はてなキーワード: ウーマンリブとは
ネットが無ければそうならないのかというと別にそんな事もないんだよね。
あの手の女叩き言説は極端ではあるけれど全くの創作という訳でもなく、何だかんだ言って潜在的に男が考えている事だから。
むしろネットなんて無い時代の方が、そういう事を堂々と言う男は多かった。
マスコミなんかでも堂々と書かれていたよ。
ウーマンリブとかフェミニズムとかそういうのが結局「名誉男性になる」方向にしか進まなかったのも、
「女は生まれながらに馬鹿で恥ずかしい生き物で、若いうちは男の性欲の捌け口としてのみ価値があるが
30になれば価値はない」と言う考えを男は勿論女も普通に内面化していて
女がそこから逃れるには「男になる」しかなかったからなわけで。
今現在を生きている小さな女の子にネットを見せなければ、そういった汚い現実を隠し通す事は出来るかもしれない。
でもいずれ大人になれば気付く事だけどね。
子供の頃から現実を見せて早目に慣れさせ大人になったら諦められるようにするのと、大人になって初めて気付くのと、どちらがマシなのかは分からない。
895 ソーゾー君 [] 2012/01/16(月) 00:32:26 ID:0AZXrdYkO Be:
都合の悪い話題が出ると関係の無い話でスレ流しをして薄めようとする。
尾崎と不買いはその為だぜ?その話も深く掘り下げると糞役人に辿り着くから同じなんだがな…
次の話し「ハッテンバとゲイリブとカルトと社会保障と医療と糞役人」の
ゲイリブはウーマンリブと同じだ…ウーマンリブを誰が煽ったか調べたら
ゲイリブが胡散臭いことが解る…エンジョイしているホモ達はゲイリブを嫌っている。
まともなホモ(おかしな言い方だが)は今の扱いにそこまで不満はないようだ。
実際俺も自身がホモセックス=男同士の絡み合いはNGだが他でやるなら知ったことではない。
まともなホモはその関係が一番と思っているらしい。
個人の自由は認めてるだろ?
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/business/9191/1333369457/
女(彼女)と接していて思うのは、女って大人になっても子供のままで許してもらえるんだな。
喧嘩になって子供じみた態度「じゃあ、そうすればいいじゃん!」って怒ってどっか行って、ほっといたら「なんで追いかけないの!」とか、
女がやっても「そういうのが可愛い」とか「男だったら追いかけてやれよ」とかって意見はあるけど、
男がそれやったら「子供かよ、みっともない」になるだろうな。
女に対してはそれは許容するコードが社会的にの一部にあるよね。
男でそれを好む人間も多い。
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?
女がモノであることを認めようとしない人に教えてあげよう。
君たちは男女の差異を認めようとせず、口角泡を飛ばしさまざまな詭弁を弄して
1970年代のウーマンリブの亡霊のごとく女と男を同一に扱おうと必死に頑張っているかもしれない。
だけどそれはきっと徒労に終わるだろう。
太古から男と女は生物としての役割が分かれて発展してきた。その差異を認めようとせず、
ますます女のメスとしての部分だけが否定しがたい差異として浮き彫りになってくる。
このまま突き詰めていけば、女は本当にただの女性器でしかなくなってしまうだろうよ。
さあどうする?女であることを認めるか、それとも女性器であると宣言するかい?
http://anond.hatelabo.jp/20081121191921
http://anond.hatelabo.jp/20081121193139
http://anond.hatelabo.jp/20081121190748
http://anond.hatelabo.jp/20081121185449
帰り道考えていたが、納得がいかないというか理解ができないのが気持ち悪かったので書いてみよう。
元増田?の主張
http://dekisala.com/tinyd3+index.id+1.htm
平均なので微妙に低かったり高かったりするが、まぁこの程度としよう。一般的に女性の平均年収は330万程度であるといわれている。
いくつかピックアップする
育児がきついかきつくないかに限らず、育児は夫婦で行うものである。
さて育児はきついか。
乳幼児の場合
これを一人でするのは相当大変だろうと言うことは共通の前提であることは間違いないので特に言及しない。
二人でするのも大変であろう。実父母義父母に頼ることを検討する。
しかし考えてみてほしい。だいたい男女ともに結婚のピークは26〓30までの間だ。翻って親の時代はどうだったか。父親はそんなもんだっただろう。母親はおそらく25以下で結婚している場合が多いかと思う。
もし25で結婚し26で子供を産んだとする。今でも初産の時期はそんなには遅くなく結婚後約一年で子供ができるのが大半のケースだ。であるならば出産は27〓31くらいがピークになると思われる。
30で産んだとき、母親はいくつか。だいたい56である。
