はてなキーワード: コントとは
もう10年かそこらくらい、ラーメンズや、小林賢太郎単独の舞台や作品を見ている。
この間も最新作の「うるう」(小林賢太郎の演劇作品、KKPに分類されている)を観てきた。
もちろん、彼らしい、素晴らしい作品だった。彼が38歳のおじさんに片足突っ込んでいる年齢とは思えないくらいの体力を舞台から感じられて、ファンとしてすごく嬉しかった。
でも、思うところがある。
ここのところ、小林さん、新しいことやってない気がする。
Potsunen、小林賢太郎テレビは同じ仕組を使って新しい話を繰り出してることが多い。(もしかしたら目立つので多いと感じるのかもしれない)
うるうもそう。まだ東京公演と大阪公演が残ってるはずだから、ネタバレは避けるけど、僕はこの舞台の随所に散りばめられた「笑い」は彼が「創りだした」「過去の手法」を使ってる部分が多かったと感じた。
僕はもうそろそろ小林賢太郎がつくりだした「新しい」「表現方法」を使った「笑い」を見たい。
そして、うるうを観て、小林賢太郎は、自分で自分自身を収束させようとしているのかなと感じた。
過去自分が創りだした手法を用いて表現し、客席を笑わせる彼を観て、自分も声を上げて笑いながら、ふと、そう思った。
僕の杞憂かもしれないけれど。
いうなれば、ロックバンドの解散前みたいな感じだ。ライブで昔の曲をやり、昔からのファンはしみじみする。解散ライブではそのバンドの集大成、総集編みたいなセットリストで〆る。
ラーメンズ本公演が何年もやらないのは、ファンとしては当たり前のことだ。いつまでもゆっくり待ち続ける。
上に書いたことは僕の思い過ごしであればいい。切に願う。
ちなみに、僕は「男女の気持ち」が一番好きなコントです。
THE MANZAI って4時間くらいあったけど漫才部分だけ見たら単純に半分で済む量。とはいえ2時間で無駄なくやったら尺足らずだし、それはまあ説明部分もあるからよしとしよう。でもなげーよ。
他にももう、終わったな、と思わせる演出が多数あったが、とにかくキビキビとやってないんだよ。キビキビと。ダラダラしてる。
→参加意識を煽っているけれど、笑うたびにボタンを押すということは漫才の面白さに集中できない。仕様ミス。先にアプリを落として一斉に送信させるというのも、問題がある印象。フジの企画に問題がある。
ワラテンのグラフと一緒に、同じ番組内で同じ漫才を再鑑賞するのは、前半見ていなかった人向けのサービスのつもりだろうが、間延びしてしまいおかしい。参考にはなるが、「ほお」で終わり。ビデオなら絶対飛ばすところ。
問題2 慢心した優勝特典
フジテレビレギュラー番組、漫才師だが漫才の番組が貰えるわけではない。漫才の番組が貰えるのなら嬉しいだろうが、単なるトークタレントとしての役回りが回ってくるのであれば矛盾しすぎている。副賞の各番組ゲスト、っていうのも結局はトークで呼ばれるのが半分以上だから名前を売る以上の意味が無い。まったく売れなかった若い人ならそれが価値を増すが、パンクブーブーではドラマを作れない。
結局は予算削減策でしかなく、フジも落ちる所まで落ちているとしかいいようがない。またフジは自分の価値を高く見い出しすぎ。
ただ控えめに協賛した、日清のどん兵衛はいいと思う。あんな数(10年分)本人が食べたら確実に身体を壊すけど、楽屋において後輩にあげる分には後輩が何年も食に困らないからね。
問題3 無駄な演出
フジの番組全般に生でやるとダラダラとした無駄な部分+小難しい説明だらけである。進行押しの間の時間調節なら、わかるのだが、入場演出で無駄にリムジンとか入れて、オープニングから30分以上漫才が始まらないってどういうことだよ。ワラテンの説明も長い、フジのサイトにこさせるための小細工とはいえ。投票トラブルを避ける意味では完璧な説明であったが、視聴者にはまったく無駄でチャンネルを変えさせるレベルの話。あんなの事前に別番組で説明して分散ダウンロードさせるとか、Dボタン側に逃がして文字で済ますとかできるだろ! 俺は一斉送信でサーバが落ちないかのほうが気になったよ。
あと、有名人を客席に散らせ「これくらい入れておけば受けるだろう」的な考え。
バブル期に入った人が作ってるんだと思うが、視聴者は漫才が見たいんだよ。モデルの顔が見たいんじゃねえんだよ。制作者側がバカにするのも大概にしろ。有名人を呼ぶならコメントを全員取れよ。メイクまで入れて客席で笑うだけで、ノーコメでギャラ貰って帰る奴を許すほど度量はこっちにはねえよ。
問題4 THE MANZAIの本来的な部分を踏襲していない点
初代のTHE MANZAIは元々洗練されてない舞台漫才をショー化するものであった。横澤さんが死んでいるとはいえ、当時のTHE MANZAIに敬意をはらっているのは西川さん位じゃないか…。2011年版としての進化がアレなのかもしれないし、余計なものを入れずに「4分見せている」ということは評価できるとはいえ、余計なものばかりつっこんでいる部分は「製作者側が漫才の力を信じていない」というようにしか取れないんだよ。
笑えるものを評価しよう、という意味合いでは、この矛盾があるものをあえて入れるという意味で審査は厳正であったのだろうが、全体には今回はコントっぽい物が多かった。コントであろうと面白いものを評価する、というのは正しいが漫才としてちゃんと漫才な作品をもっと増やさないと絶対的にダメだし、これも制作側がコントのほうが面白いと思っている証拠としか思えない。
あとたけしの茶番ダブルブッキング演出は不要。(いい訳としてはわかるが、別に漫才師がつっこみでいった通りOPが長くなければ全部の漫才を見れるわけだし、あとハラハラしないものを入れてどうするのかというか、単にたけしがTBSに入るまで、という尺を稼いだだけでしかない)
