このまんまでも好いてくれる人もいるからね。なんで「嫌いだ」という奴の言葉に合わせて「好きだ」と言われている性格を直さにゃならんのだ。
自分を好きでいてくれる人と付き合って、嫌う人から離れればいい。簡単なことじゃないのはわかってるが、そう意識するだけでずいぶん楽になるぞ。
エスカレーター進学で大学まで出て結局23ぐらいで医者と結婚したよ。
いま名前でググったら
「芸名変えすぎ、お前はスパイか」
「いろんなコンテスト出まくって結局歯科協会の副グランプリが最高て」
「女子アナになろうとして落ちた」
なんか「芸能界に片足突っ込んで燻ってる人達のスレ」みたいなのがあるんだね。
嫉妬半分見下され半分みたいな立ち居地のようだった。
しつこくて面倒くさそうな所は一行目の所から変わってないように見える
行動原則の部分は素人の適当な考えなので、実際にはもっと改善してほしいが。
「脱原発党」
党規
1.原発を0とした場合の、直接および間接の損失(人的、経済的、雇用含む)、自然環境への負荷も含め、損失は本党を選出した全国民で被る。
2.国会での議論は、原発を0とする議論が最優先となるように行動する。
3.原発に関する議論は、原発を0とする結論が最優先となるように行動する。
4.原発0を法的に確約した場合、衆議院および本党を解散する。
各選挙区ごとに候補者を擁立して、地域ごとの「脱原発」希望度合いを測る。
「あんたなんか大嫌い」と面と向かって言われたことがある。クラブの仲間だった。「どういうところが?」と聞き返した。「そういうところが」と即答だった。今ならわかる。(大嫌いと言われたら動揺しろよ。何、人ごとみたいに分析してんだよ! こいつ人間じゃねえ。いらつく)と言われてるんだということが。
「天皇が権威を司り、政治的実権は将軍なり首相なりが握る」という
「権威を司る天皇に、過度に政治的マターにタッチさせてはいけない」の論理が働く。
しかし、「権威と権力の分離」、或いは「立憲君主制」は、アジア的には少数派である。
ヨーロッパは永年の争いの上で、立憲君主制な国家のみが王室を維持できているが、
ドイツでは絶対王権が戦争を指揮し、その結果ウィルヘルム2世は退位に追い込まれた。
比較的政治にタッチしていなかったイタリア王室ですら、退位を余儀なくされた。
フランスは言うまでもない。
結局、立憲君主制がうまく行ったのは、イギリスや北欧程度でしかなく、
アジアを眺めても、比較的「立憲君主的」と見なされているタイ王室も、
立憲君主的だったネパールは王室親政に転じた結果、逆に王室廃止に追い込まれた。
日本とイギリス程度であり、全世界的には「君主制は失敗しやすい」というのが
「立憲君主政体」を経験せず、「絶対王政」と「共和制」しか経験していない。
そういう国民が、「立憲君主制を肌感覚で理解する」ことは、至難の技だ。
国民感覚として「なぜ君主が政治的に責任を取らないのか?責任を取れないのか?」と
感じても、不思議ではない。
日本学生が韓国学生に「なぜ日本には天皇がいるのに首相もいるのか?」と聞かれ、
返答に窮した、というエピソードがあるらしい。
「民主主義と君主制は両立できる」と考える韓国人の方が少数派で、
「君主制というからには、相当程度、政治的権能を有していないと不自然」と考える韓国人の方が、
多数派ではないか?
