「大宰府」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 大宰府とは

2024-03-17

[]

ふるさと納税、paypay商品券にしたわー

篠栗やら須恵やら田舎だと対応してる店すくねーからやめた

週末とかにちょっと遠出する感じで大宰府かなーと思ったけど、

北九州市対応店舗数みてそっちにかえたわ

選択肢が多すぎる

ポータルサイトの言を信じるなら5万はらって3万くらいかえってくるみてーだがほんとなんかなー

北九までいくのに往復5kくらいかかっちゃうんだけどね・・・

2023-12-24

anond:20231224211415

世界史とかどうやって?・・・全体像を一気に知らなくても良いのでは。本、歴史マンガゲーム旅行映画とか。入口はいろいろあるのでは。

ヴィンランドサガみたいなアニメを見てもヴァイキングとかレイエリクソンって誰?って検索するだけでも色々面白いし、シヴィライゼーションをやって、ミマール・スィナンって誰?とか思いながらイスタンブールローマに行ってみるといろいろ得るものがあるかもしれない。海外いかなくても唐招提寺大宰府でも背景知識が増えてくればいろいろ楽しい

2023-08-09

anond:20230809130628

問 1 空欄 ア イ に入る語句組合せとして正しいものを,次の~
のうちから一つ選べ。 7
 ア 肥後国大宰府肥後国鎮守府大隅国大宰府大隅国鎮守府
(2020年センター試験日本史B)

