はてなキーワード: 必要条件とは
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
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http://jkondo.hatenablog.com/entry/2011/11/19/114109
おしゃべりする相手はともだちだけじゃありません。それだけではあまりに退屈です。
ともだちだけが社会ではありません。人は、自分の興味があること、自分が専門としていることを通じて、もっと社会とつながりたいと思っています。ともだち以外の人とつながりの生まれる場所に行きたいと感じています。
個人的には全くもって同意。
で、これ、80年代は、これを全くひっくり返したことが言われてた。「もっとともだちを大事にしたり、友達を作らないとダメよ」「友達がすべてだよ」みたいなね。
生まれてこの方、この「ともだち第一」メッセージには心底うんざりさせられ続けてきたので、こういうメッセージはとても嬉しい。
「ともだち幻想=友達がいないやつは人間として問題がある」や「ともだちについての強迫観念」が生まれてきたのは70年代の末ころだったらしいです。
なんでもそうだけれど、誕生した当初はそれなりに合理的な理由があるもんです。 だいたいそれをおかしな方向にねじ曲げちゃうのがコマースメッセージなわけですが。
最初はあまりにもこの時代の日本社会が仕事一辺倒で、仕事以外で人間の価値をみとめられないこと、男社会への傾倒が急激すぎて、それへの反発が強くなったという話からスタートしてます。
(日本の男優位社会は伝統でも何でもなく、敗戦後に作られたものであるって話も大事ね)
人間関係も全部仕事がらみ、家族ぐるみの付き合いといっても結局仕事に縛られる。女の人や子供はさぞストレスだったろうと思う。
この当時は、必要があったとはいえ、仕事頑張りすぎて脳がおかしくなった男性が調子乗りすぎて、ソレ以外の人間を犠牲にしてヒャッハーしてた時代だったということやね。
(団塊世代の人とかが、「俺たちは毎晩徹夜する勢いでがんばってたのにいまどきの若いものは」とか言ってるのを聞くと、
ああ、日本人ははやく複式簿記を必修科目にスべきだ、と思う。こういうバランス無視の考えだからバブルが起きたんだよ、責任取れとはいわんがちょっとは反省しろボケが。
ああ、彼ら的には悪いのは全部日銀で政府でアメリカの陰謀なんですよね。 本当に信じられないくらいにナイーブな方々だと思う。反省したくてもできない脳のつくりなのね)
そんで、仕事における負け組や、仕事オンリーの人間関係に虚しさを感じる人達が、仕事以外のものをもとめたときにそれがともだちの存在だった、という流れ。
そういえば、この年代も、若者の連続殺人犯とかが立て続けに発生して問題になってたな。
当時から、社会的な問題があると、若者がカナリアよろしくまず発狂し、ソレを見て年寄りは「最近の若者は」って言うのは変わらんかった、と。
で、そこはなんでも極端な日本人、なんでも二元論で考える日本人。
日本人は、なにか新しいことを始めるときに、前のものを否定しなければ気が済まない上書き志向の持ち主です。
「仕事だいいち」に見切りをつけると、どっと「ともだち至上主義」に流れ出した。女の子は「恋愛なんちゃら」かな。
で、こんどは「仕事がデキない奴はクズ」「学歴低い奴は賢い奴の奴隷」みたいなカーストに復讐するかのように
「友達がいない奴は人間のクズ」「いくら偉くなってもあいつ友達いないんだろうな」って言えばなんとなくスカッとする傾向が生まれましたとさ。
とはいっても、おじさんたちは頭が硬いからそう簡単に変わったりはしません。つまり「勉強や仕事第一」主義も残ります。
夫に全面的に依存して思考停止している母親も基本的には夫の方針に従って子供を調教します。なので、勉強第一主義は根強く残ります。
「勉強・仕事だいいち派」と「ともだち100にんできるかな」が勢力闘いをするようになります。
まぁホント日本人くらいですよ、仕事とプライベートを対立関係に置いて、どっちか片方しか取っちゃいけないと考えてるのは。
仕事と私とどっちが大事なの?って慣用句自体、日本人の性格をこの上なく正確に表現してるよね。
不完全なものでも絶対の軸において、ソレにすがってないとアイデンティティを確立できないのは、やっぱり無神教国家だからなのかねぇ。とか知ったかぶってみる。
そうやって、自分だけが幸福になりたいばっかりに、それに適応しない人たちを踏みにじることを何とも思わないことがとっても生き物っぽくていいですよね。
こうやって仕事vsプライベートで対立しあって、お互いがお互いの素晴らしさを主張しようとハードルを上げ続けた結果、
もはや両立不能なレベルまでどちらも要求レベルが高くなって、両立できないからどっちか選ぶ羽目になってまたケンカする。アホかと。
両立するためには、超人的な体力を持つか、仕事時間を自分でコントロールすることが許されるくらい偉くなるか、
あるいはちきりん女史のように、全力で仕事頑張ったあと、途中で退職する以外に方法はないんだろうなぁ。いずれにしろ無理ゲー。
自分で無理ゲー作って、クリアできないとか言って文句言うのって楽しいのかなぁ。
ここで終わればまだ笑い話で済むんだけれど、さらに続き。
当然として「勉強・仕事が出来ない」「友達もいない」人はベン図の外側に追いやられて、「かのものは人にあらず」と迫害の対称になります。
まぁ簡単に言うといじめですね。いじめって人間を測る評価基準があれば必ず発生しますが、まぁ日本のいじめは馬鹿馬鹿しいのが多いですね、クソッタレです。
でまぁ、いじめられたやつがどうなるかについて全く考えてない、フォローしないのも問題ですね。で、そのつけは当然数倍になって返ってくるんですけどね。
社会から切り離されたまま長時間放置されて、社会性を失った人が大勢います。
人間以下の扱いを受け続けると、本当に人間であることを辞める人がたくさんいます。
匿名で振る舞い続けていると、人間であることの節度を失う私のような人間もたくさんいます。
で、そういう奴らはどうするでしょう。
隣人部作ってはぐれ者どうしで連帯する?そんなのフィクションです。サバイブSNSってのがありましたけど多分うまく言ってないんじゃないかと思います。
(はがないはアニメしか見てないけど、あれはともだち教へのアンチテーゼだよね。「きみらがいってるともだちとかはどうでもいいし少ないですがそれが何か?」ってことやろ?)
