はてなキーワード: メンタリティとは
動物園的な正しさのことは、前に言ったような太古の法や幕府のおふれやスローガンやプロパガンダなど時代遅れの古ぼけた知識、周辺知識の抜け落ちたかつて「もともと正しかったかもしれないもの、はるか昔に正しいとされたこと」が断片的に生き残ったおさがりを、なんとなく正義として主張してる人たちの無知ゆえの一体化、と定義しよう。
そして世の中のほぼ99%の「正しさ」「指標」は、元を辿り中身を解きほぐしていけば、上記動物園的なおさがりと、下記の取り決めのどちらかにいきつく、と言わせてもらう。
「水を0度で凍ると定義する」ことも傘も殺人も医療も化学も他もすべて、「これを正しいとする定義や指標を作った」という意味でしかなく、同じものだと言ってるんだがな。
ウイルス感染を君は科学的検証から得られる妥当性というが、その妥当性という概念自体が「正しさ」という概念なのだよ。過去の膨大なデータから行ったとしても「未来予測」「予想」が確実な100%になることはありえない。99.999999%の確率だとしても。過去の観測から相当程度に確からしいと言えることを今回の事象に当てはめることでしかない。確率と定義をどう扱うかの基準を正しさというんだ。医師がデータをもとに目の前の患者に対して「ほぼ確実といえる程度に正しい治療を選択する」営みはただの科学的観察の結果以上に、何をもって正しいとするのか、正しいとされる指標に基づいた正しさの判断と選択だ。科学的検証をどの程度信頼するか、判断をどの程度信頼するか、得られたデータをどの程度信頼するか、定義と取り決めだ。
そして傘の件も上記と全く同様である。どれを妥当とするか、過去の事例の観察や観測や分析から相当程度に確からしいと言えることを今回の事象に当てはめ、どの程度信頼するか、確度と定義をどのように扱うかの話である。
この例からは傘を盗んだ人を特に意味もなく死刑にするのは正しくないとあなたが考えていることが窺える。
では、傘を盗んだ人は正しいだろうか?
社会的な取り決めからすると、人のものを盗むのは正しくないとされている。
これは2000年も昔から問われていることがわかる問いだ。有名な「罪のない者だけが石を投げよ」だ。
ここで迷いなく石を投げられてしまうメンタリティを、私は「自分を正しいと思い込む」と呼んでいる。
つまり、私が批判する「正しさを盾にした他責思考」というのは、奇しくもあなたが例に挙げた傘を盗んだ人を特に意味もなく死刑にする社会を招くものでもあるのだ。
その、2000年前の「罪のないものだけが石を投げよ」云々、石投げメンタリティ~~云々は、前述した時代遅れの周辺知識の欠落した太古の法が勝手にことわざとか標語になってなんとなく大衆に伝わってなんとなく大衆が信じ込んでるおさがり、つまり動物園的大衆的正しさとここでは定義している。私がずっと返してきた大衆的正しさのツリーを見てもらいたい。言いたいことはおそらくミルグラムの実験等で見られた傾向のようなものの話だろう。それは人自体の傾向のようなものだ。個人が批判するしないの問題ではない。
それを踏まえた上で議論を続けた結果が現代の(私の言う狭義の)正しさである。正しさとは、現在進行形ではあるが、今現在の最も確実に目的を達成する方法の探求と言い換えて差し支えない。
傘を盗んだ人が正しいかどうかの議論の結果が単純に傘を盗んだ人を死刑にする社会を招くことはない。(大衆的動物園の正しさではそのようなことわざや美談や道徳があるかもしれないがこれに深入りするのは「正しさ」の議論からは遠ざかるので割愛。報道や別の分野の話になるだろう。)どうすれば簡単に人を死刑にする社会が起こるのかと傘の件は全く別の議題で議論が重ねられて今に至っている。これも観察と確度と扱いや取り決めによる。傘を盗んだ人をどうするか、人を意味もなく死刑にする社会は正しいのか、殺人を正しいとするのか、100%の確率は到底求め得ないが、どのように扱い何をどの程度信頼するのか。そういうことを取り決める確度と取り決めの積み重ねが現代社会には存在しており、議論と改善を繰り返している。これは他の正しさと全く異ならない。
風邪の原因がウイルスに感染したことであるのは仮定でもなく社会に必要とされる便宜的な定義でもなく科学的検証に基づく観察の結果だよ。
あなたがここで挙げた例は全てが「取り決め」ではないことをまずご理解されたい。
そして、私が言う思い込めてしまう正しさは「取り決め」の方だ。ただ、科学的整合性、妥当性は思い込みの正しさではないものの、やはりその正しさに依存することは十二分にあり得るが、それはハイコンテキストなのであなたが理解している「正しさとは取り決めである」という定義に基づいて話そう。
あなたが例に挙げた
風邪ひいた人間におかしな治療をしたらその確率の壁を超える選択をした合理的な理由を求めるでしょう
風邪をひいた人に何の意味もなくいきなり高血圧の薬を無根拠に投与したら下手すると死ぬよ
と言う4つのうち、社会的な取り決めに違反していると言えるのは傘の例だけだ。なので、この例を題材にして自分が正しいと思い込むことがどのようなことか説明したいと思う。
この例からは傘を盗んだ人を特に意味もなく死刑にするのは正しくないとあなたが考えていることが窺える。
では、傘を盗んだ人は正しいだろうか?
社会的な取り決めからすると、人のものを盗むのは正しくないとされている。
これは2000年も昔から問われていることがわかる問いだ。有名な「罪のない者だけが石を投げよ」だ。
ここで迷いなく石を投げられてしまうメンタリティを、私は「自分を正しいと思い込む」と呼んでいる。
つまり、私が批判する「正しさを盾にした他責思考」というのは、奇しくもあなたが例に挙げた傘を盗んだ人を特に意味もなく死刑にする社会を招くものでもあるのだ。
サッカーW杯日本順調な時点から「逆転負け」がトレンド入りするのが日本人の国民性ってつぶやき見て共感しかない。
調子がよければ良いほど、喜ぶ準備より「がっかりの予習と保険作り」ばかりやる。
自分もそう。石橋を叩き壊してでも自分のツイてなさを立証したい欲がある。
なんだこれは!
敗北主義なんだろうな。どうせ、どうせ、というイジけによって獲得した「安寧」を何よりも愛しているし、そのイジけの中でしか発揮できない「尊いなにか」があると信じてる。信じなきゃ2秒後に氏ぬ。
そーいう切迫感。
でも実際そーいうメンタリティのヒトだけが作れる価値ってあるよ。
余裕あるヒトが上から目線で「お、これ使えるじゃん」って、負い目まみれであなたが作ったものを拾ってくれる。そんで手柄も権利も全部見つけたヒトのもん。
そんな、なろう系序盤の主人公ポジみたいなのが一生続くのが日本国民の普遍的リアリティ。
30歳男。収入は平均ぐらい。
仕事のストレスが溜まると外食したり、ちょっとしたガジェットを買ったりでお金を使ってしまう。
毎月収支はトントンかマイナス。貯めておくはずのボーナスで補填することも多い。
これでは投資なんて夢のまた夢。
女性の方が高収入であるほど、男性の家事分担が増える‥ことはない。
女性の収入の割合が50-60%を占める場合、男性の育児家事負担率は約20%。
https://president.jp/articles/-/46753?page=4
1. 女性の方が高収入だという状況は、夫が何らかの事情で働けない状態である可能性があり、その場合夫は育児家事ができない
2. 妻の収入の割合が多いため?、夫の男性らしさを保つために妻が家事を担う(ジェンダーディスプレイ仮説)
実際にアメリカでのある調査では、低学歴の男性ほど、ジェンダー役割を担わない女性を罰する傾向がある、という結果が得られている。
上記の記事中では、女性の方が高収入であるほど男性が浮気しやすい、という調査結果への言及(の言及)もある。
つまり、下方婚した女性は、相手の「男性らしさ」を満たすための負担が求められる可能性がある。
男女の賃金格差が縮まれば、女性の社会的成功をサポートできる男性が増えるとは思う。
妊娠出産も間違いなくハードルの一つなのだけど、それは女性のメンタリティの問題ではなくて、社会システムの問題だと思う。
実際、日本ほど育児休業が長い国を知らない。出産後は様々な手段で子供の面倒を見てもらって(親、夫の育休、ケア施設、ナニーなど)、自分の体を回復させることに専念し、仕事に復帰するというイメージがある。