生で見なくてよかった。
また、15年くらい不遇な人たちが多かったので、それに光が当たるのはとてもよいことなのだが、雇用されない関係のため数百円のギャラからのスタートでも文句を言わず、売れないまま10年以上のキャリアが必要とされる日本では、漫才師として暮らしていくことが非常に難しいということがよくわかる。
皆主な仕事を漫才にして女の人に扶養してもらったりしているようだが、本来的な収入はある状態で、漫才は副業でやるのが適正だと思った。言ったらハングリーさがないといわれそうだが、べつに先輩たちが作ったストーリーに乗る必要ないだろ。黙ってればいいのだ。
自分のために生きるというと誰だって自分を一番大切にしてるし自分のために生きてると反論してくる人がいる。
しかし、自分のために生きるというのはそんなに簡単なことではない。
自分のために生きるというのは、自分が幸福になれる行動を常にするということだ。
たとえば、お金を稼ぐために嫌な仕事をやる。これは自分のために生きていることにはならない。休日に自分の趣味を楽しんでるといっても、それはその日だけ自分のために生きているということにしかならない。
たとえば、両親の介護のために自分のやりたいことを我慢する、これも自分のために生きていることにはならない。
じゃあ自分のために生きるには他人をないがしろにしなきゃいけないのか、他人の幸せを踏みにじってまで自分のやりたいことをやるのが自分のために生きることなのか、という人がいるだろう。
そうではない。
自分のために生きるからといって、他人を不幸にして良いことにはならない。他人を不幸にしないというのは、自分のために生きていれば自然に達成されることだからだ。
他人を利用して自分が利益を得られるように行動している人を「自分のために生きている人」と言うのは間違いである。彼は自分のために生きてはいない。
他人を不幸にすれば、そこには必ず・どんな人間であっても「痛み」を感じるからだ。その痛みを感じないようにどんなに訓練しても意味が無い。もし訓練の結果、他人の痛みを感じなくなったとしよう。すると今度は自分の幸せを感じることが出来なくなってしまう。他人の痛みを感じることは、人間が人間らしく生きる第一条件だからだ。
他人を利用してまで自分の利益を得ようとする人は、そこに発生する他者の痛みを無意識に押し込めているだけでしっかりと感じている。自らが痛みを感じることをする人を「自分のために生きている」といえないのは明白だ。
自分のために生きるとは、自分も他人も全ての人が幸せになれるように生きることである。
両親の介護のためにやりたいことを我慢しなきゃいけない、ともし感じているのなら、それはその人のやりたいことというのを優先するためならば誰かを不幸にしてもいいと思っていることだ。
結局のところこれは考え方を変えるということに尽きる。両親の介護という新しい生活を楽しめば、「我慢」は必要なくなる。それに、全く自由な時間がとれないわけでもない。
自分を痛めつけないことも、自分のために生きるためには重要なことだ。
やりたくないことをやる、誰かの言うことに盲目的に従う、そういったことはストレスや病気に繋がり、自分が自分の人生を生ききれていないことを教えてくれる。
他者のためを思ってやることというのも、一見すると善意に見えるが、その背後にあるのは自分の善意で相手をコントロールしようとする「エゴ」である。
また、他者に何かを期待するのも、他者をコントール、自らの支配下に置こうとする姿勢である。
他者ではなく自分が何をやりたいのか、それを明確にするのが第一だ。そして、他者が求めていることに応えるのが第二。
他者に奉仕することは自らを奴隷とすることではないかという反論もあるだろう。しかし、それも考え方の問題である。
そもそも他者とは鏡に映った自分である。他者に奉仕するとは自分に奉仕するということ、自分に奉仕するということは自分を癒すということ。
全ては自分のために生きるためだ。奴隷と言う発想は他者を「自分に危害を加える存在」としか見ていないから生まれてくる。
自分であるところの他者についてそう思うということは、自分を信頼していない、自分への不信に繋がる。だから、他者を信頼できない人は外的なパワーを求める。代表格は金だ。
これね。
現代アートはあれだけぶったたかれて、原作改変パロ系コラージュ作品が受け入れられる理屈が全然分からないから誰か教えて。
原作へのリスペクトはなく、アフィブログに転載された時点で両者は「金稼ぎに使われた悪意のコラージュ」という点で極めて同一の存在になっているはず。
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http://anond.hatelabo.jp/20110813025538は要するに「現代アートが美術作品として格式ある評価を得ることが気に食わない」ということか。
Bクラス女子のジャンクな曲が「国民的アイドルソングと呼ばれることが許せない」っていうアンチAKBに近い考え方で合ってるだろうか。
「俺が評価したくないものが、他人に美術作品として(あるいは国民的アイドルソングとして)評価されてるのが許せない」っていうのは浅ましくて穢れた考え方だなーとしか思わないなぁ。
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http://anond.hatelabo.jp/20110813025958の考え方だと明らかにミクやこなたが素材になっていると、パロディ元が分かる現代アートならば許せるってこと?
