はてなキーワード: メジャーとは
エルゼビアって結構ヘイト稼いでいるのなw
いろいろ突っ込みどころはあるが、
第一点として、エルゼビアの製品の料金は高すぎるということ。
第二点として、論文誌の「抱き合わせ」が広く行われているために、図書館はある論文誌を購読しようとするとき、興味のない他の論文誌もセットで買わなければならないこと。
第三点として、公的資金による研究に対して政府がフリーアクセスを要求することを禁じる法案(たとえば米国議会で審議に入る Research Works Act など)を支持していること。
第三点については心底どうでもいいのでここでは触れない。
第一点と第二点は独立する問題ではない、というか「単刊購読は高くつき、何誌かのパッケージでは割安になるが、いらない雑誌も取ることになる」というジレンマを別の角度から見ているだけであって、結局「利益率高すぎ。もっと安くできるだろ?オラオラ」という一点に尽きるのではないか。
学術雑誌の世界は、定価があってないようなもので、一応最終頁に価格が印刷されてはいるが実際にその価格で買うユーザーはほとんどいない(まったくいないかもしれない。今まで聞いたことがないので)。これは「抱き合わせ」によるものもあるが、ACSとかの学会誌であっても会員には規模に応じて大幅な値引きがなされるのが常態だからである。このような場合に「高すぎる」と簡単に言っていいのか。お前んとこの図書館が貧弱なだけじゃねえの?
また、マイナーな雑誌もメジャーな雑誌も大して変わらない価格で供給しているということもある。公開されているプライスリストを見ればわかることだが、エルゼビアでは、雑誌の価格を支配しているのは、医学分野は高いとかそういう一般論を除けば、(分野のマイナーさや雑誌のダメさから類推される)発行部数ではなく、重さである。
なにより、商業誌が学会誌より高いのはべつにエルゼビアに限ったことではなく、つまりワイリーだって他の会社だって学会誌より高いのであって、それはもう商業誌なんだから仕方ないという他にはない。それがイヤだから掲載料を取るというのでは、商業誌のメリットって何なの?と言わざるを得ない。
そんなことより問題にされるべきなのは、マイナーな学会誌を業務委託という形で取り込み、自社のブランドになった途端に購読料を引き上げるというエルゼビアの営業手法である。と、思うのだが、だからといってどうしようもない。前が安すぎたというのもあるし。
以上ぐだぐだ書いてみたが、元記事は同意できる点もあり「これだから数学者は」と思う点もあり、非常に面白く読めました。翻訳ありがとう。
最近あった心理的なめんどくさいといえば、やや特殊な嗜好かもしれないと思ったのものを描くときに、
「○○ってどうなのかなー」
と言ったら、
「大丈夫ですよ!他人に遠慮しないで自分の好きなものを描けばいいんです!自分の描きたいものを描くのが一番です」
って言われたとき、あまりのめんどくささに誘い受け死滅しろと思った。
○○が世間的にどう扱われてるのか、特殊なのか一般的なのかマイナーなのかメジャーなのか、注意書きをつけたりして配慮する必要があるのか、そういう客観的な情報が知りたいのであって、需要が無いから描かないとか他人に悪く言われるのが嫌だから描かないとか、そういう話はしてねえよ。
それを一から説明しなきゃいけないのかと思ったら、あまりのめんどくささに気力尽きた。
つー類の発言をする奴は「駄目」って言われたらどうするんだろう。描かないのか?
他に誰もいないから恥ずかしい、も理解できない。自分しかいないと目立って気恥ずかしい、てのはなんとなくわかるけど、誰もやってないから恥ずかしくて描けないってのはまったくわからん。なんで恥ずかしいんだ?オンリーワンだと何が恥ずかしいんだ?笑われるのか?だとしたらご同類の趣味の人間を、メジャー以外を笑うんだと決め付けてるみたいでたいそう気分が悪い。
需要があろうが無かろうが特殊だろうが普通だろうが嫌われてようが好かれてようが、自分が描きたいと思ったらその時点で充分需要が発生してるから描くんだよ。
ただ、人を選ぶ趣味の場合、垂れ流しにならないように配慮したいから「それがどういうものとして扱われているのか」知りたいだけで。
「そんなことないです」って言われたい輩のせいで、たまたま誘い受けテンプレと同じ形になった発言は全部誘い受けと解釈されちまうじゃねーかめんどくせー。
http://samuraibp.com/column/first-india-trip
この記事を見て、去年の2月に3週間ほどインド南部のケーララ州+インド最南端のカニャクマリを回ったことを思いだしました。そのことをかきます。
たぶんリンク先の記事は、インド北部のメジャーどころを念頭に置いて書かれてるんだろうと思います。自分は10年前にデリーやバラナシを巡りましたが、その時は確かにこんな感じでした(IT化は全然してなかったけど)。でも、同じインドでも場所によって結構空気が違うんですよねえ。リンク先の記事はコンパクトなのにツボをおさえていて良い記事だと思いますが、地方を巡った経験からの、ちょっと異なるアドバイスを敢えて書かせていただきますよ。どっかしら観光地として日本ではマイナー感漂うケーララを推すべく。
何故かケーララ州ではぼったくりが(あまり)ありませんでした。全般的に、デリーやバラナシの人たちと比べてギラギラしたがめつさが希薄。しかも、どうやらリキシャ運転手同士で客引きルールが設定されているらしく、長距離バススタンドや駅といった場所では日本のようにリキシャが客の順番待ちをしていました。僕が間違って列の後ろの方の運転手に話しかけると「俺の順番じゃないから先頭に行ってくれ」と言われました。信じられますか。インドでですよ。3週間滞在しましたが、金のことでもめたことはほぼありませんでした。
(ここからは推測。ケーララはインドで唯一共産党が政権とってる州でして、そのせいか妙に皆の団結力が強いそうです。リキシャの運転手たちも、全員で示し合わせてストをしたりしてるそうで。上記の話もその土地柄の一環なのかもしれません。彼らに直接聞いたわけではないですが)
(あと、田舎に行けば行くほど、観光客向けの商売人からギラギラさが薄れる気がしますね)
