はてなキーワード: 詰め込み教育とは
どうしてこの人の言ってることに否定的なコメントが見えるんだろう。
ノーベル賞受賞者から、日本の教育システム、特に理系はそれほど悪いものではないという話が出ている。
会見の冒頭。「私は日本の(悪名高い)受験地獄の支持者だ」。理由は、高度な研究になればなるほど、「基本が大事になるから」。それをたたきこんでくれたのが、日本の教育だった、というわけだ。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101007/acd1010070904010-n1.htm
鈴木 私の考えでは、我田引水ではないんですが、日本のいわゆるサイエンス、ケミストリーだけでなくて、日本の理科系、工学系も含めてですが、レベルは非常に高いと思います。そういうレベルを今後も続けていかないといけない。
http://www.asahi.com/national/update/1007/TKY201010070004_01.html
ところがこれが気にくわない人が多いようで、問答無用でトンデモ扱いしている人が多いようだ。ブクマとか見ると非難囂々だ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/culture/academic/101007/acd1010070904010-n1.htm
どうしてみんな意地でも、日本の教育システム、なかんずく大学がそれほど悪いものではないことを認めたくないのだろう。
大学受験を人格破壊的な詰め込み勉強だと思っているのだろうか。しかし大学受験はそれほど極端に難しいものではない。高校の教科書が理解できていれば東大だろうがどこでも通れる(文句のある奴は、たとえば自分が高校の数学の教科書の公式を全部その場で証明できるか考えてみろ。できないということはちゃんと理解できてないということだ)。競争試験の形を取っていても、事実上は資格試験である。その程度のことができない奴は最高学府(東大という意味ではなく大学という意味だ)で「学問」を学ぶのに本来は値しないのである。「大学」に入るということはそういうことだと認識しておけ(何?昔はともあれ今は違うだと?俺が受験したのは高々十年前なんだが。少子化がさらに深刻化した現代の受験が当時よりも難しいとは絶対に言わせない)。
そもそも、高校球児をはじめとするスポーツエリートがどれだけ退屈な基礎トレをしていることか、芸術の道を志す人がどれだけ退屈な練習課題をこなしていることか(稀にこれを回避できてしまう人もいるが、一流の人の間でも多いとは言えない)、そのことを考えたら、学問の道を志す人間が一年やそこら退屈な問題集に取り組むぐらいのなにが不満なんだ?
だいたい、お前らがマンセーしているアメリカの大学の学部教育の本質は詰め込み教育だ。早い話、アメリカの大学の教科書(特に理工系科目)を見てみるがよい。演習問題の量の多さに驚くはずだ。要は、アメリカ人は高校までがぬるいために、勉強の要領がつかめていないから、チャート式まがいの勉強を大学でやるハメになるのだ。要は、基礎の詰め込みはどこかでやる必要があって、避けては通れないのだ。そういう「不都合な真実」から逃げるんじゃないよ。
ああ?なんだと?受験で覚えたことなど役に立たない?それはお前が「ボクは知識を生活に役立てる術を知りません」と自白してるようなものだ。たとえば経済一つ取っても、高校レベルの国数英理社の知識がなければろくに理解できないのは当然ではないか。
そもそも、知識というのは持っているだけで人生が楽しくなるはずのものだ。お前らはアニメやゲームやITに関する知識を溜め込むことは大好きなのに、自然や社会や人間に関する知識を溜め込むことは無益だというのか?それはただの偏見だ。
勿論、日本に何の問題もないわけではない。米国のみならず、世界各国(特に東アジアと欧米)の教育制度には見習うべき点が多いし、特に全体として英米の大学(欧米とは言わない。率直に言って、欧州大陸の大学が日本の大学に比べて優れているとは全く思えない)は日本に比べて実績が総じて多いのは確かだ(ただしノーベル賞の数で比べないように。文学賞のことを考えればわかるが、結局誰がもらえるかはコネで決まる部分も多いからだ)。しかし、メジャーリーグの前では日本のプロ野球に価値がないとはいえないように、日本の大学にもそれなりの価値があるのだ。そして、何でもメジャーの猿真似をしては逆に日本野球の良さ(イチローはその極致であろう)が損なわれる部分もあるように、敢えて言葉の壁に立ち向かってまで英米で学ぶことは日本で学ぶことに比べてあらゆる意味で優れているなどということはないのだ。そのことは事実としてもっと知ってもらいたいものだ。
だいたいアンチ学歴のお前らは、日本の大学を散々馬鹿にする割にはハーヴァードやスタンフォードは無条件でマンセーしているようだが、そういう「ハーヴァード>>>>>東大」とかいうお前らの脳内図式は「東大>>>>>早稲田」とかいう学歴厨と何が違うんだ?お前らはどっちも「虎の威を借る狐」でしかないんだよ。
学歴で飯が食えないなんてことは高学歴者自身が一番知ってるよ。むしろお前らみたいに、大学名を名乗っただけで血圧を上げる奴を日頃から相手にしてるからこそ、そんなやつらは実力でねじ伏せられるだけのものは持っておこうとそれなりのことはしてるよ。TOEICとかTOEFLをマンセーしているお前らなんかよりも、よっぽど「試験で測れるものと測れないもの」は理解していて、試験で測れないところまで含めた総合的な実力を育もうとしてるよ。「高学歴者」と「学歴至上主義者」は違うんだよ。それは「白人」と「白人至上主義者」が違うようなものだ。敵を間違えて誤爆するのはやめてくれ。
ちなみに平日のこんな時間に書いているが学生ではない。広義のIT方面の研究開発をしている技術者(「エンジニア」とは名乗りたくない。「邦楽」が「日本の伝統音楽」からいつの間にか「J-POP」の意味になってしまったように、「エンジニア」はいつの間にか「コーダーやSE」の意味になってしまった)だ。今日は年休充当日だ。
日本の大学を出ても使えないだの理系はコミュ力がないだの草食系男子は人間力が低いだの、何もわかってない馬鹿どもに頭ごなしに見下されるのはもううんざりだよ。
さて、昼飯がてら近所のマクドにでも行って昨日ダウンロードした論文でも読んでくるかね。
ブコメへ。
s-tomo 「学問の道を志す人間」が5割も居るわけ無いのに5割進学してたら、そりゃ平均値はダメ学生になるだろうよ!! 2010/10/08
「平均値」の話ではなくて、ノーベル賞が視野に入ってくるような人間、つまり研究者志望の人間の話をしてるんだと思ったんだが?ちなみに、日本の大学進学率は先進国の中で極端に高いわけではない。
Kou_RYU 日本, 教育, 科学 でも受験地獄で得られる学力って受験で多く得点を取るスキルであって、基礎学力や応用力と得る事とは別な気もしないでもない…。 2010/10/08
それは勉強の仕方が間違ってるだけですね。逆に、案外こういう世界は急がば回れで、基礎学力や応用力(どう違うのかようわからんが)を得ることを最優先に勉強してれば点数は取れて余りありますよ。ただ、「得点を取るスキル」は馬鹿にしたもんじゃないですよ。学問の世界ではともかく、ビジネスの世界では意外なほど役に立ちます。早い話、点数のために物事を最適化するのと、金のために物事を最適化するのは発想が非常によく似てるんですね。正直、自分の会社の人間がみんなもっと「得点を取るスキル」みたいなものを持ってくれたらいろんなことが要領よく回るのになあって私自身いつも思いますね。
