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はてなキーワード: 英雄とは

2024-03-07

やがて英雄になる最強主人公に転生したけど、dragon-novels.jpったようです

2024-03-06

もしトラに備えよう!

かつてトランプ在日米軍お金無駄というキャンペーンを展開し新聞広告掲載した

この新聞広告費用を出したのがロシアスパイではないかという話である

また、NATO支援から米国は手を引く可能性も高い

よって、我々日本アメリカ核の傘から抜け出さざるをえなくなる

核のない日本ウクライナと同様である

近い将来、日本ロシア中国支配される日が来るだろう

そして、山上教科書英雄として掲載されるだろう

なぜなら、共産主義敵対する統一教会から日本を守ったかである

2024-02-24

anond:20240223214727

英雄は優れた人につけられる二つ名だから英雄じゃないよ。よく働いた家畜だよ。

もちろん、よく働いてくれた君たちのお陰で今の日本がある。

でもすまないが老い家畜は使い物にならないから、どうなればいいかわかるよね?

まさか未だに自分が人だと思ってはないよね?

ゴミのように酷使され一生を無駄にさせられるのは家畜だよ。

さあ、もう老い役割を果たすことはできないのだから家畜としての老いを歩みなさい。

って政府若い奴は思ってると思うよ。

2024-02-23

結局ロシアを軽んじたのが良くなかったんじゃない?

正義と悪という二元論こそが、正義と悪を生み、人々を戦争へ導くという批判は置いておいて、いったん話聞いてくれる?

第二次世界大戦正義と悪、勝者と敗者と聞いて真っ先に誰が思い浮かぶ

みんな正義で勝者がアメリカイギリスと悪で敗者がドイツ日本を考えるんじゃない?

もちろんアジアではアメリカ日本という認識でいいと思うんだけど、ヨーロッパはどう?

そっちもそんな認識じゃない?

でも実際はロシアが多大な犠牲を払ってヨーロッパナチから救ったってのが正しくない?

ナチドイツ軍の死者の8割9割は独ソ戦で出てるんだよ

アメリカは今と同じで卑怯武器屋だしね

ナチドイツを倒したのはロシアと言っても過言ではないよ

なぜか米英仏辺りが英雄面してるけどさ

みずからの血でもってナチを倒した、という自負をロシアが持つのも当然じゃない?

西側諸国はなんかそれを軽んじてない?

それどころかロシア馬鹿にしてるよね

対立の原点ってそういうところにあるんじゃないの

anond:20240223165516

まじでそれ

景気悪い時に新卒からひたすら企業パワハラモラハラブラック残業に耐えて、

今の日本企業の高収益化や基盤を作った

さらに下の世代にはパワハラセクハラもしていないもちろん賃金も多く払ってる

どれだけ氷河期を使い潰して犠牲にしたかみんな意識するべき

氷河期がこの国を救ったし英雄だよ

でも企業も国も氷河期を切り捨てた

anond:20240223133532

ここ最近(と言っても結構長い間)のトレンドは、英雄末裔若しくは後継者ペンディングになってた過去因縁に決着をつけるって話だよな。

ワンピース呪術も鬼滅もナルトもみんな先人が仕留めきれなかった過去の巨悪を主人公が完全に滅ぼすってストーリーやろ。

話の盛り上がり所作やすいし、過去編を差し込んで話の引き延ばしとかもし易いし、その気になればスピンオフも作れるしな。

バトル物は作者が意識して話の骨子やギミックを作り込まないと編集にこのテンプレ誘導されちゃうのかなって思うわ。

ヒストリエの「だましてくれたなああああ」って「ば~~~~っかじゃねぇの!?」との対比構造になっている?