太宰府だか鎮守府だかの名前を覚えるのになんの意味があるのか全くわからん

2023-07-22

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
463年吉備氏の乱雄略天皇吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。
479年星川皇子の乱雄略天皇吉備田狭の妻のあいだに生まれ星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。
527年磐井の乱朝鮮半島出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。
587年丁未の乱仏教布教を巡って、大臣蘇我馬子と、大連物部守屋対立し、戦に発展した。蘇我氏勝利した。
645年乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足らが、朝廷壟断していた蘇我入鹿暗殺、続いて蘇我氏粛清した。
672年壬申の乱天智天皇後継者争いが発生し、皇太子大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子挙兵した。大海人皇子勝利して天皇となった。
729年長屋王の変皇族長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。
740年藤原広嗣の乱藤原四兄弟の死により藤原氏勢力が退潮し、九州左遷されて不満を持った藤原広嗣太宰府挙兵したが、朝廷軍により討伐された。
757年橘奈良麻呂の乱橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。
764年藤原仲麻呂の乱孝謙上皇対立した太政大臣藤原仲麻呂恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。
780年宝亀の乱朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷族長伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純殺害して反乱を起こした。
782年氷上川継の乱天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。
807年伊予親王の変藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王自死したが、のちに冤罪と認められた。
810年薬子の変平城上皇嵯峨天皇対立が激化し、平城上皇挙兵決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇出家した。
842年承和の変嵯峨上皇崩御に伴い、皇太子恒貞親王擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王皇太子となった。
866年応天門の変応天門放火があり、大納言伴善男が「左大臣源信仕業だ」と告発したが、逆に伴善男真犯人だとされて流罪になった事件
878年元慶の乱長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。
889年寛平・延喜東国の乱関東治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。
901年昌泰の変右大臣菅原道真が失脚し、大宰府左遷された事件左大臣藤原時平陰謀だとされる。
938年天慶の出羽俘囚の乱朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明
939年承平天慶の乱東では坂東平氏平将門が、西では藤原一族藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。
947年藤原是助の乱伯耆豪族藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。
969年安和の変謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣源高明太宰府左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。
986年寛和の変皇太子の外祖父であった右大臣藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件
995年長徳の変「花山法皇自分恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したこと藤原道長が台頭していく。
1028年平忠常の乱坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。
1107年源義親の乱源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏繁栄きっかけとなった。
1113年永久の変千手丸という童子鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。
1156年保元の乱後白河天皇藤原忠通派と、崇徳上皇藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇流罪となった。
1160年平治の乱信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝クーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。
1180年治承・寿永の乱いわゆる源平合戦平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府樹立された。
1184年三日平氏の乱平氏都落ちのあと、伊賀平田家継、伊勢平信兼藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。
1189年大河兼任の乱奥州藤原氏の家臣だった大河兼任出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。
1199年梶原景時の変源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。
1201年建仁の乱梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府鎮圧された。
1203年比企能員の変将軍源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍地位を追われた。
1203年三日平氏の乱二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅鎮圧された。
1205年畠山重忠の乱平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。
1213年泉親衡の乱北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方くらませた。続く和田合戦きっかけとなった。
1221年承久の乱後鳥羽上皇北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇隠岐に配流された。
1293年平禅門の乱平頼綱北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。
1305年嘉元の乱得宗北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。
1325年安藤氏の乱津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。
1324年正中の変後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝佐渡流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。
1331年元弘の乱後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。
1335年中先代の乱最後得宗北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。
1336年建武の乱後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇吉野に逃れて南北朝時代が始まった。
1366年貞治の変室町幕府で権勢を振るった斯波高経斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。
1375年水島の変九州派遣された今川了俊が、同じ北朝少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏大友氏などが離反した。
1380年小山氏の乱鎌倉公方・足利氏満下野守護小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。
1387年小田氏の乱常陸小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。
1389年土岐康行の乱有力守護の弱体化を図る将軍足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。
1392年明徳の乱一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍足利義満挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。
1395年田村庄司の乱白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。
1399年応永の乱六カ国の守護である大内義弘が将軍足利義満対立鎌倉公方と手を結び、土岐氏山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。
1411年飛騨の乱飛騨国司姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。
1413年伊集院頼久の乱島津家後継者争いをきっかけに、当主島津久豊対立した重臣伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。
1416年上杉禅秀の乱関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。
1422年小栗満重の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。
1423年越後応永の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。
1429年大和永享の乱幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。
1438年永享の乱鎌倉公方・足利持氏関東管領・上杉憲実の対立から室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。
1441年嘉吉の乱三カ国守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍足利義教暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。
1443年禁闕の変南朝復興を唱える勢力御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。
1455年享徳の乱足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。
1457年蠣崎蔵人の乱陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。
1457年長禄の変赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。
1467年応仁の乱畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから東軍細川勝元西軍山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。
1476年長尾景春の乱関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。
1479年毛利次郎の乱赤松氏らの支援を得た因幡国人毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。
1486年江戸城の乱谷上杉氏の当主上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。
1487年長享の乱享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。
1487年長享・延徳の乱将軍足利義尚が自ら軍を率いて近江守護六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。
1489年山名新九郎・小太郎の乱伯耆守護山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。
1490年佐竹の乱佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。
1502年伊庭氏の乱長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔挙兵するが、最終的に鎮圧された。
1507年永正の乱越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いか関東を二分する戦いに発展した。

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

2023-06-14

邪馬台国 畿内説vs九州

吉野ヶ里発掘のニュースで、自分の中の邪馬台国畿内説vs九州説へのロマンが盛り上がったので書く

まず自分古代日本史考古学の全くの素人であることをお断りしておく。

古事記日本書紀伝説として好きで子どものころから繰返し現代語訳で読んでいた。

学生時代九州旅行で記紀地名が出てくる場所を訪れロマンを掻き立てられたこともあり、自分は昔から九州説派である

奈良県がまとめている古事記ゆかりマップは全国のゆかり地がマッピングされていて親切だ。

古事記ゆかり地マップ

だが、ここ5年ぐらいで専門家の間では畿内説がほぼ鉄板となったという話は何度も聞いていた。

専門家意見一定価値を置く自分としては寂しさを感じつつ受け入れていたが、今回のニュースで改めてググってみると、やはり改めて九州説を自分は強く推したいと思う。

(因みにネット上の情報は圧倒的に九州説が多いので、ネット情報を中心に接種すると九州説派になる模様。)