ngsw 詰め込みで問題なのは、精神的にいい悪いはおいといて、各家庭の経済力に左右されて機会均等がなされないことでしょうね。公的な義務教育だけでまかなえる詰め込みなら全然ありだと思う、お得感ある。 2010/10/09
いや、逆に米国みたいに課外活動が大学進学時に問われてしまう方がもっと格差が広がりますよ。金のかかるスポーツ・文化活動で何らかの入賞歴みたいなのがあるかってのが加点項目になってしまうわけだから。むしろ詰め込みは比較的安上がりな教育方法ですよ。その気になれば独学だってできますから。ただそれでも色々な要因で経済格差が学歴格差を再生産してしまうことはあるわけですが。あとその筋で言うならば、日本の場合は国公立大学の学費が異様に高いのが問題だと思います。
ahyask 認識がずれてないかな.それほどダメではないとパーフェクトではないは対立しない.否定的な人たちは,よそのよいところとここのわるいところだけを見て最高のシステムを夢想しているだけだと思うけど 2010/10/09
ただそういう「夢想」の過程で、「ここ」のシステムで育った人間に「わるいところ」が全部押しつけられてスケープゴートにされてしまうのが問題なのですよ。例えば一時の官僚バッシングやオウムの時は「東大が悪い」ということにされていました。現実にはノンキャリア官僚にも問題があったわけだし、オウムの場合も低学歴の信者も沢山いて、たまたま高学歴の信者が知識を利用されただけなわけです。そしてそういうときには必ず「西洋のエリートにはノブレス・オブリッジという思想がある」云々と聞かされたわけですが、実際その「西洋のエリート」がリーマン・クライシスを引き起こしているわけです。要は本当は五十歩百歩なわけなんですけどね。
jack_oo_lantern 理系は知らないけど、歴史学の私は、ゼミの一番最初の授業で高校まででやった歴史は全部忘れろと言われたけど・・・。 2010/10/09
それは理系も同じです(特に数学)。高校までで習ったことはないものとして講義を進められるのが普通です。ただし、「一旦忘れる」ということは「知識がない」こととは似て非なるものであって、例えば中学生に大学の講義をいきなり聴かせれば大多数が脱落するのが自明です。要するに「全部忘れろ」というのは「知っていることを知らないものとして先入観なしに新しい考え方を学べ」ということであって、「今までの勉強は無駄であり、知っている必要はない」ということとは全然違いますよ。
sabro 教育 でも詰め込み勉強は一番大事な学ぶことへのモチベーションを破壊するよね。自発的にやれば本来面白いはずの知識の習得に関しておっくうになってしまい、一度いいポストについてしまえば勉強しなくなったりする 2010/10/09
厳しいことを言えば、そこでモチベーションを破壊されてしまう人はそれまでの人だと思うし、逆にそれだからこそ割り切ってやらなければいけないんです。走り込みや筋トレに飽きてしまうスポーツ少年に才能があるといえますか?それに、白紙からはじめて一つの分野の基礎知識を一通り身につけるというスキルは大学受験だけに留まる物ではなく、一生使えるものですよ。昔学んだことの蓄積だけで生きていけることは多くないのですから。
olive-cafe 匿名, 釣り 自分の意見に自信があるなら、匿名じゃないとこで書けばいいのにね。 2010/10/09
そういうあなたも匿名で発言されてますね。私ははてなのidが筆名に相当するほど立派な物とは思っていませんし、匿名ダイアリーもブログも五十歩百歩だという認識です。あしからず。
junglejungle 日本より受験戦争がひどい韓国や中国のノーベル賞受賞者数はいくつだったっけか。たしか平和賞1つづつだけだよね。 2010/10/09
受験期の詰め込みというのは一つの要因でしかありませんからね。それに、中国からは優秀な研究者は沢山輩出されてますよ。古くは陳省身とか楊振寧とか(Chern類とかYang-Mills理論といえばピンと来る人もいるはず)、現代でも優れた論文の著者が中国人ということは多いです。韓国は確かに私の周辺では存在感がありませんが、理由はわかりません。
cepheid 「社会で求められる平均的な素養」のうち受験勉強で埋められるのはごくわずかという点が問題。研究者なんてある意味学校の延長なんだから学校での詰め込みが役に立って当然だろ。何言ってんだか。 2010/10/09
「受験が天才をスポイルする」みたいな社会通念があったと思いますが、それが「当然」誤りだと思ってもらえているなら結構。ところで、あなたの「社会で求められる平均的な素養」って何ですか?コミュニケーション能力だとか人間力だとか下らないことを言わないで下さいよ。
junya_asa 教育, 勉強, 増田 筋トレの話が出ているけど、それをやるのは必要であることがハッキリしており、それがそのまま結果に直結するからでは。勉強だとその部分が非常に見えにくく分かりづらいから、だからどうしたって回避したくなる。 2010/10/09
大学に行くということは、法律や経済や文学や自然科学といった学問を学ぶことで、それらを学ぶ基礎として高校レベルの勉強が必要なのは自明ではないですか?それを勉強したことがどう生きるかわからないのだとしたら、それは「大学に行く意味がわからない」というもっと根本的な問題ではないかと。
SyncHack 雑談 英語教育とかは嘆いていい。難解なクイズと化していてコミュになっていない。答えが分かっている問題はお得意のエリート様だが答えの無い問題に対して解く方法を持ち合わせていない木偶が多い気はするがね。 2010/10/09
それはなんでもそんなもんです。例えば音大生なんかで難しい練習曲は弾ける癖にまともな曲を弾かせてみると素人以下に無味乾燥な演奏しかできない人は結構います。しかしだからといって素人の方が演奏解釈が音大生より総じて優れているというと言いすぎです。そもそも解釈というのは技術を持っていることで触発されてくる面もあるのですから。そして世の中で一番多いのは、答えがわかっている問題も答えがない問題もろくに解けない人種です。
torinosito 増田 「それほど悪いものであることを認めたくないのだろう。」がどうしても気になる。全体の内容からすると、×ある ○ない ではないだろうか 2010/10/09
指摘ありがとうございます。直しました。
kimihito 大学, 海外 受験に関しては同意見。学歴コンプに関しては賛同できない。コンプがあるからやってけてる部分が私はあるので。コンプレックスを跳ね返すために地道な作業を繰り返していきたい。 2010/10/09
勿論そういう方もいるかとは思いますが、八つ当たりだけはしないで下さいね。親の敵のように何かといえば「高学歴人間が悪い」と私怨をぶつけてこられる方(たとえば某有名ブロガーとか)がいるので辟易してるんですよ。
rzio 人に『「虎の威を借る狐」でしかない』って言ってるけど、冒頭のノーベル賞受賞者の引用はなに? 2010/10/09
答えを言うなら「単なる釣り」。気にくわないならそこを読み飛ばしてごらん。まったく論旨に影響がないことがわかるはずだから。
tokoroten999 言いたいことわかるけどさー、マクドで論文読んでる姿をさー、塾通いしてる小中学生が見てさー、「勉強ばっかしてるとあーなっちゅうんだぜ」って言われて反論できるー? 2010/10/10
意味不明。反論する必要などどこにもないよ。俺は自分のやりたい生活をして満足してるんだから。「あーなる」ことの何がいかんのか知らんが、それが気に食わん人間は自分が同じことをやらなきゃいいだけじゃないの?
