眠気から文字を拾っては書き、拾っては書き、素面では考えてないようなことも書いた気がします。
私の地球にはHLなんて言葉は「まだ」ありませんが、HLという言葉が生まれたこともまた男らしさや女らしさのように尊いと思えるようになりました。
毒を吐き切ったのかもしれません。
NLと呼ぶことのエモさもわかってほしいし、HLと呼ぶことのエモさも(あるのであれば)わかりたいです。
ただ、これきのことたけのこなみに分かり合えない気がします。HLはNLと共存することはなく、取って代わろうとしています。pixivで両方のタグをつけて好きな方を追えば、そのかわり絶対両方つけようね!って言わない限り認め合うことはできないのかもしれません。
人間は滅ぶべきかもしれません。
おやすみなさい。
たぶんそれはソースが偏っている
NLをHLにしたい云々みたいな話を耳にしましたが個人的にはしんどいです。この話はLlGlBlTlQの推進派が読んだら泣いて倒れちゃうほど頭が硬い話です。検索避けするくらい。
いつかは時代に従わなきゃいけなくなるかもしれないので、だったら全く新しい考えに染まっていない綺麗な「古い考え方」を残しておきたいと思いました。あわよくばこの考え方のまま生きていたいけどね。
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私は頭が硬い「男女が交わって子どもを産むからNL」派の人間です。
ヨメと子どもが幸せな家庭に必須ではなくなった時代ですが、本当にそれでいいと思いますか?出生率が下がって子どもを必ずしも育てなくなって全てのお金と時間を自分に捧げるようになる、私はそうなりたくはないんです。
私はLlGlBITIQだからそんな高望みはできないって思う人もいるかもしれませんが、同性でも子どもが作れたらとしたら、子どもを望みますか?できないと望まないは違うんです。
なんの根拠もないけれど地球と生き物はみんな生存と繁栄を目標にしていると思っています。
叶わないと望まないは違う、現に私は叶わないになりかけてる。でも地球はきっと私の子どもに会うのを待ってます。男じゃなくて地球とでも子どもが作れればすぐに見せてあげられるんですけどね。
男女でも子どもが生まれなければ地球にとってイレギュラーで、ノーマルの中にだってアブノーマルはあるんです。
でも私は地球の設計を信じているから異性愛にノーマルを名乗って欲しい。
ご都合主義で同性同士でも妊娠する作品ができた!それは私にとってはBLだろうがGLだろうがNLです。それはその世界の地球がそう設計したんです。
それがダメならもうヒトバースでいいです。オメガバースからはじまりなんとかバースの種類は多いので、本来メインであるべき男女もバース設定のひとつとしてカウントすればいいんです。
同性愛も異性愛も本能だと聞きます。本能じゃなきゃきっと運命です。
私にとって異性愛は重力です。対して同性愛は引力です。異性愛が同性愛を輝かせ、同性愛が異性愛を輝かせる。違うからこそ個性になると思ってます。
地球が異性愛を基本にしたと思い込んでいるので、異性愛がノーマルでなければ私にとって性別に意味なんてないんです。HLにしたい人の中には性別の意味をなくしたい人がいるのかもしれませんが。
男らしくとか女らしくとか、そういう言葉も大好きです。これまでの文化が作り上げた記号が好きですが、それを強要する人間が嫌いです。男性が男らしくいる必要はないし、おしとやかな男性もいっぱいいます。メイクをする男性だっています。でも記号があることで「男勝りな女の子」のような萌えを表現することだってできるんです。それは「元気な女の子」とも「わんぱくな女の子」とも違っていてほしいんです。
日本語も性別観もこうやって議論されて変化するものですけど、私にとっては地球と人間に尊さを感じるポイントなので、変化することで不利益を感じます。
話が戻りますが私にとって異性愛は地球上の法則によりノーマルです。でも、研究開発が進んで同性でも子どもができるようになって、ノーマルが増えていったらすごい嬉しいです。
気軽にHLに乗り換えてしまう素直な人も、意地でNLを使い続ける人も、絶対自分が正しいと思いながらHLを主張する人も、どうでもいい人も、どの表記がいいのか自分の地球に聞いてほしいです。案外ヒトバースみたいな言うだけはタダで実用性がないアイデアにつながると思います。
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ちなみにこの話のアホな点は私が地球を創造主か何かだと思っていることと、地球が人間に滅んでほしい場合は同性愛(直したやで)こそがノーマルになることです。人間増えすぎたしいっつもなんか考えてどっかの国で争ってるから地球にとって人間が解釈違いかもしれない...ごめんね地球。
増田はアイマスが好きで、なんだかんだ5年くらいアイマスを追っている。ここ最近、降板した某の中の人がちょっと話題(というか炎上)になっているが、具体的な内容はあんまり調べていない。
というか調べられない。知ったら好きなキャラに変な印象がついてしまうかもしれない。降板前の音源とかを何も考えずに楽しみたい。声優変更後の音源も楽しみたい。それを思うと何があったのか調べたくないし、好きなものは好きなままでいたい。
増田は調べているわけではないが、漏れ聞こえる話では調べたら間違いなく幻滅してしまいそう。既に幻滅してしまっているかもしれない。純粋な気持ちで楽しめないかもしれない。
お願いだから綺麗な思い出は綺麗なままであってくれ……
同人誌って同好の士にそっと胸の内を明かしてくれるようなものであるから
それは書いた人にとって在る種のプライバシーである上仕方ないが
全く知識0でしかも貧乏でこの先手に取ることもなく生きている人に
この豊かさをつたえたい場合には
その上に、たまたま見つけた誤字の指摘とかもフィードバックしていいのかマジで迷う。
人格攻撃ととられそう。
よくあるのが
×神聖特攻 ○神性特攻(逆の間違え方もありそうだが自分はみたことがない)
×適正がない ○適性がない
薄い本3大誤字!!!!!!