畿内説の論拠

自分理解では畿内説の論拠は、纏向遺跡がすごい遺跡から

こう書くとバカみたいだが、

纏向遺跡前と後で時代が大きく変わったことが分かる

 ⇒ 埋葬されている王は歴史に残る大王であったと考えるのが普通

・纏向にあったのは日本四国方面関東方面支配下に置いていたことが推察される、当時の日本では他にない規模の大国だった

 ⇒ 中国との交易品を考えると邪馬台国大国であったはず。纏向にあったのが邪馬台国でないなら、中国地方小国交易していたことになり不自然

卑弥呼時代と大体年代が合っている
魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の大きさ「径百余歩」に匹敵する数少ない古墳

ということなので、考古学証拠から邪馬台国大和国で、纏向に首都があったと考えるのは納得できる。

自分が今回目を通したソース

Wiki邪馬台国畿内

新版 古代史の基礎知識 (角川選書)の前半(倭の五王まで)

自分が感じる畿内説への違和感

まず邪馬台国大和国自分同意。「たい」なんて音は日本語の発音になじまない。

違和感1:贈答品の確認を伊都国でしている

そのうえで、自分はこのYoutube関川尚功氏が指摘している「女王の住居が奈良なら、伊都国(大宰府周辺と推定されている)で女王への贈答品の確認はしないだろう」という意見に強く賛成する。

https://www.youtube.com/watch?v=dA3e14517Ek

現代にも通じる物流常識感で、中国から奈良まで水路でこの後運ぶ荷物確認は、一旦寄港した福岡でなく最終水揚港の大阪付近になるはずだろう。

伊都国で贈答品の確認をしたという魏志倭人伝記載はこのリンクでも紹介されている。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~smkodai/25route.html

違和感2:箸墓伝説

記紀ではうっかりか意図的にかの違いはあれ、三輪山の神に去られた百襲姫が女性器を箸でついて死んだとある。これはどう見ても性交または出産に関したトラブルで死んだように読める。

また、その墓は夜は神が昼は人が作ったとある。この表現は緊張関係にある2つの部族彼女のために距離を置きつつも協力して墓を作ったように読める。

卑弥呼が何歳で他界たかはわからないが、魏志倭人伝から長い治世だったと考えると性交出産トラブル死ぬような年齢だったのか疑問がある。

次に、魏志倭人伝卑弥呼が死んですぐまた国が乱れ台与を女王にたてたとあるので、争いあう二つの部族卑弥呼の墓を一定期間協力して作ったというのが想像しにくい。

自分が考える邪馬台国

自分纏向遺跡卑弥呼の跡を継いだ台与の墓だと考える。

九州大和国卑弥呼女王に立て勢力を伸ばし、彼女の在位中に近畿に東征し、奈良三輪山周辺に拠点を持っていた大物主一族姻戚関係を結びながら(神武天皇皇后大物主の姫)、最終的には大物主一族も亡ぼしたのではないかと思う。それが記紀神武東征伝説として書かれた内容だろう。

卑弥呼自分兄弟である神武(または崇神)(※二人とも「はつくにしらすすめらみこと」)と共に近畿に移動したかからないが、中年女は引越しを嫌うので九州に残ったかもしれない。

だが、ある程度近畿大和国勢力を持ってから即位しただろう台与は近畿生活していただろう。

彼女が死んだとき大物主一族大和国の間は既に緊張がありつつ協力して墓を作るぐらいの関係性はあったのではないか

その後、大和が謀略か戦争かで大物主一族を滅亡させたため、その祟りを恐れ、記紀にあるように一緒に祀っていた大物主と天照(卑弥呼か?)を分けて、それぞれ三輪山伊勢神宮に祀ったのではないか