repunit 教育 高学歴者でも数学の公式の証明はやらんと思う。ていうかこの人が学歴コンプそのものな気がしてきた。あとコミュ力を軽視しすぎ。学び合いとか聞いたことない? 2010/10/11
「思う」ってひどい憶測ですね。これは実体験として言えますが、「高学歴」でそれができない奴はただの落ちこぼれです。文系とか生物系とかならまあ許してもらえるかもしれませんがね。私が学歴コンプかどうかの判断はお任せしますが、そもそも高校や大学は「コミュ力」を養成するところではありませんのでお門違いとしか言いようがありません。あと、「学び合い」とか教師の世界のスラングを普遍的なものだと思いこむのはやめた方がいいですよ。
【教育】民主党・輿石氏 ゆとり教育の見直しについて「自民党政権下での方針、たるみ教育と勘違い」「子どもや教育を実験台あつかい」
ttp://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1270107189/
82 :名無しさん@十周年:2010/04/01(木) 16:47:32 ID:ck7tfS4f0
ゆとり教育ってもともとは
・詰め込み教育をやめる
・開いた時間に道徳教育とか考える能力の向上などの授業を増やす
という内容でした
しかし後半の授業を増やすという部分に徹底して反対してきたのが日教組です
その結果、詰め込み教育をやめるという部分のみが実行されてしまったのです
http://anond.hatelabo.jp/20100401093824
「全く最近の若者は……」「わしらが若い頃は……」というのは年寄りの常套句ですね。
その昔は新人類と言う言葉がありまして、情熱・覇気がない、良いのはテストの点だけ、応用力ゼロで無個性のロボット等々言われていました。
それは、詰め込み教育、受験戦争の過熱、共通一次試験などで、画一的な教育や外で遊ばなくなったため。
なぜそうなったかといえば、それまでの中卒高卒当たり前という社会ではなく、全体の教育水準を向上させなければ、これから先、先進国としてやっていけないから。
しかし、そういった問題が出たので、詰め込み教育はやめ、授業時間を削減して総合学習とか、多彩・個性的な授業を可能にし云々。
つまり、教育が成功したことなんてないんですwww
同情するよ。俺も「習ってない漢字を使うな」とか「教えてない解き方で解くな」とか、だいぶ公立小学校には迫害されたからなあ。
自分が好きで色々勝手に本を読んだり暇があったら考えたりして知ってただけのことなのに、「親の詰め込み教育の犠牲者」みたいに扱われて、本当にひどい話だよ。
あなたに足りなかったものは「自分の方法と一般的な方法が同値だと証明するための知能」です。
確かに考える事は大切ですが、もう少し頑張れば良かったですね。
違う。相手は子供だぜ?そんなことを求めるのは無理。
「証明できるかどうか」なんてのは技術的な問題。大事なのは概念を体で理解していること。
概念が体になじんでいて当たり前のように使いこなせていれば、そのうちいつでも必要なときに証明はできるようになる。一番極端な例がラマヌジャン。
大学以降、厳密性に必要以上にこだわりすぎて勉強の進度が遅れてしまう奴ってのがたまにいるんだけど、あんたみたいに「証明できなければ先に進んではいけない」という教義を子供(当時の)にまで押しつけるような人には、はっきり言ってそういう危険性感じるね。
ごめんなさい、具体的に出来ないから、やらないと言っているようにしか聞こえない。
難しいかもしれないが、上を目指せ悪いところは直せと言っているにダケ。
向上しろと言う意見に対して、無理だから向上しないといわれても困る。
いや、ほんとうに、そういう学生が多くて困る。
無理かどうか何て聞いていない。今よりも向上するための努力をしろと言っているだけ。
いまのカリキュラムが十分で、競合する諸国に負けていないならともかく、現状は負けている。
つまり、詰め込み方教育が悪いとは言っていない、足りてない、赤点だといっているんだから。赤点でも良いでしょといわれても困る。
努力した結果できなかったというならともかく、ダメだから努力する必要性はないといわれるのが、一番困る。
これが、いまだ日本が経済大国で右肩あがりだというなら、詰め込み教育で現状で足りていると言うことにもなるが
とうてい現状を見るに足りていない。
足りていないんだから、伸ばして欲しいと、国家の教育担当に意見を上げるのは当然。
その結果が、人徳ではなく、さらなる詰め込み教育なのかもしれないが、それは、それ。仕方がないかも。
今がダメな理由は検討のためには聞いているけど、仕方がないんだという事は聞いていない、次の結果ないし、次の努力を求めて具体例を1つ上げてるだけ。他の方法でも結果が出るなら良いと思うけど、どんな方法?
