はてなキーワード: 英雄とは
正義と悪という二元論こそが、正義と悪を生み、人々を戦争へ導くという批判は置いておいて、いったん話聞いてくれる?
第二次世界大戦の正義と悪、勝者と敗者と聞いて真っ先に誰が思い浮かぶ?
みんな正義で勝者がアメリカ、イギリスと悪で敗者がドイツ、日本を考えるんじゃない?
もちろんアジアではアメリカと日本という認識でいいと思うんだけど、ヨーロッパはどう?
そっちもそんな認識じゃない?
でも実際はロシアが多大な犠牲を払ってヨーロッパをナチから救ったってのが正しくない?
なぜか米英仏辺りが英雄面してるけどさ
みずからの血でもってナチを倒した、という自負をロシアが持つのも当然じゃない?
対立の原点ってそういうところにあるんじゃないの
ここ最近(と言っても結構長い間)のトレンドは、英雄の末裔若しくは後継者がペンディングになってた過去の因縁に決着をつけるって話だよな。
ワンピースも呪術も鬼滅もナルトもみんな先人が仕留めきれなかった過去の巨悪を主人公が完全に滅ぼすってストーリーやろ。
どっちもネットで有名なコマの元ネタって部分ばかり注目されがちだけど、この2つはよく見ると結構似ている。
肉親を殺した相手の元で粛々と暮らす両者が決定的な決別を前に振り向きざまに発する言葉だ。
大きな違いは、かたや国家転覆を行えるほどの力を持ち、かたやただ状況に流されるしかない奴隷であるという点だ。
エウメネスは物語の英雄への憧れを持ち、数々の英雄譚を諳んじるほどに読み込んできた。
時には自身が物語の英雄のように知恵を回して窮地を脱するだけの才覚を持つ。
だが、その力は書にしたためられた伝説の勇者と比べれば余りにも非力だ。
その差は、運命の岐路に立たされた時、その道を自分で選ぶことは出来るかどうかという形で現れる。
ハルパゴスが振り向きざまに発した言葉は別離の言葉であると同時に、王国をひっくり返すだけの決定的な宣言であった。
だがエウメネスが同じく振り向きざまに発した言葉は、家族であった者達の心にわずかばかりの爪痕を残すことが精一杯だった。
このシーンは両者の対比により、幼いエウメネスの持つ非力さを表しているのではないだろうか。
同時に、持てるばかりの知恵をもって、少しでも世界に己の爪痕を残さんとする執念、気位を表現しているようにも見える。
我々はインターネットで何度も見てきたコマを漫画に見つけると、ついついそれがネットの元ネタであることばかりに注目してしまう。
だが、そもそもをしてネットで何度も使われるほどの力を持つコマというものは、それ自体が物語の中で強い力を持ち、読者の心に深く刻まれるシーンなのではないか?
何故、ヒストリエのこの「だましてくれたなああああ」と「ば~~~~っかじゃねぇの!?」がここまで読者の心を惹きつけるのか。
何故、作者はそれほどの気持ちを込めてこの2つの場面を描いたのか。
対比のためだったのではないか?
後々に対比するために読者に強烈に印象付け、また片割れを思い出させるために再び強烈な印象を持って描いたのではないか?
国を一つひっくり返すに至ったハルパゴスの力を持て、エウメネスの非力を印象づける。
その意図、魂がこもっているのではないだろうか?