でもこの町では、バスは結構難易度が高かったです。なんせ、バスの路線番号表示がアラビア数字じゃなくて現地語なんですよ。読めねえ。安いし、車窓が高いので町の見物にもってこいなんですけど、目当ての路線を探すのに手間取る可能性があります。あと当然車内アナウンスはないので、おりたい場所に近づいたら結構必死で町並みを観察していないといけません。もし自信が無ければ隣に座ってるおいちゃんに教えてもらうか、諦めてリキシャるかするといいと思います。
ケーララは長距離バス網が異様に発展しているので使いませんでした。
ちなみに鉄道はほぼ予約必須なんですが、最近はネット経由で予約ができるそうです。わざわざ駅に行って朝から窓口に並ぶ必要がない。すばらしい。はずなんですが、なぜか自分のクレカ(viewスイカ)は使えませんでした…。使えるカードと使えないカードがあるみたいなので、渡航前に実際に予約サイトに行って、使えるかどうか実験しておくといいとおもいます。予約の件は日本人から教えてもらったので、日本のクレカが全部ダメってわけでもないんでしょうけど。
公営バスがちょう整備されてます。ケーララを旅するためのメイン交通機関です。まちがいない。
うっかりデメリットの説明の方に力が入ってしまいましたが、便利だったのは間違いないです。ケーララは鉄道の本数が少ない土地なので、うまくバスを使いこなしていただきたいところです。
余談ですが、公営バスは全部、黄色と赤の共産党カラーで統一されてます。窓から見える風景には、鎚と鎌のあのマークがよく落書きされてるので、共産趣味の人は楽しめるはずです。
前述の僕のクレカは、こちらのオンライン予約ではなぜか通りました。べんり。
SIMロック外したあいぽんと現地で買ったSIMカードとの組み合わせ最強です。foursquareで普通にチェックインできます。でも、何故か、SIMカードを売ってくれる店と売ってくれない店がありましたね。コーチンなどの都会では、店はたくさんあるけど何故か売ってもらえず、地方都市のクミリーでようやく買えました。
噂によると、外国人がSIMカードを買うためには、パスポートと、住所の確認が本当は必要で、住所がないバックパッカーは売ってもらいにくい、とのことです。とはいえ僕の英語力に問題があった可能性も大なので、本当かどうかはわかりませんが……。もし携帯を現地調達するなら、パスポートの写しと滞在ホテルの住所を持って行った方が吉かも。
ちなみに日本のSIMカードで海外ローミングを使っても通信はできます。当然一日1000円以上の高価な通信料がかかりますが、極めてお手軽なので、なんかあったら使えます。
あ、それと、あいぽんはコンセント形状さえなんとかすれば変圧器なしで充電できます。
子供の物売りやコジキは、引き際を知らないので大人より扱いに疲れます。
ケーララは日本人ぜんぜんおらんかったですよ。多分地球の歩き方で割かれてるページ数が少ないからだと思います。クミリーの動物保護区でトレッキングに参加したら「おれのツアーに参加した日本人はお前が始めてだ」と言われました。そのあとサファリツアーに参加したんですが、欧米人リア充カップルの群れに混じって、ぼっちでジープに乗るのは辛いものがありました。ケーララは風光明媚だし商売人がギラギラしてなくてゆっくり過ごせるので、もっと日本でもメジャーになってもらいたいものですよ。
※ツイッターからの流れで書きました。偶然ご覧になった場合は意味不明だと思いますのでスルーしてください。
では、昼間の河野さんの記事について、思うところを申し上げます。
「どっちが正しいか勝負しましょう」なんて気はありませんので、ひとつの意見としてお読みいただければと。
まず前提をいくつか。
1 ご承知とは思いますが、当該記事 marketingis.jp/archives/1594 の内容にのみ異議があり、河野さんご自身の人格や存在を否定する意図はありません。もしそう取れる発言があればお詫びします。特に河野さんが気にされたツイートは、確かに非難のニュアンスがこもったものになっており、あらかじめお詫びいたします。
2 ツイッター上では実際の知人友人もいらっしゃいますが、好き勝手なことを書きたいので、一応は匿名でやっております。「いや、直接連絡を取って口頭で」ということであれば、別途ご連絡申し上げます。
3 私は企業のサービス企画の人間で、以前はネット広告を担当していました。物書きではありませんので、文章の質についてはご勘弁を。また、ダイレクトマーケティングの経験しかありませんので、産業全体については私見を超える言及はできません。
以下、本文です。
まず、お気に障ったと思われる「終わった教」についてですが、もちろん、タイトルの「4Pの時代は終わった」についての言及です。
ここは批判というよりも反射的な嫌悪感がありました。
「○○は終わった」「これからは○○だ」「201X年は○○が来る」という言葉で危機感を煽ってコンサルだのセミナーだので稼ぐ方がいますが、反射的に「またか」と思ってしまったための言葉です。私は河野さんをネット上の断片的な上方しか存じ上げないにも関わらず、勝手にそうした類だと分類してしまったことは軽率で、たいへん失礼いたしました。
本文について。
私には4Pが終わったという意見(表現?)には同意できません。記事を拝読しても、終わる終わらないの問題ではないのではないかと考えます。
少し具体的に。
記事中で“ひとつは「バランスが崩れた」こと、そしてもうひとつは「Pが増えた」ことです。”と書かれていますが、この2つには違和感を感じます。
まずバランスについて。元々、4Pの要素間のバランスは均等ではないと考えています。
ダイレクトマーケティングでは商品が売れるための要素として「市場4:商品の良さ4:広告2」の比率であるいう考え方があります。ダイレクトマーケティングに長年従事してきた者としては、これは数値的にも実感的にも、実際にそうであると考えています。
通販的には、広告というのはあくまで受注を目指すものですから、4Pに置き換えれば、概ねプロダクトの方がプロモーションの2倍重要である、と考えられます。
他の業態を見ても、4Pがそれぞれ比較的等価に扱われてきたと思えませんし、業種や手法によって比重は異なるのではないでしょうか。
ならば、その比重の変化を4Pという考え方が終わる終わらないという話につなげるのは、少し無理がありませんか?
