はてなキーワード: 奇妙とは
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遠山の金さんといえば庶民感覚で犯罪者を裁いた”名裁判官”として歴史に残る。通俗大衆小説のモデルにもなり、何回かテレビドラマにもなった。
お白砂には花吹雪舞う刺青の松方弘樹扮する金さんが颯爽と登場して悪を懲らしめ、弱き庶民から拍手喝采をあびる。
江戸時代までは検非違使の伝統が息づいていた所為か警察、検察、司法が同じ行政機関で行われた。警察が逮捕し、検察が起訴し、裁判所が法に従って結審するという近代の概念はなかった。火つけ強盗改めの長谷川平蔵も然り。
大岡越前守も温情主義裁判で庶民に人気がある。考えてみれば南町と北町奉行所の同心だけであらゆる民事裁判をまかなっていたのである。
江戸時代を世界同時代的に俯瞰すると日本はたいそう治安が良かった。日本人が裁判沙汰を好まなかった証左にもなる。
水戸黄門様は印籠をかざして即席裁判。これは超法規行為であり、そもそも黄門様は司法の独立って概念を知っていたのかな。
そういうわけだから日本人は争い事が嫌い、裁判は避ける。なにごとも裁判で決着をつけ、交通事故でも弁護士をよぶ米国とは法律の風土が違う。
だが世の中が変わり「国際化」というアメリカ化が進んだ。外国人の犯罪ばかりか、外国企業との軋轢、特許係争が頻発し、あげくは米国からの強い要求が突きつけられる。日本に弁護士が少ない、と。
この結果、二つの政策が実現した。まずは大学に雨後の竹の子のごとく誕生した法科大学院。
そして日本に馴染むかどうか不明な新制度、すなわち裁判員である。しかもこの裁判員が臨む裁判と言えば殺人、傷害致死、放火、身代金誘拐などの重大犯罪であり、死刑か量刑か無罪かを決める「大岡越前」の小型ヴァージョンとなる。実際に最初の判決が八月初旬に実現し「業界予想よりすこし思い」量刑が下った。世間の常識が裁判官の常識を変えた例になった。
ともかく裁判員制度の発足は米国からの圧力が遠因、これに財界の要求が一致し、日弁連が便乗した。奇妙な、面妖な裁判員制度が日本にうまれた。
左右の境界線がないまま賛否両論が渦巻き、「ともかく始めてみなければ分からない」ということになったわけだ。
議論は曖昧なまま、米国へのジェスチャーのごとくに審議が進み、国民が誰も知らないうちに米国流の「陪審員」制度の誕生となったことは述べたが、米国には黒人奴隷制やリンチによる縛り首があった。日本とは異なり犯罪者も多く、弁護士は百万人以上、なかには悪徳弁護士、アンビュランス・チェイサー(救急車を追いかけて患者から事故の弁護士を成功報酬でいかがかと注文をとる)もいれば、マッチ・ポンプもいる。セクハラをでっち上げて日本企業から大枚をせしめた手合いもいる。
だから伝統重視の保守派がいきり立って反対の論陣を張る。教養の低い、裁判官に比べると法律知識のない素人にそんな重大犯罪を判定させて良いのか、それこそ左翼の思う壺ではないのか、と。
第一に無知蒙昧なる庶民が重大犯罪を裁けるのか。冷徹な判断が出来ず情実に走り、死刑を避ける傾向が顕著になるのではないのか。
第二に陪審員は買収されやすく誤審、冤罪が多く死刑執行後に真犯人がでるケースが米国では頻発している。だから「逃亡者」というテレビは大ヒットした。反面で、陪審員を黒人ばかりにして、妻殺しの「無罪」を勝ち取ったO・J・シンプソン事件のような法廷テクニックの悪用がおこる。
第三にこれは基本的に人民裁判であり、ソクラテスの「法は法なり」と言って毒杯をあおいで死ぬようなケース、あるいはマリー・アントアネットのように左翼お得意の人民裁判が復活する恐れはないのか。
▲上告審には適用されず、なんのために必要なのかは不明
細かな問題点はほかにも多々ある。
一、選挙管理委員会のリストを元に無作為に選ばれる「裁判員候補者」は面接で拒否されることもあるシステムとはいえ、拒めば罰金とか、法廷の密室での協議内容は一切喋ってはいけないが、違反した場合、数十万円の罰金とか馴染めない特徴あり。
四、多数決で裁定することが本当に妥当なのか等々、問題点が沸騰する。
