はてなキーワード: 駄作とは
逆、逆。
駄作とほぼ言ってるのに、言葉面だけ、合わなかった、にして予防線貼ってる。
それがだめ。
「駄作と言ってないから誰も攻撃してない」とか「攻撃してるやつより上等」は通らない。
すずめの戸締りの話してるなら駄作を知らなさすぎる
俺のことナメてんだろ!?
許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない
『not for me,not for meうるせえよ!!!!!!!』のブコメこんなコメントがあった。
>主語でかくしないように気を付ければいいだけだよ。「駄作」はダメだけど「私は駄作だと思う」ならなんら問題ない。「not for meだろ」は「個人の感想として書け」って意味でしょうに。
何かに対して述べる事は全て個人の意見感想である。(企業組織に属している者がその看板を掲げていない場合)これは年齢肩書問わず「(私は)そう思っている」でしか無い。
「○○は駄作」「○○は駄作だと思う」結局言ってる事は同じだ。その文章はあなたが感じ思った意見等を述べている物であり、そのもの自体が「と思っている物」だからだ。つまり文面の最後に「と思う」を付ける必要は無いし、付けなくてもあなたの主張であることに変わりはない。
ちなみにライター講座ではこの「と思う」は禁句である。むしろ”そう思っているのなら”言い切るべき。わざわざ「と思う」を付けるのは自分の意見として自信がないから。その意見に絶対的な自信を持っているなら「これは○○」と述べた時に「と思う」なんて付けない。
自信のない主張には説得力が無い。自分の意見としてはっきり言おう「○○は○○だ」と。正当な反論が来たら答えればいい、その主張に自信ががあれば答えられるから。
私の感覚では、どこかの個人が「この作品は駄作だ」と書いていたら、それは「私はこの作品は駄作だと思った」という意味だと思っていました。みんなはどう解釈してるの?
なんかネット見てると、「この作品は駄作だ」と書いてあったら、「この文章は『この作品は駄作だ』ということが普遍的な事実であると主張している」って解釈してる人が多そうなんだよね。
私の感覚では個人が意見書いているのだから「この作品は駄作だ」って書いてあっても「私はこの作品は駄作だと思った」でしかないと思うのですが……?
駄作と断定してるのが許せないとか怒ってるのもよくわからないです。個人の感想なのだから、それはその人が断定的に駄作だと思ったということでしかないし。断定してるのは断定するくらい強い気持ちでその人がそう思ったということでしかないですよね。別に普遍的事実として断定しているわけではないですよね。誰も普遍的事実の話なんてしてないんですよ。
たとえば、「このシャインマスカットはまずい」と書いていたら、「私はこのシャインマスカットはまずいと思った」という意味ではなくて、「このシャインマスカットは普遍的な事実としてまずい」と書いてあると解釈するってことですよね?
「お前がまずいと思っただけだろ!」「おいしいと思ってる人もいる!」「not for me!」とかって反論するんでしょうか?
横増だけど、「おれはこの点で駄作だと思う(自分の視点で評価の基準が明確であり、マイナスのポイントが説明できる)」なら別に問題ないと思う。
「食べログで高評価のコーヒー店だが、自分はビターな味よりもフルーティな味を評価する、ここのコーヒーはビター一択なので、自分は高評価でない」みたいな話だから、まぁ、そうですか、と。
その昔恋空が流行った時、「こんな駄作が流行るなんて日本終わり!スイーツ(笑)」と言ってバカにしていたのがオタクだった
「恋空をバカにしながらクラナドを称えるオタクw」みたいに自己を客観視できる能力は持っていたが
今じゃ、「ポリコレのせいで売れなくなったマーベルやアメコミw日本の漫画アニメは売れるから大正義!売れるものこそ名作!」みたいに、売上至上主義になってしまった。
そして、売れたものを駄作だと言って叩くのは負け犬の遠吠えでありファンを傷つけるから許されない!となってしまった。けもフレ2みたいなのはいくらでも叩いていいことになってるけど。
挙げられるマイナス点がある程度一般的・普遍的な観点によるモノなら"批判"で、そうでないnot for meしとけって話。not for meしてろと言った人はその駄作判定が"批判"足り得ていないと思ったからそう言ったんでしょ。
これのこと?