プライスの比重が高くなっているというご意見には異存ありませんが、安売り競争とは別の次元で成功する企業も少なくありません。
4つの要素の比重の変化そのものが当然であるならば、プライスの重要性の向上という現象は、4Pという考え方そのものの有効性には無関係であると考えます。
次に、セス・ゴーディンの引用に河野さんが加えられた「P」のリストですが、「Philosophy」以外は、従来の4Pを構成する要素のひとつ、あるいは4Pとは元々異なる切り口で語られていること、ではないでしょうか?
前者であれば4Pを深掘りしたことになりますし、後者であればそもそも4Pでは除外された考え方ですから、これらも4Pそのものの否定には繋がらないと考えます。
ただ、「こういう要素が重要だよね」という意見表明であれば、なるほどほとんど同意です。あ、ほとんどと言ったのは、全部について熟慮していない程度の意味で、一部同意できないことは意味しません。
ご存知でしょうが、マーケティングは色々な構成要素が複雑に絡み合っていますから、1つの切り口で都合よくすべてを考えることのできる方法はありませんよね? 4Pもそれらのひとつに過ぎず、終わった終わらないという意見は適当ではないと思ったわけです。
で、最近の「終わった」「来る」に辟易していたところに、河野さんの記事を拝読し、反射的に軽い気持ちで陰口を叩いてしまった、という次第です。
最後に。ツイートで言いたかったこととは離れますが、糸井さんの件も気になりました。
糸井さんの広告観ですが、「この広告でどれだけ売れたかとか、そういうことじゃない。俺と組んだら一回遊べるぜ、ってこと」(要約)という、広告そのものに価値を置いた考え方でした。これはなぜか10年以上前にプロレス雑誌に掲載されていた糸井さんのインタビューでの発言なので、ご存知かどうかわかりませんが。
こうした広告観に立てば、いま売れてます、というコピーは確かに広告の“文化的”な意味での衰退とも取れます。少なくとも糸井さんは楽しくはないことでしょう。
が、これがプロモーションの相対的低下を意味するとは思えません。だったら「いま売れてます」的なコピーでプロモーションすればいいし。嘘や違法は論外ですが、これまでのメジャーな広告手法が仮に力を失っても、他の方法はあります。企業の担当者や意欲ある広告会社の方は、そこに真剣に取り組んでいますよ。
日本の電子書籍の市場は2009年段階で米国の300億に対して574億とすでに世界一の規模を誇っている。
ただし日本の場合、携帯電話向けに配信されているコミックやケータイ小説が9割以上をしめているのが特徴で、すでに飽和気味である。
一般書に関しては専用端末が普及していなかった上、電子書籍化に関する契約の仕組みが整備されていないといった理由から、積極的な動きが見られていなかった。
(中略)
ちなみに、2011年はもうすぐ数字出るけど、アメリカの市場が2000億めざす一方で、日本は700億程度。一般書は50億にもみたない。
野村総研によれば、ガラケーを除く電子書籍向け端末の類型販売台数は2015年までに1400万台の規模になると予測し、それに応じて
2012年度は900億(うち一般150億)、2013年は1100億(うち一般400億)、2014年は1300億(うち一般600億)と見積もっている。
ただし、一般書が伸びるといってもipadやkindleのサービス以外からどれほど売上が発生するかは未定。ぶっちゃけほとんど期待できないといっていい。
むしろしがらみが少なくて金を払ってくれる顧客がいる場所であればはどの国よりも早く対応するんだよね。
企業で働くってのはそういうことで、やると決めたら動きは早いし、徹底的にやる。組織プレイはすごく強い
問題は、余計な法律とか、既成概念が多い所では、積極的に動ける人がいないってことなんだなぁ。
電子書籍は、既存の本から市場を奪う性質のものではないと思っている。
(マンガやラノベは除く。マンガは新作からメジャー作までさっさと電子書籍に移行すべき。ワンピースとかもう家に買って置くのは不可能。
境界線上のアレも、単行本でよむ気がしない。ラノベは電車の中で読むという読書スタイルに全く合わない。自炊サービスに頼んだけど断られるとかなんなの?)
