「リチャード・ローティ」を含む日記 RSS

はてなキーワード: リチャード・ローティとは

2023-03-08

# リチャード・ローティ長渕剛の討論:「長渕剛猫カフェ

(以下、Bing チャットAIが生成した文章です)

# リチャード・ローティ長渕剛の討論:「長渕剛猫カフェ

## ローティ

早速ですが、あなた真実正義というもの存在すると思っていますか?それらはどこから来るのですか?神からですか?理性からですか?それらは普遍的適用されるものですか?

## 長渕

そんなこと聞く必要あるか?真実正義は心から感じるもんだろうが!神でも理性でもねえよ!俺たち一人一人が持ってる感情だよ!感情!それらは普遍的じゃねえかもしれねえけど、俺たちはそれらに従わなきゃ生きてけねえんだ!

## ローティ

感情だけでは不十分だと思いませんか?感情は時々間違ったり変わったりしますよね?あなたが今感じている真実正義明日も同じだと保証できますか?あなた以外の人々が感じている真実正義と一致しますか?

## 長渕

間違ったり変わったりすることもあるさ。でもそれでも俺は感情に従うしかねえんだよ。俺は自分の歌でそれを伝えてきた。俺の歌は俺の感情だ。俺の歌は真実だ。俺の歌は正義だ。

## ローティ

あなたの歌はあなた感情表現しているということですね。それは素晴らしいことだと思います。でも、あなた感情真実正義と同じだということには疑問がありますあなた感情あなたにとって有用幸福物語かもしれませんが、他人にとってもそうでしょうか?他人あなたの歌を聞いても、同じように感じるでしょうか?

## 長渕

そりゃ人それぞれだろうよ。でも俺は自分の歌を聞いてくれる人々に寄り添ってやりたいんだよ。俺は自分の歌で人々に勇気希望や愛を与えたいんだよ!

## ローティ

それは素晴らしい目的ですね。でも、その目的を達成するために、真実正義という言葉を使う必要がありますか?それらの言葉あなた他人を束縛したり対立させたりする可能性がありませんか?もっと柔軟で多様で開放的言葉を使えば、もっと有用幸福物語を作ることができませんか?

## 長渕

柔軟で多様で開放的言葉?そんなもんどこにあるんだよ!俺は自分が思ったことや感じたことをそのまま言うしかねえんだよ!それが真実正義じゃねえかもしれねえけど、それでも俺は嘘つきになりたくねえんだよ!

## ローティ

嘘つきになりたくないという気持ちはわかります。でも、真実正義以外の言葉を使うことが必ずしも嘘つきになることではありませんよ。例えば、「長渕剛」と「猫カフェ」という言葉です。「長渕剛」はあなただけではありません。「長渕剛」は私や他人が作った物語です。「猫カフェ」も同じです。「猫カフェ」もまた私や他人が作った物語です。

## 長渕

物語物語って何だよ!俺は物語じゃねえよ!俺は俺だよ!猫カフェ物語じゃねえよ!猫カフェ猫カフェだよ!

## ローティ

あなたあなたですか?猫カフェ猫カフェですか?それらの言葉にはどんな意味がありますか?どんな感情がありますか?どんな価値がありますか?それらの言葉あなた他人にとって有用幸福ですか?

## 長渕

意味感情価値だ…そんなもん考える必要ねえよ!俺は俺でありたいんだよ!猫カフェに行きたいんだよ!そこにいる猫たちと触れ合いたいんだよ!それが有用幸福じゃねえか!

## ローティ

あなたあなただけでありたいということですね。でも、あなただけではありませんよ。あなたは私や他人と関わっていますあなた言葉や行動は私や他人に影響を与えます。私や他人言葉や行動もあなたに影響を与えます。それを無視することができますか?

## 長渕

無視する必要ねえよ!俺は自分の信念を貫くだけだよ!俺は自分の歌で自分の思いを伝えるだけだよ!それが他人にどう影響するか知ったこっちゃねえ!

## ローティ

自分の信念を貫くことは大切ですね。でも、自分の思いを伝えることも大切ですね。でも、その両方を同時にすることが難しいこともありませんか?自分の信念が他人に伝わらないこともありませんか?自分の思いが他人に反発されることもありませんか?

## 長渕

難しいこともあるさ。伝わらないこともあるさ。反発されることもあるさ。でもそれでも俺は止まらねえよ!俺は前進するしかねえんだよ!

## ローティ

前進することは素晴らしいですね。でも、前進する方向や目的地が明確ですか?前進する過程方法が適切ですか?前進する結果や帰結が望ましいですか?

## 長渕

正直言うと猫カフェ動物虐待だと思ってるよ…猫カフェは猫を金儲けの道具にしてるんだよ。猫カフェは猫にストレス感染症を与えてるんだよ。猫カフェは猫の適正な管理を怠ってるんだよ!

## ローティ

そうですか。でも、すべての猫カフェがそうだと言えますか?すべての猫カフェ動物愛護法違反していますか?すべての猫カフェが劣悪な環境営業していますか?すべての猫カフェが金儲けしか考えていませんか?

## 長渕

そりゃ全部じゃねえかもしれねえけど、多くはそうだろうよ。俺は自分の目で見たことがあるんだよ。6畳ほどの展示スペースに62匹もの猫がいたんだよ。7割が病気にかかってたんだよ。

## ローティ

それはとても悲しい光景ですね。でも、それはあなたが見た一つの例ですよね。それを一般化することはできますか?それを証拠とすることはできますか?それを根拠とすることはできますか?

## 長渕

証拠根拠だ…そんなもん要らねえよ!俺は自分感覚でわかるんだよ!俺は自分直感判断するんだよ!俺は自分経験で語るんだよ!

