orz ってなってたので、主君殺すってなかなかできないんちゃうか。
あと、後白河と平家が決定的にこじれたのって鹿ケ谷の陰謀のさらに後の重盛の死後処理で後白河がやらかしたからで、その先は後白河がいようがいまいが戦乱になってたんちゃうか?源平合戦に火をつけたのは後白河じゃなくて八条院周辺だし。後白河にしても平家にしても自分ところの利益だけを場当たり的に追及するところがあって、それがgdgdの源泉だと思う。
なんで天皇がここまで尊くなったかは不明なんだけどやる夫スレでよければ やる夫が大海皇子になるそうです というのを読むといいかも。長いけど。この作者の前作が やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです でちょうどこの時代やな。こっちも長いけど。
以仁王のことか?そりゃ天皇でもなければ自分で反乱起こして戦場に出ちゃったからね。後白河も後鳥羽も戦場に兵を率いて出てはいないのに注意。どちらも合戦は部下に戦わせて自分のところまで敵が来たら素直に従っている (法住寺合戦、承久の乱等)。ここで抵抗したらなにかのはずみで殺されていても不思議ではない、が天皇とはそういうものではない。また当然ながら尊さにも位があって 天皇・上皇 >> 皇太子 >> 親王 >> ただの王 で、天皇家に連なっていても親王宣下されなきゃたいしてえらくはないで。
このころの上皇とか法皇とかは事実上の最高権力者やで。平安中期は摂関家が自分の甥である天皇の後見をすることで権力を握ったが、平安後期では天皇の直系尊属である上皇、法皇が天皇家の家父長権でもって天皇の後見をすることで権力を握った。最高の権門である天皇家の家長として荘園も集積しているので財産も持っている。まあ後白河は中継ぎって見られてたから前任の白河とか鳥羽とかみたいな盤石の権力ってないけど。ついでに父の鳥羽から財産を受け継いでないし。
頼朝は蔵人を務めていた上西門院(統子内親王・後白河の姉にして准母)と母親の実家である熱田大神宮家が助命に動いて助命されたんやで。これらの貴人達の反対を押し切って殺すのは政治コストが高すぎる。そもそも平治の乱時点での清盛は財力武力はあっても正四位大宰大弐にすぎないわけで政権の中枢にいたわけでもないし、反乱鎮圧の立役者ではあっても処刑にどこまで関与できたというと疑問な気がする。平家政権ができあがるのはこのあと後白河法皇と二条天皇の間を上手に泳ぎ回った(平時の乱もその上手に泳ぎ回ったの一部だが)上で1165ごろに二条天皇と政界の大物複数名が相次いで死んだ結果なので、このときの清盛に平家政権全盛期の公卿殿上人数多という未来を言っても信じなかったんではないか?
そもそも天皇家は神道の権威だろうに、後白河法皇は何で出家してるんだろう。
昔は仏教と神道密着してたのか?神の子孫の天皇家がバンバン出家していた頃って、どんな宗教観なんだろう。
仏が神より高い位置にいたとか?
日本古来の伝統がたった150年ほどで忘れさられるとは嘆かわしい。明治政府のなんと罪深いことよ。仏教は日本に受け入れられる際に神道を取り込んでこのころには不可分になってるで。そのあたりの理屈をつけたのが本地垂迹説やな。出家すると神道の儀式を主催するのは不適切という概念はあったらしいので、神道の儀式は現役の天皇にまかせて退位したら出家して仏教の儀式に専念する、というのはありかもしれない。神道も仏教もどちらも国を護るには重要やしな。
池江 璃花子 on Twitter: "いつも応援ありがとうございます。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/rikakoikee/status/1390638021943316482
「そうか、君ら平清盛は農民がどんだけ死んでも自分たちの仕事と生活と栄達だけが大事なんだな」ってリプつけにいかないと
「自分は利己的な小人物」との告白だね。出家は叙勲よりも価値があると思うので、シンプルに勿体ないと思う。
軽蔑する。何もできない?源平合戦に徴兵された足軽か何かか?拒否したら奉行衆に殺されるのか?