私なんかは本に書き込みができないと困るし、目次や脚注に行ったり来たりできないと読んでて辛い。基本的にはまだまだ本がいいのだ。
このあたりが解決されない限り、一回読んだ本を保存する、という「自炊」「電子で保管」程度の利用方法にとどまると思う。
むしろ、電子書籍は、最初はむしろ友達におすすめするときなどに便利だと思うので、そこで消費が伸びるはずだ。
「布教」が手間いらずで行われ、口コミなどの形で広まるはずだ。「読まれなくても買われる」本の数が伸びると思う。
Kindleのレンタル機能などにも注目しているが、これも本の消費を減らす結果にはならないと思う。
うまくやれば、しばらく本と平行して電子書籍の売上が純粋に伸びていき、途中から統合されるような形になっていたはずだ。
それを、業界内での権利の争いやら、書籍リーダーの開発遅れなのかここでも権力争いだったのかはよくわからんが、
不毛な駆け引きに明け暮れて、新規の取り組みを阻害してる間に、全部kindleかAppleに持って行かれるであろう現状がなんとも情けなや。
BDとHDDVDの争いのような、普及する前から規格争いをしていたメーカーと比べると、なんともチンタラしたお話で残念であります。
事実上性能悪いでしょ。
たとえばこのご時世で、NLS対応なんかが糞。
根本的な部分に手を出せないんだろ、「過去の安定した実績」とやらを保つ弊害だな。
Expressなんか無償である程度使わせておいて、バグ対処必要とのことで有償でパッチを配る。
パソコンにデザインやキーの感触、I/Oポートの配置などトータルでの洗練は無用、
クロックアップでベンチがすごいとか、PCI-X(出てるのかな...)にも対応、とかで
「さすが!」と嬉々とする厨房みたい。
まあ、Oracle様のアコギ商売、信者どもが守ってくれるからな。
「うまく使えないのは、使うおまえが下手なだけ」...って言ってお終いの、よく見かける世間のパターン。
という俺はゴールド餅だけど、新規DBにOracleは、俺の為にも会社の為にも絶対採用しない。
採用時の1従業員(SIerかもしれぬ)の好き嫌いで、業務が左右されてたまるかよ。(SIerなら、バックもあるのか?)
今後数年の保守やシステム拡張、何より費用面からして会社へ背任行為をするわけにいかない。
困るとすれば、転職ときの経験・スキルでOracle求められること。
DBの意味もわからない人事のひとがとりあえずメジャーということで
求人要件に載せやがるっぽくて参る。
http://www.limy.org/program/db/not_oracle.html
http://www.atmarkit.co.jp/bbs/phpBB/viewtopic.php?topic=30408&forum=7&start=8
そうしたら、うんざりするぐらい毎日宣伝メールが来るから、とりあえずメルマガを解除しようと思ったら、
なんと解除するには退会しかない!
これは斬新しぎだろ。かの楽天市場ですら、メルマガの解除は存在するのにw
A8.netでは電子メールをAS会員様との重要な通信手段と考えております。
したがって、A8.netにご登録頂いている間は、このメール配信を停止することはできません。
A8.netからの重要なお知らせが含まれておりますので、必ず目を通すようお願いします。
要は、捨てアドでやれってことか?
ところで、エロ年代の想像力って知ってる?ゼロ年代の想像力っていう2000年代のサブカルチャーの批評本のパロディ。
2000年代のエロアニメの批評してる本とかサイトらしいので詳しくは検索で。
最初そのパロディを知った時はすごいいい着眼点だと思ったけど、コンセプトの「未来のエロの想像云々」で、自分が思ったこととは違う事に最近気づいた。
自分の着眼点はエロ年代の想像力というかエロ年代の妄想力による「二次元美少女」のパッケージ化についてだった。
ゼロ年代なんて複雑すぎて無いに等しいようなどうでもいいものなんだけどゼロ年代のエロアニメにまで焦点を絞ると確かに
マニアックだからこそ明確な変化があると思った。しかもそれは意外に最近の傾向と関わりがある。
それはエロ年代では半ばに一つのエロアニメのレーベル、グリーンバニーが資金難で消えたことに象徴される。
今思うとこの会社があった頃までは火の車なのが見て取れるクオリティーが多々ある作品を出さざるをえない業界にも関わらず、コピーのコピーのコピーだとしても
物語もエロと同じくらい随分と凝ったものが多かったように思う。だからこそ妙にシュールな雰囲気に惹きつけられるものがあるとさえ思わせた。
それにそのシュールさを極めた人はエロの枠を火の車からか、意欲からか飛び越えざるをえないのかもしれない。結構メジャーな所で活躍してますからね。名前変えたり変えなかったりして様々な方面で。エロ年代は縁の下の力持ちなのかもしれませんがここでは割愛。
最近のエロアニメはそういった雰囲気は無視して、エロに突っ走るので本来はこっちが需要に従順で正しい。それに最近は美少女文化の社会での浸透率の高さがあると思う。
つまり、一々物語から順を追ってエロしなくても「二次元美少女」は無条件に主人公(特定の青少年)に惚れるよ!⇨(エロいとこ観れるかも!?)ということがあらゆるサブカルチャーっつーかもうメディアを通して誰にでもわかるパッケージ化した社会になったということ。
つまり自分の着眼点はエロ年代の想像力というかエロ年代の妄想力による「二次元美少女」のパッケージ化についてだった。
最終的にこの文脈で行くとけいおん!だってすごい。なにがすごいって「「二次元美少女」は無条件に主人公に惚れる」んだから主人公(特定の青少年)を消して「誰にも惚れない美少女」というある意味偶像の境地をパッケージ化してんだから。
いやいや、日本人的等身(6等身ぐらい?今は高くなってるかも)に対してはえる服を作るのが本道で、モデル体型じゃないと映えない服ってのもなんなんだろう。
もちろん、モデルは洋服を引き立てるためのものだが、本来洋服が人間を引き立てるためのもので、であれば、最も多い等身にたいして最適化されるべきだよなぁと。と思ったと。
そして、その、メジャーではない等身向けに作られた服がはえるという体型が、モデル体型でもてはやされているのもなんだかなぁと思いました。と。こっちは、まぁ、僕の勘違いもあるけど。
本来、洋服は人のためにあるってのが、どっかに行ってるんだというを、なんか、気がついた的。
ももクロは今より売れる可能性はあっても、アイドルにおいて覇権を握る、今で言うAKBのポジションに着くことは到底有り得ない。その理由を記述する。
