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はてなキーワード: ウーマンリブとは

2015-02-14

フェミとは

http://anond.hatelabo.jp/20100523122110

>要するにフェミっていうのは自分努力不足で恋愛とか亭主に報われなかったのを、これは私が悪いんじゃない社会が悪いんだってわめいてるだけ

フェミ女の意味をこれほどうまく表現してるものもないだろうw

結婚できない女性にとっては救いの神なんだろうねw

 

問題なのは、この人は「フェミ活動家」という狭い意味のことを言ってるようだけど

今の日本ではマスコミ永遠フェミ洗脳をしてるから

これが「薄まった」フェミはたくさんいるんだよね

 

その結果が男性の草食化、非婚

そして、フェミバサンは結婚できずに苦しんでる

すべて、アメリカユダヤ様の命令どおりになってる

ウーマンリブ ロスチャイルド

ユダヤ 人口削減計画 フェミ

これらで検索してみればわかります

 

2014-08-20

http://anond.hatelabo.jp/20140820080126

フェミニズムウーマンリブ、なんて言われてた頃にゃ、女はフリーセックスを叫んだもんじゃ

昨今では、男も草食化しろ!って言われとる

2014-07-18

http://anond.hatelabo.jp/20140718104103

やっぱりまだ価値観が定まっていない、小さな子供ネットなんかをみせるのは害悪だな…。

ネットが無ければそうならないのかというと別にそんな事もないんだよね。

あの手の女叩き言説は極端ではあるけれど全くの創作という訳でもなく、何だかんだ言って潜在的に男が考えている事だから

しろネットなんて無い時代の方が、そういう事を堂々と言う男は多かった。

マスコミなんかでも堂々と書かれていたよ。

今の時代は表向きは言えなくなったかネットに潜っただけ。

元増田のように考える女も、むしろ今より多かったくらいだ。

ウーマンリブとかフェミニズムとかそういうのが結局「名誉男性になる」方向にしか進まなかったのも、

「女は生まれながらに馬鹿で恥ずかしい生き物で、若いうちは男の性欲の捌け口としてのみ価値があるが

30になれば価値はない」と言う考えを男は勿論女も普通に内面化していて

女がそこから逃れるには「男になる」しかなかったからなわけで。

ただまあ、今は一応表向きでは言えない時代ではあるから

現在を生きている小さな女の子ネットを見せなければ、そういった汚い現実を隠し通す事は出来るかもしれない。

でもいずれ大人になれば気付く事だけどね。

子供の頃から現実を見せて早目に慣れさせ大人になったら諦められるようにするのと、大人になって初めて気付くのと、どちらがマシなのかは分からない。

2012-04-27

エンジョイしているホモ達はゲイリブを嫌っている

895 ソーゾー君 [] 2012/01/16(月) 00:32:26 ID:0AZXrdYkO Be:


なんでスレ流しが始まったか解る?

平田信オウム行政府司法のズブズブ関係」と

保険業社会保障の関係と作業構造」を語られたからだぜ?


都合の悪い話題が出ると関係の無い話でスレ流しをして薄めようとする。

尾崎と不買いはその為だぜ?その話も深く掘り下げると糞役人に辿り着くから同じなんだがな…

次の話し「ハッテンバとゲイリブとカルト社会保障医療と糞役人」の

話も発狂ネタから必死スレを流す…

保険業詐欺構造を理解したら簡単だがな…



ゲイリブはウーマンリブと同じだ…ウーマンリブを誰が煽ったか調べたら

ゲイリブが胡散臭いことが解る…エンジョイしているホモ達はゲイリブを嫌っている。

まともなホモおかしな言い方だが)は今の扱いにそこまで不満はないようだ。

実際俺も自身がホモセックス=男同士の絡み合いはNGだが他でやるなら知ったことではない。

まともなホモはその関係が一番と思っているらしい。

だがゲイリブはおかしいわな…今でも十分認めてるだろ?