社会性の訓練とか人間扱いとか、匿名から引き剥がして一個の人格として扱うとか、
そういうレベルから世話焼いてくれるとこがない限り、いちど脱落したものはよっぽどのことがない限り復帰できません。
結局人はひとりひとり自分でなんとかして助かるしかないでしょうね。
ほとんどの人間は、それぞれが「人間以下のなにか」として、ずっと劣等感抱えながら生きていくだけです。
あるいは「人間以下の何科ですがなにか?」と開き直って、twitterやら増田なんかで有名人にからんだりなんなりと社会に迷惑をかけながら生きていくしかない。
人間であるための条件として「友だちがいること」「勉強ができること」ってのがかっちりと決まっているかぎりはもう人間に戻ることはない。
というような感じなんですが、そういうともだち地獄に対して、
「ともだちともだちともだちってそればっかかかお前らは、そんな人生つまんねーだろ」ってのが当たり前に言われだすとまた話が変わってくる。
「ともだち地獄」のいく末は「22世紀少年」であり「原理主義者たちの祭典」ってのがようやくわかってきたみたいで、さすがにみんなうんざりしてきてるみたいです。
勉強もともだちも大事ですが、それを必要条件のように考えると、ほんとにしんどいだけなので、そろそろやめようぜ、って話になってくると嬉しいです。
生きるのは、ただでさえしんどいことだと思うので、そこにわざわざ重荷を載せないでもいいやんか。
別に俺はドMだからハードモードでやりたいんだって人はそうしたらいいけれど、ちょっと荷物下ろして道端で休んでる人を鞭打つ必要もないでしょう。
「死のロングウォーク」(スティーブン・キングの超絶傑作)はフィクションとしては死ぬほど面白いけど、現実では一番やっちゃだめなフィクションだってのに、なんで好んであのゲームをやりたがるのか、私にはよくわからんです。
阿呆な頭で平等主義を誤解したままお題目みたいに唱えるから、能力ある人に引っ張られて自分たちもがんばらなきゃいけないハメになるんですよ。
阿呆なら阿呆でいいやん。 南無阿弥陀仏言ってたら幸せになれる頭の持ち主が、TPPのこととか考えなくていいよ。
あんまり他人のことを気にし過ぎないで、ともだちがどうとか言わないで、自分が好きな事やってりゃいいと思います。
生きるほうを、選ぼう。
まずハングリーってことは何か欲してるものがある。欲しくて欲しくて仕方ないものがあるってことですよね。
そりゃまぁこれがないと話が始まらないから、まず何かを欲しているってのは必要条件だと思います。
でも、これだけでは十分ではないと思うんですよね。
といっても手段の話しじゃありません。適した手段は人によって違うので決まった答えはないと思います。
何かというと、私は手段を選択するさいの精神性みたいなのが大事なんじゃないかと思ってます。
それこそ自分を批判する人であろうが、商売敵であろうが、なんでも真剣に相手のことを聞いて、知ろうとして、そこから何か学ぼうとする。
で、それだけじゃ足りなくて、そういう敵対してた人でも尊敬できると思ったら友達にしたり、仲間にしたりするんですよ。
(彼の中では友達と仲間は違うらしいですが、この説明は今回は関係無いので省きます)
とにかく彼は反対意見でも攻撃でもなんでも取り込んじゃうんですよね。受け入れるというより、取り込んじゃう。
「ローマ人の物語」から表現を拝借すると「抱き込み戦術」だし、「新太閤記」から表現を拝借すると「人たらし」みたいな感じ。
で、当然私達も彼に対して、「なんでそんなに他人のこと受け入れられるのか?」って聞いたら
「別に選り好みをしないわけではない。自分にはやりたいことがあって、 そのためのヒントになると思ってるから人の話もよく聞くし、
障害になると思っていることはよく理解して備えたいと思ってるだけだ」ということらしいです。
私だったらそれでも嫌いな人だったら自分の感情を優先して目標台無しにしちゃったりすると思うので、これだけではないと思うんですが
本当にハングリーな人が、強い目標を持ったら彼の言ってるような状態になるのかも知れません。
私たちは彼のことをジャンプの主人公みたいだな、と呼んでます。
(特にワンピースってそういう話だと思いません?あれってみんな大好き戦国時代を海賊ベースに描き直してるような印象を受ける時がある)
こういう人を知っているせいか、
「俺は欲しい物があるんだ、かなえたいことがあるんだ」とか「僕には使命があるんです」って言ってても
自分と関係ない人に対して話題になってるという理由でちょっかい出して自分に注目を集めようとするみたいな人は
それってあなたの夢や使命にとってどういう意味があるんでしょう?って聞きたくなってしまう。
別にハングリーじゃないと成功できないとは思いません。ハングリーであること自体に意味があるわけでもないと思いますし。
ただ、「僕は自分のことをハングリーな人間だと思っている」というのであれば、このくらいはして欲しいと思います。
どうでもいいけれど
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111017/1318821702
を書いた後に
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111019/1318990671
「自分に自信がないと書く奴は自信がある」を裏返すと「僕は自信があるように振舞ってるけど実は・・・」になりますしね。
こういうところに知恵回してる暇があったらさっさと「もしお笑い芸人養成学校の講師がジョブズの伝記を読んだら」を書いて欲しいです。
http://anond.hatelabo.jp/20110825105018
お金持ちたちの共通点を分析する。個人的に気に入ってる自己啓発や精神世界系のものと照らし合わせる感じで。
→費用対効果がいいからという元増田のような考え方ではお金持ちになれないだろう。彼らは「与えることで受け取ることが出来る」と深く理解している。計算ではなくごく自然に他人に与えることが出来る
