はてなキーワード: 呼び方とは
菩提寺の住職(同世代)にこの間のエントリーを見せた結果、みなさん面白がってくれてうれしいので張り切って書く、と言っていた。
そうして送られてきた日記が、要約すると「猫に網戸を破られたので、網戸を張り替えようと思ってホームセンターに行ったところ、蚊帳が売っていた。そういえば蚊帳を吊れば良いと気がついて、猫のご飯だけを買って、押し入れから蚊帳を出して吊った」で、蚊帳の上でハンモック状態の猫が寝ている写真だったので、彼は天才だと改めて思う。
しかし、異議申し立て(?)されたのは「仏教画」の件である。仏画とは言うが、仏教画というのは正式な呼び方ではないのだそうだ。
曰く、仏画というのは「道具」なのだそう。単なる美術品ではなく、布教のためだったり、信者に考え方を示したりするときに使ったり、法事の時に使ったりするための「道具」なんだって。で、住職が書いている仏画は、そういったもので、色々なお寺なりから依頼を受けて書いているのだそう。
だから、お寺にある仏画の多くは作者不詳で、古くなって、すすけたり破れたりして、使われてきた仏画にこそ価値があると。自分が描いたものもそうやってしっかり使われてほしいと思うんだそうな。額装して飾るもんじゃないんだって。
なるほど?
だから、おしえているのは基本、仏画じゃなくて日本が寄りの美術だと。
そうなのか。熱く語っていたのでここに記す。
ネットでは散々見たけれど、配偶者や同棲相手を「同居人」呼びする人って現実にもいるんだね…!
ネットで見ても十分に気持ち悪いけれど、リアルだとより一層気持ち悪いな!
で、とあるレズビアンの人が言ってたけれど、こういうふうに交際相手の存在は明示しつつ敢えて性別をぼかした呼び方する女性って、ほぼ100%ヘテロ女性なんだよね
レズビアンだったら存在そのものを伏せるか、カミングアウトを籠めて彼女って言う
つまりごくありきたりなヘテロ女性でしかないのにそこらの女とは違う特別な私仕草をしている辺りが心底気持ち悪いと思った
パートナーのいない非モテ女性と一緒にされるのは嫌だけどありきたりのヘテロ女性に括られるのは嫌だというめんどくささ
性別をぼかすにしても「恋人」「連れ合い」辺りの、昔からある自然な言葉じゃ駄目なんだろうか?つくづく気持ち悪いんだよな「同居人」呼び…。(「連れ合い」は年配男女が使っているのをよく見るけれどニュートラルでいい言葉だと思う)
具体的な呼び方によるかと
このブログで、私は開始2行目の『夫(私)がキャリアダウンをし』をスルーしてしまいました。
よって責任は私にありますが、全体的に書いているのが夫氏なのか妻氏なのか、ふたりで交代で書いてるのか混乱してしまいました。
一般論でいうと「夫」は妻のみが使用する呼び方です。ブログなので自由に使ってよいと思いますし、このお話では夫・妻で表現した方が分かりやすかったのかもしれません。
で、今思いついたんですが、一人称は「ワイ氏」が一番わかりやすかったのでは。(はてなのお上品なユーザーの方々、ごめんなさい)
『夫がキャリアダウンして妻の年収を800万円にした経緯と結果』、このタイトルだけでは妻が書いたのか夫が書いたのか第三者が書いたのか混乱しません?私はします。
『ワイ氏がキャリアダウンして妻の年収を800万円にした経緯と結果』 状況が分かりやすくなりました。
夫婦の収入、子育てについては、ワイ(性別女)がバツイチ子無しなので「良かったですね!」としか言えません。これからもご家族でお幸せに!
ジョンズ・ホプキンス大学が、レズビアンに女性だけではなくノンバイナリーも含めた(includes non-binary people)ことから女性だけではなくなったから、男性以外の人(non-man)という単語を使い出したのを、『女性をnon-manと呼び出した』と言われて炎上?してるの、知性の劣化というか…
(レズビアンにノンバイナリーを入れたこと自体を批判するならまだしも…)
ジョンズホプキンス大学は女性をwoman改めnon-manと呼ぶことにするようです。なお、manはmanのまま。日本でもLGBTに配慮するために男性と女性という呼び方を「男性と非男性」にしろと、女性を消し男性基準の言い方にするよう求められるかも知れませんね https://t.co/RAn777PGtO— ヘイトを許さない一市民🐸人権を相対化する改憲に反対 (@nohate38306133) June 13, 2023
障害のある子供の親御さんたち、教育委員会や先生たちの薦めを無視して無理矢理普通の公立校、普通の学級に入れるのはやめろ。
発達障害やら何やらあるが、全国の支援学校、支援学級に在籍している知的障害の割合が1番多いため、主に知的障害の子供について話す。ただし、他の障害種別でも通用する話ではあると思う。
だいたい、文頭で指摘したような、障害がある子を無理やり他の子と同じ環境に入れたがるような親というのは
・自分の子供に障害があることを頭ではわかっていても認めたくない。
・特別支援学校(学級)やそこに通う子供、あるいは障害者それ自体に対する強い偏見がある
・子供のヤバさ(学力の遅れや集団に馴染めないなど)をきちんと把握できてない
のいずれか、あるいはハイブリッドなのだ。テレビ等でよく美談のように語られる中では「普通の学校で学ぶことの方が様々な経験ができる」みたいな、あたかも子供のためを思っているかのような美辞麗句で誤魔化すが、大体はこのどれかに当てはまる。