また、韓国で「権威」と「権力」が未分化なのは、元大統領の処遇を見てもわかる。
日本なら「元首相」は権力は少なくても、「権威」として遇されるが、
韓国では元大統領は「権力」も「権威」もない。だから末路は悲惨である。
ということで、
一歩引いて
「まずどうやって韓国の人たちに天皇制、立憲君主制を理解させられるのか?」を
考えた方がいい。
理由はわからない。仕事でもプライベートでも変化はなかったのに。
セックスのとき、大きくはなるが挿入できるほど硬くはならない。
硬くしようと、口や手で刺激してもらって、硬くならないまま射精してしまう。
これが毎回。
簡単なチェックリストに丸付けして、診察に。
3種類の薬を説明されて、一番有名なバイアグラを選ぶ。
バイアグラ50mgを2錠出される。
診察料と薬代で、あわせて3千円。
早速使ってみる。
すぐに大きく硬くなる。
硬いね、10代の時のようだ。
すると、小さくなった。
射精しても大きいままだと思ったのに。
休憩せずに2回戦に。
いつもだと1回で終わりだけど、まだいけると思ってた。
私も妻も。
口でしてもらったりで、挿入。
でも、途中で元気がなくなった。
指で激しく突いて、妻を満足させる。
硬くなって挿入できた、という点では満足。
でも、薬の力で2回でも3回でも硬いままできると思ってたので、そこは不満。
勃起しなくなる前の状態に戻ったという感じ。
もう1錠に賭けてみよう。
今朝目覚めたときにふと思い出して嫌な気分になったのでここに書く。
中学生の頃の話だ。
おれはクラスでは目立たない地味な生徒だった。
そもそもクラスで目立つのは、運動ができたり勉強が得意だったりイケメンだったり……まあそういう生徒なわけで、
そのどれでもないおれはクラスではすこし浮き気味の存在だった。
かといっていじめられていたわけでもなくて……。
地味なおれは同じように地味な子と友達になり、ひっそりと毎日を生きていた。
それでよかった。とくにクラスの人気者になりたい・目立ちたいという欲はなかった。
地味すぎて、二年生になっても三年生になっても、理科教師(担任ではない)に名前を覚えてもらえず、
たまたま「肌が白い」ことが共通していた別のクラスの男子(××)の名前で指されることが何度もあった。
そのたびに「いや~お前肌が白くて××と似てるんだよなぁ」と笑われたりして嫌な気分になった。
ちゃんと毎回授業に出ているのにね。
クラスでも「ちょ、こいつまだ名前覚えてもらってないのかよ(笑)」みたいな空気になって、とても恥ずかしかったことを覚えている。
さて、ここからが本題。
クラス替えの紙を見て、おれは愕然とした。
おれの在籍することになった3年3組のメンバーは、
見事に上で書いたような、いわゆる「運動ができる奴・勉強ができる奴」で固まっていたのだ。
おれと同じ地味な生徒はおれも合わせて4人だけだった。男子20人中4人……1/5。
そう、3年にもなれば、同学年の奴のことはだいたい把握しているものだ。おれだけでなく、
もうみんなそういう区別がつくようになっている。できる奴かできない奴か、どのグループに所属しているのかなど……。
それをさらにおれに思い知らせるように、
隣の3年2組の「運動ができる」男子がやってきて、3組のクラス表を見ておれにこう言ったのだ。
「いいなぁこのクラス。体育祭とか圧勝じゃん。すげー楽しそう。なぁお前、おれと替わってくんね?」と。
おれの顔は確実にひきつっていたと思う。いや、替われるなら替えてほしいくらいだ、と思ったのも確かだ。
そして、それよりなにより、やはり誰が見てもそういうふうに映るのか、と悲しくなった。
おれ以外の地味な生徒3人も憂鬱な表情を浮かべていた。
そんなわけで、
おれはこの中学最後の一年間、このクラスでやっていける自信はまったくなかった。
授業の合間の休み時間は、教室を離れて誰もいない所に行くか、机に突っ伏して寝るフリをするかの二択だった。
たまに、気まぐれにおれにちょっかいをかけてくる4/5の連中が嫌で仕方なかった。
向こうからしたら「かまってあげてる」程度の認識だったのかもしれないが。
そんなおれでもなんとか毎日ひっそりと学校生活を続けて……(体が弱いということもないので、毎日学校に通っていた)、
修学旅行は基本、班行動であり、その班構成によって修学旅行のすべてが決まるといっていいだろう。
おれはおれ以外の地味な3人と同じ班になることもなく(最初から諦めてたけど……そんなうまくいくわけがないって)、
気が合わない、ほとんど話したことのないヤンキー(でも運動ができてイケメン)とデブ(太ってるけどクラスの人気者)と同じ班になった。
修学旅行当日。
事前に立てた計画通り、この班でいくつかの寺社を巡った。
雨が降っていたな、そういや。