→欲しいものしか買わないということは、欲張らない、欲が少ないということ。一時的にしかお金持ちになれない人は「たくさん持ってるから」という理由でどうでもいいものに金をつぎ込む。
→これも「与えることで受け取ることが出来る」の思想。元増田の言うとおりお金は溜め込むことではなく流すものであるから、彼らはお金を不必要に貯めない
→物質ではなく人間との繋がりが富を生み、幸せを生むことが出来るとお金持ちは気づいている。自らの幸福は他者に与えることでしか得られないから、友人が多いお金持ちは幸福度が高い。
→学ぶ意欲があるというのは、生きていく上での必要条件。これがなければ人は死んでいるのと変わらない。
→語るという行為は、人に求められた時以外にやると「意見の押し付け」になる。また、人の話を聴こうとする姿勢は他者を理解しようとする姿勢であるから、友人を大切にするお金持ちが語るより聴くのも理解できる。
→普通の人が「失敗を恐れる」というとき、それは成長することを否定しているのと同じだ。実際、どんなに失敗したとしても取り返しがつかない失敗というのはない。それを理解すれば、どんなことでも挑戦出来る。お金持ちは常に成長することを忘れない人々なのだろう。
→ここは疑問。まあいいかと考えることがなぜネガティブなのか主観しか語られていないため不明。短期的にネガティブというのは、切り替えが早いという意味なら良く分かる。お金持ちは短期的にも、というか常にポジティブであると思う。ポジティブな生き方だからこそ常に学ぶことが出来、常に挑戦することが出来る。悲観的なことを考えている人は、結局その悲観的な未来を求めてしまっている。幸せなお金持ちは悲観的な現実にはいない。
さっきまで読んでた自己決定はどうも古いものが多いせいか意思決定のところが「そんなもん自明だろ」ってかんじだったので
途中まではまじめにまとめてたんだけど、途中からドラッカーの文章があまりに格好いいので引用まつりになってしまいました。申し訳ない。
<意思決定のスタート>
1 まずはじめに意思決定が必要かどうかを考える
2 必要のない意思決定は行わない、行うべき意思決定は断固として行う
4 意思決定に際しては必ず、一般的な問題か例外的な問題かを考える。
5 常に問題の本質を理解するよう務める
<意思決定の中身>
6 意思決定においては、満たすべき必要条件を必ず明らかにしなければならない。
複数の解決案から最善のものを選択するには、4つの基準がある。
第一にリスクである。解決案から得られるものと侵さなければならないリスクを比較する。
第二に経済性である。解決案のうち、最小の労力で最大の成果をもたらすもの、混乱を最小にとどめつつ必要な変革をもたらすものは何か。
7 意思決定はとにかく正しい解決策を求める点をスタートとする。妥協するかどうかはその後のことである。
8 妥協に迫られテも問題解決のための必要条件は守りぬく
9 意思決定にあたっては常に実行を考える。具体的には以下の4つを必ず決めなければいけない。
・実行の責任者
・日程
・影響を受けるが故に決定の内容を知らされ、理解し、納得すべき人
・影響を受けなくとも決定の内容を知らされるべき人
意思決定において最も困難な部分は必要条件を検討する段階であり、
最も時間のかかる部分は、成果をあげるべく決定を行動にうつす段階である。
やべぇドラッカーさんのセリフ、いちいち格好良い!そこはかとなく俺の厨二病をくすぐってくる文体。
11 検証は、そもそも意思決定そのものが未検証の仮説に過ぎず、判断たらざるを得ないことを認識して行う。
12 意見の不一致を必要なものとして歓迎し、多様な意見を収集する
意見の不一致は3つの理由から必要である。第一に組織の囚人となることを防ぐため、第二に選択肢を得るため、第三に想像力を刺激するためである
アリストテレスに発し、初期キリスト教会の原則とまでなった言葉がある。本質における一致、行動における自由、あらゆることにおける信頼である。
くわー。もう完全にラノベの地の文だ。はじめて読んだけどドラッカーってすげえ文章が楽しい。
13 意見の相違に関して、間を取ろうとしてはいけない。常に行動するかしないかである。
まとめ
まず行うべきことは、基本的な解決をもたらすべき一般的な問題か、特別な解決を必要とする例外的な問題かの判別である。
例外的な問題に見えても、既にどこかで起こったことのある一般的な問題であることが多い。
次のステップは問題の全容の理解であり、満たすべき必要条件の明確化である。
ここでようやく、誰が何を行い、結果について誰が責任をもつかの決定が来る。そして最後のステップが、意思決定の結果の検証である。
関係する者全員から広く意見を求めることが必要である。出された意見に対しては根拠の提示を求めなければならない。
いやそんなことよりドラッカーの文章が格好いい。
今更もしドラの話。あのブログにリンク貼りたくないから言及先がどこかは察して。
もしドラが小説なのかノウハウ本なのかがよく分からないってところに原因があると思う。
ただの読み物として見れば文章がド下手で有ることは議論の余地がないのだが、それだけで決着付けられない正体不明なところがもしドラの特徴だろう。
既存の評価方法では決着を付けられないからいつまでたっても議論があーでもないこーでもないと長引き、それによって肥えるのは作者だけ、という構図。
で個人的な感想だけど、作りものであるなら、あの描写でぜんぜん問題なかったと思っている。
http://kaoriha.org/nikki/archives/000733.html
説明しないと何を考えているのかわからない? では、わかることにどんなメリットがあるのか。
その場かぎりの作り話にすぎないものをわかることが、そんなに重要なのか。
わかることと楽しいことのあいだに、どんな関係があるのか。前者が後者の必要条件だと思い込むのは、いったいどんな因果あってのことなのか。
普通は私もこういう態度を取ると思う、でも、もしドラの例のシーンについては、なぜかこの主張が通じないな、と思ってしまった。