ところが新制度では凶悪犯罪の一審でしか適用にならず、高裁から最高裁へと上告するに従い、裁判員はおかれない。どのみち現在の裁判で一審で終わる裁判は稀だから、それならいったい何のためにこういう「改革」が必要かも論議された。
裁判員制度導入に賛成する保守の論客も意外に目立つ。代表選手はコラムニストの高山正之氏だ。
高山氏は産経新聞ロスアンジェルス特派員時代に多くの裁判を傍聴し、陪審員制度に精通し日米の裁判に関連する著作も多い。
法律の解釈しか知らない裁判官、世間知らずの無知な裁判官より大衆の叡智、つまり民度が裁いたほうが適正な判決が出やすく、主知主義、インテリの暴走、左翼優勢といういまの偏向状況を覆せる嚆矢になるかも知れないという。世間智の欠如甚だしきインテリの裁きより大衆のほうが賢いという日本人への信頼がそう言わせるのだろう。これぞまさしく遠山の金さんの時代への回帰ではないか。
ただし米国の陪審員制度といい、今度の日本の裁判員制度といい、これらは民主主義の発展とは相関関係にはない。司法の民主化などというお題目は寝言の部類であり、推進側だったはずの日弁連ですら一部は反対に回っているそうな。
通巻第2702号
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090903/204007/?P=1
http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20090906
研幾堂さんの文章はセンテンスが長すぎて非常に分かりにくいが、つまりはそういうテーマ。
中国は、党と政府の分離と一体化というテーマで興味津々らしい。
国王でいえば属人的同君連合(君主を同じくし、政府を異にする同君連合)に議院内閣制は似てるかもしれない。
社民とかが要求していた事前協議機関とかも、政府の議会による支配という、いかにも社会主義者らしい方向だろう。
で、「与党」として内閣の要求に唯々諾々とするのはよろしくない、という意見もあったり、あるいは、政党による党利で政府が左右されるのはよろしくない、
という意見もあったりするわけだが、政権交代して、はじめて、そういえば議院内閣制って、いろいろ変というわけでもないが、
奇妙な感じがするところもあるなあ、と思い始めている。
http://anond.hatelabo.jp/20090905222613
本来、人間は一人ひとりが違う。障害があるということも個性のひとつだ。だから、みんなの中に入れて、個性の一つとして認識してもらいたいって気持ちが保護者の中にはあるんだ。もちろん、健常者と同じことをするわけにはいかない。でも、まるで隔離するみたいに、他人の目に止まらないところに隠れさせる必要があるだろうか? 見慣れないものを気持ち悪いと思うのは、人間として普通の感覚だ。見慣れないから気持ち悪い。なら見慣れてもらえばいいじゃないか。障害者をまるでゴミみたいに見る人間だって、毎日見かければ見慣れて気持ち悪いとは思わなくなるんじゃないか。そう思ってもらえるよう願ってるんだよ。実際に、通常より背の低い人くらいだったら、普通学級に普通に通ってるよね。誰も特別扱いしない。奇妙なものを見るような目では見ない。
すべての学校に車椅子で来られる設備を用意すればいい。そしたら、健常者が一時的にケガなどで車椅子生活を余儀なくされても学校に通える。一人のために設備を整えると思うから、ぜいたくとかやり過ぎとか思われるだけで、設備を用意したら「みんなのため」に活用する方法を考えればいい。車椅子で入れる方法があれば、老人ホームを子供たちが訪ねるだけではなくて、老人ホームのほうから来てもらえる。
今は過渡期なのだと思う。障害者が町の住人として受け入れられるかどうかの瀬戸際なんだ。
将来は、普通に車椅子生活の人もそこらへんを歩いているといいと思う。脳性マヒの人も自分で車椅子を運転して自立しているといいと思う。誰もが付き添いなしで町を歩けるほど日本が平和だったらいいと思う。困っている人がいたら、誰かが助けてくれると安心できるほど、日本社会が安定しているといいと思う。