ただ、もういいじゃないか、向上はあきらめて、おちつこうよ。という意見ならば、それは一理あると思う。
元増田(30代)です。それがマジなんですよね。自分の世代的には「どんまい」なんて日常的に口に出して使ってた記憶が無いんですが。
むしろそういうシチュエーションの時は「がんばれ」って言葉が多く使われるような気がします。
時代的背景として「がんばれ=もっと努力することを奨励する=「詰め込み教育」に代表される努力至上主義的な思想」から
「どんまい=気にすんな=失敗やミスなど対する寛容=「ゆとり教育」による価値基準の多様化」なんかを読み取ったりするのはうがちすぎでしょうね・・・。
リアルにいま中学や高校に通ってるわけでもないんで実際流行ってるのかどうかもわからないですし
言葉は生き物なんで特に意味なんて無くて、廃れて忘れられた言葉がふとした拍子に使われだしたっていう
まさに"流行語は循環する"という状況なだけかもしれません。
彼らには圧倒的に時間が足りなかったのではないか。
彼らには圧倒的に物量が足りなかったのではないか。
彼らには圧倒的に勉強が足りなかったのではないか。
ソフィシケイトされそこなった中学時代の叡智の遅れは、近代文学を叙述したたかが一冊の本を読んだ程度で贖われるものなのだろうか。
中高時代普通の人の倍の授業を受けていても、"sophisticate"を「ソフィシケイト」とカタカナ化するぐらいだからまあそこは致命的な問題ではなかろう。
と、からかいだけで終わらせてもいいのだが、単なる揚げ足取りと思われないために一応。
スペルや発音の覚え間違いぐらい誰でもしますよ。本当に重要なのはそこじゃない。そうじゃなくて、学校の授業の時間数が多いことが本当に重要か、ってことです。授業時間なんて人生の中の時間にしてみればたかが知れているわけで、逆に言うと授業中にしか勉強しない人はそれ以上大成しませんよ。普段の時間から勉強する(場合によっては勉強しているという意識すらなく)姿勢が身に付いているかどうか、そこが重要。そういう姿勢を身につけるためにはただひたすら授業時間を増やせというものではない気がするが。
経験上、詰め込み教育を受けたときはその場で習ったことの定着は大きかったが、それ以上に自主的に考えようとする姿勢は退化してしまっていたように思う。せいぜいそういう教育で得られるのはこういうスペルや発音を間違えないことぐらいでしかない。逆に言うと、ブログ主さんの頭の中身は学校の授業だけで得られたものなんかじゃない。
ゐきぺの「ゆとり教育」と「臨教審」の項はかなり都合良くはしょられてるな。「ゆとり世代」や「寺脇」の項とつじつまが合ってない。
何がはしょられてて、なぜそこまでその臨教審を重視するのかがよくわからん。常識的に考えれば特定の臨教審の意向を以降の政権もずっと従わなきゃいけないわけでもないはず。だからこそ見直しの動きも最近出してるわけで。なぜ今出てきてもっと前に出なかったんだろうか。
詰め込み教育への批判や週休2日論はそりゃあ昔からあるけど、臨教審が日教組の流れを汲むという解釈はあまりに無理がありすぎる。
自分はそういう解釈ではなくて、審議会とか文部省与党だけでなく日教組やらマスコミにもゆとり化の流れを支持する雰囲気、詰め込みに否定的な雰囲気があったから中曽根以降も自民が下野しようがずっとその流れが続いたんじゃないかと思う。臨教審が決定的な役割を果たしたとは思ってなくて、それまであった流れに乗ってただけだし、臨教審や日教組だけで流れを作れるはずもない。
現実の政策というのは基本的に妥協の産物でしょ。55年体制だって談合なれあいと批判されるほど野党の意向もある程度くんでたわけで。ただ妥協の産物とはいえ、相対的に見れば与党の責任が重いのは当然だけど。
90年代文科省と強調してるように日教組が聞き分け悪いとわけでもないと思う。日教組は聞き分けが悪いということにしないとネトウヨ的には都合が悪いから誇張されてるだけのきがする。
おっさんからゆとりといわれる10代が「お前らだってゆとりだ」という反論はたまに見かける。おっさん側の言い分としては完全実施時の世代のほうがゆとり度が高いということなんじゃないかと。
先日、久しぶりに友人と遊んだ。夜になって酒が入ったところで俺が萌え絵とかそっち方向描いてることを暴露。あれ?大学で意気投合してから、もう6年来のつきあいだけど、いままで言ってなかったっけ?そういえば言う機会もなかったし、そいつと頻繁につるんでた頃は絵は中断してたもんな。まあそんなこんなで話は絵の方向に。
友人「でさー、高学年の奴らに遠近法教えたんだよね。やっぱり技術の上に立ってないと気持ち悪くて…。」
増田「理系病だなw…しかし遠近法って…透視図法のことか?あれは難しいんじゃないか?俺でもきちんと使えるようになったのはほんのここ数年だぜ?…一応本来習うのは確か中学校の美術だよな。」
友人「そうそう。だから、写真撮ってきてその上なぞらせたりしてさ。そうすると、意外と理解できるんだよ。『確かに一点に集まる!』って。」
増田「一点透視図法ってやつだな。ふむ、なるほど。理論後回しで、体験的に学習させる方法なら5・6年生でも行けるかも。」
友人「あいつらもさ、やっぱり『上手くなった!』って思えるから楽しいみたいなんだよね。」
増田「だろうなあ。写実は、現実に近くなった!っていう明確な目標が見えるからな。」
友人「でも、コンクールにはことごとく落ちたんだよね…。」
友人「うちは、毎年10人ぐらい入賞させてたらしいんだよ。それが今年はことごとく…。『子どもらしくない』んだとorz」
増田「…いや、まあ、しかし、コンクールなんて審査員ウケする絵が描けるかどうかだろ?『のびのび、元気よく、多彩な色づかい』みたいな。」
友人「…うん(´・ω・`)確かにそういうノウハウはあるね。」
増田「俺も低学年はそうやってのびのび自由に描くのがいいと思うんだ。その頃は『描くこと』自体が楽しいから。でも高学年になると、しだいに写実的に描きたいって欲求が出てくる子もいるだろ。そういう奴らには技術面を指導しても良いと俺は思うよ。」
友人「…でも確かにクラス全部、画一的な絵になっちゃったのは間違いないんだ。隣とかと比べると、これで良かったのかな…って。」
増田「まあ、写実はゴールがあるから画一化はするよな。でもさ、のびのび描く絵だって『のびのび』って名の下での審査員ウケ狙いの画一化じゃない。だから大丈夫だよ。入賞させる人数にノルマがあるって訳でもないんだろ?」
友人「でもコンクールに入賞するってのは、子どものモチベーションになるんだよね。どっちが良いかは分かんないや…。」
増田「そっか…。難しいね。」
教育大学で小学校課程を勉強したとしても、美術系の授業なんて前後期で1授業ずつぐらいだし、絵画技術なんて教わらない。友人もこの透視図法教えるために相当自分で勉強したんだろうな。自分は絵が苦手だって言っていたから、きっと子どもに苦手意識を持たせないにはどうすればいいか、自分なりに試行錯誤して「技術を学ばせる」方針にたどり着いたんだろう。新米だから風当たりも強いに違いないのに、よくやってると俺は思うんだ。
こういうのって教える対象の子どもの発達段階による部分も大きいし、専科を作れば解決って問題でもない。(専科になったら苦手科目で目を回してる教員は嬉しいだろうけど。)
教育に一般解はないんで、だからこうやって現場は現場なりに日々もがいてますよ、と。できれば「教師は…」ってひとくくりにしたり、「教師だめぽだめぽ」って責め立てたりしないで、力を貸してくれると嬉しいな、と。そういうことが言いたくて増田。
友人「でさ、俺のキャラクターって言うか、カットって描ける?ああいうのあるとプリント作りやすいんだよ!」
増田「おまwww…おk、似顔絵は苦手だが教採終わったら頑張ってみるわwww」
※この文は全てフィクションです。実在の人物・団体・思想とは一切関係がありません。
俺らが逆らえない何か。(指導要領は実は法律として効力を持つ。)ネットで指導要領見られるって知らない人多いよね。
指導要領解説(実際に参考にするならこっち)もあるよ。いちいちZIPだけど、そこはお役所クオリティって事で。
この話、結構意見がばらけてますね。自分のは文章がまとまってなくて申し訳ない。
これ、美術とかに限った話じゃなく、「発想の土台となる基礎知識をどれぐらい教えるか」も同じ話だと思うんだ。例えば「理科で草花の名前を単純に覚えさせるの、どうするよ。」みたいな。つまり「知識と経験の比率」だね。詰め込み教育は知識重視、ゆとり教育は問題解決学習や応用力を重視している…だから経験重視だ。
この文だと分かりにくいのだが、この友人は絵がコンクールに通らなかったことや方針そのものに落ち込んでる訳じゃないと思う。たぶん、さじ加減が強力すぎたんじゃないか、詰め込み偏重になってないか、てことで考えてたんじゃないかなと思う。元増田みたいな「もっと基礎を」という意見が出てきたり、友人みたいな悩みを持つ現場があったりするのは、ゆとり教育見直しという現状をよく表してるんじゃないかと思う。
えっと、だから言いたいこととしては、「ハンドルは切られ始めてるよ!」「でもどれだけ切ればいいか現場も(たぶん)文科省も悩んでるよ!」「だからあんまり現場を十把一絡げでいじめないでね!」「文科省任せにしないでいろんな意見が出た方が良い気がするから、ゆっくり議論していってね!!!」…かな?