理由は2つある。1つは、作者自身が現実の話を持ちだしてきて、あの作り物めいたシーンを現実でも妥当なものだと抜かしたから。
リアリティを主張するなら、説明不足は論外だろう。読めない奴は可哀想だとか何を言ってるのかわかりませんね。どこの仕立屋だよ。
それともう一つ。それは単純に「そのシーンに想像力を働かせるほどの重要性や魅力を感じなかったから」ってのが大きい。
そのシーンが重要だと思って、「描写が不足している」ではなく「もっとこのシーンについて理解したい」と思ったら、その先は読者が好みに応じて二次創作すればよろしい。
そう、解釈じゃなくて、二次創作の段階。小説の読み方の話じゃなくて妄想力の問題。
この段階において、読者がどこまで想像力を働かせられるか、まして「原作に忠実につじつま合わせをしてくれるかどうか」は、基本的には読者の読書力に関係しない。
完全に作品の魅力の問題だ。つまり
に依存する。
そして、日本ってめちゃくちゃ二次創作の能力に長けた人がたくさんいるわけで。
ちょっとした情報やきっかけがあれば、そのくらい想像してくれると思うんだ。
でもほとんどだれもそういう反応してくれなかったわけだから、そりゃなにか別に問題があると思うよね。
私は原作読んだけど、例のシーンが重要かどうかって分からなくね?と思う。
全部通しで読んだ上で、作者の主張を全面的に受け入れてもう一回読み返してみて、キャラのことを好きになって、って条件を満たさないと
そもそもそのシーンについて想像力を働かせようって気にならないと思う。
じゃあ、この作品、2回目、3回目と読み返すための仕掛けがあっただろうか、と。そういう演出や魅力があっただろうか、と。
・・・なくね?
何度も繰り返し同じ道中を体験させるしな。
キャラクターのことを細かく説明するわけじゃないけど文章だけじゃなくていろんな演出で感覚的に理解させてくれるしな。
繰り返しの中で気に入ったキャラについては、二次創作したくなるよな。
岩崎さんはネプテューヌの制作に関わっていらっしゃたようなので、想像力を働かせたくなるな作品の作り方を学ばれたことと思います。
次回作に期待。
前回の記事(http://anond.hatelabo.jp/20110716012416)が予想以上にブクマがついたので、引き続き書いてみたい。予想通り「ナンパ=イケメンに限る」みたいな、すっぱい葡萄を全開にしたコメントを残すバカもいたが気にせずいこう。いいだろうか、ナンパはイケメンに限らない。もちろん女性の中には「イケメン以外お断り」という奴もいる。だがそんな女性は存外少ない。気にせず、そして図太くなれ。厚顔無恥になることがナンパにおける必要条件だ。そして「ナンパ事始め」は内向的なうじうじ君からアクティビティを取り戻すための、スモールステップだと考えて欲しい。大丈夫。ワンステップはこれ以上ありえないくらい小さく刻んでいる。内向的な引きこもりが、いきなりどんなコミュニケーションでもイニシアチブが取れるようになる魔法は、残念な事に存在しない。誰もが「長年」かけて、異性にアプローチする方法を磨いてきたからだ。だが「いきなり」でなければ可能だ。しかもリア充が「無意識的」に磨いたスキルを「意識的」に磨けば、それは「いきなり」ではないが短期間で到達できるものに過ぎない。ステップを確実に登っていけば、少なくとも現状は脱出出来る。もちろんステップ一つ一つは楽ではない。だが時は来た。今まで逃げていたであろう苦しみと向かい合う時が来たのだ。
さて前回の記事のブクマコメントに以下のようなコメントがあった
「IT系の人が、マニュアルも読まず、アンチウイルスも入れず、DISKのメンテもせず、画面も読まずyesを押しまくり、それでPCが不調になって愚痴や文句を言いまくる人に対して抱く印象を、この人は彼らに抱いている気がす」
要するに「お前ちょっと見くびり過ぎだろ」という苦言だろうと思うが、これは誤解だ。この記事が必要な人間は多くはないだろう。(というか圧倒的少数だろ)私は、「読み手全員」に配慮しているのではない。照準している対象は、コミュニケーションハイアラーキーの「最下層」、つまり彼女もいなければ、友人もおらず(いても同じような非モテ)、異性とのコミュニケーションが母親だけに限定されているような人々である。大学受験に必要な数学を学ぶために小学校の算数からやり直してもらうプログラム、と言えば分かりやすいだろうか。「よしナンパしてこい!」と言われて「わかりました!」と行動出来る人にこんな記事は必要ない。もちろんナンパすら必要ない人、つまり自分で満足な人間関係が構築出来る人なら尚更である。「ナンパ事始め」は、ナンパをするためにに必要な自信を、出来るだけ短期間で取り戻す(そう、それは元々貴方から欠如していたのではない。不幸なキッカケでいつの間にか貴方から脱落してしまったのだ)プログラムである。
唐突だが水城せとなの『失恋ショコラティエ』は読んだことがあるだろうか。(名作だ。読んでおいたほうがいい。)第三巻で主人公の親友のオリヴィエはこんな事を言う。
「どんなアコガレがあっても 出会えた人としか恋はできないよ 人生の中で巡り会える相手って案外限られてる ハムスターは同じカゴの中にいるハムスターとつがいになる それと同じでしょ?」
当たり前だが、時間が有限である以上、出会いもまた有限である。満足な人間関係を今まで築けなかった貴方の「出会い」は非常に限定されたものだったろう。そしてそんな「限定的な出会い」は貴方の可能性を大きく縮める。内向的な奴らが集まりがちで、男女比が極端に偏っているサークルで起こるのは、視野狭窄野郎による少数のさして可愛くもない女の血みどろの奪い合いである。何故そのような現象が起きるのか?それは彼らがそれ以外に「出会う場」に参入出来ないからだ。恋愛をするためには、まず出会わなければならない。ナンパが出来ない人間が出会いを作るためには、金銭的・時間的コストをかけてなんらかの共同体に所属する必要がある。もうお分かりだろう。ナンパこそコミュニティに参入する必要なく(コミュニティ参入にはそれなりのコストがかかる。そしてそのコストは多くの場合、コミュニケーションのスキルアップに何ら貢献しない)出会うことが可能な唯一の方法である。出会う奴の数を飛躍的に伸ばせ。視野を拡大し、サークルや会社の女の評価を修正しろ。身近な女性がただのクズか素晴らしい人かは、多くの人と出会ってこそ初めて分かる。また出会った数だけ、貴方の生活におけるデスク滞在時間が短縮するはずだ。