多分君は許す気ないと思うからそんな理由で怒ってるんじゃないと思うよ。
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id:qadapの考え方だと現代アートや美味しんぼコラの改変の手法それ自体は問題なくて、芸術家の露出に対する嫌悪感がある、ということなのか。
手法自体を叩いている人が多いから的外れだと思うし、なぜ芸術家が嫌われるのかまでの説明がないと理解できないな。
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id:tyokorataの理屈というのは例えば社会的に見ればいじめ行為も、コントであればお笑いとして許容される、というような理屈か。
現代アートと美味しんぼコラは共に社会的には犯罪であるけれど、元ネタが誰もが理解できるもので、笑いが取れているから許されていると。
許すかどうかを決めるのは「大衆」かな。もし大衆がマンガや同人誌踏み付けで笑えるなら、踏みつけアートも許していいということ?仮定の話をしてもしょうがないか。
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id:temtexはアートの権威なの?やるべきこともやらないなら叩く、ってのは既にそれなりの実績を持った人間がいうならかっこいいけど素人が言ってもなぁ。
ただオリジナリティへの回帰の流れは来ると思うけど、もはやアナログの絵画はCGには勝てず、CGに芸術らしさを宿すことができるかどうかが課題だろうね。
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http://anond.hatelabo.jp/20110813100051は大して叩かれてないからそう思うわけで。みんなアフィブログ見て、おかげで彼らは推定月収100万近く稼いでるわけで。
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http://anond.hatelabo.jp/20110813110155が今のところ一番納得できた意見。
美味しんぼはそこまで好きじゃないけどああいうコラはまず嫌悪感がくる。でもそういう人間が少数なら絶賛され、多数なら糾弾されると。
とするとそれは物の価値や論理や倫理ではなく、声の大きさが評価を決める、衆愚社会そのものだとも思うんだけどね。
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http://anond.hatelabo.jp/20110813141721、おぉこわいこわい。ミスってたよ。
本当に多数から叩かれたものは誰も見なくなって廃れる。アフィブログはうるさい少数派が叩いている一方で、物言わない多数派がアクセス源になっているから成立していると思うけど。
「多数派もきっと叩きながらアフィブログを見ているんだ」と考えているならそれは見解の相違だね。ゲハブログの一部を除けば現代アートほどアフィブログが嫌悪されている印象はないんだよ。
*
id:leveleとid:ululunの考え方は「ふたば(や2chやアフィブログ)はオレ達」で、アート界隈の人間は「オレ達じゃない」という文化の壁から、利用されたという敵意が生まれたという考え方で納得できる。
「オレ達」という曖昧ながら強固な連帯意識、文化意識がどこから生まれて何を拠り所にしているんだろう。そしてなにのためにあるんだろう。
*
現代アートに「オレ達」がブチぎれたように、美味しんぼの原作者は一連のコラ群にブチ切れてるかもしれない。(あまりネットが好きな作者じゃなかったから快く思っていないだろう)
またアフィブログは金稼ぎのために話題のネタを集めているだけかもしれないし、「オレ達」という保証はどこにもないわけで。
だから現代アートは「オレ達じゃない」から怒るが、美味しんぼコラをアフィブログに載せるのは「オレ達」だから許せるってのは、何を根拠にそう考えているのか理解できなくて、すごく違和感がある。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813145112。しっかりしたレスポンスを頂いてしまうと申し訳なく思えてくる。ありがとうございます。
「財産」に対する所有意識の根拠、が一番謎なのかもしれない。上手く説明する方法はないのかもしれない。
*
id:vidの、現代アートは「オレのもの」が可視化されているために敵意が生まれ、コラは「誰のものでもない」ように見えるために受け入れられるというのは一理ある。
でもそれは傍観者の主観でしかなくて、製作者にしてみれば匿名の人間に弄り回されていたら、「オレのもの」が勝手に「誰かのもの」にされたと考えて敵意が生まれるんじゃないかな?
コピーライトの有無は「オレのもの」にされたという事実自体は変えないと思う。
けれど一定のネットの不文律を守れば、「誰のものでもない」と錯覚されて、大多数の空気に許容される、ということか。
*
「オレのものだと主張する」「金稼ぎに利用する」を両方満たすとネットの多数派の怒りが爆発する、というのは現象から逆算するとかなり正解に近いようで、決定的な何かが欠けているという感じ。
*
いくつかまとめて。
id:himajin774 心理的に直接金銭のやり取りがあるか、というのが重要なのはわかる。
ではアフィブログが金稼ぎの為に無断転載を繰り返して運営している、と踏まえた上でコラを見たら評価が変わるか?というと恐らく変わらないと思うので、そこは本質ではないと思う。
他のポイントと総合して、怒りを感じる閾値を超えた、ということは考えられるけど。
id:md2tak も同様で作成者と販売者が別だったら、水濡れアートや踏み付けアートを許せたか?というとそんなことはないと思うので、そこは本質ではないと思う。
金稼ぎまでしていなければ、水濡れアートや踏み付けアートを展示するだけだったら、怒りは爆発しなかったのかもしれない、という可能性はあるかも。
id:lefu はあえて書いていないけど、コラ画像作成の場となっているふたばが広告収入を得ているという視点が抜けている。「アフィブログ」の方が設定としてわかりやすいから省いただけで、最初から金稼ぎの道具になっていると思う。
「広告収入」が金稼ぎの手段として認知されているのは、アフィブログに対してよい感情が抱かれていないことから自明だと思うけど、もちろん「直接商品を販売していないからOK」という人も一定数いるんだろう。
id:guldeen のような指摘のために、両者の労力がほぼ変わらないコラージュで、また原作へのリスペクトが感じられない題材を選んでみたんだけど、それでも両者に違いを感じる、ということだろうか。
*
本題と関係ない部分。
id:nagaichi 「カオスラウンジ、カオスラと呼ぶやつは擁護か身内、カスラジ、カスウジと呼ばないやつは敵だ」みたいな面倒臭い考え方の人がいるから敢えてボカしたけど、結局認定ラッシュ食らったから意味がなかった。