あー、そういう風に揚げ足とるかね。最後の部分はもはや元増田に向けて書いてる意識はなく、わかる人はわかればよいというつもりだったのだが。
そういう意味で言うなら、俺が最後に書いた「詰め込み教育」というのは、「既存の知識および方法論を、考え方も含めて一通り知り、使えるようにすること」だ。この際、そこから脱線してどのように自分の考えを形作っていくかということは、評価の対象にされない。非常に乱暴な言い方をすれば「考える前に動け」という形の教育だ。
こういう勉強は何をやるのであれ、ある程度は必要。言われているほど退屈なものでもないし、効率はとてもよい。ただし、必要以上にやることではない。
はいはいそうやってわかった風なことを言わない。あなたが言ってる「知識の詰め込み」と「考える過程を重視」が何を指してるか、あなた自身の自分の言葉で説明してね。
あなたこそ、他人の借り物の言葉で日本の大学を貶めたいだけなんでしょ。その辺で思考停止してしまうのが「自分の頭で考えてない」ってことなんだよ。
学歴コンプ君がダンコーガイの尻馬に乗って高学歴を罵倒しても、実はダンコーガイは学歴コンプより高学歴人間の方にはるかに近い思考様式を持っている(本人は無自覚、というより気づきたくないのかもしれないが)ということに気づかない人は本当に滑稽だね。
マジレスすると、エリート教育のやり方の違い。日本では高校卒業時に詰め込み教育を行い、フランスでは高校卒業後に詰め込み教育を行い、アメリカではそれが学部後半以降になる、それだけのこと。
あなたに漠然とした質問をひとつします。
深く考えずにとりあえず答えてみてください。
「答えはどこにあると思いますか?」
本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。
でも、答えてください。
反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。
何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。
答えましたか?
これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。
「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。
このテストは、速水健朗「自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し病患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。
「自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不本意ながら。
でも、病を自覚できたおかげで、最近悩んでいたことがすっきりしました。
娘の教育にあたっての妻との衝突の悩みです。
「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というのが、娘の教育にあたっての私の方針でした。決して突飛な考え方ではないと思います。
しかし、これを聞くと妻はため息をつきます。そして言うのです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
たしかに妻は、勉強や運動で飛び抜けた成績をあげたこともなく、これといった得意分野もありません。何かの趣味に熱中することもありません。
では、どうして妻は、私にとってかけがえのない存在なのでしょうか。
そして、娘の教育方針はどうしたらいいのでしょうか。
現在の子育て世代は、深刻な自分探し病世代でもあるように思います。自分探し病でわが子まで不幸にしないために、私の考えをまとめてみました。
「自分探しが止まらない」では、我々の世代はみんな、自分探しを社会から強制され続けてきた世代であることを、様々な事例から明らかにしていきます。
我々の世代というのは、「あいのり」世代として区切ることができます。青春時代に放送されていた恋愛バラエティー番組が「あいのり」であるという世代です。比較して語られるのが「ねるとん」世代。
私は「あいのり」世代です。そして、「あいのり」の本質は恋愛バラエティーではなく自分探しバラエティーであると、「自分探しが止まらない」は分析しています。
私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組は時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。
「ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。
「高身長・高学歴・高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。
私たち「あいのり」世代は、徹底した自己分析によって自分の適性にぴったりの職業を見つけて、その職業に就くことによって初めて幸せな社会人になれると刷り込まれ続けてきました。
というか、刷り込まれてきたという自覚もありません。仕事=自己実現であり、答えは自分の中にあるのであり、就職活動=本当の自分探しであるという考え方に疑問すらわかない状態です。
自分探し病が重症になると、恋愛についても同じ考え方をしてしまうわけです。恋愛=本当の自分探しであり、やっぱり答えは自分の中にあると考えるのです。
常に本当の自分とやらを見つめ続け、
「よくよく考えてみたら、私にはこんな一面があると気づいたの。だからあなたとはお別れね。あなたが悪いんじゃないの、あなたを選んだ私は、まだ本当の私じゃなかっただけなの。」となるわけです。
問題をややこしくしているのが、この考え方が「あいのり」世代特有の奇妙なものであることを自覚するチャンスが無いということです。「自己分析」という自分探し病キーワードを「あいのり」世代が口にしても、スルーされてしまうという罠があるのです。
罠のポイントは、「あいのり」世代の奇妙な考え方にお説教のひとつくらいしてもよさそうな50代から60代あたりの世代こそが、私たちに「個性重視」教育を施した当事者であるということです。
その世代の人たちは、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさかそこまで本気で私たち世代が信じ込んでくれているとは思ってもいないのです。
(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)「個性重視教育」
をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、
「個性重視教育」
になってしまったのです。
ファンタジーが現実になってしまったわけです。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた世代には、どうにも実感の湧かない現実でしょう。自分たちが目標に掲げて実現した世界なのに。
だから、「自己分析」というキーワードを「あいのり」世代が口にしたところで、そこに信仰にも似た過剰なまでの熱量が含まれているとは思ってもみません。文字通りの意味で受け止めて、微妙にずれた言葉のキャッチボールが成立してしまうのです。ある程度の「自己分析」が就職活動に必要なことは間違いないのですから。
相当に丁寧な言葉のキャッチボールをしないと、この微妙な、だけどとても大きなずれに気付くことは出来ません。
このような「自分探し」をめぐる世代間の認識のずれは、自分探し病についての建設的な議論を台無しにしてしまいます。
50代から60代あたりの世代は、まだマシです。我々「あいのり」世代が抱えている「自分探し」観を懇切ていねいに説明すれば、
「へぇ?、そんな風に考えていたんだね。思っても見なかったよ。」と素直に受け止めてくれる人も少なくありません。
問題は「ねるとん」世代です。「ねるとん」世代は、「自分探し」がブームになった世代なので、「自分探し」について自分たちの世代もよく知っているつもりです。「深夜特急」が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代です。
だから、自分探しについて自分なりの考え方を既に持っています。そして、それを語り尽くしたら、議論をおしまいにしてしまうのです。
「自分探し?そんなものは俺が若い頃にもあったし、俺もかぶれた時期があった。あんなものは一種の通過儀礼で、いつまでも自分を探しているやつは甘えているだけなんだよ。」みたいな感じです。
たしかに「ねるとん」世代が青春を謳歌していた頃に「自分探し」はブームになり、「ねるとん」世代も多くの人が自分探し病にかかりました。
しかし、まさに「ブーム」でした。
「ねるとん」世代の多くは「ブーム」として自分探し病にかかり、「ブーム」だからこそ、しばらくすると熱は冷めていったのです。