さてまだまだナンパの効用を書くことは出来るが、この辺にしておこう。最後にナンパを啓蒙した文章で恐らく最高のものをあげておく。
http://d.hatena.ne.jp/qqille/20101227 性とナンパについて渋谷で考えた
書き手はやり手ナンパ師(ちなみに、「ナンパをする人」と「ナンパ師」は明確に違う。これはまた今度触れよう)であるが、非常に巧みな修辞と理論化で読ませる記事をいくつも書いている。ただ私の目的は、貴方を「ナンパは最高に打ち込める趣味だ」と公言させる事にはない。「ナンパを通じてスキルを磨き、そのスキルを用いて日常生活を豊かにする」(これも詳しくは今度)ために、それ以前に必要なスモールステップを提示することこそが私の目的だ。さて、まずはレッスン1から始めよう。今すぐ外に出て道をたずねろ。「スイマセン、ここから駅はどう行けばいいんでしょうか?」
今日女の子と話していて話が噛み合わなかった点を思い返してみてちょっと書いてみます。
女の子は「分かってもらう」ことがどうしてそんなに大事なのかな。
というより、最初は女の子が何を求めているのか全くわかりませんでした。
男の人には説明しなくても伝わるかとは思いますが、
男としては「分かってもらう」ことは全く必要ではなく、ただ「(よくわからないにせよ)大したものだ」と認めてもらえれば満足だと思います。
此処から先は私の話ですが、私自身としては、むしろ「理解される」ことは嫌だと思うケースが多いです。
中途半端に「わかったふりをされること」ってのはちっぽけながら持っている自分のプライドが傷つきます。
友達ならまだしも、母親や教師などに「理解」されると「狭いカタに嵌められる」ような感覚を受けてしまいます。
相手に理解されるように振舞うことを要求されるような気がしてしまうのです。
そんなわけで、個人的には「理解される」ことが嫌なので、
道徳の時間でよくきく「自分がされては嫌なことは人にしない」の方針に従い
なんとなくわかるような気がするけれども、わかったふりをしない。
共感できるところもあるけれど、無理にあわせず自分の意見を言う。
そういう事を繰り返していることが、彼女にとってものすごく不満だったみたいです。
彼女はとにかく「分かって欲しい」とか「なんで分かってくれないの」といって怒ってしまいました。
そこで謝れなかった私も良くないと思うのですが、
今でも正直なところよくわかりません。
なんで女の子ってそんなに自分のことを分かってもらいたいと思うんでしょうか?
分かってもらうことってそんなに大事でしょうか?
言葉どおりにとれば「条件Aが十分条件である」としか解釈できないと思うけど。
で、「共に存続する」だけなら総意を無視するという選択もあるのだから、必要条件とは言えない。
総意を無視されることを考えていないとしたら、現実が見えていない。
仮に原発を推進したいなら、今回と同レベルの事故が発生したときに、どれだけの人的・経済的被害が発生するかを試算して、つまり100%事故が起こることを前提にしたうえで、どれだけのメリットがあるかを説明していくべきだと思うよ。そして、「何十年かに1回大規模な事故が起こったとしても、経済的にペイできるからいいか」と国民が納得すれば、国も原発と共存できるでしょ。
これを条件Aが必要条件だと主張してると読解するのは無理があると思うけどなあ
「条件Aは存続の必要十分条件」「条件Aは不可能」よって「存続は不可能」というロジックなわけね。了解。
総意を無視するという選択もありうるよ。「共に存続する」だけなら。その是非はともかく、っていうか俺は否定したいけど。
民主制において、政治責任を背負うのは有権者全員である。政治家が、勝手に物事を決めてしまい、その責任だけを有権者である国民が背負うというのでは、任期制の王制と変わらない。民主政体における政治家の役割は、有権者のコンセンサスを形成する事であり、独裁をする事ではない。戦後、2回以上の解散総選挙を行って連続して信任を得た首相は、吉田、池田、佐藤、中曽根、小泉の5人だけであり、これらの権力者は、独断専行をやれる立場にいながら、私利私欲の為にそれを望む官僚や同僚議員、支援者からの要求を、世論に諮ってからでなければやれないと、拒絶する事に多大な労力を費やしていた。
それゆえに、国民からの支持が集まって、二度目の解散総選挙においても支持を得られたと言えるし、二度目の選挙で勝った後でも、独断専行を避け、国民主権を実現する為に働いた為に、任期満了によって辞任した後でも、政界において多大な影響力を残せるようになっていった。
独裁者になれるのに、その権力を自分達の為に使ってくれなかったという逆恨みを持つ者は官界を始めとするあちこちの業界に居るが、それらは少数派である。それらの口車に乗って便宜を図っても、国民からの支持を失って地位を奪われるだけという実例が沢山あるのに、それをやってしまうというのは、学習能力が無いか、自分だけは大丈夫という過信があるかのどちらかであろう。国民主権という本質を理解していないだけなのだが、そこに、過信や無能が加わると、悪影響は留まるところをしらない。
政治家が自分の頭で判断して、正しい結論が出せるというのであれば、王制でやっていける。それができないほど、世界が広く、社会が複雑になっているから、王制でも貴族制でもない、民主制が必要とされている。民主制によって選ばれた議員は、人民の代弁者であって、頭脳ではない。代弁する為には、人民の声を聞かなければならず、声を聞くには、十分な情報の公開と、議論の記録によって、堂々巡りや不確実な情報による憶測を排除していかなければならない。
