ホッテントリに日々あらわれるライフハックとやらだが、見るたびにむかついてしょうがない。この「むかつく」の内容だが、俺の場合は「うるせえよ」という言葉で表現することが可能だ。なぜうるせえと思うかといえば、俺は俺のために、あるいは俺の周囲の人たちのために生きているのであって、そのときそのときでやりかたというものを選んでいる。そのやりかたというものは、おそらくは最善ではないにせよ、少なくとも「自分で考えた」ものには違いない。人間そうそうオリジナルの発想なんかできやしねえよ、という考えかたもあるが、その場に立った人が自分なりに考えて、答えを出すという営為そのものが重要で、なぜそれが重要かといえば、そうでなければ、選択の結果が「自分のもの」にはならないからだ。成功、失敗にかかわらず、自分のものでない結果に人は責任を持つことができない。
責任を持つ、なんていうと偉そうだが、これは偉いことでもなんでもなく、単に自分の人生において自分に由来しないものが混入し、自分が損なわれることを恐れているだけだと思う。いってみれば、いちばん狭量な心から生まれたものだ。
そう思う俺が、なぜライフハック記事をつい「見てしまう」のか。むかつくなら見なけりゃいいわけだ。
ところで、一口にライフハック記事というが、実は本気でクソ以外のなにものでもないようなものと、そうでないものがある。
クソというのは、たとえば早起きすればいいよとか長財布使えばいいよとか、そういう「よく出回っているなんとなくよさげな俗説」を並べたててあるようなもので、もしそれを実現しようとするならば、生活がそれらを守ることで支配されてしまうようなもののことだ。背景のない言葉は脅迫となんら変わるところがない。
そうでないものは、だれかの著書から抜書きしたような「確かな背景」が感じられるもののことだ。実はこうしたものは「だいたいにおいて正しい」ことが多い。もちろんそれが誠実に書かれた本ならば、という但し書きはつくが。それは現に成功した人間が「思えばああいうことがよかったのだ」と思って書くことなのだから、説得力はあって当然だ。しかし説得力というのは、その人の「生」そのものによって担保されているもので、もともとは説得力のあった言葉も、インターネットで流通しているうちに、単なるドグマに堕してしまう。
この「堕してしまう」ということだ。
言葉というものは本来的にそういう機能を持っていると俺は思う。特にライフハックという括りならこのことは顕著で、あるひとつの言葉、たとえば「早起きはしたほうがいい」という言葉は、それがその人によって言語化されるその「直前」まではまちがいなく真実なのだ。しかし言語化されて流通してしまった時点では、その結論に至った「経験」が欠落してしまう。どんなに言葉を尽くしたって、この欠落は避けようがない。
この欠落に対して誠実であることは、おそらくライフハック記事の製作者に最低限必要なモラルだと俺は思っている。そしてほとんどすべての記事は誠実ではない。この誠実でなさを俺は揶揄したいのだと思う。
揶揄したいという自分の動機については、それこそ、化けの皮を剥がしてやりたいとか、揶揄することによって相対的に自分の正しさを証明したいとか、どっちにしろろくなものではないと思う。
たださぁ、俺思うんだけど、あわよくばセックスしたいとか、楽して生きたいとか、そういう人間としての「あたりまえ」のクソくだらない欲望を前提にしない言葉ってぜんぜん意味ないと思ってんだよね。逆にいえば「で、書いたおまえはセックスしたいの? うまいもん食って自堕落に生きたいの?」っていう疑問で崩れる程度のことしか書いてないなら、そのライフハック記事はクソの役にも立たねえよ。
たとえ崩れない程度の強度を持ってたにしても「なるほど、おまえはそう考えたか。ならば俺はこう行く」というやりかたでしか役に立たないのが他人の言葉だと思ってる。
なんか最後の段落で全然違う話になっちゃってるよね。 悪文の見本。