「カオスラウンジはネットの総意として敵であり、叩かない人間は擁護工作だから黙らせろ」と考えてしまう人は、いちいち突っかかってこなくていいからお互いに不干渉でいましょう。
一部の人は知っているが、ほとんどの人が知らない、お笑い界で行われている継続的な実験について、書いてみようと思う。
お笑い界というのは、そのまんまの意味で、「お笑い芸人などが中心の芸能界の一つ」である。吉本興業とかが中心のあれである。
そこで行われていた、ある実験について語ってみようと思う。その実験とは、至極簡単で
である。
この話は、別にタブーではない。なのにも関わらず、さほど語られない理由は、ただ一つ、実験の結果がでていないから、としかいいようがない。
それでも複数回の実験をしたことで、結果の傾向はでていると私は思っている。お笑い界の内部にいる人間が語ることはできない。しかし、私のような人間が語ることで、何かの知識の共有になればと思い、筆を取った。
「お笑いのスターとは何か?」という問いに対しては、業界的な答えはない。お笑い関係者は、それぞれの個人的な意見を持っているが、どれが正しいかの答えはもちろんない。議論は交わされるが、それも酒の肴以上の価値はなく、個々人が正しいと思うことを思っているだけである。
私の個人的な定義としては、「あらゆる道具を使って笑いを生み出すのがうまい」がお笑いのスターの定義だ。
お笑い芸人には二通りの人間がいる。一つは「お笑いの道具になる」人間で、もう一つは「他のお笑い芸人も道具として笑いを生み出せる」人間だ。
たとえば、一発屋と呼ばれるような芸人は前者だ。爆発的な笑いを生み出すことができるが、しかしそれは道具としての価値なのだ。道具は浪費され消費され摩耗される。要は自分を切り売りして笑いをとっているのだ。最終的には自分という財産がなくなって、芸人として生きていけなくなる。
後者はダウンタウンやくりぃむしちゅー、爆笑問題などがそうだ。他の芸人をいじったり、司会をやったりして、笑いを生み出すことができる。もちろん、自分自身を道具として笑いを生み出すこともできる。映画やコントを作ることもある。要は周りの道具をうまく使えるプロデューサー的な立ち位置になれるタイプのことだ。
このタイプは一握りだ。しかしその一握りの立ち位置になることができれば、かなり芸人としての息は長くなる。それがスターと呼ばれる芸人たちなのだ。
そこで、スターは作れるのか?という話に戻る。うまく道具を使えることができれば、スターになれるのだ。
しかし、うまく道具を使えるようになる、というのは実はコストがかなりかかってしまう。簡単に言うと、「道具を使える」という立場になるまでは、自分を切り売りしながら笑いを生み出し、自分の価値をあげていき、司会などの仕事をとることで、道具を使える立場をとらないといけない。
つまり、道具を使えるようになるまでのステップはかなり険しいため、事務所にとってはコストの高い投資になってしまっていたのだ。
そして、なんとかショートカットをすることができないかという実験が行われる。オリエンタルラジオだ。
以下のサイトが非常によくまとまっているので必見だ。一部だけ引用してみる。
中田「僕の中での整理の仕方なんですけど、吉本興業の中での実験だったんじゃないかと思うんですよね。‥テクニックもキャリアもなくてもそれで成立するんだったらビジネスモデルとしては正解じゃないですか。コストがかかってなくてパフォーマンス得れるんですからそれが成立したらそれをどんどんやっていくつもりだったと思うんです。」
http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/20101123#p1
オリエンタルラジオ中田は頭がいい。実験の中身を見抜いていた。
実験とは、簡単に言うと、道具として使える技術的能力があれば、場さえ与えればその役割を果たせるのではないかというものだった。
オリエンタルラジオには才能があった。いまの活躍を見てもわかると思う。頭がよく、場を回せる才能があり、話術がある。つまり、技術はあった。しかし、不思議なことに、お笑いのキャリアがない人間はどうにもうまくいかないのだ。
これはなぜだろうか。答えはもちろんない。
私の個人的な意見では、いわゆる自分の中の「エネルギー」の量の問題だと思っている。
いわゆる芸の肥しという言葉がある。そういうものが大量に蓄積されていないと道具の使い方がワンパターンになってしまう。つまりは、内部に貯めた知見のようなものが大量にないといけないのではないか、という仮説だ。芸人として、いろいろなことをやり続けてエネルギーを貯めなければ、道具を使いこなすことができないのではないか。
もちろん、実験はこれで終わりではない。経験がすべてだという答えで終わらせるほどお笑い業界は甘い業界ではない。お笑い業界は常に進化し続けているのだ。これからは、どのように知見を効率良く試させるかの実験が行われていくだろう。
結局、関係のない第三国から見れば「くだらない事で何いがみあってるんだ?」と言う風になる。
よく、遠い国の内実や隣国との関係が悪化しているニュースなどを聞いても大して気にもとめないあの感じ。
気にしない人間は怠惰なのではなく、単に心が感じたように行動したに過ぎない。
国がなくなる?国がなくなったらどうだというんだろう。言葉が通じない?通じないなら学べばいい。
国家という問題について考えるとき、忘れてはならないのは「誰もその国に所属することを望んで産まれたわけではない」という点。
国というシステムは非常に古い歴史を持つが、しかし自然なものではない。人間が作り出した人工的な概念だ。つまり幻である。
なのに、そんな国というものについて過剰な期待、過剰な怒り、過剰な思い入れを持つのは自らの人生にとってマイナスになることはあってもプラスにはならないだろう。
人は本来自由なはずなのに、物語に過剰に入れ込んでしまうことで不自由になる。現実とは物語である。レイシズムも、ゲームにおける国家の争いがある意味では滑稽なように、たいしたことではない。
だから感情をあらわにしている人々に対して、小説の登場人物が叫んでいるシーンを当てはめてみればいい。彼らは幻であるところの物語(=現実)をまるで真実であるかのように思い込んでいる滑稽な人々に見えてくる。彼らを嗤っても意味はない。彼らに怒ることはもっと意味がない。フィクションのキャラクターをフィクションのキャラクターと明確に自覚しながら彼らを「説き伏せたり」彼らに「怒りをぶちまけたり」する人たちの行動はお笑いでしかない。そんなのは漫才師のコントでやればいいのである。
週末に行ってきたイベントだが、ちょっとインパクトが強すぎて、あとたぶん昼から通しで追っかけてるのは自分だけなので、この話誰かに伝えたい!と柄にもなく思ってしまった。
ここまで、日本語でウケを取り、アメリカ人にしか聞こえない英語をしゃべりつつの話。まじありえないレベルの覚悟と実践なんだが・・・!