個人の自由は認めてるだろ?





中央銀行・発行権】黒幕銀行家5【信用創造

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/business/9191/1333369457/

中央銀行・発行権】黒幕銀行家36【信用創造

http://uni.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1327244413/

2011-10-30

CHANELとは

シャネルChanel)は、ココ・シャネルが興したファッションブランド、および同ブランドを展開する企業であるレディース商品を中心に展開しており、服飾・化粧品香水・宝飾品と展開分野は幅広い。

ウーマンリブ的な「古い価値観にとらわれない女性像」がブランドポリシー。喪服用途であった黒い服を「リトル・ブラックドレス」として広汎的に広め、また自立した働く女性のためのジャージ素材、ツイード素材のスーツを打ち出すなどファッション歴史を次々と刷新していった。

http://dearbrand.net/

2011-04-11

http://anond.hatelabo.jp/20110411084912

女(彼女)と接していて思うのは、女って大人になっても子供のままで許してもらえるんだな。

喧嘩になって子供じみた態度「じゃあ、そうすればいいじゃん!」って怒ってどっか行って、ほっといたら「なんで追いかけないの!」とか、

女がやっても「そういうのが可愛い」とか「男だったら追いかけてやれよ」とかって意見はあるけど、

男がそれやったら「子供かよ、みっともない」になるだろうな。

子供じみた人間は男にも女にも同数ぐらい居るけど

女に対してはそれは許容するコード社会的にの一部にあるよね。

男でそれを好む人間も多い。

ウーマンリブとかフェミニズムとかそういう人達はあれは糾弾すべきだと思う。

あれは女を無力な他愛ない存在として縛ってた時代のコードなんだから

2011-02-16

(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕をテーマにして研究生になってよ!」

つい先日、卒業研究を終えました。この日記は後輩やこれから卒業研究を自由に決められる人のためになればいいな、程度に書きました

私は卒研テーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せしたですので、後輩にもぜひ好きなテーマ卒研をして欲しいと思っていました

私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいましたしかし、後輩に「今の自分研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました

どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした

そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOwikipedia考察いかに素晴らしかたか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました

この世の果てで恋を唄う少女YU-NO - wikipedia ((http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%9E%9C%E3%81%A6%E3%81%A7%E6%81%8B%E3%82%92%E5%94%84%E3%81%86%E5%B0%91%E5%A5%B3YU-NO&oldid=28528480))

また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです

CiNii 論文 -  マルチシナリオゲームにおける並列世界モデル ((http://ci.nii.ac.jp/naid/110002942865))

これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)

他にもネットを探すとユニークテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります

卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです

しかに、「好きだからテーマしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。

学生のあり方について、素晴らしい文章があります

修士論文の代わりに退学願を提出してきた - As a Futurist... ((http://blog.riywo.com/2009/02/27/120733))

=====以上が、今回の日記意図です

もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。

論文とは「問い」です。一般的に論文テーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。

ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなラノベが好きか」ということになるのでしょうか?

これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。

「「好き」は理性ではなエモーショナル部分依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」

無趣味のすすめ - 情報考学 Passion For The Future ((http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/07/post-1021.html))

つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです

そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです

さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義ですが、混沌としているようですね。

青少年を対象にした娯楽小説

程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性20~30代)でしょうから。(成人男性青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)

また、文学物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念引用することが結果を導く前から既に必要となります

例えば、物語的に観れば大塚英志提唱した物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。

れとろげーむまにあ: アドベンチャーゲームを振り返って思ったこと((http://nesgbgg.seesaa.net/article/185700949.html))

ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。

また、純文学の外に広がるキャラ萌え世界について詳しい

オタクたちのメンタリティには、教養主義文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。

東浩紀動物化するポストモダン|FRAMES INTERVIEW ((http://moura.jp/frames/interview/070423/03.html))

ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワードカテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。