理想論だけどね。実現不可能なほどではないんじゃないかな。
「やってもうた」という話しではなく一部にせよ意図があった行動であるのだとは思う。
奇異に感じるのは日の丸だけ特別雑に扱って良いという感覚だな。
別にサヨクが内輪でやっている分にはまたやっとるわと言うだけのことだし、
だが、仮にも次期政権を取ろうと言うときにこういう事を見過ごせる神経がわからない。
考えてみよう「小山」さんが民主から立候補するときにポスターが見あたらないからって
「小沢」ポスターと「鳩山」ポスターを切り貼りして「小山」ポスターにして使ったらマズいだろ。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1293536.html
日の丸を切って貼ってした民主党旗で激昂している人たちがいる。
「やってもうた」という話しではなく一部にせよ意図があった行動であるのだとは思う。
それに案の定釣られたのは恐らくは靖国問題がどうの南京がどうのと騒いでいる人たちと同じ層だとおもわれるので、民主党の大多数の支持層とは最も離れたところにいるのではないかと思われる。
彼らが騒げば騒ぐほど、おそらくは逆効果だ。
日の丸どうこうでそこまで拒否反応を示すその固執っぷりは傍からみれば奇妙にも感じる。旗だけにな。
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そもそも日の丸が加工されることについてなぜここまで神経質になるのだろうか?
国旗だからという回答では不十分だ。
断面が葵の御紋に似てるからという理由でキュウリを食べなかったり、包丁を入れるのを嫌がった武士にも似たなにかがある。
時が経ってしまうとバカらしいその行為も当時の当事者にしてみればいたって真剣な行為である。
そこには葵の御紋を通した象徴への崇拝がある。
それと同様に日の丸を国家の具象として忠誠を誓っているのだとしたらすばらしい事だ。
だがそれは他人にまで強いるのはいかがなものか。
キュウリまでも尊ぶような武士の前で葵の御紋を凌辱するのは明らかな挑発行為ではある。
だが、キュウリを食ったからといって町民を切り捨てて回る武士を善しとするならば国とは一体なんであろうかと疑問に思わざるを得ない。
あくまでバランスの問題だ。
葵の御紋の凌辱の裏に造反の意図をみたのであれば斬り捨てたほうがよいこともあるだろう。
だがご法度でキュウリを食すことを禁ずと規定されだしたりしたらいよいよもって末期である。
日の丸に忠誠を誓えと強いてまわる様は魂までも国家に支配されすぎだ。
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最近つかわれている「売国奴」という言葉も、むしろこういう事を連呼する連中こそが成長を阻害し、国益を損ねているのではないかと評価せざるを得ない。
保守的にやってうまくいかなくなった理由を内部に原因を探り粛清してまわるのは取り巻く環境が激変している現在においてはあまり意味がない。
忠誠や尊敬を法律でいくら規定したところですべての人が同じ価値観になるわけもあるまい。
日の丸を切ったり貼ったりした行動に挑発された人たちは価値観の多様性に対する拒絶、拒否反応をしめした。
自分と異端にいる人たちの考え方や行動を許容できなくなっている。
先に進もうとするひと、その場に居座ろうとする人。
どちらが良い結果になるかわからない。
それぞれが正しいと思ってぶつかるのだろう。
ただ情勢をみるに保守派は不利なようだ。
主張や考えが通らなかったといって極端な行動などに出てくる人たちがでてこなければいいがと若干心配ではある。
まるで終戦間際だな。
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余談。
英国国旗のユニオンジャックなどはイングランド、スコットランド、アイルランドの旗印を切り貼りしてつくられたものだ。切り貼りというと語感が悪いがパッチワークというとあら不思議!