今ならもっと楽しめるのだろうが、当時のおれはお寺とかそういうものにまったく興味がなかったので、
なんで京都まできてこんなところ歩かなければいけないんだろ、と思っていた。
道中、同じ班のデブに声を掛けられた。
なんだろうと思ったら、そのデブは
「今夜さー、寝る時、お前とか××(おれ以外の地味な3人のうちのひとり)とかハブられると思うよ~」と
無邪気に言いやがった。
ちなみにおれのクラスの男子は2部屋に分かれて就寝するということで、2グループに分けられていたのだが、
おれの寝る部屋にはおれとその地味な3人のうちのひとり以外はヤンキーやデブの仲間しかいなかった。
おれは「ああ、そう。ふーん、別に……」とか、さして問題じゃないようにふるまった。
心の中で、そんなの言われなくてもとっくにわかってるよ……と呟いたりして。
そんなこともあって、旅館に着いても憂鬱だなぁ……とぼんやりと駅のホームで電車を待っているときのことだった。
そのホームではいくつかの班がクラス関係なく合流し電車を待っていたのだが……
おれがぱっと見一人にいるように見えたのだろう、1組の男子Yがやってきておれに声をかけた。
その1組のYは、学年で人気投票をとったら確実にベスト3に入るほどの超人気者だった。ま、スポーツもできるし超イケメンだから当然だけど。
おれとそのYは小学5、6年と中学1、2年で同じクラスが続いたので、何度か話したこともあり、
おれ自身、Yのことを「おれみたいな地味な奴とも話してくれる、いい奴。さすが人気者だなぁ」というふうに思っていた。
で、雨の中長時間歩いたこともあり、上のデブの発言もあり、おれはちょっと頭が痛くてぐったりしていて、
声をかけてきたYにも「いや、ちょっと頭痛くて……」みたいなことを話していたら、そいつがやってきたのだ。
そのKとおれは、同じ小学校に通っていたというだけで、一度も同じクラスになったことはない。
そのKはYと同じ部活に所属し、クラスのボス的存在だった。ちなみにKは5組、Yは1組ね。
KはYと親しいので、Yに「よお」とか挨拶してきた。
そこでようやくKはYの隣に立っている、暗い表情のおれに気づいた。
そしてKは言った。
「あ、おれこいつ嫌いなんだよね」
え?
耳を疑った。
頭の痛みのせいか、ぐらぁと体が揺れるのを感じた。おれは突然のKの発言に呆然とするしかなかった。
なんで?
おれなんかした?
Kと関わったことなんか一度も無いのに。
ていうか何その言い方。
まるで虫を見つけて「あ、おれこの虫嫌ーい」と言うような、軽い感じ。
いきなり向けられたKの敵意に、おれは吐きそうになった。
隣にいたYが「そういうこと言うなよ~」と笑って返していたが、それもショックだった。
ああ、その程度なのか……と。
怒ってくれとは言わないが、なんていうか、もうちょっと真面目に返してほしかった。
あとになって、このときのYのことを思い返して複雑な気持ちになった。
超人気者のY……もちろんおれもYのことを人気者として認めていたし、いい奴だと思っていた。
それでもあの場でのああいう対応に、おれの理想のYとのギャップを見た気がしたからだ。
幻滅したといっていい。
「あ、おれ、班の人のとこ行かなければ」と言いながらその場を去った。
その夜、ハブられておれと地味な3人のうちのひとり以外が
部屋で騒いでることなんかどうでもよくなった。
こうして書いてみても、いまだにあのときの嫌な気分は消えない。
Kに言われたときのことは今でも鮮明に思い出せるし、今朝みたいにふとしたときにフラッシュバックする。
おそらくKは言ったことを忘れているだろうけど。
こんな、いじめとも呼べない体験ですら10年以上経っても心に刺さるんだから、
今いじめられている人たちは卒業してからももっとツラいんだろうなと思った。
嫌なことは簡単には消えない。
どうすればKのことを払拭できるのか……まだわからない。
おれは今後もたまにKのことを思い出しては嫌な気分になるのか。
都合よく嫌な記憶を消してくれる人もいないし。
あーあ。
よくあること……でも、本人にとってはそうは思えないんだけどね。
K、見てるか?
お前のトゲは今もおれに刺さってるよ。
何も考えない人たちならネットの口コミ信じ込んで加害者disってる人達叩くんだろうけど
増田ではいかにも加害者擁護の作りあげた話のようなソースの無い情報なんて誰も信じないよ
1.他人をまったく信じられなくなること
2.生きていてもいいんだと思えなくなること(無価値で死んだほうがいいという思考から抜け出せなくなる)
ここまでくるといじめ生きのびて将来良き伴侶に恵まれていても「人間」としては魂が既に死んでいるのと変わらないからね
元増田は恨み骨髄まで生きていながらも過去に果たされなかった惨めな思い引きずってトラウマに苦しんでいる人々があんな奇麗事読んでやめると思ってるんだ?