ところで、先ほどラノベ定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義文学に「SF」がありますね。

サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました

ここで一つのSF批評を紹介します。

小谷真理の『女性無意識』に対する松岡批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。

最初ハーバード大学フェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノイネシスはそれにもとづいて提案した概念で、

父権的な社会蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。

長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動セクハラ問題が噴出してきた。

では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性無意識を象徴するガイネシスになるのではないかと見た。

(中略)著者はこんな出だしで手をゆるめない。次から次へとバウンダリートランスグレッション(境界侵犯)を見せつけた。

また、女性SFに関してこういう考察もなされています。

それにしてもいつのまに、女性こそが文学可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。

まずはエレイン・ショーターが父権文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリーシェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した

(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。

しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。

松岡正剛の千夜千冊『女性無意識小谷真理 (( http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0783.html ))

ということで、ここでは「外部の他者」たる女性文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとはないのではないでしょうか?

では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます

そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は

「【デリダとは】仏哲学者20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」

ツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))

デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要はないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)

ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。

女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである

女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性本質存在せず」、「女性の真理は存在しない」。

女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分存在しないということを知っているということである)。

実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニスト女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)

ニーチェの『善悪彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。

真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。

そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか

デリダ女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした

つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。

(知の教科書 デリダ 著者 林好雄 廣瀬浩司

見事にややこしいこの解釈から女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。

ニーチェ芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。

つまり、オタク男性)にとって、ラノベとは

女性という存在外部性とを遊戯的につなげている文学メディア媒介装置

であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)

十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレート表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる

オタクが豚になった――「萌えるからブヒる」へ - シロクマの屑籠(汎適所属) ((http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110215/p1))

という指摘もあります

例えば、オタクにとっての現実における外部性インターネットがあります

オタク男性であろうツイッターユーザーアイコンが、イラストアニメ美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性無意識に象徴しているのではないでしょうか。

また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユング提唱したアニマ(男性女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。

このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性

先程のツイッターイラストアニメ美少女アイコン無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?

以上より「ラノベ読者はなラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです

ラノベ本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?

私はそのことについて考える限り、とても意義ある研究だと断言できると思っています。

2011-02-03

http://anond.hatelabo.jp/20110203165154

それ、

30歳の人達自分よりチョイ下の年代向けに書いた本なわけで、

あなたはそもそも年齢的にも状況的にもターゲット層じゃないような…。


あとなんていうか

ウーマンリブとか女権運動たいな匂いが漂う人達だよね。

そういう人達ってなんでも「女からガンガン攻めようよ!」みたいな話になりがち。

「そういう女が増えて欲しい」と思って本書いてるだけだから

「そういう女が男にウケるかどうか」なんて気にしてないし興味ないと思う。

もしあなた増田に書いた顛末をこの人達相談した

「そんな男とは別れて正解!よかったじゃないの!」て言われると思うよ、真顔で。

2010-04-21

平等を突き詰めると女は最終的に女性器になる

女がモノであることを認めようとしない人に教えてあげよう。

君たちは男女の差異を認めようとせず、口角泡を飛ばしさまざまな詭弁を弄して

1970年代ウーマンリブの亡霊のごとく女と男を同一に扱おうと必死に頑張っているかもしれない。

だけどそれはきっと徒労に終わるだろう。

太古から男と女生物としての役割が分かれて発展してきた。その差異を認めようとせず、

男と女の役割の違いをなくそうとすればするほど、皮肉なことに

ますます女のメスとしての部分だけが否定しがたい差異として浮き彫りになってくる。

このまま突き詰めていけば、女は本当にただの女性器でしかなくなってしまうだろうよ。

さあどうする?女であることを認めるか、それとも女性器であると宣言するかい?