日本でも家紋などは合成紋などあわせてつくられたものも少なくない・・・。
今回も切ったり貼ったりした行為がすなわち問題というわけでなく、それが恣意的にまったく違う意味合いのものに加工されたのが問題なのだろう。
公の場でそれが掲示されたのはやはり少なからぬ意図があるといわれてもしかたがないことだろう。
生臭いね。
http://anond.hatelabo.jp/20090817000118
消滅した兵役の義務の流れで、公への献身の義務という文脈で出現し、左翼にもその労働至上主義的な観点から受け入れられた、という経緯みたい。
発想に徴用みたいなものがあるとしたらいやな感じだな。
そういえば、形骸化しているとはいえ、官憲の別件逮捕の便利ツールとしても悪名高い浮浪罪なんてのもあったな。
9)また、この、衆議院での審議の過程で、第二七条第一項の「勤労の権利」を「勤労の権利及び義務」に改めることも決まった。勤労の義務は第二弾として復活したのである。
この、「勤労の義務」も奇妙なものである。大日本帝国憲法の改正に際しては、第二十条にあった兵役の義務の廃止が問題になった。ポツダム宣言で陸海軍の解体を約束したし、実際に解体が進行して、陸軍省、海軍省も復員省になっているくらいだから、いまさら兵役の義務でもなかろうというところでは、廃止は必然であった。
そして、この義務の廃止と引き換えのように登場してきたのが、国家のために兵役に代わる公務に参加する義務を定めよという議論であった。当時は、公務に貢献する義務とも言われていた。内閣憲法問題調査会案(甲案)は、その第二十条で「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ公益ノ為必要ナル役務ニ服スル義務ヲ有ス」と定めていたが、この考え方が、日本国憲法の審議においても繰り返し復活してくる。
「勤労の義務」は「労働の権利」ととはまったく別のものである。この場合、労働とは、自己及び家族、友人らの健康で文化的な生活を支える自助の努力という意味で個人目的性の強いワークであり、逆に勤労とは、公共のために献身するという目的の役務提供のワークである。こういう勤労を義務付けるというのであれば、市民は、国家に対して、役務提供の憲法上の義務を負うことになる。したがって、この意味での勤労の義務は、労働の権利とは別の条文で、別個に規定されるべき筋合いのものであった。
ところが、憲法草案が審議されていた当時は、社会主義思想の強い影響の下に労働運動が活発に展開され、「働かざる者は食うべからず」で、人間は労働する義務があるのだという左翼的な主張もなされていた。左翼は、もし勤労が国家への役務の強制的な提供であると知っていれば反対したであろうが、そこで巧妙にも官僚たちは「勤労の義務」を「労働の権利」と結合させ、「勤労の権利と義務」にしてしまって左翼の支持も取り付けた。ここに、国家主義的なボランティアリズムと左翼社会主義が合体してしまい、憲法の規定は、右と左で違った色彩に見える意味不明のものとなってしまった。
戦後の憲法学は、左翼的であったから、この条文に含まれている、国家緊急時における、兵役に代わる役務提供義務という本来の意味を無視して、働くことは権利にして義務であるという説明をしている。こうなると、しかし、「義務」の性格はわけが分からなくなる。義務は権利に対応する。市民は、誰に対して勤労する義務があるのか。これがさっぱり理解できない。そこで、憲法の施行後の解説書では、「勤労の義務」というのは趣旨不明な言葉としてあつかわれた。そして、だれかが、この言葉があるので勤労の義務への意欲がない市民に対する国の福祉配慮義務は否定されるという理屈を立てると、それが広まって、またいつまでも影響して、今日までこのように解釈されている。
http://www.citizens-i.org/kenpo/paper/duty2.html
この規定の由来については諸説あるが、一番有力なのは、元農林大臣の石黒忠篤や代議士の竹山祐太郎が、二宮尊徳の「報徳思想」の精神に則って、日本国民が自らの勤労の力で太平洋戦争で荒廃した祖国を再建させてゆこうという発想から提案されたものだと言われている(橋本伝左衛門・日本農業研究所『石黒忠篤伝』(1969年、岩波書店))。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A4%E5%8A%B4%E3%81%AE%E7%BE%A9%E5%8B%99