駄作、とまでは言わないけど、物語構成に瑕疵があるのは間違いないよね。
サブプロットの「鈴芽と環の関係性」が、東北へ向かうクライマックスの流れの中で差し込まれ、全体のテンポを悪くしている。
何でこのタイミングになったのかは明白で、本作の重要な設定である「鈴芽は震災孤児」が、物語後半までマスクされていたから(それまで匂わせはしていたが)
環とのサブプロットを語るのにこの設定は避けて通れないので、結果として物語の勢いをそぐタイミングでやらざるを得なかった。
ではなぜ震災孤児の設定を隠していたかというと、これはもう商業的な理由としか言いようがないよね。
始めから震災をテーマにして映画やります、だと重すぎて観客が離れるという判断だったんだろう。
少なくとも物語的には、この設定を隠さなければいけない必然性はどこにも無いわけで。
この辺りが残念だなあと思う次第。
ダメだろ、これ。
失敗の原因は5つ。
冒頭、どこか非現実的で、しかし東北の震災を思わせる風景はいい。
踏切を渡らない演出や、立ち入り禁止看板を乗り越えるところなど、日常へ行かず、非日常へ入っていくことを描写していくも、よくわからないまま立ち去り学校の日常描写→そして地震、なんか山から祟り神みたいなの出てる→再び廃墟へ。
ここが一つテンポが悪かったと思う。
どういう物語かを提示するという形で及第点ではあるが、特段面白くはない(わずか35秒で説明し、全く本編が面白くなかったソラとウミのアイダを見習ってほしい)
その後、猫(ダイジン)を追いかけ、船に乗るというところまでが、序盤といっていいと思う。
気になるのはすずめが船に乗るのは自発的な意思に基づくものであって、君の名は。の不可抗力で入れ替わったこととは違う。
ここにご都合的な強引さを感じるのだ。
さらに致命的だと思うのが、ダブル主人公のうちの一人、草太が早々に椅子の姿になってしまった。
この結果、ロードムービーでありながら、草太は椅子の姿であることからコミュニケーションをとることに作劇上の制限が加えられてしまった。
コメディ的なキャラクターになったことで、ラブストーリーとしての進め方にも違和感が出ている。
草太がどういう人物なのかが明示されないまま物語が進んでいく。役割しか持たされていないんだよね。
で、そのメンタルのまま、後半、突然の死にたくないっす。要石なりたくないっす。→私も草太がいない世界怖いっす。
ロードムービーをやりたいのか、と思ったけれども、ロードムービーって基本的に旅する二人が、旅先での人との出会いによって関係性が変化するというのが定石じゃないですか。
でも、本作のヒロイン、すずめは一体に何に不満があって、成長するのかというのが不明瞭なんですよね。
災害の原因であるミミズが出てくる扉を閉める、という役目を帯びた青年が全国行脚しているようだが、ファンタジー職業にありがちなどうやって食べてんだ?という疑問には普通に大学生であるし、将来的には教師を目指しているという謎の情報が与えられた。役目が重すぎるだろ……。
関東大震災もミミズが原因だったという描写があり、直接的に言及されていないが、3.11も同じミミズが原因であったと推察できる。
こいつらがきっちり仕事してれば3.11を防げたってこと?という疑問点が観客の引っ掛かりになるのではないか。
感動部分は、作品によってではなく、3.11の悲劇性と記憶に頼って泣かせているんだよな。そして人間は馬鹿だから感情が動くと名作だと錯覚する。
本作の中盤では、首都直下地震を思わせる災厄を封じるために、東京を舞台に駆け回る。
通常の映画で言えばクライマックスに相当するようなアクションの末に、すずめは草太を要石として使用し、東京を救うことになる。
天気の子が「世界」か「君」かの選択で、「君」を選んだ結果、めちゃくちゃになった世界があって、それでも生きていくという話だったのに対し、今作では「世界」を選んだその後を書くつもりか?と思っていたが違った。
物語はこの要石となってしまった草太を救うために、幼少期に見たあの世への扉を探すことになる。
そして終盤、気仙沼の炎上を思い起こさせるファンタジー災害空間で、暴れだす巨大なミミズを背景に、主人公を走らせる。この絵を描きたかったというのは分かる。
要石となった草太を解放することで、ミミズの抑えがきかなくなる。
さあ、どうする?