吉野ヶ里で今発掘中の貴人の墓は、卑弥呼の墓として魏志倭人伝に書かれている径百余歩の大きさに到底及ばない規模らしい。自分吉野ヶ里卑弥呼の墓ではないだろうと思う。

卑弥呼の墓はまだ発見されておらず、台与の墓は先代と同じ規模にということで箸墓が径百余歩の大きさなのではないか

魏志倭人伝にある邪馬台国場所説明は、神武東征が始まる前、または、まだ卑弥呼九州に残っている時のものなのではないか

2023-05-09

耳に輪のついた紐がついてた

天神で降りて、改札への階段を上っているとき

ふと隣のエスカレーターで移動している大柄の男性の耳元に白い輪のようなものが見えた

アポッドかなと思ったが耳の穴ではなく、周りについており、明らかに結んだひも状のものだった

よく見ると、マスクの紐を結んで短くしているらしく、私から見えた左側だけでなく、右側も結んでいた

大き目サイズマスクを買ったけど、紐も長かったから結んで調整して使っているのだろう

明らかになんやそれ感が耳元にあると思うのだけど、本人にはそれを気にしない胆力があるのだろうかと思った

その後、西鉄大宰府へ行き、九州国立博物館アール・ヌーヴォーガラス展示を見てきた

九州国立博物館は山の斜面にあるからか、駅側から行くと、すごく長いエスカレーターを乗ったあと、動く床でさらに移動する

GW明けの朝だからか人もおらず、自分一人のためだけにエスカレーターも動く床も動いていて、電気代!となった

一人で薄暗い筒の中を移動しているうちに、産道をイメージし、胎内巡りの現代版みたいだなと思いつつ、ウィンウィン動く床を歩いた

九州国立博物館内も長いエスカレーターで展示場まで昇る

展示を見て、エスカレーターで降り、歩き、移動する床に乗り、エスカレーターで降り、参道を歩き、そばを食べ、西鉄に乗り、二日市で乗り換え、天神に戻ってきて、地下鉄階段を歩いているとき

そういや朝見た大柄の男の人の耳元にわっかついていたことを思い出して、この文を書いた

2022-10-13

anond:20221013000432

おめでとう。

お祝いに一人旅行っちゃえ。福岡行ってうどん食ってラーメン食って中州で遊ぶんだ。マンハッタン食って大宰府天満宮行ってついでにかまど神社で良縁祈願するんだ。

2021-04-21

ノーマスクピクニック」全面中止って言ってるけど

間違いなく5/1、5/2の11:30頃にゲリラ開催されるからな!

以下の地域以外もあるからな!