詳細を書いてる人がいた。
「・・・貴族院農地調整法委員会で石黒忠篤氏の「国民の兵役義務に代わるものとして平和国家建設のための労働義務を課する意思はないか」との質問に対しては、「国家の為に労役に服することを想像して規定し置くことは必要であるが、その規定の方法は憲法に明確に定めることは困難で、臣民の権利、自由に制限を加へ或ひは義務を課するには法律による必要があると云ふ様に広い意味で謳って置きたい」と[松本国務大臣]は答へたのであつた。」
同じことを繰り返す。やり直しではなく、現在を作り出すために。生きる、ということの経験は、同じものとの再会に満ちている。すべてに思い出がまとわりつく。鏡でないものがあるだろうか。彼岸花、水道、ドアの開閉、沓脱ぎ、階段、見るということは似たものを同じものと見なすこと、知覚は感受を名前によってくくる。くくられた以上、感受はかつて出会ったものの異なる再来となる。そうなってはじめて、世界への知識が可能になり、予測と後悔が切り開かれる。それに慣れすぎて、異なるところにしか気がつかない。異なるという意識を可能にする同じであるという知覚には気づけない。
花だと思うから、異なる花だと思うことができる。繰り返し、繰り返す。けれど、同類であることと同じであることは違うのでは? 彼女は彼女の状態のクラスではなく、彼女という個体のはずで、そこにはやはり何か違いがあるはず。たとえ、彼女の細胞が一定の時間ですべて入れ替わるのだとしても。絶対的に分割不可能な単体であるということ、それはきっと不可能な形而上学だが、それなしでは人間的な関係性は成り立たない。わたしがあなたを個体ではなくカテゴリーやクラスだと考えたとき、ひとは現象に出会うことができるのか。であれば花が再来することと、この花が再来することはどのように違うのか。
後悔は理想に通じ、そこから、夢が涌く。存在の再来を回想であると理想主義者は信じている。誰もが予め知っている、あのユートピアを、世界の不完全さを通じて思い出す。トラウマのようなフラッシュバック。思い出す。ぼくらは知っている。あの美しい世界を。あの美しい花を。それがイデアという追想のイデオロギー。逃れられない、繰り返し。まるで、先生にやり直しを命じられているかのよう。追憶への繰り返しは後ろ向きの反復、すなわち、やり直し! 正解はあるし、それはみんなあの夜のまどろみの中で知っている、憶えている。ああ、懐かしい、追憶の、日々よ。
だが、それでは繰り返したことにはならない。(歯車は、繰り返し回転することで、機械を作動させる。それは、仕事をする。だから、回帰は、元の木阿弥ではない)繰り返す。こぼれ落ちたものは失敗だったのか。失敗シークエンスでは、何も起きてはいないのか。起きないのか。何かが起きる。というか、何かは起きる。繰り返しは、どのようにして、同じことではないのか。内容が違う、というのは、結果であって原因ではない。繰り返す。記憶喪失だとしよう。世界は五分前に創造された。わたしが、歌を、それを繰り返しであると信じて歌ったとき、それは繰り返しなのか。本当は世界で初めての行為でも。然り、といおう。それは繰り返しだ。だが、と、そこで、疑問がわく。「誰にとって?、そして何に対しての?」
右と左は、端的に違う。内容的には違うとかではない。同じように、内容が全く同じ繰り返しの1度目と2度目は、端的に違うのであって、こことかそことかが違うのではない。だが、と悪魔はいう。世界の外から観測する悪魔にとっては違う。なぜなら、悪魔は憶えているから。では、繰り返すということ、それは意識の、記憶の属性で、事柄の属性ではない? 奇妙な話だ。歴史は世界の属性か、観測の属性なのか。
いや、もちろん、悪魔などいない、と宣言して片をつけることは可能だ。それが常識的な線でもある。結局、まったく同じ繰り返しなどないのだし、世界に痕跡を残さない行為もない。だから、繰り返しは、必然的に、内容的にも一度目とは異ならざるを得ない、と言い切ることもできる。時間も歴史も世界の側の属性だ、と。
だが、ひとは忘れる。もう、たいていのことを忘れている。