(1)ファンが批評系
もう、これでここで言いたいことの8割は言ったのだが、今のところ”ファン”を自称する人間のその多くが批評的な人間であるということだ。
AKBもかつてはサブカルだった。どサブカルだった。秋葉原に劇場を持ち毎日公演を行い、謎の選挙システムを有する。いかにもである。しかし、このAKBの流れを汲み取り切れなかったのが2000年代後半のサブカルチャー批評だった。かつて文芸批評家の宇野常寛氏は、ニコ生の番組において「2011年に入るまでAKBに注目できなかったのは失態」と語ったことがある。
AKBは上記にあるように、サブカルを代表させるにはうってつけのシステムを持っていた。これを批評的に分析できたとしたら、どれだけ楽しかったことか。そして今の流行を先見の明を持って解き明かせたら、どれだけどや顔できたことか。しかし、その間もなくAKBはサブカルとは呼べないレベルの現象になってしまった。
今更AKBを語るのは、サブカル的には”カッコ悪い”。(前述の宇野氏は、現在ではAKBの批評的分析を、同じく批評家の濱野智史氏と共に行なっている。このあたりは、ポップカルチャーを批評対象とする宇野氏のスタンスに適っている。)
しかし、AKBには一個弱点がある。それはデカくなりすぎたことだ。デカくなればそれの粗探しも容易である。後は、「じゃあ何だったらいいんだよ」と返されたときに持ちだしてこれるモノがあれば良い。
ももクロ以外のモノではダメな理由がある。それは、現在ももクロ以外の各レーベルが売り出すアイドルグループは、方法論やコンセプトがあまりに凡庸、古典的なのだ。
「◯万人の中から選ばれた◯名」「毎日長時間のレッスンを重ね、△△より上手い、歌とダンス」
こんな売り文句に飛びつけるわけがない。
そして、ももクロでなければならない理由もある。
そもそも、AKBのコンセプトとは何だったか。それは「会いに行けるアイドル」である。
対してももクロのコンセプトは。そう、「いま、会いに行けるアイドル」である。
ももクロの結成は2008年。この時、既にAKBは前年に紅白出場を達成、またCDの販売方法が独禁法に触れる恐れがあるとして販売中止、回収騒ぎになった年でもある。
当然ももクロ側にも、メジャー化して「会いに行ける」というコンセプトの維持が難しくなったAKBへの対抗意識があったことは間違いない。
この、売り出し側の「アンチ・AKB」的方法と、買い手側の「アンチ・AKB」的精神の癒着により、現在のももクロ人気は成立している。
そして、この一点のみで自称ももクロ”ファン”は、ももクロ”ファン”を公言している。AKBによって市場規模の大きくなった「アイドル業界」において、敢えての選択としてAKBではないグループを応援するという、サブカル的精神にとって心地よい味を提供してくれるのがももクロというわけである。
そして、この手の”ファン”は、小規模な経済活動である間は良いが、規模の拡大に寄与しない(大量購入などのオタク的消費は行わず、あくまで必要最低限のモノしか買わない)うえに、そもそも規模が拡大していくことを嫌う。
小規模の間は、勝手に”ファン”がももクロのいちいちの行為について言説的補強を行なってくれるので、界隈の巻き込み力がある。しかし、その界隈も一定数を超えると限界が出る。しかもオタク的消費を好まないから、数の飽和イコール売上の飽和ともなる。(ここでは、大量に購入させるような商法(いわゆるAKB商法)が倫理的にどうであるかとの問については答えない。簡単に私見を述べれば、独禁法に触れるようなもの、つまり付録のバリエーションを増やし購買意欲を煽るようなものは問題であると思うが、握手券や投票権を求める購買行動については売り手側の責任は無いと思われる。)
以上が、批評系”ファン”が多数を占めることによる弊害と言える。
(2)可愛くもないし、一生懸命でもない
というのは流石に言いすぎだが、他と比べてそこが際立つわけではないということである。
よく、”ファン”はこの2点を強調する。そして、「だからこそAKBより良いのだ」という。
ただ、言いたいことはわかる。
例えばAKBのファンも「◯◯が可愛い」と言う。この◯◯には、例えば高橋みなみとかが入るわけだが、はっきり言って可愛くはない。「前田敦子が1位である意味が分からない」という声もある。
こういう場合、その対象がAKBであろうとももクロだろうとなんだろうと、ファンたち何も容姿の美しさ単体で「可愛い」という形容詞を付けているわけではない。そこには、それぞれ固有の物語、コンテクストを見出して「可愛い」と言っている。それがAKBで言えば、「エケペディア」に象徴されるデータベースから個人個人のエピソードを上手く消費するという行為であって、そしてそのパブリックなコンテクストに加えて握手会というプライベートなコンテクストを加えることで、ファンのメンバーに対する<愛>は蓄積される。
だから、オタク層以外には「AKBで前田敦子が1位である理由」なんて分かるはずがない。というか必要がない。そのコンテクストを共有していない人間に理解される必要などないからだ。
貴方達は皆、ミス・ユニバースの選考に100%納得しているのか。ミス・ユニバースは、ミス・ユニバース内部のコンセプトに基づいてミス・ユニバースを決定するのである。そこにおいて、容姿というのは評価の1項目に過ぎない。その点を理解している人間がどれだけいるか。
この理解で言えば、「ももクロのメンバーが可愛い」というのも同じ文脈で捉えることは可能である。しかし、ここに一点だけ差異がある。
前田敦子が可愛くないとみんなは言う。なるほど、確かに私もそう思う。(ただ、たまに奇跡的な瞬間があることも知っている)
では、テレビでそれを言ったらどうなるだろうか。本人の目の前で「可愛くないねー」と前田敦子に言ったらどうなるだろうか。Mステでタモさんが前田敦子に「顔のパーツ中心に寄ってるよね」と言った時のスタジオの空気を知らないのか。
著名人のAKBに関する批判的コメントは多数ある。ただし当人がいない所で、である。このことが結構大事であって、それは「そんなに可愛くなくても可愛いものとして扱われること」が究極的なアイドル性だと考えるからだ。
前田敦子はその点で究極的である。一方でコンテクストを持つオタク達による支持を受けAKBのトップとして君臨し、もう一方ではそのコンテクストを持たない一般メディアにおいて「AKBのトップ」であるということを理由に支持される。この時、両者は同じように前田敦子に接しているように見えるが、その内実は異なる。