この人のセッション、ブラジル事情の紹介みたいな話で大ホール側のセッションも覗いてみようかなと思っていた所にこれで、ただちに絶対参加すべきレベルのセッションに格上げされた。こんな人がいるとは。
で、昼休み後の問題のセッション。結局ツイートどころじゃなかったが、こんな感じ:
Javaはあれが酷いとかPHPがとかいう態度でRubyを使うのも無駄だ。
なんという激熱トーク。本当に小さかった南米のRubyコミュニティを仲間と共に成長させ、いまやRubyConf Brazilとか南米で何個もイベントが立ち上がるまでに育てた。この伝道のため、ここ数年で80箇所は回って普及に努めたとかとか。ブラジル事情への関心と関係なく、この熱量を体験できてよかった。
最後の時間オーバー後の「あと一言だけ(本当はあと1分だけと本人は言っていたのだが、わざと誤訳してタイマー役の人に会場から叫んだ自分w)」でどんなにダメだとされていても、諦めずに進めという、過去の偉人が貶められたり失意にあった時代の動画もよかった(もっとも、この話は知っていたのでインパクト自体は薄めだった)。
この後はLTとクロージング。
インパクト強すぎw
これ漫画系展開をバックボーンにしたエンタテイニングなスタイルだと理解せずに真に受けると大変だなと心配になったり。なにしろ上は三行だけど全部通しで書くと
真面目に受け取ったらヤバイ発言多すぎだろ・・・
こ れ が 締 め の 講 演 か よ !
そういえば途中にまどマギネタも入ってた記憶があるのだが、上のインパクトが強すぎてどこかに飛んでった。
その後の高橋さんの最後の挨拶とスタッフを集めてのスタンディングオベーションはちょっとうるっと来た。初参加だから今回の運営自体への思い入れはないのだけど、この回だけでも感激することが多かった。この完成度に達するまでどれだけの努力と熱意が投入されていたかと考えると。
隣の席が実はtdtdsさんでびびってたのだが、最初に立ち上がったのを見て、続く二人目のタイミングが大事!とすぱっと立ち上がってみてよかった。その後前列の人がみんな!立とうよ!みたいにやって一気に雪崩状態。
これで会議は閉幕したのだが、さらにherokuの緊急パーティーが開催され、思い切って行ってみた。まあ、懇親会に輪をかけたリア充な雰囲気でまともに話せなかったのだが、
こんな一日だった。熱かった・・・
虚構新聞は読者を意図的に騙し、釣ろうとしている。これは明らかだ。
タイトルに「虚構新聞」を入れていないし、「これは嘘ニュースです」を背景色にしつつ小さくしている。
釣られた人によってページビューを稼いでいる。
虚構新聞を知らない人や、リンクでタイトルを見た人を意識的に釣ろうとしている。
ゲンダイと何が違うんだ?
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7月13日朝に追記
申し訳ない。言葉不足だったようなので書き足す。
いまのところ、この記事についた批判として正しいのは id:kana-kana_ceo の「インターネット上でデマだとか、釣ったとか、騙されたとか言っても、実社会にはたいして影響が無いので、どうでもいいんじゃないか、と思ってます。」とか、「いいえ、あれは情報リテラシーの教育サイトです。」くらいだ。
例えば、ガキの使いのコントをコントだとわからない人たちがいる。だが、あの番組はそういったわからない人たちを釣ろうとしていない。そんな人たちは元から番組のターゲットではない。
自分もアンサイクロペディアに記事を書いたことがある。他愛もない記事だが、もしそれを本当だと誤解した人がいたなら謝りたい。
虚構新聞はそこを一歩踏み越えている。誤解を狙っているし、誤解を解消しようともしていない。だからデマサイトもしくは釣りサイトと呼ぶべきだ。この記事で自分が伝えたかったのはそこだ。
あと、こんなことを書くと変な反応をされるので書きたくなかったが、自分もおっさんなので滅多なことがない限り釣られないし、Twitterも使っていない。
構造的には原子力と火力や水力を比べた時、平均リスクで原子力の方が高いかっていうと結構微妙。
火力は大気汚染リスクがあるし燃料掘り出しや運搬のリスクも小さくない。水力は建てた時点でそこいら一帯は必ず破壊し尽されることになる。結局リスク無しで得られるエネルギーなんて無いのさ。去年起こったメキシコ湾の原油流出事故に比べたら福島なんてチンカスなんだぜ。
ただ「日本の」原子力が低リスクかっていうと微妙。だって30年間政治家が出鱈目吹聴して回ってたせいで安全対策がどの程度妥当なものなのか本音ベースで見積もれてないから。安全ということになっているので、一定以上の事故が起こった時のダメージコントロールが全く想定されていない。JCO事故の時に人が入れないような状態になったらやばいのでロボを開発しよう→人が入れないような事故は起こらないということにしたのでロボは破棄、みたいな信じがたいコントが起こるのが日本。で、いざということが起こったら手札ゼロ枚で対応を強いられた運の悪い責任者が切腹しておしまい。一番の原因作った奴が円満先送りしてしまえば責任取らなくていいルールなのでそりゃ無責任にもなる。
僕が欝になって早3年。
それまで割とまっとうな人生だったし、
チヤホヤもされてた。同期に比べて収入も、身分も良かったし、女の子にも(多分)モテたし。
そんな僕がある事件をきっかけにスッテンコロリンと人生の階段を転げ落ちている。アレだよ、階段が一気に滑り台になるコントみたいな感じ。
きっとこれもTLっぽく流れていってしまうんだろうなぁと思うとちょっと切ないけど、
これもひとつのボトルメールみたいになって、誰かに届くかも?という前向きな気持で書いてみます。
欝を含めた「こころの病気」って、罹った人以外は絶対に理解出来ないっていうのが僕の持論です。
例えば、先進国で毎日1ドル以下の生活をしている人を、一般的な日本人が想像できないのと一緒で。
マリー・アントワネットのような? ちょっと厨二的発想かもね。すんません。
んで、まぁ何が言いたいかっていうと、
誰も理解出来ないこの「病」を理解してもらうには、多分「死」しか無いと思うんですね。
つまり「死ねば」理解してもらえる、っていう、一種の希望が僕にはあって。
そりゃぁもう嬉しいに決まってるじゃないですか、人がどういう形にせよ、知ってもらえるんですよ!
一応!そんな苦しい気持ちを聞いてもらいたい!構って、構って!で2つの病院行きました。
ひとつは、初めに僕を「欝」と診断した医者。2年後にさじ投げましたね。
もうひとつはそれなりに良かったけど、高い。ネットでも結構有名なところです。
でも、もうやめました。治んないもん。
そうそう、昔、「いのちの電話」に3時間ぶっ続けでかけまくったけど、全部話し中で結局1度も繋がらなかったこともあったなー
あれ、絶対良くないよ。余計絶望するっちゅうに。
今の僕の希望は、
「可哀想」でも「辛かったんだね」でもなんでもいいです。
ただ、心残りなのが、やはり家族。
僕には子供がいないので、両親がどのような反応を示すかはあまり理解できないけど
大好きな映画、ナンニ・モレッティの「息子の部屋」みたいな感じで、しばらくは絶望するけど、それからなんとか生きていく、みたいな感じになりそうだな。
あれ?意外と大丈夫じゃね?
あ、これ遺書じゃないです。まだ死にませんから通報とかやめてね(はーと)
ただ、結構ガチでヤバイんで、まだ精神的に余裕がある今のうちに、ちょっとだけ吐露させていただきました。
じゃーな!
人の不幸を望みはしないし、本当に行くなら行動力は認めたいが、この人は本当に酷い。
http://twitter.com/hga02104 本人のツイート
http://twitter.com/hga02104/status/42981152293793793
チュニジア入りは6日、リビア突入は8日に決定。戦争取材より危険な予感。世界から名だたる戦争ジャーナリストがリビア国境に集まってきている模様だが、ユーゴ紛争や湾岸戦争やイラク戦争の比ではないと、みな口を揃えている。なにが北アフリカで起きているのか。好奇心に勝てない。
http://twitter.com/pkgken/status/43699722740969472
(エジプト側の国境は比較的フリーダムだが、チュニジア側、リビア西部のトリポリ等はカダフィ軍の最後の砦になっているので進入も厳しく、ジャーナリスト達は遠回りでも民衆が支配しているエジプト側から入国し前線地に向かうのだ。)
http://twitter.com/spearsden/status/43696245004443648
http://twitter.com/spearsden/status/43706971240660993
わかんないすね。西側は相当絞ってるみたいだし。入れてるとこあるんだろうか。
http://twitter.com/hga02104/status/43805396590272512
電子書籍をお買い求めになり、なおかつご注文書の末尾に「カダフィ紙幣希望」と書かれた方に、帰国後(死亡していなければ)必ずお送りします。絶対にお送りするために帰ってきます。 http://www.gfighter.com/ PDFとDVDを含みます。CDと紙の本は今回除外させてね。
http://twitter.com/hga02104/status/43804699257880576
【カダフィ大佐独裁者紙幣プレゼント】いわゆる「ジャスミン革命」が連鎖的に広がって、朝日新聞記者がフライング的にリビアに入っただけで、日本人はまだ誰も入っていません。私はリビアに入ればいいというものではないと思いつつ、カダフィ紙幣を絶対に持って帰ります。2800円以上サイトで……
「日本人はまだ誰も入っていません。」と爆弾発言。この時点で、各新聞社の記事やフリージャーナリストのツイートを見ても明確なように、日本人は何人も入っている。危険な現地からツイートし、写真をうpしている人もいる。
アフガンに取材に赴き、数ヶ月に渡り拘束されたことでも有名な常岡浩介氏もこの話題に反応。
http://wiredvision.jp/news/201009/2010090919.html 牢獄から私はまだ生きているとツイートしたあの事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E5%B2%A1%E6%B5%A9%E4%BB%8B wikipedia 常岡浩介
http://twitter.com/aran_p/status/43952347579301888
リビアやチュニジアに行くなら、情報収集は不可欠とは思いますが、twitterで北アフリカ関連の情報発信者のフォローもしてませんし、各日本メディアが現地入りしている事すら知らず『地球の歩き方』にジャスミン革命が載ってない等というレベルなのはあまりにも迂闊では?
もちろん『地球の歩き方』云々は冗談でしょうが、恐いというツィートとは真逆に真剣さが全く感じられません。英語もアラビア語も出来ないので情報収集は困難でしょうが、国内の新聞TVニュースでのリビア情勢ですらチェックしていない。それほどまでに対談の準備に逐われた?
http://twitter.com/spearsden/status/43968182846889984
http://bit.ly/e3yvg4 この人とか、浮かばれないよなあ。「日本人はリビアに入ってない」とか言われちゃさ
【カダフィ紙幣プレゼント】ローマ(で遊びたい)経由でチュニジア入り。翌日からリビア国境へ。無事帰れましたら、お土産にカダフィ大佐の肖像入り紙幣を必ず持ち帰りたいと思います。量に限りがあるはずですので、私のサイトから電子書籍2800円以上、 かつ末尾にカダフィ希望と書かれた方のみ!
電子書籍と書いても、紙の本をご注文の方や、ご注文時の末尾に「××希望」と書かれない方が必ずおられます。他の通常ご注文の方と区別が付きませんので、カダフィ大佐独裁者最後の紙幣をご希望の方は、末尾に「カダフィ紙幣希望」とお書きください。6桁の暗証番号ご登録済みの方はワンクリックです。
http://togetter.com/li/67286 日垣隆氏(@hga02104)「勝手にイラク行ってクビかww」→安田純平氏(@YASUDAjumpei)「休暇中に自費で行ったのだしクビじゃないですよ」
http://togetter.com/li/67494 日垣隆氏が安田純平氏と常岡浩介氏に吹っかけた捏造コント
http://togetter.com/li/89695 日垣隆氏と常岡浩介氏の「トムとジェリー」的日常
http://togetter.com/li/5282 日垣隆VS豊崎由美
http://togetter.com/li/53814 日垣隆氏、TBSラジオを糾弾するもブロックして逃亡!
http://togetter.com/li/51085 勝間和代VS日垣隆
http://togetter.com/li/24176 【口蹄疫】河野太郎に日垣隆が噛みついた!「あなたは他人の痰をよく飲むの?」
http://togetter.com/li/3819 嘘や詭弁、根拠のない攻撃を繰り返す日垣氏
他多数!
なんつーか「居たくない」空気を作る人がいた。今数えたら3人。
・人が話していると薄ら笑いを浮かべて「いっていい?」と言いながら寄って来て、自慢をかぶせる。
・酒の知識披露。
・料理への批判と普段何を食っているかと変わった味覚の持ち主である自慢と知ってる店自慢。
そのうちの2人がしゃべっているのは壮観だった。一歩も引かないね。被せる被せる。見てて面白いけど、できれば遠くから見たかった。
自慢話が好きな人ってほんとにいるのね。自分は人のそれを聞きたくないだろうに、人には聞かせたいのか。
あれ、ほんとに自分でわかってないのかな? ネタかキャラ作りか、コントの類じゃないのか。ほんとに3時間ずーっと自慢話をしてた。底なしだった。すごい。二度と行かない。
聞けば誰でも知ってるようなお嬢様大学の子と2対2で合コンしたんだけど持ってる一発芸が全然お嬢様じゃなかった
清水ミチコの声真似(かなり似てた)でAKB48の「会いたかった」を歌う芸を持っていた
しかも曲の合間合間で、清水ミチコが秋元康にあたしもAKBにいれてよと頼むミニコントまでセットになっている
秋元康役はもう一人の子が絶妙のタイミングで曲に割り込んで歌とコントが展開していく
曲が終われば間髪入れずに二曲目に突入して「ポニーテールとシュシュ」を清水ミチコで歌いあげる
やはり合間合間にミニコントがセットになっていた
今度はAKBに入れてあげるから一発やらせてよと秋元康が清水ミチコを口説き落とそうとするコントだった
まさか一曲目と二曲目が繋がっているとは・・・
結局、コントの中の秋元康は清水ミチコに振られた挙句、裁判まで起こされた
素晴らしい完成度だった
脚本は二人で書き上げたそうだ
ちなみに秋元康役の子は、ワハハ本舗の梅垣義明みたいに鼻に枝豆詰めて飛ばすという芸を持っていた
テーブルの端に置かれた空のグラス3つそれぞれに鼻から枝豆を飛ばして入れてた
あれはそうとうやり慣れてる感じだった
この二人は最終的に俺の連れをベロベロに酔わせてお持ち帰りしていった
俺は一人しっかりとした足取りで帰路についた
ネットで調べてみると、元になった音頭が「那須塩原音頭」であるとの情報がありました。
早速その音頭を調べてみるものの、ネット上には有力な情報がなく、どういったものなのかを知ることが全く出来ず。
というわけで、那須塩原市役所に那須塩原音頭について問い合わせてみました。
すると数日後に返事があり「そのような音頭は確認できません」とのこと。
こうなると実際にNASA音頭を作成された、作曲家のたかしま あきひこさんに直接聞いてみるしかありません。
というわけで早速聞いてみることに。
するとNASA音頭は、たかしまさんオリジナルの楽曲ということでした。
当時はドリフのコントの為にたくさんの楽曲を作成されていたでしょうから、この音頭もその流れで作曲されたのだと思います。
あららら。
松本人志監督作品の映画「しんぼる」を見た。以下「しんぼる」及び「バベル」の相違点について言及しているため、両作品のネタバレ含むので注意。
松本人志はテレビで見せるフリートークと、コントで演じる役とのギャップが激しい芸人である。フリートークで自我を全面に押し出して、コントでの演技は別人格かのような憑依型。この二つを偏らず両立させて、しかも成功している。
映画「しんぼる」においてもまた、見た目奇抜だが、無口で平凡な思慮の浅い男(それでいてどこか狂気をはらんでいるような)男を自分に憑依させて演じようとしている。
では、何故見た目を奇抜にする必要があったのか、果たしてこの主人公があのような服や髪型のチョイスをするような人間だろうか?
見ているとそのような矛盾や違和感が何度も起こる、矛盾や違和感だけを繋げて映画にしたといっても良いぐらい出てくる。しだいに全てに何か理由があるんじゃないかと思うようになり、どうしてもそれを考えてしまう。最終的に「くだらない」が「面白い」って事ね、という所に一応行き着くが、やっぱり「で、それが何なの?」という疑問の答えにはなっていない。
この映画が、観客の解釈や理解をうながす為に作られているのは間違い無い。「もっと理由や意味を考えてみて!」と言われているような、そうやって考えるのが面白いという事だろうか。その結果裏切られてしまうカタルシスを楽しめ、そういう作品なのかもしれない。
解釈や理解しようとする事自体を楽しめ、というテーマだとして、ではその映画に正しい理解や解釈の正解は存在するのか? 存在しているはずだ。その方が面白いから。
という訳で、正解を探す事にする。
僕が考えた正解なんじゃないかと思う答えを検索してみると、バラバラの要素としては既出なのだが、統一されたものが無いのでここにその解説を書いてみよう。
「しんぼる」は、日本人の海外に対するコンプレックスを表現した作品だ! と強く断言してみる。
「しんぼる」は、2006年カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した「バベル」という映画を非常に意識した作品である。
バベルのネタバレになるが、バベルはメキシコ出身の監督と脚本家による映画で、ナショナリズム的な視点から観ると、思慮の浅い日本人のせいで、モラルの無いモロッコ人の子供が銃を使い殺され、それに巻き込まれた白人は自分達の事しか考えない。それにひきかえ他民族の子供を低賃金で助けるメキシコ人は陽気で善人だ、という解釈が出来る。松本人志はナショナリズムが強い思想の持ち主なので、バベルを観てメキシコ人ふざけんなよと、日本を馬鹿にすんなと怒ったはずだ。
だからしんぼるでは、同じ文脈で皮肉たっぷりに、思慮の浅いヘンな日本人のせいで、メキシコで不条理な出来事が起こり子供が不幸になる、バベルと同じくその因果関係に理由は無い。また物語の舞台となる国の数も同じ。バベルのアメリカモロッコで起こる出来事と違い、しんぼるでのロシア中国で起こる出来事は不幸ではなく、ただくだらない出来事なのだが、これはバベルの偶然性による不幸に対する皮肉なのだろう。バベルの偶然性による不幸が、メキシコ人監督の恣意的なナショナリズムにすぎない事への批判である。
さらに、映画の撮影の仕方も同じで、カットバックを使った演出もさる事ながら、しんぼるにおいてメキシコの場面での映像は、ドキュメンタリーのような手ぶれのあるハンディカメラの映像なのだが、これはバベルが終始そのように手ぶれのある映像だからである。
次いで、上記のバベルに対する皮肉を、さらに拡大して日本の文化による世界に対する皮肉、あるいはバベルを絶賛したカンヌ(フランス)のアートシーンに対する皮肉として、現代アートの文脈でアイテムが構成されている。
まず主人公の髪型や衣装は、フランス芸術文化勲章を持つ海外でも評価の高い草間彌生の格好で間違いない。脱出劇としては広すぎるあの白い部屋もインスタレーションそのもの。飛び出てくる意図的に日本の物に偏ったアイテム、それを使っての笑いは日本の文化の文脈のようでいて海外向けの笑いでもあり、これは海外でウケる日本の現代アートのコンセプトそのものである。
バベルやカンヌに反発を覚えながらも、欧米文化の中で迎合して同じ舞台に立たないかぎり世界的に受け入れられないというジレンマを抱え、それに対して下ネタとパロディという形で皮肉をこめ、彼らの持つ日本人のイメージを利用して、滑稽な道化のふりをして笑いを取り、しっかり世界にウケる現代アートの文脈にそって作品を作っている。
そして映画のクライマックス、最後の最後に、神のような姿になった主人公の背後の壁に立体的な世界地図が現れる。多くの日本人は何の疑問も持たないと思うが、外国人にとっては違和感のあるシーンである、その世界地図は日本が中心となっている。
このように「しんぼる」という映画は、日本と日本以外の世界を意識した作品である。世界に向けて表現しながら、媚びずに日本的であろうとした訳だ、しんぼるというタイトルも、英語のひらがな表記であるのはそういう理由だろう。
要約すると、松本人志による海外アートシーンを皮肉った「日本最高!」を世界に向けて表現した映画。
おそらくアートの文脈を松本人志が知っていたとは思えないので、その文脈を組み込んだのは脚本を共同作成している放送作家の高須氏によるものなんじゃないかと思われる。
憶測だが、バベルの脚本家か監督は菊地凛子演じる聾唖の女子高生のイメージを、例の毎日新聞waiwai事件の、元ネタの記事を見て得たんじゃないだろうか。元ネタ(http://www8.atwiki.jp/mainichi-matome/pages/435.html) 女子高生、ノーパン、チラ見せ、男を誘惑、家で裸、という点が同じである。最もリアルに創り込むべき役なのに、日本にそんな女の子居る訳がないというような人物を設定した矛盾。海外受けするメジャーなアニメや映画でその様なイメージの女子高生キャラが居てそれの影響を受けたとは思えないんだが、しいて挙げるなら岩井俊二作品の女子高生の不安定さと元ネタの記事を合わせた感じだろうか。