ので紙本だと手書きで書きなおしてるわもう。
×永遠と ○延々と
○一応 ×一様
マイケル・ジャクソン「ある程度はイケた」
袴か尻っぱしょりで500年くらい生きてきた生き物がなんかいってる
「小児性愛も、動物性愛も、死体性愛も、誰にも迷惑をかけない限り普通の人と変わらない。LGBTを排除してきた歴史を繰り返してはいけない」という言明は時に必要だろう。人間は歴史から学ぶことができるのだから、何も0から理論組み立て始める必要はなく、類似した歴史に習うのは人間として当たり前の営みだ。そこにLGBTを持ち出したからと言って、決してLGBT差別にはならない。
しかし「LGBTなんて、小児性愛とか、動物性愛とか、死体性愛と変わらないだろう」という言明は、ただのLGBT差別でしかない。これを否定することは、決して小児性愛や、動物性愛や、死体性愛を差別することにはならない。形式的な論理構造が同じでも、「それによって言いたいこと」がまるで違う。そこに載せようとしている社会文脈がまるで違う。
一部の人々の間で、小児性愛、動物性愛、死体性愛をまとめて「PZN」と呼ぶことが流行っているらしいが、それは全く推奨できない。「PZNだって、LGBTと同じだ」という言明は、一見すると前者のようにも見えるが、これははっきりと後者だからだ。なぜなら、「LGBTPZN」という言葉そのものが、LGBT排除のための長い歴史の中で生み出された「人工的な差別用語」だからだ。これの恐ろしいところは、「元からあった言葉が、差別的に使われ始めた」用語ではないという点にある。この言葉は「LGBTを排除する」というただ一点に特化した言葉であり、100%が差別意識の塊だ。このような文脈を持つ言葉を擁護することはできないし、知らなかったでは済まされない。
「LGBTPZN」という言葉が肯定的に使われる場面があるとすれば、それはLGBT側の当事者によって積極的に使われる時以外にないだろう。LGBTの立場から、「LGBTなんてPZNと同じだって?いいじゃないか!PZNだって俺たちの仲間だよ」のように言明して見せるのは、時に政治的に有効なこともあるだろう。そのような場面が、将来的にないとは言わないが、今のところ私は観測したことがない。それを以って被差別的立場であるLGBTを責めることもできないだろう。
マイノリティの権利を主張する時に、戦うべき相手はマジョリティだ。別のマイノリティではない。むしろ、マイノリティはマイノリティ同士団結しなければ、マジョリティには勝てない。マイノリティ同士で喧嘩したり、「あいつらはいいのに俺らはダメなのか」と、くだらない嫉妬心を燃やしている場合ではない。
車を運転して帰宅中、カーブで旋回しきれず誤って道路脇の堆積物(落ち葉とか石ころ)と絡み合ってしまった。
タイヤ全周に擦り傷と泥汚れがついたけど、ホイールに目立った傷はない。フロントバンパーとかフェンダーとかサイドスカートにも特に傷はない。直進も問題なく、特に異音もない。ハンドルのセンターが微妙にずれている気がするけど気のせいだろう。
なのでサスペンションや骨格に損傷は及んでいないとみているんだけど、車屋で診てもらったほうがいいだろうか。
デモに乗じて略奪している映像を見ると「移民(特に黒人)はぜってー受け入れてはダメだ」って思わされる
コロナで食い詰めた人たちが食料品を略奪していたのであればまだ理解できる
ターゲットがでっかいテレビやらiPhoneやらって、すでに略奪を目的としたデモしてるだろ
あの人たちはなにかの機会に略奪して一財産を築くために難民と称してアメリカに向かってくるのか?
もはや何かの組織が移民反対のキャンペーンのためにやっているのではって思うレベル
なのかな
学びの保障というけれど、どうやったって教室と同じ授業はできない。それを補うべく、日夜動画を撮って、課題を送って、生徒からの質問を受けているが、動画を撮るプロではないし、授業を前提にしない教材を作るプロでもないから、クオリティがほんとうに低い。学年が変わってしまった為、生徒のキャラクターや理解度が全くわからない。だから、普段とは比べものにならないほど、課題の質が低い。毎日、低品質のものを作り出すために、懸命に時間をかけていることがつらいし、生徒のためにならないことに時間を取られている現状がほんとうにつらい。生徒は会ったこともない教員に課題を大量に出され、ピントのズレた問題と向き合わされている。実りの少ない学習活動を作り出しているのが自分だと思うといたたまれなくなる。