はてなキーワード: 対偶とは
トイレでワシも考えた。
ネタに困ったら試してみてね。僕はやってないけど。
○一次蒐集篇
a)小説を読む
b)新聞を読む
d)折り込みチラシをくまなく読み込む
f)辞(事)典類の適当なページを開いてみる
i)本屋の寄ったことのないコーナーで、ディスプレイを眺めてみる
q)Wikipediaのリンクを辿ったり、ランダム表示を利用してみる
s)イタコ式発想術:頭の中に浮かんできた言葉を一心不乱にノート(エディタ)に書き続ける
何も思いつかないなら「何も思いつかない」と書く
それすら書けなくなったら「ああああああああいいいいいいえええええええうんこうんこうんこ…」のような無意味な文字列を書き続ける
t)無限の猿定理法:キーボードをめっちゃくちゃにぶっ叩き、意味のある文字列の出現を待つ
u)ワードサラダ法:google日本語入力のサジェスト機能だけで文章を作ってみる
○お助けソーシャル篇
w)はてなブックマークを読む
x)google検索やtwitterのトレンドキーワードを追う
z)twitterのフォロワーのフォロワーのフォロワーの……よく知らない誰かのタイムラインを追ってみる
○ディフォメーション篇
a)~x)までで得られたキーワードを元にさらなる変形を加えていく。
α)しりとり
β)連想法ちゃん
δ)属性列挙・マンダラート・SCAMPER・オズボーンのチェックリスト……
ε)逆・裏・対偶
η)タロットカード
――――以上を繰り返すと、否が応でも「自分なりの考え」というモノが産まれてくるので、それを人に話したり、文章化してみたりすればよい。
増田の解釈はおおむね正しい。次のシチュエーションを想定してみる。
このシチュエーションにおける「自分がされていやなことを人にしないようにしましょう」というルールの解釈についてだが、
(1)Aくんにカブトムシを渡す、はOKかNGか分かるか?
(2)Bさんにカブトムシを渡す、はOKかNGか分かるか?
(3)Aくんにニンジンを食べさせる、はOKかNGか分かるか?
(4)Bさんにニンジンを食べさせる、はOKかNGか分かるか?
(5)BさんがAくんにカブトムシを渡していた。見ているべきか、止めるべきか分かるか?
(6)BさんがAくんにニンジンを食べさせていた。見ているべきか、止めるべきか分かるか?
正解は、
(1)OK、(2)NG、(3)OK、(4)OK、(5)見ているべき、(6)見ているべき
だ。
問題は「行為の内容」ではなく、「『嫌な思い』が発生しているか否か」だ。
受け手に『嫌な思い』が発生する行為はNGですよ、というルールだ。従って、相手の好悪判断が分からないうちは、軽々に行動するべきではない。
あくまで「いきなり通りすがりに殴りつける」みたいな、だいたい人を問わず好悪判断が分かれない事象について、適用すべき格言だ。
まして、「されてうれしいことはする」みたいな、対偶をとったルールについては、さらに慎重な運用が求められる。
よい適用例
「電車で荷物を持っていれば、基本的には座りたい。」→「荷物をもった人が目の前に立っている」→「席を譲られると『うれしい』だろう、と判断して譲る」(正解)
悪い適用例
「ボクはカブトムシが好きで、人からカブトムシを貰うとうれしい」→「Bちゃん、カブトムシあげるよ!」→「キャー!」(不正解)
後者の場合、「されていやなことを人にしてはいけない」というのは、「カブトムシを人にあげてはいけない」ということではない。
ボク「されていやなこと=ニンジンを食べさせられること」
Bさん「されていやなこと=カブトムシを押しつけられること」
だから、「されていやなこと=自分の嫌いなものを人から押しつけられること」であり、「相手が嫌い(かもしれないよう)なものを、自分を基準に判断して相手に押しつけてはいけませんよ」という意味だ。
「あれだけ偉そうなこと言ってたのはこんな顔かよ」ということを言ってる人たちが多くて、何を今更と思う。
ここで「自己顕示欲が高い美人だったら絶対に自撮りを晒す」という真実に気づかなければならない。
自己顕示欲が高い美人は、自分の顔をネットに上げて賞賛を得るという快感を求めるに決まってるのだ。
実際、そういう自己顕示欲が高い美人というのはネット上にうじゃうじゃいる。
でも、キラキラ垢は絶対に自撮りは晒さない。そこで論理的に考えれば美人じゃないんだなと分かるはずだ。
そのとき、匿名で、自分の顔を全く晒さずに、キラキラした内容をツイッターで呟いて承認欲求を満たすという選択肢を取るだろうか?