どっちもネットで有名なコマ元ネタって部分ばかり注目されがちだけど、この2つはよく見ると結構似ている。

肉親を殺した相手の元で粛々と暮らす両者が決定的な決別を前に振り向きざまに発する言葉だ。

大きな違いは、かたや国家転覆を行えるほどの力を持ち、かたやただ状況に流されるしかない奴隷であるという点だ。

エウメネス物語英雄への憧れを持ち、数々の英雄譚を諳んじるほどに読み込んできた。

時には自身物語英雄のように知恵を回して窮地を脱するだけの才覚を持つ。

だが、その力は書にしたためられた伝説勇者と比べれば余りにも非力だ。

その差は、運命の岐路に立たされた時、その道を自分で選ぶことは出来るかどうかという形で現れる。

ハルゴスが振り向きざまに発した言葉別離言葉であると同時に、王国をひっくり返すだけの決定的な宣言であった。

だがエウメネスが同じく振り向きざまに発した言葉は、家族であった者達の心にわずかばかりの爪痕を残すことが精一杯だった。

このシーンは両者の対比により、幼いエウメネスの持つ非力さを表しているのではないだろうか。

同時に、持てるばかりの知恵をもって、少しでも世界に己の爪痕を残さんとする執念、気位を表現しているようにも見える。

我々はインターネットで何度も見てきたコマ漫画に見つけると、ついついそれがネット元ネタであることばかりに注目してしまう。

だが、そもそもをしてネットで何度も使われるほどの力を持つコマというものは、それ自体物語の中で強い力を持ち、読者の心に深く刻まれるシーンなのではないか

何故、ヒストリエのこの「だましてくれたなああああ」と「ば~~~~っかじゃねぇの!?」がここまで読者の心を惹きつけるのか。

何故、作者はそれほどの気持ちを込めてこの2つの場面を描いたのか。

対比のためだったのではないか

後々に対比するために読者に強烈に印象付け、また片割れを思い出させるために再び強烈な印象を持って描いたのではないか

国を一つひっくり返すに至ったハルゴスの力を持て、エウメネスの非力を印象づける。

その意図、魂がこもっているのではないだろうか?

2024-02-22

anond:20240222014156

たぶん客観的にはどうであれ当時の部活動内ではその後輩は周囲に迷惑をかける頭が悪くて空気の読めない嫌われ者で、その陰湿計画を実行した副部長書記はみんなのために一役買った英雄なんだと思うよ。

からこのクズはおそらく集団いじめをしたとも思っていないしメンバー間で立てられた計画や後輩を追い詰めて気力を削いで排斥した行為を本気で正当な功績だと思ってるよ。

女の集団なんてそんなもん。

2024-02-19

ゲームって二つのストーリーが同時に進んでるよな

前置き(「なんとなくわかった」と思った時点で飛ばしていいよ)

第4の壁によってそれらは真っ二つに区切られている。

「一度もゲームオーバーになることなく最終決戦まで生き延びる主人公たちの物語

「何度もゲームオーバーになりながら、リトライを繰り返しながら成長するプレイヤー物語

もちろんこの二つを両立させることは出来る。

それはゲームオーバーと死を結びつけないことだったり、周回プレイさえも含めてキャラクターの設定に組み込んでしまうことがそれだ。

クリアと同時にセーブデータを消去したり、更にはセーブデータを消した事実さえゲームの中に組み込んでくる作品も出てきた。

それでも、新しいゲーム機やPCを購入すればプレイヤーは0から世界スタート出来てしまう。

同時に、まだプレイしたことがないゲームネタバレを知ってしまえば、0からゲームを始める機会は永遠に失われる。

ゲーム物語」と「プレイヤー物語」は絶対的独立している。

それを打ち破ったのがMMOゲーム凄さであると語る人もいるが、たとえゲームの中の時計を止めることを不可能にしても、プレーヤー物語ゲームの中に組み込もうとしても、結局それらはゲームであることから脱することはないと私は考えている。

ゲームスポーツとしての側面を追求することでプレーヤー物語ゲーム勝敗に引きずり込むことは出来ても、そこまで来ると今度はゲームの中におけるストーリーは形を失い、競技のための触媒しかなくなるのではないか

将棋盤の上に広がっていた国盗りの物語は、プレーヤー技術向上に伴いただの記号となる。

本題

その昔、「物語が素晴らしい」と語られるゲームは「ゲームの中の物語」に対して送られる言葉だった。

だが、時代と共にそれは変化し、ナラティブ重要性が語られるようになる内に「プレーヤー物語」こそが重視されるようになった。

たとえばSEKIROだ。

主人公では死の淵から蘇る設定こそあるが、ボスキャラクターに敗北したとき世界時間のものが巻き戻る。

第二形態になるまで痛めつけたはずの敵は無傷へと戻り、登場人物は同じ会話を何度も繰り返す。

主人公物語」は「ただ一度の敗北を除けば、不死の力により強敵を打ち破り続けた豪傑」であるが、プレイヤーは「何度も敗北しながら相手のモーションを盗み、時に攻略サイト動画を覗いて対策を練り上げることにより遂に勝利した」という物語を歩んでいる。

