これがちょーめんどい。
1ページ追加するだけで、合計半日くらい使ってる、、、
Webサイト・ホームページの更新代行&保守サービス厳選10社(月額料金・相場比較)
http://matome.naver.jp/odai/2144201593401792701
こんなまとめ見つけたけど、社内で稟議通るかな、、、
自分がメイン業務を本気でやれたらこれくらいぜんぜん稼ぐと思うけど。
そんな愚痴でした。
ニュースを見ながら
都会出身民「ノーベル賞の大村智さんはもともと高卒で実家の農家を継ぐ予定だったんだって~苦労ある家庭だったんだね~」
ぼく「苦労するような貧農なら当時高校にも行けないし、あっさり大学行くのを許してる親なんだから地主レベルの裕福な豪農の家だったんでしょ」
なんて会話が昨日あった
刀剣乱舞というゲームに出てくるキャラクターのセリフのようだ。
ゲームの名前は聞いたことあるが、こんな妙ちきりんな言葉遣いをする人間が顔になるとは、よほど偏差値低い腐女子にウケてるんだろうなあ。
たとえば血界戦線1話とかGANGSTAを1話で切りましたって言う人がいる。
導入が魅力的でないとか、自分に合わなかったから観ないのは全然構わないんだけど、
アニメ切りました報告する人たちっていちいちそのきったことに理由をつけちゃうんですよね。
で、たいした理由でもな鬼にこういう理由で切りましたって言ってしまった手前そのポジション固まっちゃうわけ。
ただ見ないようにしただけなのに、そこにいちいち意味をつけちゃってそれに自分で縛られる。
特に、その切った宣言をしたアニメが後から評判良くなると、ますますムキになって
いや僕の判断はこういうことだから見なくてもおかしくないんです、ってポーズを取るようになる。
そういうのを繰り返していくうちにどんどん自分には合わないアニメってのを増やしていくのね。
たまたまその時気分じゃなかったとか、こういう要素がちょっと肌に合わなかっただけ、みたいなことをわざわざ大げさに言って、
それに変な固執を見せちゃうから、もうどんどん作品がダメっていう回数が増えてくるのね。
本人の頭のなかでは、自分なりのこだわりを語ってるつもりなんだろうけどいくら否定する要素語ってもこだわりなんて生まれるとは限らない。
そんな感じで、結局あれこれアレルギーばっかりふやしてめんどくさい語りしかできなくなるようになるので今は良くてもそいつはだんだんつまらないアニメ語りしかできなくなる。
ああいう何もない所を開発して作ったニュータウンって、風通し悪そうだよなあ…
住人固定されてて入れ替わりとか殆どなさそうだし。
子供も小学校どころか幼稚園からずっと同じメンバーで中学まで上がるんだろうし。転入生とか滅多にいないんだろうし。
この件も学校名公表なんてしなくても地域住民にはとっくにどこの誰かばれてるんだろうし、
遺族は噂の的だろうし、だからと言って今更家を売って引っ越すのも難しいんだろうし。
献花台の件も遺族は公表拒否してたのに献花台が設置されたと聞いてお参りしてたけど、
あれも近所の「あそこの息子の為に設置されたものなのにお参りもしないなんて非常識」みたいな声に耐え兼ねて、って感じなんだろうな。
言ってることは正しいんだろうけどクズだなw何様だよw
世の中の全てのものは自分も含め、自分の思い通りにはならない。というこの信念は私を裏切らない。
増田の言う裏切るって「味方が敵になる」とかじゃなくて、「相手が自分の思った通りにならなかった、思った通りに動いてくれなかった」と思い込む状態の事だと思う。そんな人は居ないと早く気がつくといい。全ての人間が、自分自身の行動でさえ思い通りにならないのに、他人がそうなるはずもない。
「名ばかり彼女、実質セフレだった」悲劇がアラサー女子に起きている
http://toianna.hatenablog.com/entry/2015/10/05/190000
この話題。「名ばかり彼女」だけを見て、「あー、いるよね、そういう女」と思ったのだけれど、中身を見て違和感が残った。
端的に言うと、「名ばかり彼女」という言葉の使い方が間違っているのだ。
このブログでは彼氏が合コンに行ったり、他の女とデートしたりしている女性のことを「名ばかり彼女」と言っている。これは違う。こういうのは世間では「キープ女」と言う。なので、この記事では以後、こういう女をキープ女と書く。
そして、ブログを読んでいて「あー、女が書く文章だな」と思ったのだが、セフレに関する感覚が、男から見て大きく違う。
キープ女とは本命にするにはイマイチだけど、「彼女がいない状態」にはなりたくないので、一応のキープとして置いておく女のことである。これはいわば二軍とも言えるもので、セフレですらない。
セフレというのはセックスに特化した存在で、性欲を発散させたいときに連絡を取る女のことだ。「彼女にはできないけれど、性欲の対象としては良いよね」というような女のことで、例えば趣味は合わないから付き合いのはちょっと・・・だけど即尺してくれるのが良いよね、というようなもの。