2008-11-21

http://anond.hatelabo.jp/20081121191921

http://anond.hatelabo.jp/20081121193139

http://anond.hatelabo.jp/20081121190748

http://anond.hatelabo.jp/20081121185449

帰り道考えていたが、納得がいかないというか理解ができないのが気持ち悪かったので書いてみよう。

元増田?の主張

  • 育児はきつい仕事であり夫婦で行うものである
  • 一家の主たる家計支持者となるのは責任重大であるのできつい
  • 義父母実父母にたまには頼ってもよい
  • 子供小学校に入るまでは専業主婦でもよいが(ただし育児能力家事能力増田の規定を満たしていることが条件である)それ以降はフルタイムで働くことを求める(べきだと思っている)
  • 未就学児を抱えていても在宅仕事で300万を稼ぐのが当たり前であり、そうでないのは甘えである。
  • 産休はぎりぎりまで休まずあとは(おそらく法律で規定されている6週間をすぎたら)即座に復帰するのが当たり前であり、そうでないのは甘えである
  • 夫は妻の育児をねぎらい、手伝うべきである。出産についてはその限りではない。
  • 妻も同様にすべきだと考えるが現実はそうではない
  • 健康児が生まれる前提である
  • 年収についてはわからないが友達が高収入な用である。高収入である条件は600万以上?

まず最初に平均年収リンクを挙げておく。

http://dekisala.com/tinyd3+index.id+1.htm

平均なので微妙に低かったり高かったりするが、まぁこの程度としよう。一般的に女性の平均年収は330万程度であるといわれている。

いくつかピックアップする

育児がきついかきつくないかに限らず、育児夫婦で行うものである。

さて育児はきついか。

乳幼児の場合

  • いつ死ぬかわからない
  • 言葉が通じない
  • 常に100%のテイクを求められる。もちろんギブはない。
  • 時間常識概念がなく昼夜かまわず要求をするクライアントである。

これを一人でするのは相当大変だろうと言うことは共通の前提であることは間違いないので特に言及しない。

二人でするのも大変であろう。実父母義父母に頼ることを検討する。

しかし考えてみてほしい。だいたい男女ともに結婚のピークは26〓30までの間だ。翻って親の時代はどうだったか。父親はそんなもんだっただろう。母親はおそらく25以下で結婚している場合が多いかと思う。

もし25で結婚し26で子供を産んだとする。今でも初産の時期はそんなには遅くなく結婚後約一年子供ができるのが大半のケースだ。であるならば出産は27〓31くらいがピークになると思われる。

30で産んだとき、母親はいくつか。だいたい56である。

共働きを前提としている増田なら親もきっと共働きであろう。56は定年前である。どうやって手伝うのか。

翻って父親に可能だろうか。ずっと共働きであったのならできるであろう。

もしダブルスタンダードで親は共働きではないが自分の相手には共働きを求めるよ、ということだったとしよう。

親56、父親はもしかすると定年退職を迎えているかもしれない。だが、人生80年の時代において定年後隠居生活するひとは割と少ない。再就職している場合は、母親専業主婦であるならその面倒を優先してみるべきであろう。妻が夫の仕事をねぎらうというのはそういうことだからである。

また夫の仕事をねぎらわないのが当たり前であるという主張があったが、家のなかのことをしていてもらい家事を手伝う程度ですむということは十分ねぎらわれていることに等しいのでこれは一般的なことである。いろいろと仮定がはいったが。

もしかすると再就職はせずに隠居しているかもしれない。であれば子供のことは任せられるだろう。だが、ここでまた少し待ってほしい。

人生80年時代に突入している現代は超高齢化社会である。このため、親もまた自分の親の介護をちょうどこの時期は行っているかもしれない。ぼけ老人はいうまでもないが病院入院している場合に乳児をそこに連れて行くとあっという間に病気になるだろう。普通は頼まない。