すまん!今まで要石やってくれとったダイジン、サダイジン!またやってくれ!
了解!!
おわり。
は?
「世界」か「君」か、という選択と代償の話が、第三者に委託したら何とかなったわwで終わっていいわけねえだろうが。
自然に外れちゃった東京の要石ことサダイジンは、なぜか主人公たちの旅に付いてくる上に、最終的にはまた要石として役目を担うことになる。
ええ?
要石が外れたけど、機嫌治ったんで、自主的に役目に戻ってくれましたみたいな解決法である。
基本的に四国、神戸と行く先々でミミズを見かけて戸締まりするアクションシーンというのが連続で起きる。
また各地で出会う人々もそれほど深掘りされることはない。
これが東京まで来るとそれなりに街の描き方が生き生きとしてくるし、後半のキーパーソンになる芹澤が登場する。前半と後半で明らかに映画の趣旨がガラリと変わっている。
だからこそ前半の時間の使い方はもったいなかった。(後半にほとんど繋がっていかない)
おばさんも遠くで心配してる描写を延々はさむぐらいなら、もう少し後半の決裂に至る問題点(避難者受け入れ、被災者遺族の家庭の問題)をやっとけばよかったのに。
ロードムービーをする都合上、各地を巡り、そこで出会う人々とのつながりを書く必要があるので登場人物が増える。
そうするとそれぞれのキャラクターに割ける時間が相対的に少なくなるので、魅力を描写する時間が足りなくなる。
途中で出会った人々を後半に繋げるでもなく、主要キャラの問題点の提示や成長に繋げるわけでもない。何がしたいんだ。
新海が触りたかったものはロードムービー、3.11被災者への応援、衰退する地方都市、避難民と家庭環境、自然への畏敬、民間信仰、恋愛あたりだろう。
終盤で、主人公が過去の自分を見つけ、この世界は明るいんだと、ド直球な被災者への応援メッセージを長々とぶちかましていく。
一方で衰退する地方都市と自然に還る廃墟を映し、戸締まりの際の呪文、山河をお返し申す、人間が使ってきた土地を自然に返すという話であろうが本当に触れるだけだし、それを3.11テーマとどういうリンクをさせるつもりだったんだ。
ある種の無常観というか平家物語的な持っていき方をするわけでもなく、災害はそれはそれとして悼みます、という一貫性のなさ。
おばと主人公の決裂も、避難民の子供引き取っちゃったせいで人生めちゃくちゃやん→ごめん言い過ぎたわ……。で終わり。
ダイジン、サダイジン、それにキャラクターの名前を見ても民間信仰というか古代神道系の話っぽいなぁとは思ったが、そこもそれほど深掘りされず。
どうでもいいけど九州の要石、廃墟と化してるとはいえめっちゃ現代的な施設の真ん中付近に刺さってるの謎すぎるやろ。
男側の感情が一切見えない上に、女側もイケメンと旅して、神戸でいきなり発情し始めて椅子にキスするという展開を伏線としてクライマックスで結ばれましたってやるの強引すぎるだろ。
今作は終盤に使うために仕込んだ伏線が、全て雑すぎて、「前に説明してましたよね?」と新海が言い訳するために挟まれるシーンが多すぎる。
戸締まりをする際に、その土地の人々に思いを巡らせる、というのもすずめにとっては何の縁もない土地の思い出が想起されるのは変だろう、と思っていると、終盤に被災前の人々の情景を描くシーンがあり、ああ、これのための言い訳だったのかと理解した。
なんなんすかね、これ。