前者は本当に可愛いと思っており(何故ならコンテクストがあるから)、後者は可愛いことになってるから可愛いとしているだけである。(何故ならコンテクストがないから)
そしてその内に、そのコンテクストを持たない者の間にも「可愛い」という意識は一部に伝染する。あくまでも一部ではある。板野友美が女子高生に人気があるというのが都市伝説かどうかは、私には接点が無い存在である故確認できないが、そういう可能性がありうるのがこのような状況である。
可愛い人に可愛いというのは当たり前だし、ブスにブスというのも当然である。そこを転倒させることができてこそ、真のアイドルではないのか。(筒井康隆「薬菜飯店」収録の「イチゴの日」という短編を見よ)
翻ってももクロを鑑みるに、この点が厳しい。コンテクストを共有する者の間で「可愛い」は流通するかもしれないが、コンテクスト外のメディアにおいては厳しい。(「ゴッドタン」をはじめとするバラエティ番組での扱いが顕著である。ただし自らの冠番組においてMCの芸人にどう弄られようと、それはファンにのみ流通するパブリックなコンテクストを補強するイベントに過ぎないので全く問題はない。)
つまり、ももクロはアイドル性を保つのが困難なほどバラエティ性を現時点で持ってしまっているので、コンテクストを持たない者に「可愛い」が流通しにくい状態となっている。
だから「可愛い」と認識させるためにはコンテクストを持たなければならないわけだが、ここでももクロ”ファン”が批評系であることが弊害になる。
彼らは口うるさい。見る前からあれがいい、これがいいとこれ見よがしに自らの批評眼をアピールする。そしておそらく、この手のももクロ”ファン”はAKBオタクなどよりも、音楽偏差値(というものがあれば)は高いし、現代思想にも詳しく普通の意味での偏差値も平均すると高い。
皮肉にも、このことがももクロを好きと公言するのに、もしくは積極的に見ようとする心に障害となる。
彼らは知りすぎている。目が肥えている。そんな彼らが「良い」と言うのだから、「良い」に違いない。しかし見てもよくわからない。可愛いような気はしないし、踊りもなんだか凄いがとりあえず可愛くはない。けど「良い」らしい。なぜ僕はわからないのか。
対してAKBはどうか。オタクはキモい。なんかオタ芸してるし、CDはめっちゃ買うし。だからあんなものを理解しなくて構わない。仮に少しでも引っかかることがあれば、とりあえずそのままその波に飲まれてしまえばいい。どうせ彼らオタクは周りに新しいファンが増えようがどうでもいい。どうせならもっと売れなくなればチケットも取りやすいのにくらい思ってる。
私は、このコントラストが大雑把にはあると思われる。そしてこのことが、「可愛い」というお札が流通しない/する要因となっている。
もう一つ、「一生懸命」について言えば、この言葉はかなり頻繁にももクロを持ち上げるものとして使われるが、端的に言おう。
そんなのみんな頑張っている。ただそれだけだ。
ダンスや歌のレッスンは、皆どのアイドルグループも一生懸命やっているのだ。所詮、「アイドルなのに顔芸をやる」という点においてのみ「一生懸命の差異」を見出してるにすぎない。
私がここで「自称」とか「ファン」を” ”で括るのは、彼らが本心からの好意ではなく、「AKBというサブカルの隆盛を見抜くことができなかったコンプレックスの解消手段」としてももクロを利用しているように見えるからである。
結局のところ、ももクロを今以上に流行らせ、AKBに取って代わりたいのであれば、自称ももクロ”ファン”達がそれを名乗るのを辞める他ない。
早見あかり頑張れ。
上位リーグの上位球団のオファーと1年を棒に振ってまで、下位リーグ中位の嫌われ球団に行こうとする選択を、人は愚かしいと思うだろうが、まぁそれは良い。バカな選手がいた方が面白い。
個人的には、菅野氏が読売じゃなければメジャーに行くと嘯いたなどという真偽不明の報道もあったからメジャーに挑戦して欲しいと思ってたので残念だが、まぁそれも良い(日本球界を経ずに渡米した場合にはその後日本球界に(事実上)入れないという醜い制度があるので、読売親族としての権力を使って制度を改正して欲しかった。)。
それよりも現行のドラフト制度には欠陥があるという事が明らかになった。囲い込みを試みる側に圧倒的に有利なのだ。
今回読売は、日ハム以外の球団の指名を排除する事に成功した。今年のドラフト対象を見れば、何もなければ菅野氏は3~4球団の競合が予想されるから、読売は有形無形の圧力によって交渉権獲得確率を倍増させる事に成功している。
日ハムは果敢にも菅野氏を「強行指名」したわけだが、案の定、契約に辿り着けなかった。
囲い込みをした球団は交渉権を得られなかった場合にも公正指名と同じく外れ1位を指名できるのに対し、囲い込みに挑んだ球団は1位と外れ1位いずれも選手獲得できなくなる。
このように、囲い込む側はノーリスクなのに対し、それを破る側にはリスクが大きい。
(なお一部の読売ファンは「1年も前から1位指名を確約する事で、巨人は菅野の故障等のリスクを負ったので公正だ」などと言うが、菅野氏が指名時点で期待外れなら指名しなければ良いだけであり、何らのリスクを負っていない。)
そこで改正案。
まず、囲い込みを破ろうとする側のリスク低減措置である。リスクはもっぱら1位指名選手が入団拒否することに由来するから、入団拒否をしにくい制度にすることが考えられる。
そこで、指名を受けながら入団拒否をした者は、以後3年間はドラフト指名を受けられないことにする。
考えてみて欲しいのだが、日ハムと読売なら日ハムでの1年を棒に振るのは勿体無いと思えるが、横浜に入団するくらいなら1年留年した方が合理的と考える者が居ても不思議では無い。こうした選択を防ぐのに、現行制度は不十分だ。
私は逆指名制度を提案する。ただし、逆指名をした球団はその年のドラフトに参加できないものとする。
下位指名を棄ててまで取る価値のある選手は極めて稀であり、この障害を乗り越えるカップリングなら観客の理解も得られるであろうし、囲い込む球団の戦力増強も抑制できるから、戦力均衡というドラフト制度の趣旨からも許容できる。
思えば僕は積み重ねというものができない。
(これは深夜に活動するのが嫌なと手の皮膚が弱く荒れるので仕方なかった)
小学校のころ習ってて今もたまに泳ぐ水泳も上達することなく競泳的な泳ぎ方ができない。
今はほとんど聞かない。
だっていくらお金づきこんだところで2年に一度来るかこないかわからないアーティストだし
未だにとりあえず聴いている。良いのはわかる。気に入ってプレゼンにつかった曲もある。だから何だ!
てきとーに本屋に足を運んで
気軽に読めるものだけ読む
せっかく読んだ本の感想とか書こうとおもったけど続かなかった。
意識高く熱くなろうと頑張る。
でもインプットしたものもアウトプットしたところで金にならず終わる。
何もやってないわけじゃないけど
何やっても単発でおわる。好きなことも
お金とかの問題ややっぱ目の前で連載や放送されてるそのものが好きだから。
絵とか描いてみたいと思うけどめんどくさい。
自分に関係ないと思ったものに対しての熱の入れようがあまりに低い。
人の名前はほんとにそれが原因かも。
かなりドライ。ケータイみたらわからない名前がいくつかあって消した。
長期的な視野が大切と「理解」はしても「納得」できてないから結局コツコツした努力が無理。
まじめっぽくふるまってていつの間にか辞めることおおい。
もちろん友達も少ない。
これを読んだらこう思うべきなんだろうか?とか想像してしまう。
実際やるとその過程で見えてくるものがあると頭では「理解」してても、実際過程を楽しむ行動が取れない。
将来とかもどうでもいい。
みんながするんでしょ?とか思っちゃう。これ何二病?
でもそんな生活実際やったら楽しいんだろうなとか思ったりもしている矛盾
何したら楽しいの。
何かを好きになるのは自分の自由なのに
それを好きと言い続けられる精神がない。
それはまわりの目を気にしているからだと思う。
何が好きかがステータスになるから。褒めてくれる人や賛同してくれる人同調してくれる人を求めてしまう。
一方でステータス全面に出している人と会話するのめんどくさい。
今論文やってるんだけど
他に関心が移る。まぁ実際そっちをやっても対してできないんだろうけどさ。
せめて何か一つのことに強制で集中させてくれる合宿とかあったら
よろこんで参加するのになー。
2.2や2.3の更新は専らパフォーマンス向上なので更新されなくて困るというのはどちらかというと利用者視点だなぁ。APIも追加されてるけどこれがないと困るってものは正直無い。もちろん旧版据え置きのものはセキュリティFixのバックポートだけはちゃんとやって貰わないと困るけどね。
開発者視点で言えばAndroidはバージョンごとの互換性がかなり良好なので1.6か2.1をターゲットにしていればまず平気。2.2サポートとかいちいち考えてる人いないと思うよ。2.1ターゲットで作れば動くし。むしろ問題児は3.xで、その流れをくむ4.xも不安の種。
1.6~2.3まではほぼ完璧な上位互換だったのでメーカーもさほど気にせず追従してこれたのだけど、2.3→4.0は構造が大幅に変わっており互換性を保つための機構もあるにはあるがアップデートすると動作がおかしくなるアプリはそこそこ出ると思われる。これは「アップデートしたらアプリが動かなくなったぞ」というクレームに繋がるので、特に日本のメーカーは嫌がる。
断絶感で言うと、1.6がWindows2000、2.1~2.3まではWindowsXPと各サービスパック、3.xがVista、4.0がWindows7、ってイメージして貰うといい。
iOSはiPhone/Touch/iPadだけで下手するとAndroid以上に互換対応が面倒だったりするしメジャーバージョンごとに壮絶な互換性破壊が起こっているんだけど、一斉アップデートなので旧版の一斉切り捨てが可能という点はやはりアドバンテージ。これまではiTunesからしかアップデートできないせいでアップデートしないユーザも考慮が必要だったけど、今後はOTA配信になるのでそれすら気にしなくて良くなった。
逆に4.2に放置されたユーザは今後AppStoreで4.2対応アプリを手に入れることすら困難になっていって涙目だとは思うけど、開発者視点からすればAppleが切り捨てたバージョンは切り捨てて良い(というか切り捨てるしかない)のでやっぱ考え方として楽。
「こんなのは自分のいる場所じゃない」「自分はここにいてはいけない」等と思う場合も同様。そういう思いで鬱屈してしまった人間に対して安全に効くのが自分の立ち位置を自分で再確認できるまでの状態に持って行って納得させることor納得できないなら納得できないと思う自分がいると認識させること。
別のルートもあって「あなたの立ち位置を用意しました」とドヤ顔で持ってくる連中もいる。典型的な例でいったらマルチ、悪徳新興宗教ビジネス。すこしおとなし目になると、エンタメ業界。ファンタスティックの語源は宗教的熱狂。能動的にやってくるか、受動的に促すか。
外に求めない場合は、内側に孤独が巣食う。そうすると何らかの依存に走る。アルコール、ギャンブル、恋愛、自己啓発。いっぱいあるよ!清潔や仕事、人間関係に憑りつかれるのもメジャーだね!
ちなみに不安によって社会性が脅かされたりする重度の人間は病気と名付けられるけど、人間すべておんなじです。少しでも揺れたら不安。でもリカバーもする。誰かにメールするという小さいのから夢を信じて追うという大きめのものまで。誰かのために生きるっていうのも強力。どの程度の不安をどの方法でリカバーするかの違い。不安を感じないようにすることなんてできない。メンタルなんか補強はできない。どう対処するかだけ。
本当はTwitterでreplyすりゃいいんだけど、仲間内利用アカウントのみで、NaokiTakahashi氏と隣接するようなアカウントを持ってないので。
増田に書いとけば、そのうち氏のエゴサーチに引っかかりそうなのでココに書く。
ぶっちゃけ、日本(ということは全世界)の「シナリオライター」で現行の「オタク・二次元文化」に専門的に詳しく「ラディカル・フェミニズム」や「ジェンダー論」「セクシャルマイノリティ論」にも高度に詳しいのはこの人だと思う。
つまりNaokiTakahashi氏に一度でいいから「セクマイもの」のエロゲシナリオを書いて欲しいんですよ!!
ラディフェミやジェンダー論やセクマイ論がこっそり絡んでるような「セクマイもの」のエロゲ。
まあ商業ライターだし、これは売れないだろうなあ・・・採算取れないだろうなあ・・・とは思うんだけど。無理強いですね。まあネットに書くだけならタダなので。…市場需要を発信したく思いまして。
ヘテロ・ゲイ・バイ、性自認男、女、中性、色々あるけど、セクマイの中でもマイノリティな存在があるわけです。
肉体は男で、性自認的には男は余り好かない、MtFは違う、本当は中性的なのがよかったけど、でも現実には男だから男に適合しないといけない、ゲイにもなれずバイとも言い難い、じゃあヘテロかと言うと当然違う、恋愛が理解できなくて無性愛に近いけど性欲はわりと強い…
自分みたいなどこの枠にも嵌りづらいタイプで草食系だと、LGBTコミュニティの多数派にも適合しづらいし…
Twitterやはてなのおやさしくて良識的なインテリは勘違いしてそうだけど、ガチのセクマイの中でもマイノリティだと「二次元文化」とやけに相性がいいんです。なぜなら、現実の肉体・社会と精神面がズレ過ぎで、紙の上に描かれた想像のポルノが一番「自分の性」に適合してる気がしてくるから。日本の二次元ポルノは世界一多様なので。オタクは女性差別的って言ってる人は、メジャーなヘテロ用のポルノしか見てないと思う。でもメジャーな大通りがあるからこそ、マイナーなセクマイポルノも生存できるんだし。色々とズレるけど即売会だとふぁーすととか(でもケモノクラスタのセクマイ率高いよね)。ヘテロが嫌いだからって規制されたらセクマイも死ぬから困る。
「セクマイ」といったって、みんながみんな「セクマイ論者」で、あるいは「フェミニズムやジェンダー論」大好きだったりするわけじゃあないし。
セクマイ論者はあくまで「イデオロギー的に結託したセクマイの集合」。だと思う。
もちろん、彼らが結託して社会的に闘ってくれてるおかげで、自分みたいな弱小一般人のLGBTが制度的に楽できていられるのはわかるんだけども。
フェミニズムの語る「男は暴力性や支配欲がある」が大嫌いです。自分にはそんなものはない。
攻撃性が変に内側に向かってるし、性的には被虐欲強いとか言うアレ。でも実際に暴力は振られたくないですね。ただ「そういった作品」を読むのは好み。
はてなやツイッターとかでオタコンテンツを「ヘテロの暴力性丸出し」とか言ってる人も嫌い。
「人間の性」は、とくに「性表現」は、社会的に統制していいものじゃあないと思う。
作品が暴力性をまとっていたとしても、読んだ人間がどう受け取るか、人の数だけ多様なので。
ラディ・フェミの語る誰得論を知ったせいで、変に自分の性が拗れたんだけどー、まあ要はインプットが自己責任だしな。
つまり何が言いたいかというと、一般社会の男の枠組みの中で育ってはじめから拗れてる上に、実はヘテロ男ではないことに思春期に気付いちゃって、ゲイかと思ってたら違って、あれ性自認も男じゃなくね?って気付いちゃって、その上更にラディ・フェミの男に対する暴力性を内面化しちゃって、攻撃性や支配欲は内向きに拗れてて、もう色々とセクシャリティがメビウスの輪状態なんですよ自分。
どーすりゃいいわけ?これ。ほんと。でもこれ、陵辱系エロゲの素材としてウケると思う、主に自分に(←これが言いたかった)
それに、はてなとかTwitterで「どや顔でフェミニズム語ってる男」「女性の守護者ぶってる男」「セクマイに理解ありますな人」って脂ぎった肉食系中高年男性が多すぎだと思う。バブル世代あたりの。
なんか認識がすごい古いし、セクマイ理解のためにBLを嗜んで、したり顔してそう。
ああいう人達は自分が男尊女卑だからこそ、他人の中に「女性に対する暴力性・支配欲」が見えちゃってるんじゃないかと常々思ってます。
敵の論を学んで論戦とかしてた高橋先生なら「ラディフェミ」「ジェンダー論」「セクマイ論」を絡めた、主人公がセクマイの(できれば性自認は男でも女でもないほうがいいなー、ホモルートにもヘテロルートにも男の娘ルートにもいけるし)ドロドロの陵辱系エロゲーを書いてくれそうなんだけど・・・純愛でもいいです。どっちも好きだし。
まあこれって商業的じゃないよね。