だから、セックスがしたいなーというときに連絡を取るのはセフレであって、キープ女ではない。キープ女と連絡を取るのは本当に何も予定がなくて、とりあえず女が横にいてほしいときである。つまり、キープ女はセフレ以下の存在であって、本命の彼女でもないしセフレでもない。序列にすると「本命の彼女>セフレ>キープ女」なので、そこを勘違いしないでいただきたい。
キープ女に甘んじている女性は、まずセフレに昇格することを狙ってみてはどうか。身体だけでもいいから男に求められるようになると、承認欲求が満たされて機嫌よくなると思いますよ。
少なくとも数十冊は刷るだろうから、ガチな(本名住所を知っているくらいの)知り合いだけじゃないだろうし
タダで配る訳でもないだろうし
「知り合い(=Webで交流ある人、程度の付き合いの人)のうち欲しい人に実費送料負担で頒布します」くらいの内容だったんじゃないの
悪口だらけの友達と、離れたい。
会えば毎回、誰かの悪口。
知ってる人の悪口でもうんざりするが
だから、付き合いの回数を減らして、フェードアウトを狙っている。
毎週誘ってくる。
だから、あえて遊びたがらない月曜から水曜日までを空いていることにして
他は全部先約があることにする。
昨日、めずらしく月曜なのに会おうと行ってきたので、会う。
そこで言われた話が
「よくわかんないけどいきなり友達に音信不通になられた。失礼だよねー若い子って。ほんと怖いわー。
増田ちゃんは、いきなりいなくならないでね。なんかあったら文句言ってや」
逃げたい。
ケンカをしている罵声を聞きながら、我が家に借金の額がいくら残っていて、父親と母親の収入がそれぞれいくらを、幼いながらに知ってしまった。
旅行など行ったこともなかった。
奨学金で大学へ行ったが、家の借金の返済ができず、諸々あって私が肩代わりすることとなり、中退した。
夜の世界に足を踏み入れたこともあったが、どうにも向いてないらしく3回クビになったところであきらめた。
語弊があると嫌なので補足させてもらうが、コミュニケーション力が低いわけではない。
そんな私に、ある転機が訪れる。
そこで出会ったAさんは、それなりの成績を残している、稼ぎ頭のひとりだった。
自己愛が強すぎるのだ。仕事となれば、口八丁手八丁でうまく相手を丸め込めるが、プライベートとなると誠実さの欠片もない人間だった。
自分が一番正しく、自分が一番仕事のできる人間だと、信じて疑わなかった。
不思議なことに、この自身満々な態度は、ときおりビジネスにおいて良い作用をもたらすことがある。
めんどくさい人だな、と思いつつ、そつなくAさんに接していたら、どうやら気に入られたらしい。
派遣の期間を終了した後も、食事に誘われ、デートを重ね、交際が始まった。
Aさんのことはこれっぽっちも好きではなかった。
ただ、Aさんの背景にある札束に、私はどうしようもなく惹かれたのだった。
数年の交際を経て、Aさんにプロポーズされた。
Aさんが交際中に5回浮気していたのを知っていた。朝帰りをした日に、女物の香水が香っていたことも、咎める気はなかった。
お金さえあれば、子どもにお金が原因で揉める姿を見せなくて済む。
お金さえあれば、両親とも縁が切れる。
お金さえあれば、子供のころに夢見た真っ白なビーチを目の前で観られる。
お金だけがある生活をしているいま、何不自由なく生活を送れているいま、どうしようもなく、幸せを感じてしまうのだ。
アメリカ人は、宗教を捨てて、宗教の代わりとなる絶対的な存在として「愛」を置いた結果、苦しんでいると聞いたことがある。生身の人間に、キリストのように完璧で無償の愛を期待するのは間違っているからね。
「著者近影がない」というパターンも含めるべきでは?
本発表ではライトノベルの著者近影を一〇〇〇枚以上取集した調査の結果を報告すると共に、その変遷の意味を論じる。
著者近影は読者に対し著者をいかに提示するのか、という点において大きな役割を果たしている。
我々は漱石や太宰といった作家達の顔を簡単に思い浮かべることが出来る。
著者近影は近代文学においては作家主義を補強する機能を果たしてきた。
しかし、ライトノベルの著者近影は現在、近代文学のそれとはかけ離れたものとなっている。
その変遷には作品と作家、読者との関係がいかに変化していったのかが表れている。
収集したサンプルは以下の通りに分類した。
1、顔が鮮明に映っている。
4、イラストを使用している。
これらを年代順に並べることによりライトノベルの著者近影がどのような変遷を辿ってきたかが明らかになる。
一九九二年以前は、ライトノベルの著者近影も近代文学と同じように著者の顔をはっきりと映していた。
けれど、一九九三年、神坂一が著者近影にイラストを使用したのを一つの契機として、同様の例が増え始める。
その後、二〇〇〇年に時雨沢恵一がモノの写真を使用したことから、身近なモノの写真が著者近影に使用されるようになる。
現在ではライトノベルの著者近影はイラストかモノの写真にほぼ大別される。
メディア論の重要な批評家であるヴァルター・ベンヤミンは肖像写真と接する時、人々は唯一性、一回性ばかりに注目してしまうと論じている。
近代文学はそのような写真の力に依拠し、著者近影によって作家性を強調していた。
しかし、ライトノベルの著者近影はイラスト、あるいは身近なモノの写真へと移り変わった。