情報の公開と言論の自由、そして、議事録の記録と公開は、国民に意思表示を求める際の、必要条件である。争点を形成し、民意を問うという技術こそが、選挙で勝つ為の技術なのだが、利権を独り占めして選挙区にバラ撒きをやりたいという目的においては、それらは邪魔な事となってしまう。
日本の民主党は、社会主義者と自民党を追われた土建族の野合政党であり、どちらも、民主主義とは相容れない体質であり、民主主義国家の与党には、ふさわしくない。独裁しておいて、頑張っていると主張しても、その頑張る方向性が明らかに間違えている以上、国民は認めない。民意を形成するという手続きを行わなければ、国民の支持は得られない。これは、政治だけでなく、事業においても同じである。良い製品を出荷し続けていても、それだけでは国民の支持を得られない。民意を味方につけなければ、外資系企業と同じ扱いにしかならない。
http://anond.hatelabo.jp/20110513200831
・主の存在は気にならなかった(そもそも周囲を気にもしていなかったが)
・生活と福祉は医療系科目が多いので、正看護師資格取得が目的の准看護師のおばちゃん(推定)が多数(今でもそうかは知らん)
試験の難易度も激しく科目による。
「教科書持込OK、選択式、全5問」などの楽勝科目もあり、それなら全く勉強しなくても取れる。
が、元々認定単位がある編入学者ならともかく、卒業単位を全て放送大で取らなければならない人は
そんな楽勝科目だけでは足りないのでそれなりに勉強は必要と思われる。
発端~一次沈静化までについては既に解説が多数あると思うので割愛。ややフランチェス子寄り。多分に推測を含む。
フランチェス子はソラノートプロデューサー梅本氏とのメールのやり取りを公表する。
当初放送の非を認めず、訴えたければ訴えればいいとまで言い放ったソラノートは、ネット上の猛バッシングを受けて態度を軟化させる。
合わせて社内で検討している処罰として、本案件総括後、私梅本の懲戒免職とそらのコト佐藤綾香の辞職となります。これらをもってフランチェス子さまの名誉回復の謝罪に代えさせていただければ考えております
この時点ではソラノートは放送によりフランチェス子の名誉を毀損したことを認めている。
両者の合意により、代理人を通して和解の方向で、水面下で話し合いが進められることになる。
東日本大震災が発生、フランチェス子は震災の影響を考慮し、3/13に予定していた代理人同士の協議を3/19に延期する。
自粛を宣言していたソラノートは3/14より業務用twitterアカウント@ksoranoにて積極的に活動を再開する。
この時点では和解に至っておらず、ケツダンポトフ公式サイト上でも自粛を宣言したままであり、協議を延期しておきながらなぜ活動を再開したのか真意は不明。
代理人による話し合いが行われる。この時点でのケツダンポトフ側の代理人はプロデューサー梅本氏である模様。
ソラノートはフランチェス子に和解の為の条件を求める。同日、フランチェス子は和解金を含む和解案をまとめソラノートに提示する。
この際、ソラノートは「視聴者に対する謝罪と、フランチェス子に対する和解は別のものとしたい」と確認を取る。フランチェス子は「当然である」と認める。
ケツダンポトフ公式サイトの更新し謝罪文を発表する。内容は「視聴者や関係者に迷惑を掛けて申し訳ない、社会への責任や意義を考え直し出直す」というもの。
ソラノートは視聴者への謝罪とフランチェス子との和解を切り分けることで、先行して視聴者に「一連の騒動への謝罪の意がある」ことをアピールし早期再開を狙ったものだと思われる。
対してフランチェス子は「被害者との和解が先にあり、それを踏まえた上で視聴者に謝罪するのが筋ではないか?」と抗議する。
ソラノート顧問弁護士である宮本督氏より「放送に法的問題はなかった、和解金を支払う道義はない。名誉毀損は撤回する」と通告。
確かにケツダンポトフの放送はフランチェス子に対する誹謗中傷を含むが、「francesco3」というハンドルネームの社会性を立証しない限り名誉毀損罪の成立は難しいと考えられる。
裁判になれば勝てるとみなし、03/06の「辞職を以って名誉回復の謝罪とする」発言を撤回、フランチェス子が求める「名誉毀損に対する謝罪/賠償」は行わない方針に切り替えたとみられる。
この時点で問題は「金額の多寡」ではなく「ソラノートがHNフランチェス子に対する誹謗中傷の責任を認めるかどうか」という話に切り替わっている。(ただしフランチェス子視線)
フランチェス子がブログにて「そらの的朝のニュースにおける個人への一方的な誹謗中傷、名誉毀損を風化させないために」として03/08以降の経緯をまとめる。
フランチェス子は協議を完全否定されたと認識し抗議しているが、そらのは「両者による協議中の段階のため答えられない」と発言し、食い違いを見せる。
ソラノートに対する批判の高まりを受けたのか、そらのは騒動に関する発言は控えるとしておきながら「誤解をされている」と発言。
それを目にしたフランチェス子は「協議を否定しておきながら協議中とはどういうことなのか?」「そらのの言う自粛、反省、謝罪、協議の意味とは何なのか?」と詰問する。
そらのは「協議中のため代理人を通せ」の一点張りで切り抜ける。誠意はミジンコほども感じない。
ケツダンポトフWebサイトのデザイナーのトミモトリエが、フランチェス子の日記に「和解金が高額のため、弁護士が和解案が不当と判断した」という趣旨のブックマークを付け、和解金の存在を暴露する。
なぜ外注のWebデザイナーが和解案の内容を認知しているのか不明。普通に考えれば第三者が私信である和解案の内容を暴露するのは常識がない。
トミモトリエはフランチェス子のやり方は一方的に有利な情報を出しネット世論を誘導するフェアではないやり方であり、フェアな議論のためには和解金の額を公開するべきだとする。
しかしフランチェス子の談が正しければ、この時点で既に問題は和解金の多寡ではなく、フランチェス子に対する名誉毀損を認めるか否かという話に変わっている。
ソラノートが和解金を支払う気がないのは金額の多寡ではなく、和解金を差し出したという事実が名誉毀損の法的責任を認めたことに繋がるからではないだろうか?