飲食、演劇その他色んな職業の人だって人生賭けてて、コロナと戦うために色んな犠牲払ってる中で、アスリート無罪は俺は受け入れられない。自分の意思も示さずってのは無責任すぎる。誰だって頑張っている。
飲食、演劇その他色んな職業の人だって人生賭けてて、末法思想と戦うために色んな犠牲払ってる中で、平清盛無罪は俺は受け入れられない。自分の意思も示さずってのは無責任すぎる。誰だって頑張っている。
競技団体が動くべきだとは思うが、選手も誰一人何も言わないのはオカシイと思うよ??スポーツ団体にも税金は使われてるし、ワクチンや医療ボランティアの話に何も思わないと??
帝が動くべきだとは思うが、平清盛も誰一人何も言わないのはオカシイと思うよ??朝廷や公家にも年貢は使われてるし、飢饉や鎮護国家の話に何も思わないと??
矛盾するようだが、例えば池江選手「個人」に「辞退しろ」と迫るのは絶対反対する。ただ、この五輪に全面賛成する選手は、俺は唾棄すべき存在だと思うし、仮にメダルをとっても軽蔑する。
矛盾するようだが、例えば平清盛「個人」に「出家しろ」と迫るのは絶対反対する。ただ、日宋貿易に全面賛成する平氏一門は、俺は唾棄すべき存在だと思うし、仮に宋銭をとっても軽蔑する。
平氏一門の官位上昇を物語として消費された上に源平合戦のマスコットのような存在にさせられてしまったことはとても気の毒なのだが、「平家にあらずんば人にあらず」というのは自分の影響力を過大評価していると思う
アスリートは朝廷でいえば平清盛に過ぎない、辞退したら食っていけない、というブコメには賛同できない。公家が反朝廷活動をしていたら出家すべきだ。しかも日宋貿易は朝儀ですらなく一つのイベントに過ぎない。
平清盛が「平家にあらずんば人にあらず」というのは自分の影響力を過大評価していると思う
出家できるのにしない平氏一門は「反朝廷活動」じゃないの?さっさと切腹してね。
そうだな
このたびはツッコミをくらいまくるようなことを、増田にうっかり書き込んでしまい大変申し訳ありません
源氏の内輪もめとしては頼朝が源平合戦中にも範頼や義経の足を引っ張るような口出しをしたこと
(という記憶があるのだが検索してもいまいち出せない。範頼の九州仕置に掣肘は加えたみたい)
戦後二人を殺したことが念頭にあり、ブコメでも出ていた足利氏の兄弟喧嘩、戦争中ではないが三代将軍実朝が甥の公暁に斬殺されたこと
など、ある本で平氏覇権時代よりも鎌倉時代初期の方が内乱が激しく朝廷が苦労させられたという記述があったことを意識して書きました
一致団結した平氏側の範囲としては清盛が優遇した親族連中で考えており
(考えているうちに本人たちが自分を平氏と意識していたのかアイデンティティの置き方は気になってきましたが)
ブコメで指摘されている重盛のことは知りませんでした
平平合戦って北条氏が政権をとったことから逆算的に言われているだけなんじゃないですか?それって と思ってしまった
勉強不足でした
全国各地にある。いろんな人がいろんな気持ちで倒しそう。
伊東博文像打倒の歴史は古い。銅像はなんと生前から造られ、そして生前から銅像は暴徒によりボコボコにされていた。
そのうち急進派の奈良県民により打倒されるだろうと思っている。
俺は奈良の大仏を日本史の奈良時代で習うのはおかしいと思っている。
奈良の大仏は源平合戦の頃平重衡により、戦国時代ではおなじみ松永久秀によりぶっ壊された。
奈良の大仏は日本史のぶっ壊しの伝統を今に伝え、そして再建の歴史を今に伝える。ありがとう重源! ありがとう公慶!
これをまたぶっ壊す!! なんと爽快だろうか。