自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいました。オウム真理教に入信してしまった人などです。ただし、それは特別な存在でした。
しかし、我々「あいのり」世代は、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてきました。今の大学生にいたっては、物心ついてからずっとです。
自分探し病の病原菌に、いつか治すべき流行病として感染したのが「ねるとん」世代。素晴らしいワクチンであると学校で接種されて感染したのが「あいのり」世代なのです。自分探し病にかかるということの意味合いが全く違ってくるのは当然でしょう。
そのあたりの認識のずれに気付かないまま自分探しを論じているブログがたくさんありました。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html
Baldanders.info
「『自分探しが止まらない』を眺める」
http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000376.shtml
どれも、我々「あいのり」世代の自分探し観と微妙にずれた、彼らの世代の自分探し観を前提として持論を展開し、議論を切り上げてしまっているように思えます。
自分の病理として捉えつつも、このように冷静に分析できたのは、私が自分探し病にかかりつつも、それほどこじらせないで済んでいたからです。
妻のおかげです。
私と妻、それぞれがまったく違う生き方をしてきたのが功を奏しました。
私は圧倒的な優等生としてずっと生きてきました。常に学級委員を務めていて、勉強も出来ました。しかも、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、個性的と賞賛される発想を、ずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう伝説級の優等生でした。運動神経は全くありませんでしたが、スポーツから逃げるのがしゃくで、中高と運動部に所属して、それなりにこなしていました。
あくまで事実を書いただけですw
より適切に表現するならば次のような感じでしょうか。
キモオタなんだけど、やたらと行動力があって、運動以外のスペックが全般的に高くて、何より精神的なダメージへの耐性がむやみに高いせいで、周囲の微妙な空気も含めて力技で引っ張り回して、何だかんだで思い通りにしてしまう人間でした。
要するに、「あいのり」世代が受けてきた「個性重視教育」に、これ以上ないくらいに適応した人間だったのです。学校が楽しくて仕方ありませんでした。
就職するときには、超氷河期の中でしたが、おもしろそうだと思った仕事にすんなりと就くことが出来ました。今も仕事が楽しくて仕方ありません。
一方、妻は、勉強も運動も人並みで、特に何かに熱中することもなく、至って普通に生きてきました。学生時代に何かを成し遂げた思い出も無いそうです。
なんとなくいくつかの会社を受けて、内定をくれた会社に就職し、しばらく働いてから寿退社。今は専業主婦です。
要するに、「個性重視教育」に背中を向け続けてきた人間なのです。学校では先生のお説教が憂鬱で仕方なかったとのこと。
相変わらず我が道をばく進する大学生だった私が、ひょんなことから出会った専門学校生の妻に交際を申し込んだ理由は、そんな妻の普通すぎる価値観が逆に新鮮だったからでした。
まぁ、正直なところ妻の美しさが最大の理由でしたが、新鮮な価値観に魅力を感じたのも嘘ではありません。妻としても、私のキモオタぶりも含めて、すべてが新鮮だったからOKしたそうです。
実際に交際を深めていく中で、かけ離れた価値観をぶつけ合うことが、やはりとても生産的なすばらしい行為であることを知りました。というか、妻がここまで徹底抗戦してくるとは思っていませんでした。
私が積み重ねてきた経歴や、獲得したたくさんの語彙や、膨大な知識に、まったく臆することなく、というか意味を見出さず、ひたすら一つのことを問いただし続けるのです。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
「俺には輝かしい学歴があるからね。」
「いや、これが結構残念なことになっちゃう人も多くてね。
だけど、俺は違うよ。就きたい職業のイメージもしっかりしているし、そこに向けた努力もきちんとしているし。」
「仕事はおもしろそうだし、お給料は人並みにもらえるらしいし、安定している業界だし、忙しい職場だけどそれなりに家庭生活とのバランスもとれるっぽいから、大丈夫だと思うよ。」
「本当に?」
「たぶん…。」
「私を幸せに出来るの?」
「いや、そう言われると…。これから社会がどんな風に変わるか分からないし、仕事が自分にとって本当におもしろいかは入社してみないと分からないし、それなりに出世するつもりでいるけど、学歴とか関係ない職場だし…。言われてみると…。」
真剣に具体的に考えて、私は愕然としてしまいました。
私にあるのは可能性だけで、何一つ確実なものは無いのです。
輝かしい学歴も、個性的な発想力も、築き上げた人脈も、彼女に幸せを約束するための十分条件にはならないのです。いや、必要条件ですらないのです。
三段跳びに例えると、助走で最高に気持ちよく走ってきて、スピードものってタイミングもばっちりだけど、ホップ・ステップ・ジャンプでうまく跳べるかなんて、踏み切ってみないと分かりはしないってことに、初めて気付いたのでした。
走ることと跳ぶことって全く別のことですもんね。うまく助走出来た方が、うまく跳べる可能性が高くなるというだけです。うまく助走できていたのに、うまく跳べないことなんてざらにあります。一方で、助走ではいまいちスピードがのらなかったのに、うまく跳べてしまう人も少なくありません。
更に言えば、ホップ・ステップまではうまく跳べたのに最後のジャンプで大失敗なんて、歴史の教科書ではむしろ多数派です。
そんな問答を彼女としながらも、私はとりあえず就職活動を進めていて、希望通りの業界で内定をもらいました。
しかし、内定を手に大学4年生となった私に、トラブルが発生したのです。勉学以外の活動が面白すぎて夢中になっているうちに、最後の一年でとるべき単位が大変なことになっていたのです。時間割のすべてのコマをパズルのように埋めて、すべての授業で単位を獲得できれば卒業できるという状況でした。
跳ぶことの怖さに気付いてしまった私にとって、そんな状況は、跳ぶのを止めて、とりあえず助走を続けるのにぴったりの理由に思えました。
その年度の卒業は諦めて、もう一度就職活動を仕切り直そうと思ったのです。自分探しを延長するのにぴったりの大義名分だと思ったのです。
三段跳びの踏み切り板が近づいてくると、もう少し走れば、もっといい感じのスピードとタイミングになるかもしれないと思えてきたりもするのです。
内定した会社より、重役面接で落とされた別の会社の方がやっぱり自分にあっている気がしてきてみたりするのです。
そんなことを彼女にほのめかしてみたところ、一喝されました。
「何が何でも卒業して就職した方がいいと思う。最初から留年するつもりなんだったら、別れる。
だって、就職留年して別の会社に内定したところで、幸せを約束できるわけじゃないのは一緒でしょ。試験勉強応援するからさ。」
彼女がそういうんだったら仕方ないというか、そうした方がいいことは薄々気付いていて背中を押してもらったというか、私は卒業に向けて全力投球することになったのでした。
そして、私は無事に大学を卒業して就職し、今に至るというわけです。彼女、つまり妻が一喝してくれて本当に良かったです。
助走って楽しいんですよね。でも、助走はしょせん助走なんです。助走としての個性重視教育にしろ詰め込み教育にしろ、過剰に最適化された私は、走ることがあまりにも心地よかったこともあって、跳ぶことをついつい先延ばしにしてしまうところだったのでした。
たしかに、踏み切り位置がきっちり決まり過ぎていた頃は、それゆえの悲劇もあったのかもしれません。
足のタイミングが踏み切り位置にたまたま合わなくて失敗したとか、もう少し長めに助走していたらスピードがぐっと上がっていたはずだったとかです。
だから最近は、そのあたりの悲劇を無くすために、踏み切り位置をきっちり決めないでOKとする風潮になってきました。
でも、何だかんだ言って、結局は跳ばなきゃ話にならないのです。
「もっと真面目に助走しろ!」と怒られ続けてきた妻にしてみると、それほど意味がないように思える助走なんかさっさと切り上げて、早々に跳んだ方がいいに決まっているのでした。
ということで、妻に一喝されたおかげで、私は自分探し病をこじらせないで済んだのでした。
でも、いまいち問題の本質を理解しないままでいて、危うく娘まで自分探し病的な考え方に押し込めてしまいそうになっていたところを、再び妻に一喝されたというわけです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
