2009-07-18

心について

自然以外に心というものがある。たいていの人はそう思っている。

その心はどこにあるかというと、たいていの人は、自分自分の肉体とその内にある心とであると思っているらしい。

口に出してそういったことを聞いたことはない。しかし、無意識のうちにそう思っているとしか思えない。

そうすると肉体は自然の一部だから、人はふつう心は自然の中にある、それもばらばらに閉じ込められてある、と思っているわけである。

しかし、少数ではあるが、こう思っている人たちもいる。

自然は心の中に在る、それもこんなふうにである

心の中に自然があること、なお大海に一漚の浮かぶがごとし。

このように、自然の中に心があるという仮定と、心の中に自然があるという仮定と二つあるわけであるが、

これはいちおう、どちらと思ってもよいであろう。

しかし人は、自分の本体は自分の心だと思っているのが普通であるから、どちらの仮定をとるかによって、

そのあとはずいぶん変わってくる。

以前、私ははじめの仮定を採用していた。

しかし今は後の仮定を採用している。

心の中に自然があるのだとしか思えないのである。

自然のことはよくわかっているが、心のことはよくわからない。

むかしの人はどうだったか知らないが、今の人はたいていそう思っている。

しかし、本当に自然のことはよくわかっているのだろうか。

たとえば自然は本当に在るのであろうか。

あると思っているだけなのであろうか。

現在自然科学の体系は決して自然の存在を主張し得ない。それを簡単にみるには数学を見ればよい。

数学自然数の「一」とは何であるかを知らない。

ここは数学を不問に付している。

数学がとりあつかうのはそのつぎの問題からである。

すなわち、自然数のような性質を持ったものが在ると仮定しても矛盾は起こらないであろうか。

この辺でまとめることにしようと思う。

これまで書いたことを一口にいえばこうである。

人はふつう、何もわかっていないのに、みなよくわかっていると思っている。

しかし、この最後の一句意味がわかるのは何故であろう。

わたしはもちろん、読む人にもわかると思うから書いているのである。

これは「わかる」とか「思う」とかがわかるのである。

これらはみなこころの働きである。

人という言葉も使っているが、そういう働きをするこころがすなわち人なのである。

デカルトは「自分は考える。故に自分というものはあるのだ」といっている。

そうするとやはりこころが先であって、こころの中に自然があるのである。

実際はそうしていながら、その反対を仮定しているのである。

これを押しとおすと全体が仮定になってしまうだろう。

いくら書きつづけても、結局「自分は何もわからない」ということを書くだけである。

では、その自分とは何であろう。

これまで書いてきた心の働きの中で、全体をしめくくっている字をさがし出してみよう。

これはわけなくできる。

「思う」というのがそれである。

こころのこの働きを、ギリシア人にしたがって分類すれば「情」である。

人の主体は情であるらしい。

わたしはそう思ったから、この情を精密に見ようとして「情緒」という言葉を作ったのである。

この言葉は前からあるが、内容はそれとはだいぶちがう。

そしてこの情緒をもとにして全体を見直そうとしているのである。

わたしにはすべては「そうであるか、そうではないか」の問題ではなく、

「それで心が安定して心の喜びも感じられるかどうか」の問題なのだと思える。

宗教的方法を許容しないかぎり、それより仕方がないのではないだろうか。

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