共働きを前提としている増田なら親もきっと共働きであろう。56は定年前である。どうやって手伝うのか。
翻って父親に可能だろうか。ずっと共働きであったのならできるであろう。
もしダブルスタンダードで親は共働きではないが自分の相手には共働きを求めるよ、ということだったとしよう。
親56、父親はもしかすると定年退職を迎えているかもしれない。だが、人生80年の時代において定年後隠居生活するひとは割と少ない。再就職している場合は、母親は専業主婦であるならその面倒を優先してみるべきであろう。妻が夫の仕事をねぎらうというのはそういうことだからである。
また夫の仕事をねぎらわないのが当たり前であるという主張があったが、家のなかのことをしていてもらい家事を手伝う程度ですむということは十分ねぎらわれていることに等しいのでこれは一般的なことである。いろいろと仮定がはいったが。
もしかすると再就職はせずに隠居しているかもしれない。であれば子供のことは任せられるだろう。だが、ここでまた少し待ってほしい。
人生80年時代に突入している現代は超高齢化社会である。このため、親もまた自分の親の介護をちょうどこの時期は行っているかもしれない。ぼけ老人はいうまでもないが病院に入院している場合に乳児をそこに連れて行くとあっという間に病気になるだろう。普通は頼まない。
親の介護はなく悠々自適に暮らしている可能性もある。だが、50を過ぎると飛躍的に病気のリスクは高まる。親が倒れたら、死んだら。そろそろ考えなければならない。
いうまでもなく、すべての親が健康であるとは限らず、すでに他界している可能性もある。
ここで話は変わるが、現在結婚適齢期のひとの母親世代はウーマンリブ運動を知っているので共働きや女性が働くことに対して非常に嫌悪感を持っている人もいる。この場合協力を頼むのは実母であっても難しいだろう。
義父母になるとまたさらに難しくなる。嫁姑問題が昔から問題だったように、この間の関係はうまくいくことがまれであり、元々が他人であるためにうまくいかないことの方が大半である。大きなけんかなどはなくとも嫁が遠慮をしたり、はっきりと言いづらいということで嫌煙するということは大いにあり得る。
否定はしない。
考えてみてほしい。出産は基本的には命がけである。また妊娠の間も胎児の状態はすべて妊婦にかかっており、妊婦には非常にストレスがかかる。心理的なものではなく身体的な意味でのストレスがかかっている。胎児は妊婦にとっても異物だからだ。
日本ではかなり安全な出産ができるし、死亡確率は低いが、しかし実際に痛みを乗り越えるのは女性である。
増田は
という考えは持っているようだが、しかし考えてみてほしい。主たる家計支持者に死を伴う危険を必ずくぐり抜けなければならないことがあるのだろうか。
出産をねぎらわないのなら、仕事をねぎらってもらえないのは当然である。また、仕事が会社で行われるものであるのなら直接的に手伝えないのは当たり前であるが、お中元お歳暮の手配、毎日の服、健康管理などが知らないうちになされていたりはしないか。また、家計を妻に預けているのであれば、家計の管理というものを考えずに仕事に没頭すればよいという意味で十分に間接的に手伝ってもらっていると考えても良さそうである。
さらに言うと育児は手伝うものではなくともに行うものである。
必ずしも健康児が生まれるとは限らない。この場合は仕事に復帰するといっている場合ではない。在宅で300万とか言ってる場合でもない。
リスクマネジメント能力とはそこまで含めて考えた上で実際に出てきたアウトプットをみて何をするかどれを選ぶかということを適切に判断できる能力である。
いくつもの幸運を当然として考え、そうではないのは「甘い」「おかしい」というのはリスクマネジメント能力が足りていない。そういう人が年収600万……まぁなるかぁ。600万くらいまでなら総合職だったらそんなに大変でもないしなぁ。
だなーこのへんだなぁ。でもまだすっきりしないなぁ。何だろう。
以上のようなことを考えた上でしかし専業主婦になるべきだとは思わない。しかし反対もしない。たくさんの選択肢を考えておけば、いざという時にその選択肢のどれかを選ばなければならない時に最善あるいは必要な選択肢を選ぶことができるだろうし、もしたとえその選択肢を間違ったとしても途中で変更なり補正なりをしていくことは可能なのだ。人生は個人の分だけ存在する。どれだから正しい、間違っているということはなく、単純に最適な選択肢を選べたか選べなかったか、それだけなのである。
幸いなことに私は高収入な人間であり、いわゆる一流大学を出て安定した企業に勤めていて育休なども充実している。家事は得意ではないが好きではある。夫は収入は平均程度であるが、幸いなことに子供好きであり、家事も厭わない。仕事を辞めてもかまわないと言ってくれているが、どうするかはそのときがきたら決めようと思う。育児は自分のためにするものではなく、子供のためにするものだから、という認識を共有できる夫と出会えたことは本当にラッキーなことだったのかもしれない。
結婚ってほんとに何をしてもらったかではなくて、お互いにどうやって協力ができるか、なんだろうなぁ。
さて飯を作るか。