「誰にも負けない何か」というのは、私がずっとすがりついてきたキーワードでした。
閉塞感が漂う時代は、多くの人が確実そうなものにすがろうとします。医学部が人気になったり、公務員試験の競争率が高くなったり、金相場が上がったりします。
でも、私たちの世代は、「すがれそうな確実なもの」という幻想をことごとくぶち壊された世代でした。
私たちが大学受験をした当時は、医者余りで食いっぱぐれる医者も出てくるなんて言われていました。
学歴は、無くて困ることはあるけど、あったところで何かを保証されるわけで無いことを、みんな知っていました。
大規模リストラのニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は、音を立てて崩れ落ちていきました。
そもそも、大企業自体があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられました。
かといって官僚も、天下りありきの賃金構造でモチベーションが維持されていて、そんないびつな構造を維持できるはずがないと、みんな薄々気付いていました。
そんな状況と、骨の髄まで染み込んだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なのです。
確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、努力によって磨き上げられた圧倒的な才能くらいでないとすがりつくことは出来ないという悲壮な認識です。
でもね、そんなものに手が届くはずがないのです。認めたくないですけど。
だから、妻の反撃は私を追い詰めていきます。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!あなたにはあるの?」
「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」
「随分限定するのね…。そこに需要があるの?」
「ある!…はず。」
「食べていけるの?」
「…いけると思う。」
「子どもの学費もあるんだよ。」
「いける…ん…じゃないかな…」
「厳しいんじゃない?」
「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」
それなりにスペックが高いと自負している私は、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていました。でも、ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達できるはずがありません。
そこで、私はニッチ路線をひた走る戦略へと方針転換したのでした。数は少ないけど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、今から開拓者として乗り込んでおこうというわけです。この方針転換自体は間違っていないと思っていますが、もはや「すがりつける確実なもの」というレベルの話でないことを、認めざるを得ません。
というか、「一生安泰」のためには、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」必要があります。一発屋が、むしろ不幸へとつながりやすいことをみんな知っています。かといって、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」という生き方は、もはや普通の人生以上の修羅の道です。
要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。
でも、なにか確かなものが欲しい!
そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。
私にとって妻がかけがえのない存在である理由を考えてみました。
私は常に暴走モードに入っています。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていきます。
そんな私の背中にまたがった妻は、時々私の耳たぶを引っ掴んで大声で叫ぶのです。
「あんたバカぁ!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」
妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。
一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。
今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。
「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。
一方で、こんなきっついツンデレ妻を背中に乗せていられるのは私くらいだという、妙な自信もありますw
もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけではありません。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスです。
自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。
そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。
結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。
不断の努力無しには崩壊してしまうものが「確かなもの」であるかは微妙なところですが、わが家では、その程度の「確かなもの」で十分とし、それ以上のゆるぎない何かを求めるとろくな事にならない気がします。
私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。
そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。
かといって、「キミとボクの関係が世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまいます。
そうではありません。あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。
「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」
という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。
後編へのリンクを忘れていました。
初増田なもので、すみません。
わが子を自分探し病から守る 後編
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私は短大のときの私と何か変わった訳でもないのに、扱いが変わる
極東ブログ: [書評]私、おバカですが、何か? 偏差値40のかしこい生き方(深田萌絵)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/07/40_f9f8.html
本当に食べていくだけで精一杯だったんです。そんな鼻つまみ者扱いが、
大学が決まっただけで「あ、早大生なんですね」って周囲は好意的に受け入れてくれるようになったんです。
決して「早稲田大学が日本一の大学です!」、「学歴がすべてです!」なんて思っているのではなく、
ある程度の大学にいるというだけで、社会的な信用度が大きくなり、
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それまでの「え、○○短大卒なの?」って眉をひそめられていたのとは違う現実を突きつけられる。
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MARCH(明治大学、青山学院大学、立教大学、中央大学、法政大学)
大東亜帝国(大東文化大学、東海大学、亜細亜大学、帝京大学、国士舘大学・國學院大學)
大学難易ランク一覧(2009度用大学ランキング 代々木ゼミナール)
「WKMARCH」「日東専駒」「大東亜帝国」から「学ぶ力は生きる力、生きる力は学ぶ力」へ 代田恭之氏
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昨日本屋で平積みになっていたから、何気なく、いわゆる携帯小説とやらを見てみた。
で、ぱらぱらっと見てみたんだけど、なんていうか、凄いカルチャーショックを受けたよ。
台詞9割、心理描写1割、情景描写皆無。
おまけに文字も老眼にやさしいやや大きめのサイズであることに加え、
たっぷりと確保してある行間でさらに読みやすくなり