トミモトリエの言うように本当に金額の多寡のみが問題で、名誉毀損についての法的責任を認めていたならば、金額交渉を行っていたはずである。
ソラノート顧問弁護士である宮本督氏より「法的責任は認めないので和解金は出さない。謝罪により円満に解決したい。これ以上騒ぐならば営業妨害とする」と通告。
その際フランチェス子側が出した質問状(内容は不明)に関しては一切答えなかった。理由は不明。
ケツダンポトフが利用していたUSTREAMのアカウント、ksoranoが停止される。
もともと問題は起こしていたものの、かつてはUSTREAM公式からオススメ番組に認定されたり、解説本の帯に解説を寄稿するなど癒着していたアカウントをこのタイミングで停止したことは騒動と連動していると考えられる。
恐らくはUSTREAMがケツダンポトフの該当放送内容を「誹謗中傷に当る規約違反行為」とみなし、「ソラノートは規約違反行為の名誉毀損の法的責任を認めず被害者と和解する気がない」と判断したため停止処置に至ったと思われる。
津田が参戦。「ケツダンポトフの影響力を考慮して、額面を調整するべきではないか?」とフランチェス子にアドバイスを送る。
しかし額面を調整するべきはソラノート側であり、額面を判断するのは司法であり、被害者が「額面が多すぎたのでもう少し金額を減らして和解しましょう」と提案するのはありえない話である。
被害者が額面が妥当、あるいは過少だと評価しているならば尚更である。
そもそも現時点で和解金の額面は公開されておらず、部外者であるトミモトリエの「額面が問題」という発言が一人歩きしている状態での津田のアドバイスは勇み足であるともいえる。
もっとも津田とソラノートが繋がっているという疑心暗鬼を抱き、円満解決に向けた救いの手を払いのけたフランチェス子にも非難の視線が集まる。
個人的には津田がメディアジャーナリストを自認してこの状況を打開したいと考えるならば、メディアであるそらの側に働きかけて、中傷報道を認め、謝罪させる方向に持っていくべきだったと考える。
切込隊長が他人事のように言及。口を噤み法廷で決着を付ければいいのにとの感想を述べた上で、本心ではこの騒動が延焼することを望んでいることを明かす。
切込隊長には1年前、ソラノートが企画し、津田が司会を行ったUSTREAM放送番組に出演した際、エイベックス社社長に「シャブ野郎」と暴言を吐き、名誉毀損罪で告訴された過去がある。
この事件では放送を企画したソラノートが罪を問われることはなく、そらのは「番組は大成功だった」と統括し、この経験が生かされることはなかった。
新興ネットメディアを持ち上げてきた津田ら著名人は苦言こそ呈しながら、「ダダ漏れ」の病巣に切り込むことはせず、放置され続けた。フランチェス子の事件は起きるべくして起きた事件だという指摘もある。
それにしても"当事者側"に近い人間であるトミモトリエや津田大介や切込隊長らが揃って"第三者"として事件に言及するのは面白い現象である。
これまでの炎上により既にソラノートは社会的信用を失い十分な罰を受け、フランチェス子の毀損された名誉も回復されているという見方もある。
しかし問題はあくまでそらのとフランチェス子当事者間で起きたものであり、当事者間で何らかの謝罪・賠償が行われる必要はある。
ただしこの問題が法廷にもつれ込まれた場合、ハンドルネームでしかないフランチェス子の名誉毀損が法的に認定される見込みは高くないものとみられる。
そもそもソラノートは名誉毀損の法的責任を認めず、謝罪も賠償も行うつもりはない。これはそらのもtwitterにて倫理的部分と法的部分は切り分けると発言していることから明らかである。
現時点での焦点は、和解金の多寡ではなく「そらのがフランチェス子に対する名誉毀損の法的責任を認めるのか?」である。
そらのとフランチェス子の相互理解が困難なのはこれまでのやりとりで自明である。
一連の行動をみてもそらの側の行為に誠意らしきものは全く感じられない。この状況下での謝罪は口先以上になりえず、金銭による和解が妥当だと思われる。
この見解は人により異なると思うが「謝罪で十分だ」というのは実質的に「そらのは何の責任も認めなくていい」「被害者は泣き寝入りしろ」というのと同義と思う。
騒動の初期段階でそらのが菓子折りを持ってフランチェス子邸に謝りに行けば終わった話だと思われる。
被害感情を解さず弁護士シールドを持ち出しこじれさせたそらのも、オープンな場で議論しながらお節介に対しても噛み付き出したフランチェス子もどちらもアホだと思う。
b:id:jtw 中傷された側もアホ呼ばわりして「どっちもどっち」と片付けるはてな村住民。自分が殴られないと理解しないことの証左か。
「どっちもどっち」ではなくそらのがフランチェス子を名誉毀損した責任を認め賠償するべきだという立場です。ソラノートが今後もネットメディアとしてやっていくならば、それは絶対必要条件だと考えます。
ただし法的な側面で言えば、ハンドルネームの社会性は認められにくく軽んじられる一方で、企業であるソラノートへの営業妨害は認められる非常に不利な状況にあり、フランチェス子の立ち回りが懸命とは思わないだけです。
b:id:toaruR 本質が金額の問題じゃないのなら、和解金をもらったところで、札束で叩かれたとしか思えないんじゃ。
相互理解が困難な状況において、札束で叩くより上等な解決手段があるならば、それを採用するべきでしょう。
スピード違反をした人間には罰金を課せられますが、罰金により違反行為に心から反省することはありません。罰金による解決は本質を突いてはいませんが、それによって交通事故が抑制され、社会の潤滑油として機能します。
b:id:sionsuzukaze他 ある一つの見方での経緯まとめ(最後は完全に私見)