そして、SEKIROで評価されている物語は、この後者、「プレーヤーの敗北と復讐物語である

ゲームごっこ遊び場所だ。

プレーヤーコントローラーを通して画面上の何かをラジコンのように操作し、それによって何者かを演じる。

独裁政権暴君であったり、愛らしいマスコットであったり、不気味な怪物英雄たちの指揮官、様々なものに乗り移り成り代わる。

ゲームがまだ全くリアルでなかった頃、ゲームセンターや喫茶店レバーを握っていたプレーヤー達が演じていたのは画面のキャラクターではなかった。

「難しいゲームスイスイ攻略するゲーマー」という役を演じていた。

レトロ世界人間想像力を掻き立てはしたが、そこにある没入感には限界があり、プレーヤーと画面の中のキャラクターの間にある第4の壁の厚さは現代の比ではない。

そんな中、ゲーマーを名乗る者達は「ゲームというごっこ遊びを上手にこなす自分」を演じたくてコインを投入し続けたのである

段々とゲーム映画のように物語を見せるものへと変化していき、プレーヤー側も「キャラクター冒険追体験する」という感覚を求めるように変化していく。

そのうちにゲーマーは観客となり、コントローラーを握る行為が本のページを捲るのに似通ったものとなっていく。

ゲームを薦めることはストーリーを追うための手段であり、それ自体目的ではなくなっていった。

そんな時代が続くと今度は、「自由度」「選択の影響」といったものが重視されるようになった。

単に決められたフラグを順番にこなすだけの作業は、ごっこ遊びとしては退屈になってきたのだ。

選択ゲーム世界に影響を及ぼすことにより、その世界構成要素としての没入感がより強まることが発見される。

だが、その時代も少しずつ陰りを見せ「結局はトゥルーエンドがある」だとか「何周もするのが面倒だ」とか「どうせ全部動画で見る」だとか、そういった体験が積み重なることで、自由選択もまた単なるフラグ管理確認作業へと認識が変化していったのである

自由選択」や「選択責任」といった要素が飽きられだした今、ごっこ遊びはどこへ行ったのか。

再び「ゲームを遊び倒しているゲーマー自分」を演じる遊びへと帰ってきたのである

これには配信SNS関係している。

トロフィーの獲得状況を見せ合ったり、考察を語り合ったり、配信で盛り上がったりと、プレーヤー同士の交流が盛んになることによりゲーセン時代の「ゲームやりまくりな俺凄くね?」の遊びがインターネット上で繰り広げられるようになった。

その中で伸びていったのが、「高難易度と成長しやすさを両立したゲーム」だ。

「遊びにくさと難しいを履き違えるな」という金言があるが、これを完璧に守りきり「遊びやすいが難しい」を完成させたゲームがこのジャンルだ。

一見理不尽なほど難しいが、プレーヤーが成長することによって確実に強くなれる丁寧な階段がその中に仕込まれているゲームである

それの亜種として「入り組んだ設定があるが、情報を整理すれば読み解けるゲーム」も人気となっている。

考察が盛り上がるタイプゲームということだ。

苦戦した強敵を軽々と倒し、まだクリアしてないプレーヤーが苦戦しているのを高みの見物をするゲームと、何回な設定について考察サイト議論を重ねたり盗み見て理解し、それに初めて触れたプレーヤーに「いずれ分かるさ」と上から目線かますゲームコントローラーを握っている間の難易度こそ違うが、そこの性質は良く似ている。

「やり込んだプレーヤー自分の成長(成功)を感じることが出来る」という点だ。

ゲーム内外にプレーヤーの成長(成功)の物語が散りばめられており、その成長(成功)を「つい最近始めたばかりで苦戦しているプレーヤー」との比較によって実感できるようになっている。

人は、昨日よりも優れた自分になりたいという願望がある。

だが簡単はいかない。

現代人気のゲームは、その願望を実現したかのような気持ちにさせてくれる機能があるゲームだと言えるだろう。

カルトな人気を誇るゲームを「ものすごい体験をした」と持ち上げるプレイヤーの中にある心理も、「物凄い体験をした自分」と「その体験をまだしてない自分」を比べて、成長や成功感覚を、自分物語として味わっているのである

現代ゲームに求められるのは「自分成功したという物語」をプレーヤーが味わえることだ。

ゲームにおけるストーリーの良し悪しは、脚本ではなく、プレーヤーナラティブによって決定されている。

暇空茜の弁護士である小沢一仁、やらかす

やまと

@x__yamato__x

私はなぜか暇空茜さんにブロックされているので真意は分からないのですが、暇空さんはあくまで「チー牛社会英雄」を目指されているだけであって「NPOの公金マネロンスキームがー」など、そこまで大それたことは考えておられないのではないでしょうか🤔💬

https://twitter.com/x__yamato__x/status/1759168203631276255

このツイートを暇空茜の弁護士である小沢一仁が「いいね」する

https://twitter.com/ozawakazuhito/likes

小沢先生Twitter開示請求界では著名なTwitter大先生なため、おじいちゃんが使い方わから操作ミスというアレではない

そして小沢先生の「いいね」の使い方は「賛同しない意見だけどブクマ代わり」というものではなく、思想的に近く好意的に感じたものを「いいね」するという単純なものである

小沢先生は「暇空はチー牛社会英雄を目指している」という意見賛同したのである

これ、他はともかく、モンゴル人の名前が「チンギス」で何がおかしいのかよく分からない…

日本人だったら「義経」とか「信長」みたいなものでしょ?

英雄的な武将名前子供に付けるって割とありがちなので

何が悪いのか分からない


https://twitter.com/crowclaw_109/status/1759172803067265047

サラエボ事件皇太子暗殺されて激おこしただけなのにオーストリアって第一次世界大戦敗戦国なのかよ・・・

この世に正義なんてねえな

そりゃ安倍さん暗殺した山上英雄視されて自民党が叩かれる謎の現象が起きるわけだわ・・・

2024-02-17

ナワリヌイが反プーチン英雄みたいに持ち上げられてるけど、あいつは大ロシア主義者スラブ主義者極右民族主義者反イスラム主義者で、南オセチア侵攻とグルジア戦争は支持してたし、クリミア半島は返さないって明言してたので、敵の敵なら中身どんなのでも祭り上げて英雄化するのアホだなと

2024-02-12

再掲

2018年に書いたトップXの代名詞案に解説を足したよ

頂点--
双璧--
御三家家康の子のうち格別に家格が高かった三藩主徳川義直・頼宣・頼房
四天王仏法において帝釈天に仕える守護神四天持国天増長天広目天多聞天
五大老豊臣政権末期の政務にあたった五大名徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家小早川隆景
六卿西周王朝行政組織における六名の最高官職冢宰・司徒・宗伯・司寇・司馬・司空
七賢人古代ギリシアの優れた七人の統治者クレオブロス・ペリアンドロス・ピッタコスビアスタレスキロン・ソロ
八部衆仏法守護する八尊の護法善神天衆・龍衆・夜叉衆・乾闥婆衆・
阿修羅衆・迦楼羅衆・緊那羅衆・摩睺羅伽
偉人中世ヨーロッパ騎士道体現した九人の英雄ヘクトール/アレクサンドロス大王/カエサル/ヨシュア/ダビデ/
ユダ・マカバイ/アーサー王/シャルルマーニュ/ゴドフロワ・ド・ブイヨン
十傑史実元ネタなし(強いて言うと維新の十傑?)-

 

フィクションのは挙げてないけど有名っぽい代替案は、六神将(テイルズ オブ ジ アビス)、七英雄(ロマンシングサガ2)、十天衆(グランブルーファンタジー)あたりかな。

3に関して、頭に数字をつける縛りなら、三羽烏または単に三傑とも呼ばれるね。十傑と被るから避けたいけど。

5に関しては、五大老しわしわすぎて合わない場合は、五賢帝汎用性高そうだね。古代ローマの。うん、その方が文明コンプ感高まっていいと思う。仏法はまだ被ってるけど。

2024-02-10

日本も騒げばいいんだよ

もう少し前の話になってしまったけど

静岡県富士宮市で人を轢き殺した米兵が捕まって懲役になったけど、アメリカ移送されてすぐ仮釈放されて、アメリカ世論日本が野蛮国みたいに反応してた、みたいな話があったじゃん

あれはアメリカが正しいよ

自国民利益を最大限突き通すのは当然じゃん

そんでここで考えるべきは、日本も同じになるしかないってことだよ

もっと大昔になるけど、日本留学生射殺事件ハロウィン仮装してパーティ行こうとしたら別の家に行ってしまい撃ち殺された事件)の時とか、国をあげてアメリカ糾弾する運動をすべきだったんだよ

あるいはオーストラリア入国しようとした日本人の携帯電話二次ロリ画像があったか日本人が児ポ所持で捕まったとかも、被疑者英雄みたいに取り返してオーストラリア断交せんばかりの運動をすべきだったんだよ、お前んとこの貧相な文化と違うんだよって

ネトウヨとかは中韓相手ばかりイキってるけど中韓もそういう意味ではまともな国でしかないよ

韓国在韓米軍韓国人が殺されるたびにちゃん基地大勢で取り囲んで謝罪を取り付けてる

どこそこのチャイナタウン化を憂うなら日本も今からでも世界中ジャパンタウン(それは自国民保護の拠点でもある)を作る勢いを持つしかない

沖縄アメリカ基地相手では良く頑張ってるよ

最後に勝つの相手よりも大声で騒いだ側だよ

そこに理屈はない(リアリズムとかですらない)

もっと騒いで、日本日本だって言わなきゃダメ

2024-02-04

気遣いだるい

ガキだった頃、友人からあいつおまえのこと嫌いらしい」と言われたことがある。

結構かなりショックだったのだけど、話を聞いていくとどうも腑に落ちるところがあったので、ショック以上に発見反省点が上回った。

どうも当の同級生としては、「気遣いだるい」的なところがあったらしい。

私にとってこれは驚くべきカルチャーショックだった。古い規範がところどころで残るコミュニティでは、「気遣い」=「正義」だったからだ。気を遣ってなんぼ、相手の思惑を汲み取って行動する、当然会話は相手を思いやる言葉に尽きる。こういう状態が平常だと思っていたし、それ以外のコミュニケーションを知らなかったのだ。この経験により「気を遣いすぎるとよくない」という実例を知った。ガキなりにありがた迷惑理解したのである

気遣いだるい」の真意とは何だったのだろうか、と未だに思うことがある。それは「気遣いだるい」と思う側の気持ちを改めて理解するようになったことでもある。近しい人間にそういう「気遣い」=「正義」だと思っているような人がいるのだが、それをどう直してもらえばいいのか分からない。だから改めて「気遣いだるい」を細分化してみる。

※これは一般的な「美徳としての気遣い」とかではなく、もっと個人的な「プライベート気遣い」として考える。

・余計な気を回すことが、対等な関係放棄しているように映る

・余計な気を回すこと自体が、自虐の道具にされているように見える

 注:ここでは自虐自愛行為として行われているにも関わらず、自己肯定感の低さを悲哀がましく訴えるということ

気遣いという上っ面だけの行為ではなく、こちらはぶつかり稽古を求めている

相手との信頼関係ができていないことへの不安

こちらが求めていることをして「あげて」いますよ、という的外れなあざとさ

自己陶酔のちらつく気遣い英雄思考へのあこがれ?)

特性を挙げれば挙げるほど、「プライベート気遣い」の正体が分からなくなってきた。むしろこれは気遣いに対するだるさではなく、メタ気遣いのだるさでは?みたいな話になっている気がする。

気付きとしては、「気遣いをやめてくれ」という想いは「相手と対等に信頼しあいたい」という感情から出てきているらしい。特にぶつかり稽古とか、もし社訓にされたら最悪すぎるわけだから気遣いをするということは自分を守るという面があって、わりと高使用頻度の基礎人間スキルでもある。自分とて、ある程度の気を遣い、他人の顔色を窺って生きることをやめようとは思わない。

じゃあもう、他人などに期待するのはきっぱりとやめるべきなのだろうか。あの人は自分に対して「プライベート気遣い」を多用するが、それはただの基礎人間スキルであって、仕方がないことだと割り切ればいいのだろうか。この「一般的美徳としての気遣い」ではない「プライベート気遣い」の気持ち悪さ(関係性をだめにする要因)は、どう整頓すべきなのだろう。

結局解決策が分からなかった。鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がすというが、鳴くことを正しいと思っている人間に、どうやってそれを伝えてあげらればいいのか分からない。分かる人は教えてほしい。

2024-02-03

anond:20240203194950

から偉大なる神君であり救国の英雄安倍晋三閣下様の像を建造しその下で自民党政府と愉快な上級国民指導元みんなで楽しくくらしく暮らそうや

安倍晋三がどれだけ酷い政治家だったとしても、暗殺という形は正当化できないのと同程度には、仁藤夢乃がどれだけ酷い活動家だったとしても、暇ナントカ誹謗中傷正当化できないよなぁ、くらいの感想

安倍晋三を正当な場で裁く前に「若くして命を落とした英雄」というポジションを与えた山上のことは恨んでも恨みきれないし、仁藤夢乃を正当な場で裁く前に「不当な差別によって弾圧された可哀想被害者」というポジションを与えた暇ナントカさんのことは恨んでも恨みきれない。

2024-01-30

anond:20240129211836

先生ドラマ化を承諾した時点で詰んでた。

だって「連載中の作品ドラマ化」自体不本意だったんだから

それに、10月放送開始なのに依頼が放送の4ヶ月前って無理がありすぎた。

だけど、テレビ局出版社に説得されたのか断れなかった。

からこそ「これだけは守って欲しい」と条件をつけたけど、それを守ってもらえず脚本制作時点で揉め始めた。

それでもドラマ制作は止まらず、我慢して脚本修正をした。

最終二話については、先生が準備したプロットを使う約束だったのに、それを反故にされたわけで、

本当はこの時点でこのドラマ化は破談になるべき話だった。

ドラマ化が決定した6月からの4ヶ月でかなり消耗していただろうに、

放送が始まった後は、放送を見たり、視聴者感想を見聞きしたりして、いろいろ思うところがあっただろうし、

自分脚本を書いたものの納得がいかなかった最終二話の放送に行き着いた頃には、生きた心地がしなかっただろう。

そうして3ヶ月の放送が終わって、なんとかやり過ごそうとした矢先に、あの脚本家の嫌味なSNS投稿でしょ?

「そりゃないよ」って思うに決まってるじゃん。

から年明けになって小学館相談したんだろうけど、

もうこの時点でHPは残りわずかだったはず。

しろ、ここまでの間によく気力が続いたな、と思うほど。

最後の力を振り絞ってブログとXの記事を書いたんでしょう。

多分先生は「自分作品を守りたい、読者に本心を伝えたい」ぐらいの気持ちだった。

だけど、投稿がバズって自分意図と異なる方向に広まってしまった。

同業者業界人から同情されたり、ネットユーザー議論誹謗中傷を目にしたり、

自分個人的仕事の話をしたつもりが社会問題化してしまって、先のことが考えられなくしまったのかな、と思った。

こんなことになった以上、この先の人生は「悪のマスコミに立ち向かう英雄」扱いされることが目に見えたのかもしれない。

マンガ家というのはあくまフリーランス個人事業主であって、組織人ではない。

そういう立場の人が巨大組織と一人でやり合っていこうというのは、なかなか難しい。

いくら視聴者や読者、ネットユーザー先生の味方だ」と言ったって、

誰一人先生の力になんてなれなかったわけで、

クリエイティブ仕事商業化するということの困難さを改めて思った。

2024-01-29

リベラルって、本当馬鹿

50年前にちょっとテロ未遂して、その後、ずっと隠れ住んでただけの人間を「政府権力警察権力に対し、挑戦し、勝ち逃げした勝者!」って持ち上げてるけど、左翼過激派全盛期の時代で、テロ一つ、統括一つ成し遂げられず、逃げ続けただけじゃん。

一方、そいつらが馬鹿にしてやまない「ゲバ棒持って、ヘルメットかぶって、なんちゃって権力闘争ごっこ合コンして結婚して教師になった」奴らは、日教組に入って教育現場干渉し、現代においても反日、反天皇反日の丸、反君が代価値観を持つ子供再生産に成功し続け、リベラル革新政党地方行政与党となる手助けをしている。

でもネットリベラルは前者を英雄ともてはやし、後者社会迎合した腑抜け貶める。もう馬鹿過ぎて見てられない。まずは「真の味方、真の功労者」を見つけ出して大事にするところから始める、馬鹿が。

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