親の介護はなく悠々自適に暮らしている可能性もある。だが、50を過ぎると飛躍的に病気リスクは高まる。親が倒れたら、死んだら。そろそろ考えなければならない。

いうまでもなく、すべての親が健康であるとは限らず、すでに他界している可能性もある。

ここで話は変わるが、現在結婚適齢期のひとの母親世代はウーマンリブ運動を知っているので共働き女性が働くことに対して非常に嫌悪感を持っている人もいる。この場合協力を頼むのは実母であっても難しいだろう。

義父母になるとまたさらに難しくなる。嫁姑問題が昔から問題だったように、この間の関係はうまくいくことがまれであり、元々が他人であるためにうまくいかないことの方が大半である。大きなけんかなどはなくとも嫁が遠慮をしたり、はっきりと言いづらいということで嫌煙するということは大いにあり得る。

  • 主たる家計支持者となるのはきつい

否定はしない。

  • 産休はぎりぎりまで休まずあとは(おそらく法律で規定されている6週間をすぎたら)即座に復帰するのが当たり前であり、そうでないのは甘えである

考えてみてほしい。出産は基本的には命がけである。また妊娠の間も胎児の状態はすべて妊婦にかかっており、妊婦には非常にストレスがかかる。心理的なものではなく身体的な意味でのストレスがかかっている。胎児妊婦にとっても異物だからだ。

日本ではかなり安全な出産ができるし、死亡確率は低いが、しかし実際に痛みを乗り越えるのは女性である。

増田

  • 夫は妻の育児をねぎらい、手伝うべきである。
  • 妻も同様にすべきだと考えるが現実はそうではない

という考えは持っているようだが、しかし考えてみてほしい。主たる家計支持者に死を伴う危険を必ずくぐり抜けなければならないことがあるのだろうか。

出産をねぎらわないのなら、仕事をねぎらってもらえないのは当然である。また、仕事会社で行われるものであるのなら直接的に手伝えないのは当たり前であるが、お中元お歳暮の手配、毎日の服、健康管理などが知らないうちになされていたりはしないか。また、家計を妻に預けているのであれば、家計の管理というものを考えずに仕事に没頭すればよいという意味で十分に間接的に手伝ってもらっていると考えても良さそうである。

さらに言うと育児は手伝うものではなくともに行うものである。

  • 健康児が生まれる前提である

必ずしも健康児が生まれるとは限らない。この場合は仕事に復帰するといっている場合ではない。在宅で300万とか言ってる場合でもない。

リスクマネジメント能力とはそこまで含めて考えた上で実際に出てきたアウトプットをみて何をするかどれを選ぶかということを適切に判断できる能力である。

いくつもの幸運を当然として考え、そうではないのは「甘い」「おかしい」というのはリスクマネジメント能力が足りていない。そういう人が年収600万……まぁなるかぁ。600万くらいまでなら総合職だったらそんなに大変でもないしなぁ。

だなーこのへんだなぁ。でもまだすっきりしないなぁ。何だろう。

以上のようなことを考えた上でしかし専業主婦になるべきだとは思わない。しかし反対もしない。たくさんの選択肢を考えておけば、いざという時にその選択肢のどれかを選ばなければならない時に最善あるいは必要な選択肢を選ぶことができるだろうし、もしたとえその選択肢を間違ったとしても途中で変更なり補正なりをしていくことは可能なのだ。人生は個人の分だけ存在する。どれだから正しい、間違っているということはなく、単純に最適な選択肢を選べたか選べなかったか、それだけなのである。

幸いなことに私は高収入人間であり、いわゆる一流大学を出て安定した企業に勤めていて育休なども充実している。家事は得意ではないが好きではある。夫は収入は平均程度であるが、幸いなことに子供好きであり、家事も厭わない。仕事を辞めてもかまわないと言ってくれているが、どうするかはそのときがきたら決めようと思う。育児自分のためにするものではなく、子供のためにするものだから、という認識を共有できる夫と出会えたことは本当にラッキーなことだったのかもしれない。

結婚ってほんとに何をしてもらったかではなくて、お互いにどうやって協力ができるか、なんだろうなぁ。

さて飯を作るか。

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