する訳がないだろう。そんなことをするのは自己顕示欲の高いブスだけだ。
「"自己顕示欲が高い美人"だったら絶対に自撮りを晒す」のであれば
論理的・対偶的に考えて「自撮りを晒さないのであれば、"自己顕示欲が高い美人"ではない」と証明できる。
もちろん、"自己顕示欲が高い美人ではない"ということは、自己顕示欲が低い美人というケースもありうるが、
彼女たちが自己顕示欲が高いことはツイッターの内容から明らかなので、つまり彼女たちは美人ではないことが証明される。
だから、匿名で、顔を晒さず、自己顕示欲の高い人たちがツイッター上で
キラキラした内容をつぶやき、モテマウンティングに勤しんでいても「ブスなのに頑張って呟いてるなぁ」と哀れみを持って見ていればいい。
「やましいことが無ければ調べを受けられるはずだ」っていうのは非常にまずい意見。そこを認めると人権への権力の介入の歯止めがきかない。なぜなら、それを認めると対偶として「調べを受けないのはやましいからだ」ということになってしまうから、事実上「調べを受けるかどうかを決める自由」がなくなる。
「調べる必要性が正式に証明されない限り、調べを受ける必要性はない」というのは原則として固守すべき。
もちろん、警察の能力を信用して調べてもらうってのは個人の自由だけどね。何らやましいことはないけれど調べは受けない、という立場も尊重されないとならない。
遅くなって悪かった。
まず、「ひとつの家族になるときにひとつのファミリーネームを共有する」ことのシンプルで強力な理屈があるわな。
これは「ファミリーネームを共有していなければ家族ではない」という命題の裏(対偶ではないが)として、同一姓であることが家族であるということをある程度保証してくれている。
そもそも夫婦別姓には、スペイン人のような系譜を示す機能があるものを除いて、合理的な機能がない。
それに対する俺の主張は、「適当な呼称は無くならない。複数の呼び方が使われるだけ。それは従来の呼称(サザエさん一家の例)と同様の運用」ってこと。
君が代替案として言っているのは、家族の誰かを起点とした家族関係なわけな。「山田さん一家」も「鈴木さん一家」も。
で、失われるのは、家族の誰を起点にするわけでもない、全体としての○○家という概念なの。
元増田。
「神の意思ははかり難いが、生き延びたということは、それは神の意思に合っていたということだろう」
前提1) 神は全知全能であるのだから、神の意志に反したことは起こりえない。対偶を取れば、神の意志に反したことが起こったとすれば、それは神が全知全能である事を否定することになる。
前提2)全ての事柄は、神の意志による。
ケース1) 神が「生存させる」という意志を持った場合:医師の努力が足りなかったため、生存に至らなかったということはあり得ない。そのようなケースを認めることは、神の意志に反した現象が起こったことを認めることになり、神が全知全能であることに反す。
ケース2) 神が「死なせる」という意志を持った場合:医師の努力によって、生存に至ることはあり得ない。そのようなケースを認めることは、神の意志に反した現象を認めることになり、神が全知全能であることに反する。
ケース3) 神が「生存しようが死のうが構わない」という意志を持った場合:医師の努力によって、生存できるかどうかが決まるでしょう。
ケース4) 神が、特に生存について意志を持たなかった場合:前提2に反する。
というわけで、改めて考えた所、ケース1)かケース3)の場合のみ、私は生存できる。ケース1の場合、医師の努力は生存に無関係ということになる。
ケース3であれば、確かに、医師の努力と神の意志が両立しうることは認めよう。
しかし、ケース3のような「生きようが死のうが構わない」ような見解を、一般的に意志と呼ぶのだろうか?
罪については、また後で。
横だが、「ちゃんとした宗教」は異教徒と夫婦になることを許さないとか、そもそも離婚がNGだったりそれに反発して新しい宗派を作ったりとか、いろいろ私生活に干渉したりされたりするものだと思う。
「ちゃんとした宗教は私生活に干渉する」という主張の対偶をとると、「私生活に干渉しなければ、ちゃんとした宗教でない」ということになります。
人様の宗教に向かって「私生活に干渉してないから、ちゃんとした宗教ではない」などと言うのは大変失礼ですよ。
①「現代の世俗化した宗教を役に立つものとして『宗教一般』と捉える」という命題を立てたのはあなたです。ここまでのツリーでそんなことを主張している人はいません。