まあ釣られた上でいうけど、普通、しつけとして中高生が化粧すんなって話だろ。
頭髪自由だったうちの高校ですらマニキュアは禁止だったし、限度ってもんがある。
そもそも肌が綺麗な若いうちに化粧なんてもったいなさすぎる。
何言ってるの?やっぱり馬鹿だね
ホッテントリに日々あらわれるライフハックとやらだが、見るたびにむかついてしょうがない。この「むかつく」の内容だが、俺の場合は「うるせえよ」という言葉で表現することが可能だ。なぜうるせえと思うかといえば、俺は俺のために、あるいは俺の周囲の人たちのために生きているのであって、そのときそのときでやりかたというものを選んでいる。そのやりかたというものは、おそらくは最善ではないにせよ、少なくとも「自分で考えた」ものには違いない。人間そうそうオリジナルの発想なんかできやしねえよ、という考えかたもあるが、その場に立った人が自分なりに考えて、答えを出すという営為そのものが重要で、なぜそれが重要かといえば、そうでなければ、選択の結果が「自分のもの」にはならないからだ。成功、失敗にかかわらず、自分のものでない結果に人は責任を持つことができない。
責任を持つ、なんていうと偉そうだが、これは偉いことでもなんでもなく、単に自分の人生において自分に由来しないものが混入し、自分が損なわれることを恐れているだけだと思う。いってみれば、いちばん狭量な心から生まれたものだ。
そう思う俺が、なぜライフハック記事をつい「見てしまう」のか。むかつくなら見なけりゃいいわけだ。
ところで、一口にライフハック記事というが、実は本気でクソ以外のなにものでもないようなものと、そうでないものがある。
クソというのは、たとえば早起きすればいいよとか長財布使えばいいよとか、そういう「よく出回っているなんとなくよさげな俗説」を並べたててあるようなもので、もしそれを実現しようとするならば、生活がそれらを守ることで支配されてしまうようなもののことだ。背景のない言葉は脅迫となんら変わるところがない。
そうでないものは、だれかの著書から抜書きしたような「確かな背景」が感じられるもののことだ。実はこうしたものは「だいたいにおいて正しい」ことが多い。もちろんそれが誠実に書かれた本ならば、という但し書きはつくが。それは現に成功した人間が「思えばああいうことがよかったのだ」と思って書くことなのだから、説得力はあって当然だ。しかし説得力というのは、その人の「生」そのものによって担保されているもので、もともとは説得力のあった言葉も、インターネットで流通しているうちに、単なるドグマに堕してしまう。
この「堕してしまう」ということだ。
言葉というものは本来的にそういう機能を持っていると俺は思う。特にライフハックという括りならこのことは顕著で、あるひとつの言葉、たとえば「早起きはしたほうがいい」という言葉は、それがその人によって言語化されるその「直前」まではまちがいなく真実なのだ。しかし言語化されて流通してしまった時点では、その結論に至った「経験」が欠落してしまう。どんなに言葉を尽くしたって、この欠落は避けようがない。
この欠落に対して誠実であることは、おそらくライフハック記事の製作者に最低限必要なモラルだと俺は思っている。そしてほとんどすべての記事は誠実ではない。この誠実でなさを俺は揶揄したいのだと思う。
揶揄したいという自分の動機については、それこそ、化けの皮を剥がしてやりたいとか、揶揄することによって相対的に自分の正しさを証明したいとか、どっちにしろろくなものではないと思う。
たださぁ、俺思うんだけど、あわよくばセックスしたいとか、楽して生きたいとか、そういう人間としての「あたりまえ」のクソくだらない欲望を前提にしない言葉ってぜんぜん意味ないと思ってんだよね。逆にいえば「で、書いたおまえはセックスしたいの? うまいもん食って自堕落に生きたいの?」っていう疑問で崩れる程度のことしか書いてないなら、そのライフハック記事はクソの役にも立たねえよ。
たとえ崩れない程度の強度を持ってたにしても「なるほど、おまえはそう考えたか。ならば俺はこう行く」というやりかたでしか役に立たないのが他人の言葉だと思ってる。