客観的な事実のみに基づいた資料はb:id:fut573がソラノートとフランチェスコ氏めがねおう氏の件まとめにてまとめる予定のようなので、そちらを参照してください。私見を多く含むため「まとめ的な何か」としています。
b:id:fut573他 ハンドルネームに対する名誉毀損というか、放送でフランチェス子氏の顔写真が写っていてその上でのあれだったからなぁ。
この判断は弁護士でも解釈が変わるところだと思うので半可通では明言できません。
調べた限りではハンドルネームであっても個人が特定されば名誉毀損罪とみなされ、顔写真は個人を特定できる材料とみなされるようです。また顔写真の場合、肖像権の問題もあります。
b:id:wacking この流れでなんで「どちらもアホだと思う」という結論になるんだ
そもそもどちらが正しいという対立構造ですらなく、問題の本質は「そらのがフランチェス子に正しく罪を償うか?」という部分なのですが、フランチェス子の言動が息を潜めていた彼女のアンチを活発にさせています。
この点について私見では判断を見誤ったという感想を持ちました。フランチェス子は心身消耗を理由に自己正当化していますが、消耗している自覚があるなら尚更発言には慎重を期すべきだったと考えます。
勿論フランチェス子のアンチがブクマや増田で勢いづいたところで本質が揺らぐことはありませんが、法的側面で見たときは両者は五分程度だと考えているので、ギャラリーの世論も結果に影響を与える要素になりえると思っています。
すみません、森永卓郎さんのことを学者と呼ぶのは、多くの学者さんのためにやめてあげてください。コメンテーター または タレントだと思います。
ちなみに、森永さんはいま見たところ、博士号を取ったということもなく、国内だけでなく、MBAなどの海外修士課程をおさめたということもなく、学卒らしいです。東大の教養学部理科2で入って、経済学部卒というのも今知りました。
つhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E8%80%85
理系の場合には、世界的に見て博士が必要条件であることが多い(アングロサクソン文化では、修士卒で研究職にあっても、研究補助員としか見なしてくれない)
というのが、一般的な見解で、経済学にするにしてもMBA程度、修士程度は収めるべきで、実質からいえば、すくなくとも、博士号というのは、誤りではないと思います。
※多くの誤解を受けますが、博士号というのは、いわゆる研究職の最初にもらえる称号でゴールではありません。これから、研究の道を歩むにふさわしい第一歩を記した物というのが博士号です。
ゴールはないんですが・・・あえてあげるならば、ノーベル賞のような著名な賞という事になるでしょう。という 狭義の学者の定義もある中で・・・森永さんを広義で学者に入れてしまうのは・・・ちょっと 違和感があります。
本物ってどこにあるんだろう。
いい例が音だ。
本物の音ってどこで聞けるのだろう。
ギターの弦が弾かれた音ひとつとっても、アンプを通したりパソコンで加工したり、生演奏だって言っても雑音が混じってしまっては首を傾げてしまう。
良い音ってなんなんだろう。人が心地よく感じるものって何なんだろう。
加工された純粋じゃないものに触れてより良く感じるのだとしたら。
味。調味料にしてもそうだ。その果物が使われているわけじゃないのに、その風味を好む。
ともすれば、初めて純粋なものに触れたとき味気なく感じるかもしれない。
加工された現実で生きる感性は麻痺しているのかしら。その麻痺はもう二度ととかれないかもしれないのだけれど、それってどうなんだろう。
良い悪いじゃなくて、少しもやもやする。本当に、ほんの少しだけ。
錯覚し続けることが生きること。加工された心地よさに酔っていれば、どんな姿をしているともわからない純粋なものを知らなくて済む。
でも、純粋なものってなんだ。純粋な味ってなんだ。純粋な音ってなんだ。純粋な光景ってなんだ。
純粋って幻想なのか。純粋ってあやふやなものなのか。振れ幅が大きな純粋と加工されたものとの境界はどこにあるんだ。知らされていない状況で判別は可能なのか。
自己満足とか自己判断とか自己決定とか、そんなものでしか結局物事を感じ取れない。
感じ取った物事が誰かの感じ取った物事と合致しているのかわからない。
わたしは正解を当てたのか。不正解を引いたのか。
言葉はうそをつくので信用できない。言葉は記号なので、それ自体から得られるものは結局自己判断になる。
どうして数式は正しい答えがあるんだろう。数式ってすごい。改めてそう思う。
たぶん、数字はその記号世界だけで完結しているんだ。すごく正しくて不正のない存在なのだ。
珍しいと思う。でも、もしかしたらそれはそうであるものとして作り出されたからなのかもしれないけれど。
作り出されたもの、そうであるとものとして生み出されたものに疑問を持つことは愚かなんだろうと思う。
でも、すでにそうあったもがどうしてそのようにしてあるのか考えるのであればわくわくする。
わくわくしていられれば、それで十分なのだろう。
いや、十分てことはないのかもしれない。おそらく十分条件足りえる事柄なんてないのだろう。
極度に抑圧された条件下で同姓ともセックスしたというのではもちろん同性愛差別を否定したことにはならない。
そのとおりだ。ただし、私は
「日常生活において大きな偏りがあること」をもって差別だと言ったが、
「同姓とセックス」だけで差別の無いことの十分条件とはしていない。
後半意味不明といったのは特に「セックスできる=同性愛差別者」の等号式部分。これを否定しているがそれでは当たり前である。
補則を読むに、「セックスできる=同性愛差別をしない人」と書いたつもりの間違いで、それを否定しているのか。
私もそれならば同意だ。上記のとおり、セックスできることをもって同性愛差別ではない事の十分条件とは思わない。
それは必要条件に過ぎない。