第4の壁によってそれらは真っ二つに区切られている。
「一度もゲームオーバーになることなく最終決戦まで生き延びる主人公たちの物語」
「何度もゲームオーバーになりながら、リトライを繰り返しながら成長するプレイヤーの物語」
もちろんこの二つを両立させることは出来る。
それはゲームオーバーと死を結びつけないことだったり、周回プレイさえも含めてキャラクターの設定に組み込んでしまうことがそれだ。
クリアと同時にセーブデータを消去したり、更にはセーブデータを消した事実さえゲームの中に組み込んでくる作品も出てきた。
それでも、新しいゲーム機やPCを購入すればプレイヤーは0から世界をスタート出来てしまう。
同時に、まだプレイしたことがないゲームのネタバレを知ってしまえば、0からゲームを始める機会は永遠に失われる。
「ゲームの物語」と「プレイヤーの物語」は絶対的に独立している。
それを打ち破ったのがMMOゲームの凄さであると語る人もいるが、たとえゲームの中の時計を止めることを不可能にしても、プレーヤーの物語をゲームの中に組み込もうとしても、結局それらはゲームであることから脱することはないと私は考えている。
ゲームがスポーツとしての側面を追求することでプレーヤーの物語をゲームの勝敗に引きずり込むことは出来ても、そこまで来ると今度はゲームの中におけるストーリーは形を失い、競技のための触媒でしかなくなるのではないか?
将棋盤の上に広がっていた国盗りの物語は、プレーヤーの技術向上に伴いただの記号となる。
その昔、「物語が素晴らしい」と語られるゲームは「ゲームの中の物語」に対して送られる言葉だった。
だが、時代と共にそれは変化し、ナラティブの重要性が語られるようになる内に「プレーヤーの物語」こそが重視されるようになった。
たとえばSEKIROだ。
主人公では死の淵から蘇る設定こそあるが、ボスキャラクターに敗北したときは世界の時間そのものが巻き戻る。
第二形態になるまで痛めつけたはずの敵は無傷へと戻り、登場人物は同じ会話を何度も繰り返す。
「主人公の物語」は「ただ一度の敗北を除けば、不死の力により強敵を打ち破り続けた豪傑」であるが、プレイヤーは「何度も敗北しながら相手のモーションを盗み、時に攻略サイトや動画を覗いて対策を練り上げることにより遂に勝利した」という物語を歩んでいる。
そして、SEKIROで評価されている物語は、この後者、「プレーヤーの敗北と復讐の物語」である。
プレーヤーはコントローラーを通して画面上の何かをラジコンのように操作し、それによって何者かを演じる。
独裁政権の暴君であったり、愛らしいマスコットであったり、不気味な怪物、英雄たちの指揮官、様々なものに乗り移り成り代わる。
ゲームがまだ全くリアルでなかった頃、ゲームセンターや喫茶店でレバーを握っていたプレーヤー達が演じていたのは画面のキャラクターではなかった。
「難しいゲームをスイスイと攻略するゲーマー」という役を演じていた。
レトロな世界は人間の想像力を掻き立てはしたが、そこにある没入感には限界があり、プレーヤーと画面の中のキャラクターの間にある第4の壁の厚さは現代の比ではない。
そんな中、ゲーマーを名乗る者達は「ゲームというごっこ遊びを上手にこなす自分」を演じたくてコインを投入し続けたのである。
段々とゲームは映画のように物語を見せるものへと変化していき、プレーヤー側も「キャラクターの冒険を追体験する」という感覚を求めるように変化していく。
そのうちにゲーマーは観客となり、コントローラーを握る行為が本のページを捲るのに似通ったものとなっていく。
ゲームを薦めることはストーリーを追うための手段であり、それ自体は目的ではなくなっていった。
そんな時代が続くと今度は、「自由度」「選択の影響」といったものが重視されるようになった。
単に決められたフラグを順番にこなすだけの作業は、ごっこ遊びとしては退屈になってきたのだ。
選択がゲームの世界に影響を及ぼすことにより、その世界の構成要素としての没入感がより強まることが発見される。
だが、その時代も少しずつ陰りを見せ「結局はトゥルーエンドがある」だとか「何周もするのが面倒だ」とか「どうせ全部動画で見る」だとか、そういった体験が積み重なることで、自由な選択もまた単なるフラグ管理の確認作業へと認識が変化していったのである。
「自由な選択」や「選択の責任」といった要素が飽きられだした今、ごっこ遊びはどこへ行ったのか。
再び「ゲームを遊び倒しているゲーマーの自分」を演じる遊びへと帰ってきたのである。
トロフィーの獲得状況を見せ合ったり、考察を語り合ったり、配信で盛り上がったりと、プレーヤー同士の交流が盛んになることによりゲーセン時代の「ゲームやりまくりな俺凄くね?」の遊びがインターネット上で繰り広げられるようになった。
その中で伸びていったのが、「高難易度と成長しやすさを両立したゲーム」だ。
「遊びにくさと難しいを履き違えるな」という金言があるが、これを完璧に守りきり「遊びやすいが難しい」を完成させたゲームがこのジャンルだ。
一見理不尽なほど難しいが、プレーヤーが成長することによって確実に強くなれる丁寧な階段がその中に仕込まれているゲームである。
それの亜種として「入り組んだ設定があるが、情報を整理すれば読み解けるゲーム」も人気となっている。
苦戦した強敵を軽々と倒し、まだクリアしてないプレーヤーが苦戦しているのを高みの見物をするゲームと、何回な設定について考察サイトで議論を重ねたり盗み見て理解し、それに初めて触れたプレーヤーに「いずれ分かるさ」と上から目線をかますゲーム、コントローラーを握っている間の難易度こそ違うが、そこの性質は良く似ている。
「やり込んだプレーヤーが自分の成長(成功)を感じることが出来る」という点だ。
ゲーム内外にプレーヤーの成長(成功)の物語が散りばめられており、その成長(成功)を「つい最近始めたばかりで苦戦しているプレーヤー」との比較によって実感できるようになっている。
人は、昨日よりも優れた自分になりたいという願望がある。
現代人気のゲームは、その願望を実現したかのような気持ちにさせてくれる機能があるゲームだと言えるだろう。
カルトな人気を誇るゲームを「ものすごい体験をした」と持ち上げるプレイヤーの中にある心理も、「物凄い体験をした自分」と「その体験をまだしてない自分」を比べて、成長や成功の感覚を、自分の物語として味わっているのである。
やまと
@x__yamato__x
私はなぜか暇空茜さんにブロックされているので真意は分からないのですが、暇空さんはあくまで「チー牛社会の英雄」を目指されているだけであって「NPOの公金マネロンスキームがー」など、そこまで大それたことは考えておられないのではないでしょうか🤔💬
https://twitter.com/x__yamato__x/status/1759168203631276255
https://twitter.com/ozawakazuhito/likes
小沢先生はTwitter開示請求界では著名なTwitterの大先生なため、おじいちゃんが使い方わからず操作ミスというアレではない
そして小沢先生の「いいね」の使い方は「賛同しない意見だけどブクマ代わり」というものではなく、思想的に近く好意的に感じたものを「いいね」するという単純なものである
2018年に書いたトップXの代名詞案に解説を足したよ
頂点 | - | - |
双璧 | - | - |
御三家 | 家康の子のうち格別に家格が高かった三藩主 | 徳川義直・頼宣・頼房 |
四天王 | 仏法において帝釈天に仕える守護神の四天 | 持国天・増長天・広目天・多聞天 |
五大老 | 豊臣政権末期の政務にあたった五大名 | 徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景 |
六卿 | 西周王朝の行政組織における六名の最高官職 | 冢宰・司徒・宗伯・司寇・司馬・司空 |
七賢人 | 古代ギリシアの優れた七人の統治者 | クレオブロス・ペリアンドロス・ピッタコス・ビアス・タレス・キロン・ソロン |
八部衆 | 仏法を守護する八尊の護法善神 | 天衆・龍衆・夜叉衆・乾闥婆衆・ 阿修羅衆・迦楼羅衆・緊那羅衆・摩睺羅伽衆 |
九偉人 | 中世ヨーロッパで騎士道を体現した九人の英雄 | ヘクトール/アレクサンドロス大王/カエサル/ヨシュア/ダビデ/ ユダ・マカバイ/アーサー王/シャルルマーニュ/ゴドフロワ・ド・ブイヨン |
十傑 | 史実の元ネタなし(強いて言うと維新の十傑?) | - |
フィクションのは挙げてないけど有名っぽい代替案は、六神将(テイルズ オブ ジ アビス)、七英雄(ロマンシングサガ2)、十天衆(グランブルーファンタジー)あたりかな。
3に関して、頭に数字をつける縛りなら、三羽烏または単に三傑とも呼ばれるね。十傑と被るから避けたいけど。
5に関しては、五大老がしわしわすぎて合わない場合は、五賢帝が汎用性高そうだね。古代ローマの。うん、その方が文明コンプ感高まっていいと思う。仏法はまだ被ってるけど。
もう少し前の話になってしまったけど
静岡県富士宮市で人を轢き殺した米兵が捕まって懲役になったけど、アメリカに移送されてすぐ仮釈放されて、アメリカ世論は日本が野蛮国みたいに反応してた、みたいな話があったじゃん
あれはアメリカが正しいよ
そんでここで考えるべきは、日本も同じになるしかないってことだよ
もっと大昔になるけど、日本人留学生射殺事件(ハロウィンの仮装してパーティ行こうとしたら別の家に行ってしまい撃ち殺された事件)の時とか、国をあげてアメリカを糾弾する運動をすべきだったんだよ
あるいはオーストラリアに入国しようとした日本人の携帯電話に二次ロリ画像があったから日本人が児ポ所持で捕まったとかも、被疑者を英雄みたいに取り返してオーストラリアと断交せんばかりの運動をすべきだったんだよ、お前んとこの貧相な文化と違うんだよって
ネトウヨとかは中韓相手ばかりイキってるけど中韓もそういう意味ではまともな国でしかないよ
韓国は在韓米軍に韓国人が殺されるたびにちゃんと基地を大勢で取り囲んで謝罪を取り付けてる
どこそこのチャイナタウン化を憂うなら日本も今からでも世界中にジャパンタウン(それは自国民保護の拠点でもある)を作る勢いを持つしかない
ガキだった頃、友人から「あいつおまえのこと嫌いらしい」と言われたことがある。
結構かなりショックだったのだけど、話を聞いていくとどうも腑に落ちるところがあったので、ショック以上に発見と反省点が上回った。
どうも当の同級生としては、「気遣いがだるい」的なところがあったらしい。
私にとってこれは驚くべきカルチャーショックだった。古い規範がところどころで残るコミュニティでは、「気遣い」=「正義」だったからだ。気を遣ってなんぼ、相手の思惑を汲み取って行動する、当然会話は相手を思いやる言葉に尽きる。こういう状態が平常だと思っていたし、それ以外のコミュニケーションを知らなかったのだ。この経験により「気を遣いすぎるとよくない」という実例を知った。ガキなりにありがた迷惑を理解したのである。
「気遣いがだるい」の真意とは何だったのだろうか、と未だに思うことがある。それは「気遣いがだるい」と思う側の気持ちを改めて理解するようになったことでもある。近しい人間にそういう「気遣い」=「正義」だと思っているような人がいるのだが、それをどう直してもらえばいいのか分からない。だから改めて「気遣いがだるい」を細分化してみる。
※これは一般的な「美徳としての気遣い」とかではなく、もっと個人的な「プライベート気遣い」として考える。
・余計な気を回すこと自体が、自虐の道具にされているように見える
注:ここでは自虐が自愛行為として行われているにも関わらず、自己肯定感の低さを悲哀がましく訴えるということ
・気遣いという上っ面だけの行為ではなく、こちらはぶつかり稽古を求めている
・こちらが求めていることをして「あげて」いますよ、という的外れなあざとさ
特性を挙げれば挙げるほど、「プライベート気遣い」の正体が分からなくなってきた。むしろこれは気遣いに対するだるさではなく、メタ気遣いのだるさでは?みたいな話になっている気がする。
気付きとしては、「気遣いをやめてくれ」という想いは「相手と対等に信頼しあいたい」という感情から出てきているらしい。特にぶつかり稽古とか、もし社訓にされたら最悪すぎるわけだから。気遣いをするということは自分を守るという面があって、わりと高使用頻度の基礎人間スキルでもある。自分とて、ある程度の気を遣い、他人の顔色を窺って生きることをやめようとは思わない。
じゃあもう、他人などに期待するのはきっぱりとやめるべきなのだろうか。あの人は自分に対して「プライベート気遣い」を多用するが、それはただの基礎人間スキルであって、仕方がないことだと割り切ればいいのだろうか。この「一般的な美徳としての気遣い」ではない「プライベート気遣い」の気持ち悪さ(関係性をだめにする要因)は、どう整頓すべきなのだろう。
結局解決策が分からなかった。鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がすというが、鳴くことを正しいと思っている人間に、どうやってそれを伝えてあげらればいいのか分からない。分かる人は教えてほしい。
だって「連載中の作品のドラマ化」自体、不本意だったんだから。
それに、10月放送開始なのに依頼が放送の4ヶ月前って無理がありすぎた。
だからこそ「これだけは守って欲しい」と条件をつけたけど、それを守ってもらえず脚本制作時点で揉め始めた。
最終二話については、先生が準備したプロットを使う約束だったのに、それを反故にされたわけで、
本当はこの時点でこのドラマ化は破談になるべき話だった。
ドラマ化が決定した6月からの4ヶ月でかなり消耗していただろうに、
放送が始まった後は、放送を見たり、視聴者の感想を見聞きしたりして、いろいろ思うところがあっただろうし、
自分で脚本を書いたものの納得がいかなかった最終二話の放送に行き着いた頃には、生きた心地がしなかっただろう。
そうして3ヶ月の放送が終わって、なんとかやり過ごそうとした矢先に、あの脚本家の嫌味なSNS投稿でしょ?
「そりゃないよ」って思うに決まってるじゃん。
むしろ、ここまでの間によく気力が続いたな、と思うほど。
多分先生は「自分の作品を守りたい、読者に本心を伝えたい」ぐらいの気持ちだった。
だけど、投稿がバズって自分の意図と異なる方向に広まってしまった。
同業者や業界人から同情されたり、ネットユーザーの議論や誹謗中傷を目にしたり、
自分の個人的な仕事の話をしたつもりが社会問題化してしまって、先のことが考えられなくしまったのかな、と思った。
こんなことになった以上、この先の人生は「悪のマスコミに立ち向かう英雄」扱いされることが目に見えたのかもしれない。
マンガ家というのはあくまでフリーランスの個人事業主であって、組織人ではない。
そういう立場の人が巨大組織と一人でやり合っていこうというのは、なかなか難しい。
いくら「視聴者や読者、ネットユーザーは先生の味方だ」と言ったって、
誰一人先生の力になんてなれなかったわけで、
50年前にちょっとテロ未遂して、その後、ずっと隠れ住んでただけの人間を「政府権力・警察権力に対し、挑戦し、勝ち逃げした勝者!」って持ち上げてるけど、左翼過激派全盛期の時代で、テロ一つ、統括一つ成し遂げられず、逃げ続けただけじゃん。
一方、そいつらが馬鹿にしてやまない「ゲバ棒持って、ヘルメットかぶって、なんちゃって権力闘争ごっこで合コンして結婚して教師になった」奴らは、日教組に入って教育現場に干渉し、現代においても反日、反天皇、反日の丸、反君が代の価値観を持つ子供の再生産に成功し続け、リベラル革新政党が地方行政の与党となる手助けをしている。
でもネットリベラルは前者を英雄ともてはやし、後者を社会に迎合した腑抜けと貶める。もう馬鹿過ぎて見てられない。まずは「真の味方、真の功労者」を見つけ出して大事にするところから始める、馬鹿が。