そもそも、普通の公立校に通うことが本当に障害のある子供のためになっているのだろうか?中には他の子とお互い刺激しあって力を伸ばす子もいるだろうが、ごくごく一握りだと思う。大半は勉強についていけず、お客さん状態(授業中、発言もできずただ終わりまでぼーっと座ってるだけ)になっているのが関の山だ。仮に学習についていけているとしたら、先生や学校の大変な努力と配慮の末に辛うじて成り立っているものだろうし、おそらく長くは続かず、学年が上がり内容が難しくなっていくごとに真綿で首を絞められるが如く状況は厳しくなっていく。
そもそも、そのように学習に大変な配慮を必要とする子が学級にいることで、先生の負担は遥かに増す。私学ならともかく、公立校の教員に「一部の子は見捨ててでも授業の進度を優先する」という選択肢はないに等しい。つまり、理解に困難を抱える子供への授業作りが主となってしまい、授業内で応用的な内容、ハイレベルな適用問題などに取り組むことが難しくなる。また、授業は普通に進めるが、その分ついて来れなかったところは放課後につきっきりで学習するという手もなくはないが、それをするということで先生の負担が増えているというのは火を見るより明らか。そして先生の負担が増えると困るのは誰か、皺寄せが行くのは誰か。その学級の子供である。無理矢理普通級に障害のある子供を入れることにより、巡り巡って自分たちの首を絞めている。自分だけならまだいいが、影響は大なり小なりそのクラスの子供全員に及ぶ。
障害のある子が特別支援学校や特別支援学級に入るプロセスのことを「就学相談」や「就学指導」などといった呼び方をする。
おおまかなプロセスとしては
①幼児期からの発達の様子を見て、幼稚園や保育園などから声がかかる、あるいは小学校入学前にある就学時検診における知能検査などの結果を見て、もしくは小学校、中学校在学中に随時学校や教育委員会から就学指導を薦められる。
③発達検査の結果から、教育委員会の人などがその子にあった判定を下す。
④次年度以降、③で出た判定の進路へ進む。
といった流れである。だが、保護者はこのプロセス中いつでもキャンセルができる。保護者が嫌がれば就学指導は中止され、自動的に普通の公立校、普通の学級に行くことになる。また、③で特別支援学校判定が出たとしても「普通の公立校の支援学級ならギリ許すけど特別支援学校はお断り」みたいなパターンもある。というかこのパターンは割とよくある。(普通の学校の支援学級在籍者のうち、体感1〜2割はそれ)
ここで曲者なのは「保護者の意向次第でいつでもやめられる」ということ。冒頭で示したように、自分の子が障害があると認めたくない人や偏見を持っている人は、そもそも就学指導の話を持ちかけられた時点でブチギレる。プロセスの途中でも、他所から変な知識を入れ知恵されて突然やめたりする。そうなるともうお手上げである。冒頭の黒ポチ3つめのパターンも厄介といえば厄介だが、子供のヤバさに気づいてくれたら考え直してくれることがよくある気がする。(まあ気づくまでに何年もかかって、結果勉強の理解は同学年の子より遥かに遅れて取り返しがつかなくなっている事が多いのだが。)
もう一度問うが、無理矢理普通の学校、普通の学級に行かせることが子供のためになっているのだろうか?
就学指導で「貴方の子は特別支援学校判定です」と言われたということは「お前の子はバカなガイジなんだ」と言われてるように捉えるかもしれないが、そうではない。その子は特別支援学校で学ぶことが合っているというだけの話である。それによって何ら人格が貶められることはないし、就学相談に携わる人間は誰もそんなこと思ってない。
環境の面でも大きな違いがある。小学校ではクラスの定員は35人だが、支援学級なら8人、支援学校なら6人である。ちょっと考える頭があれば、これだけで雲泥の差とわかるだろう。さらに、支援学校は担任が2名になる場合もある。また、学校の設備面でも、当然普通学校と比べ遥かに充実している。教員免許も特別支援学校用の免許のため、専門的な知識を身につけた教員ばかりなのである。(当たり前だが、普通の小学校には小学校教員の免許しかない人だって当然いるのだ。)どちらで学ぶことが、子供本人のためになるだろうか、子供本人の成長につながるだろうか。
更に言えば、障害のある子供の将来に関してもやはり特別支援学校にはアドバンテージがある。特別支援学校では「作業学習」という時間があり、職業訓練のような事もする。また、特別支援学校であれば、障害のある人でも就職し給料を稼ぐことのできる職場とのコネクションもある。普通校では作業学習の時間はないし、就職支援でだって特別支援学校の専門性には敵わないだろう。
長くツラツラと書いてしまったが、世の保護者に言いたい。自分の子に障害があり、特別支援学校や特別支援学級で学ぶことを薦められたら、どうかその通りにしてあげてほしい。教育や発達に関してある程度知見を持った人が何人も集まってそういった判断を下しているので、それを無視して無理矢理普通のクラスで学ばせることは、本当に子供のためにならない。親のエゴでしかない。親のエゴで普通学級に入り、理解が難しい授業を一日6時間聞き続ける生活を何年も強要しないでやってほしい。その結果(必ずしもこうなるというわけではないが、一例として)小5小6や中学生になっても九九の3の段も言えなかったり、小3になってもひらがなの50音が読めないような子を生み出さないでやってほしい。その子たちは、その子たちにあった環境で勉強していれば、もっと伸びることができたかもしれないのだ。
親のエゴで普通の学校に通わされ、勉強が十分身に付かず年だけくって卒業していく子供のこれからの人生における苦労を考えると、気の毒としか言いようがない。