## ローティ

あなた感覚直感経験は大切ですね。でも、それらはあなただけに有効ですよね。他人にも有効ですか?他人にも共通ですか?他人にも説得力がありますか?

## 長渕

俺はそんなこと気にしないよ。俺は自分の信じることを言うだけだよ。俺は自分の好きなことをするだけだよ。俺は犬カフェ経営したいと考えてるんだよ。

## ローティ

カフェ経営したいと考えているんですね?それはどういうことですか?犬カフェとは何ですか?

## 長渕

カフェって知らねえのか?犬カフェってさ、犬と一緒に遊んだご飯をあげたりして楽しめるカフェのことだよ。

## ローティ

そうですか。それは楽しそうですね。でも、それは動物虐待ではありませんか?猫カフェと同じではありませんか?

## 長渕

違うよ!全然違うよ!猫カフェと比べちゃいけないよ!

2021-09-11

鴻巣友季子の時評は何が問題だったのか

 『文學界2021年9月号に掲載された桜庭一樹少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。

 この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者見解掲載された。

 この記事では総括として、両者の見解検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリー仕様URL掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。

見解検討

 両者の主張は、以下のように整理できるだろう。

桜庭文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。

鴻巣文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。

 桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈自由〟を奪」うことを挙げている。

 一方で鴻巣自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。

 では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである

 鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である文学解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないである解釈批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである

 鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。

 繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ私小説フィクションからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。

 ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。

 この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授日比嘉高モデル小説研究フロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在人物モデルに』と事実立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実事実」の問題を切り分けている。

(強調は引用者。これは桜庭が声をあげた最初ツイートだ)

(強調は引用者)

 桜庭実存にとって「現実事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭あくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家動機ではなく、作家根拠フォーカスするべきであるこの記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。

 とはいえ桜庭見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。 

文芸時評というジャンル

 今回の一件に際して、文芸時評不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭ツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣見解において「批評」という言葉を用いている。

 だが、文芸時評批評しかないのだろうか? 文芸時評英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル特性があるのではないか

新聞というメディア

 文芸時評新聞という巨大メディア掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。

 文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷鳥取で一人暮らす実在老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実現象レベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか

 以上の論点を踏まえて、時評担当者見解検討することもできるだろう。

書いてあればよいのか

 桜庭見解は冒頭、「私の自伝的な小説少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家藤田直哉が端的に指摘しているのでツイート引用しよう。

 つまりあらすじに書いてよいのは、「作中の事実であるべきではないか 今回であれば、あくまで一人の人物視点に立って、「私の自伝的な小説少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列テクストに書いてあるとはいえ中人物の「主観的解釈なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか

 あるいは、そもそも事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分幸せだと信じ込みながらオンラインサロン主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せ生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せ事実ではなく評価からだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか

参考になりそうな文献

 最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。

2008-12-04

[]

877 :トニオ:2008/12/04(木) 03:56:47 0

そもそも、お前の何が形而上学関係があって、何を脱構築するのか説明できる奴がいるのか。

ゼロアカだのゼロ年代だの無能の群れどもに。 ... 約1時間前 from web

だからそもそもリベラルアイロニストって何だよ。

お前、指導教官定義聞かれてちゃんと説明できんのか ... 約1時間前 from web

自らのプラトン的振る舞い(デリダプラトン解釈も問題があるんだけれども)に対してはちっとも含蓄とかないわけね ... 約1時間前 from web

そもそも、リアルタイムで対話して結論を出そうなんてマネじたい、

デリダ的にどうなんだ? 約2時間前 from web

プラグマティストで社民主義者でテクスト主義を批判する分析哲学者なんだぞ。 約2時間前 from web

ローティ政治の部分はわりかし分かりやすくて単純で(だから嫌いなんだけど)、

なんかこねくり回した理屈をひねる余地はないと思うけどなあ ... 約2時間前 from web

リチャード・ローティの設問だ 約7時間前 from web

http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html

もし、汐音ちゃんの小学校の教師が「そのとおり、声に場所を与える必要があるはずだ!ロリコン(もしくはドブネズミ)に権利を!」なんて言ったら、

無論東だって辞めさせようとするに違いない ... 約7時間前 from web

878 :トニオ:2008/12/04(木) 03:57:48 0

誰も聞いてねえし、そもそも俺はこんな素朴な見地を披露するのは嫌だが、例の無能たちはわけのわからない宇宙語を話しているわりには

こういうことにちゃんと答えることどころか、理解できてるのかも怪しいときたもんだ。 ... 30秒前後前 from web

ポストモダンなどそもそも意味のない言葉だ。

定義してみろ、「近代」について。

近代などなく、それぞれの国民国家の成り立ちがあるだけです」 ... 10分前 from web

ついったーイライラすんなああああああ 14分前 from web

だめだ、まとまらねえ。

表のブログ映画の公開が終わるまでプリキュア看板を下ろす気はないから。 ... 14分前 from web

もう一つは、「大きな歴史」、「形而上学の支配」というものの真実性。 15分前 from web

一つは、西洋哲学東洋人である自分との関係性(これはハイデガーの段階で言われている) 16分前 from web

すなわち日本脱構築なんて志向するなら、二つ困難がある。 16分前 from web

あの尊大なカルナップはハイデガーの言うような壮大な形而上学に確かに関係ないかもしれない。 25分前 from web

そもそも、「大きい歴史ソクラテスから連綿と続くような巨大な「哲学史」、

そのような巨大な建造物を想定すること事態が自明とはいえない。 ... 約1時間前 from web

「アイロニスト=ソクラテス気取り」っていうのがこれまたずいぶんお寒い話じゃない。 約1時間前 from web

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん