はてなキーワード: 内ゲバとは
つい先日まで揉めに揉めていた 仁藤vs米山の泥沼戦争が「温泉むすめ」という共通の敵の出現により一気に鎮火した。
なぜ左派はオタクを叩くのか?という疑問の答えはやはりこれだと思う。
インターネット上で意見の異なる人々が団結するためには、「キモオタ叩き」は有効なのだ。
・いつでも叩ける
・オーディエンスにキモオタの醜悪さを共有する際、オタク絵だけを表示すれば良い
特に重要なのは、ネットにはキモオタが常駐しており、叩けばすぐに群がってくれるということだろう。
これによってSNS上のアテンションを一気に集めることができ、他の話題を中断して対オタクでの共同戦線に持ち込みやすい。
また、他の政治的な話題だと叩く論拠としてどうしてもある程度の長さのテキストが必要になってしまう。
しかしキモオタ叩きは画像+キャプションだけで成立するので非常に簡単にオーディエンスを稼げる。
オーディエンスの基本使用デバイスがスマートフォンである事を考えれば望ましい性質と言える。
ネトウヨ叩きは一時このポジションだったが、とくに20代以下の世代では熱心なネトウヨが減少しており、反論やアテンションを集めづらくなってきている。
いくら叩かれても消えないキモオタという存在はますます重要な政治的資源となっていくだろう。
異なる意見を持つ人間が議論によって団結することは非常に難しい。というかほぼ不可能である。
むしろ議論すればするほど敵対者が増え、内ゲバのような構造になってしまうのが左派の歴史だった。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/141440
先の衆院選の比例代表東京ブロックで、立憲民主、国民民主両党に案分される「民主党」と書かれた票が28万3783票に上ったことが、本紙の集計で分かった。両党はともに、投票用紙に書く略称を「民主党」と総務省に届け出たため、得票に応じて振り分けられることが事前に固まっていた。
単なる内ゲバの結果、票が分散して泣き言言ってるだけじゃねーか、バーカ。
いつまでもそんなしょうもない遊びしてるから支持率が上がらねーんだよ、ボケが。
マジメにやれ、カス。
浅すぎる。
『平成狸合戦ぽんぽこ』は多摩の開発と自然破壊を題材にしているが、そこに描かれているテーマは「自然vs人間」ではない。
「里山vs都会」だ。
なぜ狸が擬人化されているのか?
狸の反抗が左翼活動家集団のように描かれて、居座りやら内ゲバのようなものまで描写されるのはなぜか?
ラストに敗北した狸が「慰み」として作り上げた幻覚は、どうしてただの狸の生息する森や山ではなく、かつての暮らしをする人々のいる人里なのか?
狸たちは都会人としての生活に反抗し、里山的な生活を固持しようとする人間の表象だ。
物語のラストで、敗北した狸たちは、人間に化けられるものは都会の暮らしを余儀なくされ、人間ではない狸たちは社会から阻害されて死出の旅へと出る。
その表象を現実と照らし合わせたときに、単に自然破壊はよくないという感想になるのだとしたら、あまりに貧しい。
この物語の類型は、戦後の日本において産業構造の変化に伴い、それまであった田舎といったものや、そこに住む人々たちが変化していかざるを得なくなったという話の仲間だ。
たとえば『フラガール』なんかは第3次産業に移行する時期の地方の村における人々を克明に描写している。
同じジブリでも、近い時期に製作された『耳をすませば』や『もののけ姫』は同じテーマをベースにしている。
この時期というのは、宮崎駿が漫画『風の谷のナウシカ』の方向性を裏返してラストを書き上げた時期でもあるし、寄生獣の岩明均が「環境問題への見方が連載当初と変わってきた」と述懐しつつあのラストを描いた時期でもある。
増田が考えるような純朴な「自然環境保護」の思想が日本のアニメや漫画で力を持っていたのは、藤子・F・不二雄が没するくらいまでだろう。
晩年の大長編ドラえもんではかなり純朴な「自然環境保護」思想が描写される。
思うに、こうした「自然環境保護」の思想は90年代前半にピークを迎えたあと、90年代後半には変質したのではなかろうか。
純朴なほうの「自然環境保護」は「道徳」と親和性が高いので、2000年代くらいまでは学校教育に根強く残っていたような肌感触がある(その後の教育がどのようであるかは寡聞にして知らない)。
この時期的なギャップから、この時代の作品についての評価についてはかなり歪みが残っているように感じられる。
2000年代以降は複雑化し単純に善悪で語れなくなった「自然環境保護」思想はあまりフィクションで求められることがなくなったというのもあり、当時鑑賞していた人間もこの認識に無自覚のまま、見方を更新できていないのだろうと思われる。
もし現在の視座から再び『平成狸合戦ぽんぽこ』をみるとしたら、空疎に都会化する郊外についてとか、ゴーストタウン化する商店街とか、高齢化した多摩ニュータウンに残る空き家とか、多摩で育った子供が大人になってどこに行ったのかとか、そういったことに思いを馳せることになるだろう。
しかしやはり作品のメインとしては、活動をする集団の人間くさい失敗あるあるをみて笑い泣くエンタメという楽しみ方になるだろう。
「多摩の自然が素晴らしい」という感想はその次に、絵としての美しい描写として出てくるものになるだろう。
そして、「自然を守らなければならない」というのは、この映画のテーマとしてではなく、描かれた美しい自然に感動した観客が、自身の良心でもって結論づける感想としてしか出てこないだろう。