東京世田谷区都立砧公園

東京城北地区)※詳細未定

東京西東京) 西東京いこいの森公園

秋田※詳細未定

茨城      笠松運動公園

横浜      横浜山下公園

埼玉      大宮公園

千葉      坂田ヶ池総合公園

大阪      大阪公園

京都      大京三条大橋下の鴨川沿い

明石      

広島※詳細未定

香川※詳細未定

福岡北九州

福岡大宰府) 太宰府梅林アスレチックスポー公園

鹿児島

沖縄      浦添大公

2019-05-27

ダパンプ大宰府は似ている

梅「もしも君が一人なら迷わず飛んで行くさ」

2017-06-27

今日多々良川

くもり

すずしい

水位中ぐらいより少し低い

スズガモ?っぽいカモ系でこげちゃ~黒一色の鳥が2羽、えさを探すために頭を水に突っ込んだりしてた

甲羅干しの亀なし

博多駅そばの御笠川にはカワウがいて体ごと水につっこんでえささがしてた

ももしかしたらカワウじゃなくてあれもスズガモだったのかも・・・

御笠川ってぐぐったら大宰府とかまで流れてるめっちゃ長い川で、すげーなと思った

2015-03-20

「帝」は「御門」にあらず―高畑勲天皇観を駁す

スタジオジブリかぐや姫の物語」のストーリー批判については既に玖足氏が記されているゆえ、ここにおいては多言はしない。

かぐや姫の物語 感想その二 高畑勲監督原作の良さを自己中心的に曲げたダメ映画

http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20150316/1426441543

僕がここで記したいのは、高畑氏のあまりに32年テーゼに縛られたかの如き貧弱な反天皇である

例えば、高畑氏の擁護をするツイートまとめとして以下のようなものがある。

高畑勲かぐや姫の物語」についてのCDBさんのツイート

http://togetter.com/li/794657

この中でCDB氏は「帝の性暴力女性性の収奪」を描いたと言っている。しかしそれは高畑氏の平板な反天皇観をあげつらうことでしかない。

天皇は決して収奪暴力に結び付けられて語られる存在ではなかった。天皇もまた征旅に行くことはあったが、軍の最高司令官として赴くことはなかった(「我国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にぞある」という軍人勅諭の出だしは山県閥の西周西洋歴史に準じた擬制に過ぎない)。例えば斉明天皇百済救援のために親征の途上、崩じられても軍はそのまま百済上陸している。天皇はむしろ巡狩(みそなはし、視察のこと)して各地を平定したのであり、軍隊中大兄皇子武内宿禰のような皇子臣下に統率されて敵を討ったのである天皇が自ら軍を指揮することは東洋古制の兵学から見ても邪道であった。東洋において軍の戦略を決定する軍師軍司令官の任免もできるゆえに、天皇がそのような地位に就かれることはあり得ないのである

では天皇とは何であるか。それは何よりも「社稷を祀る」存在である。具体的にいえば、五穀の豊穣を祈り天照大御神が宣らされた「斎庭の神勅」を奉じることであった。それゆえ自らは何も所有されないのが天皇原則であった(詳しくは保田與重郎の『述史新論』『鳥見ひかり』『方聞記』などを参照せよ)。作中で「御門」は支那趣味侮蔑意味を込めて使うのではない)の俗な人物として描かれているが、これなぞは共産党仕込みの「収奪する権力者」の図式に無理やり天皇をあてはめたものに過ぎない。何も所有されない天皇からこそ、天神地祇を祀り権力者を束ね日本を統らすことができるのである権力といえば外交権を一手に握った大宰府の方がよほど強く、「遠の朝廷」と呼ばれたほどだった。聖武天皇大宰府へ下る節度使たちに下された御製の長歌の冒頭「食す国の 遠の朝廷に 汝らが かく罷りなば 平らけく 我は遊ばむ 手抱きて 我はいまさむ」は権力や所有とはほど遠い天皇本来のあり方を示している。

明らかに反差別思想を有しているだろう高畑氏が「御門」の顔をわざと崩してかぐや姫生理的嫌悪感を催させ、それが月からの使者が来る原因となっているのも氏の醜悪な思想垣間見える。氏は容姿差別は良くて身分差別は悪とでも思っているのだろうか。先に述べたように、天皇は五穀の豊穣を祈る点で国民とつながっていたし、今もなおつながっている。明治大帝は「子等はみな 軍のにはにいではてて 翁やひとり 山田もるらむ」と詠まれているし、昭和帝と香淳皇后戦後まもなくの国内行幸啓されて国民暮らしぶりをみそなわした。今上陛下東日本大震災津波を被った田を心配されたのも記憶に新しい。天皇は宮闕の奥深くに居ましても農土を、漁場を、金山を離れてはいないのである高畑氏の浅薄思想はこの国史上の事実にどう応えるのか。

2014-04-07

http://anond.hatelabo.jp/20140407121759

JOJOバーがある

あと、ソラリアのうえにコトブキヤができた影響か、とらのあな同人誌専門店になっててフィギュアとか一切消えた

イムズP2小動物と金魚を延々とながめたらよいよ

ビブレエスカレーターで、女子高生スカートの中が見えないか延々と上下してもよいかもしれん

大宰府旅人って電車が走ってるから乗りに行くのも吉

あとは川端商店街フクロウカフェかな

2006-10-27

修学旅行

行ってきた。九州めぐり。

大宰府とか行った。長崎も行った。

・・・疲れた。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん