はてなキーワード: こたつとは
わたしが一人でこたつに入っていると母が入ってきて、足を私の足に擦りつけてくる。
足の裏でわたしの足を撫でさする。
気持ち悪くてたまらないので、わたしは母の足が届かない位置に逃げるんだけど、それでも追ってくる。
そして足でサスサスと私の足に触れてくる。
意図がわからないし、娘に対する母なりの親愛の発露だとしても、やりかたが気色悪いので受け入れられない。
母は最近ひんぱんに老後の話をしている。
家系病のリューマチが出てきて、身体の衰えに不安を感じたようだ。
そして、ゆくゆくは私に介護して看取ってもらいたいらしい。
昔あんなに私を疎んで蔑んで軽んじて、私がいくら愛されようと努力しても冷笑して、何度も何度も暴言を吐き、
かわりに不出来の弟ばかり無条件に溺愛して、わざと差をつけて育てたくせに。
今更、文字通り擦り寄ってきたところで、もはや嫌悪感しか沸かない。
今更、「やっぱり老後のことを考えると娘がいるのは心強いわ」なんて言えた口じゃないだろう。
失敗した失敗した、なんで女の子なんか生んじゃったんだろ、うちにはいらないのに、何の役にも立たない…と毎日言ってたのと同じ口なのに。
就職もちゃんとしたし、普通に働いてて仕事も辛いなんて思ったことなんてなかった。
なんか今回の震災をみていて自分のやっていることに何の意味や必要性があるのかわからなくなってきた。
物質的なものを生み出していない。
人間が生活する上で必要性が感じない。
自分は無力だと本気で心の底から思ったし、増して原発なんてもがあんなに危険なものだとは知らず、毎日好き放題電気を使ってた訳だ。
確かに使用した分の電気は払っているし、金払えばそれでいいと思っていた。
原発は安全ですっていわれてそれを鵜呑みにしていた部分がある。
安全っていわれたというか、危険だって声もあったけど、大して興味も示さなかった。
確かに東電や国の対応が悪い部分もある。でもしかし本当にそれだけなんだろうか?
今まで無関心だったら僕らも同罪なのではないのか?
東京に住んでいる僕は、福島やその他原発のある地域にリスクを負わせて、それをしらんぷり。
でも本当に必要だろうか。
今までの生活をするためなら必要だとは思う。
でも、元の生活を守るべきなのだろうか?
ただ、この原発の現状を目の当たりにして僕は元の生活に戻る必要がないと思ってします。
この人口が密集しすぎたり電化製品を使いすぎたり。これは非常に問題なんだと実感している。
もうなるべく電力を使わない生活が必要だと思う。
それでも僕はインターネットをやっている。電話も使うし、暖房も使う。おまけにこたつもつかったりする。
この矛盾。なんか苦しくなる。
文明をすてて山奥でこもって暮らせばいいのかもしれない。
それはさすがに無理だと思う。そんな生活での生きるすべをしらないから。
だからといってなにもしないで元の生活に戻ることだけを考えるのは絶対に間違っている。
僕らの生活の仕方を見直さなければならない。
それが今僕らがやらなきゃ行けない事なんだと思う。
原発が日本の発電量の3割を占めている現状では、不要な照明を消すくらいの節電では到底原発はなくせない。
抜本的に、社会全体で電力を削減しなければならない。
夏場のピーク電力を抑えるため、一般家庭では扇風機しか使わないことにする。
コンビニの消費電力の半分以上は冷蔵・冷凍だから、深夜営業禁止だけでは意味が無い。
通勤電車がピーク時電力を増大させているので、通勤が不要な就労形態に変える。
大規模工場は全て海外に移転。海外で生産できるものは極力海外から輸入する。
パチンコ、ゲームセンターは閉店。野球場・サッカー場はナイター禁止。遊園地は全て閉鎖。
業務の前に書店に寄ることが、半ば習慣化していた。
人の声の重なりのような、妙なざわつきを感じる。
地面が揺れていることに気づいたのは、その後だった。
一昨日の余震だろうか?それならばすぐに収まるだろう。
生まれて初めて体験する激震が、我が身を、そして店全体を揺らしたのは、そんな甘い考えが脳裏をよぎった瞬間のことだった。
本を買うより、身の安全の確保が第一だ。
店を出る瞬間に、視界の片隅だけに見えていたものだけど、その光景は良く覚えている。
激しく揺れ動く地面と同様に、あまりにも落ち着きのない思考が私を動かしていた。
だけど私は運が良かった。ガラスが割れる軽やかな音に気づけたから。
目の前で、ガラス造りの街灯が落ちて地面に砕け散った。
あと数秒、私の走りが早かったら、危なかったかもしれない。
まずは身の安全の確保だ。最優先事項にやっと気づいた私は、元々いた書店の入り口近くにある金属の柱にしがみつく。
建物の近くにいては倒壊に巻き込まれるのではないか、という考えもあったが、倒れそうには見えない外見のビルであったし、何よりも、屋根があった。
何かが落ちてきても、屋根があれば最悪の事態を免れることが出来るだろう。
一息ついて油断した、その瞬間を見逃さずに追撃するかのように、それはやってきた。
もっとも、どんな覚悟も、あれの前には無意味だったと思う。
視界に入るもの全てが揺れ動いていた。地面が左右に揺れる、というのを視認したのは初めてだったと思う。
地鳴りと悲鳴が重なる。震度表には「立っていられないほどの揺れ」という表現があるが、まさにそれであった。
銀色の柱にしがみつき、身体を支えること以外、何も出来なかった。
勇気ある人は、危険な位置にいた女の子たちを比較的安全な場所へと誘導していた。
その後、ガラスの街灯がまたひとつ落ちた。ガラスの破片が散らばったけれど、気にしている余裕はない。
私は死ぬのか、この世は終わるのか。本当にそう思った。
長い、長い、私の体感では3分ほど、実際はもっと短いだろう(これを書いている時点では正確なデータがないのです)、
だけど長い地震が終わって、私の思考はまた落ち着きのないものへ切り替わっていた。
そうだ、職場に行かなければならない。
揺れが収まり、身動きが取れることを確認すると、私は職場のビルへと向かった。
エレベーターは動かない。12階立建てのビルの3階に職場はある。
階段の壁は一部が崩れ、破片がそこらに落ちていた。非常灯がなかったので、昼と言えど薄暗かった。
それは階段だけではく、各階でも同様のようであった。日の光が差し込むだけ、階段よりは明るかった。
ドアを押しあけ、オフィスへ入るとほぼ同時に、余震が襲いかかった。あの本震の直後の余震である。実際にどれほどの震度の余震だったのか、これも現時点ではわからないけれど、本震と同じくらい強いものに感じた。
「危ないから入ってきちゃ駄目!」と悲鳴に近い声が私に掛けられたけれど、入ってきてしまったものは仕方ない。
オフィスの中にいた他の方々とともに、私は机の下に身を隠した。
自ら飛び込んできた私はともかく、朝から働いていたオフィス内の人々は、突然の、しかも未曾有の大きさの地震を受け、憔悴しているようだった。
それから、階段を降ってビルを出て、一度は近くの小学校へ避難した。しかし、地域の方々の避難が最優先であるため、解散の命令が出るまで、私たちは歩道で待機していた。
その間も余震はまるで容赦しない。地面が揺れる、街灯や電線が揺れる。大きな看板が地震で壊れていて、たくさんの人が携帯電話で写真を撮っていた。
本震の最大震度が7と聞き、やっぱりね、とか、宮城県沖地震かな、などという話題が上がった。少量ながら雪が降り始めて、とても寒かった。
地震保険の話があった。我が家には適用されるのだろうか。いや、それよりも我が家は無事か。
携帯電話を操作して、自宅に電話をかけるも、繋がらない。当たり前のことだった。
それからしばらくして、今日のところは解散、ということが上司から伝えられた。私は家まで歩いて帰ろうとしていたけれど、同じ方向に住まいがある同僚がいたので、家の近くまで送っていただくことになった。
車道は当然のように渋滞していた。加えて、一部を除いて、信号も動いていない。
仙台市中心部から郊外へ移動しようというのだから、渋滞に巻き込まれるのは致し方ないことだ。30分で100メートル移動出来たかどうか、ということもあった。
正直に言えば、自宅まで徒歩で戻った方が、早く家についたかもしれない。しかし、車で送って頂いて本当に良かったと思う。
そう思う理由はいくつかある。ひとつは、複数の人とともに移動することによって、不安や恐怖と言ったものを少しは紛らわせたということ。また、車にはラジオが搭載されているから、最新情報を確認することが出来たのも大きい。外気を遮断し、暖をとりつつ移動出来たというのもある。被災直後から、仙台市内には断続的に雪が降り、吹雪くことさえあったから。
最終的なマグニチュードが8.8であるという報道を聞き、私たちは笑うしかなかった。この地震で亡くなった方が出るかもしれない、という話題にもなった。これを書いている今現在、確認されている死者は1000人以上であると聞いている。ここまで多くの方が亡くなってしまうとは、あの時、思いもしなかった。
移動中、私は家族が心配でならなかった。特に、自宅にいるであろう、母。我が家は築25年の木造住宅である。自宅が倒壊してしまったのではなかろうか、それに母が巻き込まれてしまったのではないか、心配で心配で溜まらなかった。
同乗している同僚は、2歳のお嬢さんを心配していた。夫の実家に預けているのだが、連絡が取れないのだという。
私も母との連絡は取れない。「頼りがないのは良い証拠」であるという、この場にはまるでふさわしくない故事を信じるしかなかった。
被災直後であるから、携帯電話は全く役に立たない。それはとうに承知していても、家族の安否を確かめたいというのは当然のことだ。電話はとても繋がりにくかったが、幸い兄との連絡はついた。それから、機械に疎い家族が見るかどうか分からないが、災害伝言板に書き込みをしておいた。
車に乗っていても、余震は我が身に伝わる。窓から見える外では、多くの人が歩いていた。結婚式の最中だったのか、よそ行きの格好のまま避難する人、スーパーのビニール袋を被る人、クリーム色のカーテンを纏う人、様々いた。
1、2時間も経つと、日が傾き、徐々に日の光が失われていった。明かりがあるのは車ばかりで、どの店、どのビル、どの建物も真っ暗なままだった。唯一、警察署だけは明るかったけれど、自家発電装置はいつまで持つのだろうか。
これだけの巨大な地震であるにも関わらず、高層ビルの倒壊がなかった、このことはすごいことだと思う。
しかし、それは外見の話だ。どこも大なり小なりの被害を受けていて、壁が崩れたり、窓ガラスが割れたりするのは当たり前、水道管が壊れて、水が溢れだしている家もあった。
3時間半ほどの時間を掛けて、自宅の近くまで送って頂いた。ここからは、歩いて帰ることになる。
外はやはり寒かった。実際の気温だけではない。街のどこにも光がない。駅の近くにある大きな交差点、そこの信号は機能していたけれど、他の信号は依然光を失ったまま。これまで車で通り過ぎてきた光景と同じく、街のどこにも灯りはなかった。
この夜の空は、山中で見るもののようだった。星座が確認出来るくらい、綺麗な星空。あまたの星がいつもと同じように、黒のキャンパスの上で煌めき、瞬く。暗い街並みといつにも増して美しい夜空を、私は生涯、忘れないと思う。
さて、この地震では、かなり多くの方が避難所での生活を余儀なくされている。
我が家はかなりましな状況であるということを、ここで記しておく(こうやって被災最中に手記らしきものを書いている時点でお察しの方も多いだろう)。
何せ、不自由なことは多いものの、自宅で生活が出来ているのだ。現在、これを書いている3日目の朝も、白いご飯を食べ、暖かな野菜のスープを飲み、ゆで卵まで頂くことが出来ているのだから。
4時間かけて自宅まで戻ってきたが、電気はついているはずもない。もしかしたらみんな、避難所にいるのかもしれない。あるいは……。
最悪の事態を思い浮かべながら、玄関を開ける。ただいまと誰もいないかもしれない家に声をかける。返事はすぐに戻ってきた。
家族は全員、茶の間にいた。みんな、無事だった。そのことに安堵の息を漏らしつつ、私は茶の間に入った。
意外なことに、茶の間は暖かだった。捨てるつもりでいた石油ストーブを物置から持ってきて動かしていたのだ。停電していても暖が取れるのはありがたかった。さらに、ストーブの上にやかんを置けば、時間はかがるがお湯が湧く。パンを置けばカリカリに焼ける。外は氷点下にまで冷え込む中、石油ストーブで外から身体を暖め、お茶で内からも暖める。とても幸せなことだった。これを呼んでいらっしゃる皆様には、是非一家に一台、石油ストーブの購入をお勧めする。
家の中には、父、母、兄、それに近くに住む親戚の小母さんがいた。小母さんは、この地震で誰とも連絡が取れず、また誰も帰ってこないという。家の中は地震で家具が散乱しており、中にはとても入れない。一人でいるのも不安である。そのため我が家に来たのだという。
自宅へ帰って来た頃、時刻はもうすぐで8時を迎えようとしているところだった。こたつの上には大きな蝋燭が立てられていて、その脇にラジオが置かれていた。懐中電灯もあるにはあるが、あまり明るくないので、部屋全体は照らせない。そのため、トイレに行く時等、移動する際に使われていた。
そういえば、自室に小さなライトがあるのを私は思いだした。いつだかに、ゲームセンターのUFOキャッチャーで取ったものだ。おもちゃに近いが、電球ではなくLEDなので、大きさの割には強い光を出す。
本棚が倒れたため、本で埋め尽くされ、足の踏み場がない部屋へ行く(自室の荒れ方がまた素晴らしかったので、出来ればお見せしたいところであるが、この時既に携帯電話の電池が切れていた。残念である)。机の引き出しの中にライトはあった。スイッチを入れると、白い光が散乱した部屋を照らした。
また、その時の私は、黒いタイツにストッキングと随分冷える格好をしていた。荒れ果てた部屋からジーンズを引っ張りだして着替えた。ついでに、タオルケットと毛布を茶の間へ持ち出した。
茶の間に戻り、ライトで辺りを照らしてみせると、蝋燭や懐中電灯よりも広い範囲をより明るく照らせたので、当座はこのライトで部屋を照らすことになった。裸火がなくなり、火事の可能性が低くなったのでひとまず安心した。
余震は断続的に続いていた。これを書いている今もそうだが、大小の関係なしに、何度も何度も地震に遭っていると、いつも地面が揺れているような感覚に襲われる。恐怖が完全に拭われることはなく、むしろ大きい余震があるたびに増大していった。
母は、少し昼寝をしようとしていた時に地震に見舞われたそうだ。これほど大きな地震であれば、逃げることをまず第一に考えそうなものだが、母は42型の液晶テレビが倒れないか心配だったらしい。テレビを支えつつ、近くの柱にしがみついて、本震を耐えきったそうだ。
兄は仕事をしていた。オフィスの中にあったパソコンは全て倒れて使えなくなったそうで、しばらくは仕事にならないだろう、それどころか解雇されるのではないか、と心配していた。
父もまた、仕事をしていた。スーパーでカゴ集めのパートをしている父は、地震の瞬間に店内にいた。これは危ない、と思い、しかし出口からは遠い場所にいた父は、普段は閉じられたままのガラス張りのドアをこじ開けて外に出たという。後から聞いた話によると、父の勤務地のスーパーは、天井が落ちてしまったそうだ。
ラジオから聞こえてくる男性の声が、この地震による被害の状況を伝える。泉区で家がひとつ倒壊した、壁に挟まれて死んだ人がいる、火災が発生した、津波で何もかも飲み込まれた……。いつもの夜のラジオなら、軽やかな音楽や楽しげに話すDJの声が漏れてくるのに、今宵は厳しい現実と、それを乗り越える手段が、無機質に流れ出ているだけだった。
私が自宅に帰宅して、1時間ほどして、親戚の小母さんの娘さんが帰ってきた。
この時、電話はまともに使えなかったが、メールやインターネットならば使用可能な状態にあった。
機械音痴らしい小母さんは、メールを打てない。私が代わって、娘さんに「小母さんは我が家にいる」との内容を打ち、送信したところ、娘さんはすぐに我が家に駆けつけた。それまでは近くの避難所を当たっていたらしい。
娘さんの勤め先は、長町にある。我が家は仙台市泉区に位置しており、長町とはかなりの距離がある。娘さんは同僚の方から自転車を借り、ここまで帰ってきたのだった。それまでに1時間半の時間を要したそうだ。
午後の10時頃に、小母さんの旦那さん、つまり小父さんが帰ってきた。小父さんは地震発生直後に車に乗ったのだけど、ひどい渋滞に巻き込まれて、この時間に帰ってきたのだという。実に7時間もの時間をかけての帰宅だった。
先にも述べたが、被災はしたものの、我が家はかなりましな方だった。屋根瓦が吹っ飛んだり、壁に多少のひびがはいったりはしたけれど、とりあえず住める状態にはあったのだから。停電していて茶の間以外は真っ暗だし、ガスも当然止まってはいるけれど、この時点で水道は使用できた。トイレも流せる。これだけで、精神に随分と余裕ができた。とは言っても、時間が経つにつれて水圧は低下していき、2日目の昼には断水になってしまうのだけど。
しかし、断水前に風呂に水を貯めておけたのは良かったと思う。おかげで、今のところ、トイレの水には困っていない。流石に大しか流せないので、そこらへんの節約は必要だ。
とにかく、電気とガスが使えないのが痛い。そうは言っても、ライフラインが回復するまでは今ある環境で耐えるしかない。母に菓子パンを食べるように勧められたが、遠慮して、お茶だけ飲んでいた。……皮下脂肪が厚いので、少しの間飲まず食わずでも耐えられる。
夜の11時を迎えたところで、両親に就寝するように言われた。どうせ、余震が続いて眠れないので、次の日の夜明け、6時50分頃まで起きているつもりだったが、せめて横になるように、と言われたので、茶の間の畳の上に体を横たえた。今夜は座布団が枕の代わりだ。寝転がり、目をつぶるだけで、少しは休むことができる。
形だけの就寝をし始めて1時間。日付が変わった後、ふと母の携帯電話を見てみると、2、3時間前まであった電波がなくなっていた。メールやネットならば使えたのに、それすら出来ない。ラジオ以外の情報獲得手段がない。ニコニコ動画やユーストリームでNHKの放送をしている、とラジオは伝えていたけれど、そんなもの役に立たない、と思った(もちろん、まだ電池のある携帯電話等を持っている人には重要なのだと思うけど)。ちなみに、家に帰ってきた時点で、私の電話の電池は切れてしまった。
日の出まであと6時間。ラジオは伝える。どうか日の出まで、希望を持ってと。ラジオは伝える。現実を。荒浜に、200から300の遺体が流れ着いたとの報を聞き、涙が頬を伝った。
3時か4時になった頃、NHKのラジオが音楽を流した。2曲流れて、1曲は確か「カノン」だったと思う。そのおかげがどうかは分からないが、私は少し、眠ることが出来た。余震がある度に起こされはしたものの……。
長い、長い夜を過ごしているうち、私はひとつ思いついた。
被災している最中から、忘れないうちに、体験談を記しておこうと。
携帯電話は使えない。iPadは不向きだ。だから今、pomeraを使って書いている。我が家にて、単4電池を使う懐中電灯等もなかったから、こうやって書いている。
これは被災してから2日目に書き始めた。現在荒削りながら、被災当日のことを書き終えて、5日目である。出来れば電気が繋がった3日目のことまで書いて、増田に上げられれば、と思う。私なんか、とてもとてもましな方だったけれど、千年に一度とも言われる天災の体験談は書いておかなければならないと思った。……エゴイストで申し訳ない。
また、普段は趣味で小説のようなものを書いているので、そのような表現があり、読みにくい箇所も多々あったかと思う。このことについてもここでお詫びする。
私が住んでいる仙台市泉区のとあるところでは、3日目で電気が繋がり、4日目で携帯電話の通話及びメールが使用可能に、そして現在、5日目の朝にネットが復旧した。
寒いでしょ。
夏場は死ぬほど忙しくて、冬はやること無かったろうからなんとなく分かるがやっぱ無理。寒いでしょ。
夏やれよ夏。春でもいいよ春でも。いやこのさい秋でも許す。冬だけはない。ありえない。
思うんだけど、今だに新年に掃除しなきゃいけない理由があるとしたら、ボンクラ亭主が新年以外に手伝わないからでしょ。
たしかに家ひっくり返して掃除しようと思ったら、ひとりじゃ出来ないもんね。
でも、今年は私頑張ったよ。
夏にタンスを一人で2Fから1Fに移動させたり、机も部屋移動させたり、使わなくなったパソコンディスプレイ捨てたり、ダンナの使わなくなったデスクトップPCのディスプレイ捨てたりしたよ。
私頑張ったよ。
頑張ったおかげで、今年は冬ゆっくり過ごせたよ。テレビ部屋にこたつ導入してぬくぬくできるよ。
みんなも夏に頑張って、冬はぬくぬくしようよ。
父親がもう三度目の「60歳のラブレター」を見ている。
添加物にまみれた大容量の焼酎と半額のシールの貼られたあんドーナッツを食べながら。
一度見て、母親に「いいものだから」って一緒に見て、今度は偶然みつけたのに見とれて、だ。
お前は企業の重役になっていない。
それも不況のあおりでリストラされて、近所の代議士の情けで再職できたんだ。
起伏もなく、続くだけ続いてる仲だろ。
ドラマティックな展開なんて起こせる度胸もない。
部活で保護者が集まる懇談会では、あんたいつもオドオドしてさ、隅で酒をすすってたもんな。
ともかく、ちっぽけな映像で満足してしまう情けなさが、お前からにじみ出ている。
こういう行為って、なんかオタクに似ている。
けいおん!がくれた、失われたはずの三年間
のように、虚構で人生を塗り替えている。
ただ、苦しんでたこの記事の筆者のようだったらいい。
けどあんたはこたつで横になりながら画面を見つめているだけじゃねえか。
たぶんアニメにハマってる奴を気持ち悪いって思うのはさ、あいつらが現実見ないからだと思うんだよね。
違う、お前の見るべきものはここだ、もっと抗え、って思うからじゃないか?
もしかしたらさ、それは俺の、そう思う人たちの、勝手な押しつけかもしれないけどさ。
キャプ翼なかったらトッティはサッカーしてなかったかもしれないんでしょ?
けどさ、おまえのしてることは真逆じゃん。
「実際は無理だから、これで甘んじよう」って見え透いてるよ。
なんでこんな弱いんだよ。
おれが何年、その情けない背中を見て育ってきたと思うんだ。
どういう感情を持てばいいんだよ。
くだらねえって一蹴できるか。
だってこいつは、おれの親だぜ。
親っていうのはさ、子供の目指すべき将来を、たどるべき道を示すべきだろ。
いつからだ? 休日にテレビ占領して、映画ばかり見るようになったのは?
なんでおれに、残してくれないんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20101017084726
の続き。
泣いてるっちゅうか、よっぽど俺、怖い顔してんのかな、ガクブルしてる弟を見ながら、タバコをもう何本か吸いきった。
何かしゃべったら、うっかりひどいことを言ってしまいそうだったから。
ああ、そういえばそんなことがあったなあ、てそんな時に昔のことを思い出してしまうもんだ。中学生だった俺と、姉を前にして、両親が対面に坐っていて、お袋が「実はお母さん、子供が出来ました」と言った時、ついうっかり、「誰の子?」って言ってしまって、お袋は「お父さんの子に決まってるでしょ!」と激怒したなあ。
あの時、お袋の腹の中にいた子がねえ。大きくなったというかなんというか。
家族みんなでつい甘やかしてしまったよ。俺なんか子供の時はゲームソフトとか買って貰えるのって誕生日とクリスマス、しかも12月23日生まれなんでしょっちゅうイエス様と合同誕生日にされてしまって、泣いた夜さえ、笑い話になるものさ、サチコ。
ゆうくん(弟、仮名)何か欲しいものない?お父さんが、お母さんが、お姉ちゃんが、兄ちゃんが買ってあげるよ、ってのはまだしも当たり前だとしても、叔父叔母の類までがさ、自分とこの子は憎らしい反抗期の最中、弟は可愛い盛りだったもんで、何か買ってあげずにはいられなかったんで、弟は我が家一の物持ちだったよ。
そのわりには優しく素直に育ってくれて、人が嫌がることは絶対にしない。俺はするけどね。
あれは弟が5歳くらいだったかなあ、トランプを組み合わせてタワーを作る遊びね、あれを教えてやったら一日中もくもくとやってんの。で、「兄ちゃんできたよー」ってニコニコしながら俺をひっぱってってタワーを見せてくれたんだけど、俺がフーッって息を吹きかけたらはらはらと倒れちゃって、弟、号泣ですよ。あはは、可愛かったなあ。
「兄ちゃんのばかー、だいきらいー」
って(当然言うわな)、言ったそばから、「ゆうに嫌われた・・・」って落ち込んだ俺を見て心配そうな顔になって、「だって兄ちゃんいじわるするもん」って正当性を主張するも、「兄ちゃん、ゆうのこと大好きなのに。世界で一番好きなのに。ゆうは兄ちゃんのこと嫌いなんだ・・・」って俺が言ったら「僕も兄ちゃんしゅき」って態度をひるがえして、ふたりでダハーッと笑いあったあの日。
嫌いになんてなれないよ。
ただ、いろいろと。なんとかならんもんかと。
なんとかなるくらいなら、親兄弟を困惑させたり苦しめるような真似を弟がわざわざするはずがない。
もちろん、こういう問題で、困惑する方が偏見もちだってのは分かってるけど、さて、身内のことになったら、こうも困ってしまうものなのか。
そして思い出した。
何年か前、俺一人で実家に行った時、居間でこたつに入って、母と俺と弟とで、テレビを見てたのね。おすぎとピーコが出ていて、面白いことを言って、俺たちもひとしきり笑った後、お袋が言ったんだ。
「でも、この人たちの親御さんもお気の毒よね。息子さんがふたりともこんな風だなんて。お母さんだったら耐えらないわ」
別におすぎとピーコのファンじゃないけど、たまたま「ピーコ伝」を読んだばかりだったこともあって、カチンときたんだよ、その言い方に。
「それって、すごい失礼な言い方だよね、おすぎとピーコにもそのお母さんにも。おすぎとピーコ、すっごい親孝行だよ。こないだ本にそう書いてあったし」
お袋はまたこいつは、みたいな目で俺を見て、
「もう、あんたはいつも説教ばっかり。あんたに言ってないんだからいいじゃない。ゆうに言ってんの。あんた、さっさと帰りなさいよ。晩御飯、用意してあげないからね」
弟はいつものように心配そうな顔をしてたけど、あれをどんな気持ちで聞いていたのかな。
お袋、おすぎとピーコのお母さんの半分の気持ちはもうすぐ味わうことになりそうだよ。
「そう簡単にはいかないぞ」
と俺は弟に言った。
「年寄りはなかなか自分の価値観を変えないし、変える時は相当な苦痛だと思う。それでも、打ち明ける気なんだな?」
弟はうなづいた。
「もう、浩介(弟の彼氏、仮名)に嘘をつかせたくないし、それに、近いうちに俺、家を出て、浩介と暮らしたい」
えっ? それはどうかなあ。末っ子の弟が出て行って、老夫婦ふたりきり、むちゃくちゃさみしいでしょ。さみしさが浩介(もう面倒くさいんで呼び捨て)への敵意に変わってしまいそうだなあ。
「まあ、それはちょっと待て。ひとつひとつ考えてみよう。な。親父はなんとかなるかもしれん。つかなんとかなるだろう。ただお袋はな、そう簡単にはいそうですかとはいかないと思うよ」
「兄ちゃんはどうなの?」
「どうって・・・」
「俺のこと、嫌いになった?」
馬鹿だなあって思う。こんなことで嫌いになるなら最初から兄ちゃんやってないよ。でも、不安にさせたのは俺だな。
何十年かぶりに、弟をぎゅっと抱きかかえた。でも、でもな。
いろんなこと考えてしまうんだよ。俺の奥さんはなんていうかとか。俺の奥さんが(わりあい保守的な人だ)、おまえのことを蔑む感情を持ってしまったら、俺はどうしたらいいんだ?
姉ちゃんはなんていうだろう。甥っ子、姪っ子は受け入れられるだろうか。
甥っ子、姪っ子の将来の触りにおまえがなってしまうんじゃないだろうか。
そんなことを、こうしておまえをぎゅっと抱きしめていても、俺は考えてしまうんだよ。
まとめブログやはてな界隈では小5~中2くらいがピークだと書かれてることが多いし、
どうでもいいことで興奮することを「男子中学生のよう」と例えたりする。
でも実感としてピンとこない。
今私の腕に触る必要あった?みたいな無駄タッチをされたり、こたつ内で脚の向きを変えようとしたときにスカートの中身への強い視線を感じたり、
高校時代からの男友達がいるんだけど、高校の頃は無かったのに、お互い大学生になってから会ったら、私に性欲を向けられてるのを感じた。
なんか視線でわかるんだよね。目線とか手つきにあらわれる。大概鈍感な私でも感じる。
私の実感では、高校生までの男子はクリーンで全くエロさを感じない存在だったけど、大学から急にエロくなったという印象。
18歳を過ぎて社会的にエロOKになったからオープンになっただけ?
それとも中高では美少女にしか向けられていなかった性欲が、大学生になってストライクゾーンが広がって、私程度にも欲情するようになっただけ?
仕事で軽いうつ状態なので平日に具合が悪くなるならわけわかるのだが、楽しいはず(?)の休日のほうがぐっとひどいかんじ。
日によってレベルは違うけど、頭痛とか、吐き気とかがメインで、特に午後ひどくなる。あとは寝ても寝てもだるかったり、吐くまではいかないけど気持ちが悪い。ぶっつづけではないけど、10時間以上寝てもまだ眠い。吐き気は薬の副作用も考えられるが頭痛がひどい。精神科では頭痛外来受診を勧められたが、気分の悪さのほうがひどいんだよな。。
とりあえず起きて洗濯だけはするが、それで精一杯。今日も起きようとテレビをつけながらテレビは見ずにこたつで一日中寝ていた。夜になって、「これではいかん」と買い物に出掛けてみたが電車に揺られているうち気持ちが悪くなってUターンして帰って来た。
缶ビールを開けて飲む。その味は風呂上がりの時よりも悪くなっている。部屋に戻ると天井の電気は付いておらず、机のスタンドが光るのみ。つけ忘れていたとか電気が切れていたとかではない。日本式の照明は就寝前には適しておらず、間接照明のように位置が低い物のほうが好ましい、というのはネット記事の受け売りだ。
ふと思い出したのは母の事。私がまだ実家暮らしだった頃、二階の両親の寝室に入ると母はデスクスタンドのみをつけてタロット占いに興じていた。ある種の不気味ささえ感じながら、私は照明のスイッチをオンにした。電気くらいつけなよ。母は苦笑い。
私と母は同じ行動を取っていたわけであるが、母が精神病棟に入っていた経験がある事を考えると、その事に少し抵抗を覚えるのは仕様がないと信じたい。またビールを一口。苦さが際立つ。
明日はバレンタインである。いや、今日か。チョコの一つや二つくらい貰えるだろうか。いままで彼女などできた事はない私にとってそれは大変に関心のある事なのだが、全く興味を持てない事でもある。面倒なことだ。
深夜1時にもなると外は真っ暗で何も見えない。片田舎に住んでいる事は重々承知だが電灯の一本すら見えないのはどういうことだろうか。空を見上げても曇っているのか星は見えない。大体、北陸のほうはこの時期あまり晴れないのだ。冗談ではないく、ここ一週間、太陽を拝んですらいない。モラトリアムの終わりは世界の終わりと同義なのか。ビールをグビリ。美味し。夏の終わりのかほり。 水滴だらけの窓ガラス。
この部屋ともあとひと月でおさらば。結局コールドプレイのポスターを支える画鋲の穴のために敷金はどこへ行ってしまうのか。壁紙となるのか管理人の飯のタネとなるのか。
社会人。社会人ってなんだ。会社の犬かはたまた家畜か。巷で話題の社畜の身分とやらに私は落とされてしまうのか。それとも案外この4年の夏休みのようにやんわりはんなりと暮らせるのか。人工少女はやる時間はあるのか。からあげうめえ。ビール苦い。あれ、からあげもうないの?
残ったビールを一気飲み。一缶でふわふわ頭は安上がりの証拠だ。弱いなどと。決して弱いなどと。
この前、彼女さんの家でくつろいでたら、
「何?」って振り向いたら、さっきと違う服を着た(着替えた)彼女さんがいた。
押し黙ったまま、身体をブリッジするかのように反らせて、ゆらゆらと揺れる。
なんだ、この不思議な踊りは……って思っていると
あまりにも珍妙だったので「なにそれ、創作ダンス?w」と茶化すように言うと
電源を抜いたかのように動きが止まって、浮かしていた腰を床に落下させた。
膝を引きずりながら消えていき、さっきまで着てた服に戻って、一切口を開かなくなった。
こりゃマズい……と思い、こたつ石像になった彼女さんをケアしてたら、
すんすんと泣き出して、「セクシーなことして、喜ばせたかったんだよぉ」と漏らした。
……可愛いやつ。
普段は絶対にそんなことをしない人間だ。
甘えた声でくっついてきたりもしないし、
そもそもスカートなんてめったに着ない。
だから、急にそんなことやられてもギャグにしか思えなかったんだよ。
「無理しなくていいんだよ。でも、ありがとう」と言って仲直りの合体。
あわわ小沢健二めっさ怖い。というか胸が痛い。リアルタイムではヒットシングルをいいなと思って聴くぐらいだったんだが、今あの頃のオザケン盛りと同い年くらいになって、懐古に走って聴いてみたら、このオザケンの歌詞の怖さはなんなんだと思った。
「夢で見た彼女と会ってfeel alright/誰かのちょっと待ってなんて知らない」「誰かにとって特別だった君を/マークはずす飛び込みでぼくはサッと奪いさる」
この歳になってみると寝取られ側に同情して辛いし、「誰か」という凡人が王子然とした人にしれっと奪われたあとの空白が怖い。
「長い階段をのぼり/生きる日々が続く/大きく深い川/君と僕は渡る」
何だ、これから長く流されそうな深みをくぐってかなくちゃならんのだな…人生にはもがくだけの力が要るな…。
「たぶんこのまま素敵な日々がずっと続くんだよ」
あー最後には言い切った!ひぃ怖い!ありえない事を言い切ってそれを嘘の予言みたいに希望にしてる!
「祈り/光/続きをもっと聞かして」
もうこれ希求っていうか縋ってるようだな…。
くるりの旅の理由(ハイウェイ)は最後には手放されるんだよな、「しばし別れる」をあの曲調で絶唱しているのがとても…そら恐ろしいです…。
「喜びをほかの誰かと分かりあう!/それだけがこの世の中を熱くする!」
そうだその通りだ!しかし「それだけが」と言われたら、「それ」ができねば人生厳しいのな。
「僕はあなたに逢えたことを/ずっと幸せに思うはず」
既に失ったものとして言ってて↓
「クリスマスが近づく場所で/元気に挨拶を交わしたい/爽やかな冬の酔いに任せて/力強く時に悲しく」
わあーカラ元気。やめて!
「嫌になるほど誰かを知ることは/二度とない気がしてる」「本当は分かってる/二度と戻らない美しい日にいると/そして静かに心は離れてゆくと」
うっわー、愛や恋の絶頂、只中にいながら未来の凋落を半ば悟っている、超斜陽感。
あれだ、フィッツジェラルドが30歳くらいはもう人生の下がり時なんだみたいな話書いてなかったっけ。そういえばオザケンって柴田元幸ゼミなんだったか。太陽の沈み際が眩しいように光り輝いてはいるのかもなあ。
あのとぼけたような切羽詰ったような声音で陽気なメロディー歌い上げたオザケン、紅白で「プラダの靴」を「きれいな靴」と言い換えた彼をこたつに足突っ込んで見ていた、そのときの自分は、痛い恋も知らない、ニキビの気になる「ふてくされてばかりの10代」であったのだし彼は盛りを迎えつつも「分別もついて歳をとり」どこかで悟って諦観してそれでも抗ってポップを時には自棄みたいに歌っていたんだろうか。理性的な人ではあると思うけどさ。
とまでオザケン妄想して、歌詞イコール本人っていうのも安易だ、普通に歌詞も引用だったらどうしよ、と思った、今からマイ・ロスト・シティでも引っ張り出して読み直そうかね…。でも引用だとしてもこれらのラインを書いて引用ちりばめた甘いメロディーで人口に膾炙させて片田舎のイモい中学生に歌わせて、そんで15年後に30間近の元中学生の心を動かしたっていうのは変わんないよなあ。
明るさと陰影にとんだオザケンの曲の中で、自分の怖かったとこだけ抜き出してコジツケてっていうのの恣意は承知、あーそうか分かった、自分の今の心性反映してんのかもな、誰かに、青春に代表されるような甘い年月が過ぎることは斜陽でありそれは眼をそらすべきでなく諦めとともに認めたうえで、それでも生きてけっていう言葉が、ほしくて、そんなラインだけ心に留めててさ。
馬鹿じゃねーの?
かっこつけてんじゃねーよ。
母ちゃんは今までてめえみたいなクズを捨てずに育ててくれたんだぜ?
その母ちゃんのために生きろよ。母ちゃんに尽くせよ。
金で楽させろってんじゃねーよ? 正月、いっしょにこたつに入ってテレビみて笑うぐらいの親孝行はしてやれよ。
お前が死ぬってことは、母ちゃんに死や拷問より耐え難い精神的苦痛を与えるってことだって覚えておきな。
自殺は知能指数が高い人間がすることだ。お前には自殺なんかする価値もねえ。
どこでどう死ぬかわからんが、お前みたいな価値のない人間のために警察のみなさまの手が煩わされるのが申し訳ない。
警察の人は忙しいんだ。