その結果ページ数も十分に確保され贅沢な達成感も得られるお得仕様。
文字のサイズや行間の幅とかを一般的な文庫本サイズの小説に合わせたら、一冊が
10ページ前後でまかなえそうな量だ。
値段は見ていないが、豪華な装丁からその高級感に応じた値段だと思われる、
内容については好みの問題もからむから即断は避けとくが
ともかく贅沢に紙資源を消費してつくられた高級品であることだけはまちがいない。
始めに「読んでみた」ではなく「見てみた」と書いたのはそのせい。
「読む」ときに感じる労働感はなく気軽に「見る」感覚で読めてしまう
20年くらい昔、富士見ファンタジア文庫が創刊して、スレイヤーズあたりが
「この手の小説って下半分を真っ二つに切ってもメモ帳として使える」
と、台詞主体の複数行にわたる長文の少ない文体の利点を褒め称えた
ものだが(残念ながら貧乏くさくびっしり書いている人もいた)、
携帯小説はそれを遥かに上回るゆとりを持った文体で、残念ながら
旧世代の俺達には単なる空白にしか見えないが
「考える力」育成重視の脱詰め込み教育を受けた新世代はこれくらい広大な行間から
様々な情報を読み取ることが出来てしまうのか、と思うと
今後俺達は行間を読む力がなければ新しい世代の小説もロクに
そもそもゆとり教育がなんなのかって話しはWikipediaによくまとまっている。ゆとり乙とか言うやつは背景ぐらいつかんでるんだろうか。
1996年7月の第15期中央教育審議会第1次答申において、1970??80年代の団塊ジュニア世代頃の詰め込み教育、管理教育、受験戦争によって発生した校内暴力、いじめ、落ちこぼれ、勉強に追われる学生などにより、子供達の生活の現状にゆとりが無いことを指摘。その上でゆとりを持った教育環境においてゆとりのある教育活動が大切であり、仲間や教師と楽しく学びあいを行い、生きる力を身につけていくことが重要であると指摘した。この提言を受けて週5日制など「ゆとりの教育」が始まったとされている。具体的には週5日制に移行した2002年4月からいわゆる「ゆとり教育」が始まった。
そもそも校内暴力、いじめ、落ちこぼれ、勉強に追われる学生に対する対策として導入されたのがゆとり教育。その結果現在の教育現場はどうなったか。学級崩壊、加速するいじめ、ひろがる格差。電車に乗って遠くの塾に行き、必死で勉強をする小中学生。これが現実。
当然開始当初から学力低下への懸念はあった。勉強の時間が減るんだから、全体的に見てテストの点数が下がるのは当たり前だと思う。しかし、前述のような状況に対する非難ではなく、学力低下に対する非難をうけて方針転換する文科省はどうかしてると言わざるを得ない。非難する方もする方だが、される方もされる方だ。迷走する文科省のおかげでさらに現場は混乱するのだろう。
もうひとつ、今回各所で話題になっているPISAだが、文部科学省のページ((Home > 公表資料 > 統計情報 > PISA(OECD生徒の学習到達度調査)2003年調査))によるとこういうテスト。
【調査の内容】より一部抜粋
PISA調査では、義務教育修了段階の15歳児が持っている知識や技能を、実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかどうかを評価。
これって「楽しく学びあいを行い、生きる力を身につけて」いる学生ならきちんと答えられるはずではないだろうか。
ネット社会では「ゆとり」だから悪いと盲目的に非難される節があるが、何が悪かったのかを早急に考えるべきだ。もっと言うなら、ゆとり教育を受けたものを非難するぐらいなら、文科省のやりくちや、教師の怠慢のほうがよほど非難されるべきだ。
[上層ノンマニュアル][文化資本][文化的再生産]裕福な家庭の子が進学で有利
子どもたちの相似は強制の効果である。卒業するや強制が終わる。
常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう
益川さんと小林さん、文科相ら表敬…教育行政を手厳しく批判 : 科学 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
大学受験などで、難しい問題は深く考えず易しい問題だけを選んで解くよう指導している学校の現状を指摘。
「これでは、考えない人間を作る『教育汚染』だ。親も、じつは教育熱心じゃなくて『教育結果熱心』だ」と教育のあり方を手厳しく批判。
日本の子どもを幸福にする23の提言―LOOK FORWARD! | 中村 修二 | 本 | Amazon.co.jp
エリート教育のやり方の違い。日本では高校卒業時に詰め込み教育を行い、フランスでは高校卒業後に詰め込み教育を行い、アメリカではそれが学部後半以降になる、それだけのこと。
能力をほめるのをやめよう
【脱ゆとり教育】フィンランド、日本より授業数少ないのに好成績…授業数増で「詰め込み教育」に戻るのは避けたい
経済協力開発機構(OECD)の国際学力調査では、授業時間が日本より少ないフィンランドが好成績をあげている。
授業増が学力向上につながると考えるのは早計だろう。
「ゆとり教育」で成績アップ ホントなのかウソなのか : J-CASTニュース
ドイツは1400,デンマークは1500時間です。これだけ働いて何を得ているのでしょうか?家一軒も買えない場合が多い。
はてなブックマーク - わが子に「学校」はいらない(AERA) - Yahoo!ニュース
家庭が裕福なほうが高学歴を得やすいという話をしているのだが?
単純に進度が速いのだ。
多くの有名私立高校では2年の終わりか3年のはじめで終了させてしまう。
単純に早く終わるというだけでも、
有名校に行くために自己推薦が重視されるため、ボランティア活動ばかりに精を出す人もいます。
一概にどちらがいいとは言えないかもしれません。
『カトリーナ募金』とか『ツナミ募金』といったグループを結成して自分がリーダーになろうと必死。
大学受験で、ボランティア活動の実績やリーダーシップ力が問われるから。
なんだか皮相的な感じがするのよねぇ。」
asahi.com:机はコの字、チョークなし教壇なし 進む「教室革命」 - 社会
「ドラゴン桜」の対極だ! 「ゆとり教育」で京大合格 : J-CASTテレビウォッチ
本当に「ゆとり教育に伴う思考力の低下」が原因なのだろうか? - Thirのノート
百マス計算、インド式九九では数学力は育たない: ホットコーナー
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先日、友人の家族と夕食を共にした席で、大学3年生のお子さんが言いました。
「小学生の時に父さんに言われてサッカーのクラブを通ったが、僕はいつも天気が悪くなるのを願っていたよ。
雨でも降れば練習に行かなくてすむと思って」。
聞いた友人はしばらく沈黙し、「お前がそこまで嫌だったのか。父さんは悪かった」と謝りました。
確かに、考える力を鍛えることは必要。
でも大前提として、その考える力を下支えするだけの知識が必要であることを忘れている気がする。
記憶力って大事だと思うんだ。
システマチックに言うと、
(2)次にプロセス(処理)があって
(3)そしてアウトプット(出力)があって
ということになるわけで、そのインプットをすっ飛ばしてプロセスを追い求めても意味ないじゃん、と考えるわけ。
あまつさえ、短絡的にアウトカムだけを求めるのはおかしな話だよね。
しかし、基礎的な情報の蓄積がない子供にプロセスを求めても、それは無理という話。
本を読ませて、計算させて、漢字を書き取らせて、音読させて。
最初は学ぶことを強いて、強制して、詰め込んで。(=勉強)
いろんな情報を収集して、そしてそこから何を導き出すか。
それこそが「学問」じゃないのかな、と思うのです。
学問のためには必ず勉強(情報収集)という仮定を経ないと成立しないんじゃないか、と。
詰め込みといわれようがなんだろうが、その基礎的な内容、インプットの質と量が逆に様々なプロセスを呼び起こす場合もあるわけ。
そこを、プロセスありきのインプットで語ってしまうからおかしなことになる。
確かに、考える力は大事。
でも、そういう机上の空論を繰り返すエライ人たちは忘れてると思うの。
沢山の知識、前提、バックグラウンド、歴史、、、そういった背景が彼らにあって、それが今に息づいているということを。
九九や歴史や漢字や自然現象や、そういった雑多な知識から学んだ様々なことがあっての今の思考体系だということを。
『y=(??b±√b^2-4ac)/2a』
という因数分解の公式が直接役に立つことはほとんどないけど、そこに至る過程で思考方法を学び、それが肥やしとなって生きてくる。
「生かせるようになったときに生きてくるような情報を与えておく」
それが幼少教育なんじゃないかな。
だから、強制し過ぎない範囲で詰め込んであげるのは、必要なんじゃないか、って思う。
まだ上手く考えがまとまってないけど。
今の僕はそう思っている。
・・・そう思いません?