しかし、繰り返さない、ということはどういうことか、と考えてみる。それは、きっと、不可能だ。少なくとも、ひとが意識的に何かをするということは、何かという名前で知っていることを、再来させようと企むことだから、定義上、それは未聞のことではありえない。バンジージャンプをしようと思うということは、わたしがバンジージャンプを飛んだことがなくても、飛んだ人がいることが前提で、それは、繰り返しを意図することのはずだから。(死ぬことですらそうだ、ともいえるし、そうでもない、ともいえる。自殺は、必然的に失敗するから)
だから、意識的にするのでなければ、たしかに、ひとは、繰り返さないことができる、かのようでもある。しかし、今度は、意識的ではない行為は、たいしたことを成し遂げない、という現実が現れる。たいしたことではない以上、たいしたバリエーションはない。そのかぎりで、それは似たようなことの繰り返しだ。けれど、それは、繰り返すという行為とは、わけて考える必要がある繰り返しだろう。それは重力と自然法則の支配権であり、反復というよりも、永遠というべきだ。日常は永遠によって捕らえられている。悪い意味で。
だから繰り返す。そうすると、完全には繰り返せない。それが、繰り返しの成果だ。この認識自体は割と普通だ。だから、考えを始めるのは、ここからだ。繰り返すと、何かが蓄積し、わりと逸脱して、新しいことが生まれる。そうやって、歴史が存在できたし、してるし、進行中。
いつものように、だらだらとネットウォッチしてたら、すごいマニアックな情報が掲載されているハッカーのサイトを見つけた。
すぐさまそのサイトからコードをコピペして、そのサイトへのURLもあわせてはてダにエントリとして掲載した。
でも、そのサイトのオーナーの文には所々おかしなところがあった。
そして、実名(と思われる)を出してその人をdisるような内容も書かれていた。(仮にその人を「Aさん」とする)
オーナーが書いたと思われるAさんの似顔絵も気持ち悪かった。
まるで幼稚園児が書いた「おかあさんのえ」みたいな感じだったが、それと違うのは、目が異様に大きく、赤く充血していた。
ちょっと気持ち悪いと思ったのでブラウザを閉じた。
いちおう、はてダのエントリにも「リンク先はある意味アブナいサイトなので見ない方がいいかも」という感じのコメントを添えておいた。
しばらくすると、そのエントリに知り合いからのコメントが付いた。(仮に「Bさん」としておく)
Bさんは会社で同じプロジェクトに関わっている人で、とても正義感の強い人だった。
そのため、サイトオーナーのAさんに対する嫌がらせとも取れるような内容に我慢ができなかったらしい。
サイトのオーナーは異常だという感じでdisるような内容だった。
自分もおおむね同じ意見だったが、特にコメントを返すようなことはしなかった。
万が一、そのサイトのオーナーがアクセスログから自分のはてダにたどり付いてこのエントリを読んでいたら怖いという気がしたからだ。
身に覚えの無い人からのメール。
それはBさん(と思われる)の似顔絵だった。
目が異様に大きく、赤く充血したBさんの似顔絵。
あのサイトのオーナーからだ。
そのメールには呪いの言葉のようなものも書かれていた(内容は覚えてないがそんな気がした)
それでも数日ほうっておいた。
おそらく迷惑メールフィルタとかで、そのサイトオーナーからのメールをはじくような設定をしたんだと思う。
しばらくたったある日、
自分とBさんが関わっているプロジェクトの社内のサーバーが、異常にスローダウンするという現象が起きた。
そのサーバーのアクセスログを見ると、見た事の無いIPアドレスからサーバーに頻繁にアクセスが発生しているようだった。
そしてそのアクセスの内容を見ると、あのメールにあった呪いの言葉が。
すごく怖かった。
その日緊急のプロジェクトミーティングがあり主要メンバが招集された。
どうも今回のサーバーの異常の件に関連してのことらしい。
なんかみんなの様子もヘンだった。
みんな何かに怯えているような感じだった。
その話を聞いて驚いた。
自分とBさんが関わるそのプロジェクトのメンバー全てにあのサイトのオーナーと思われる人物からのメールが届いているということだった。
Bさんと同じように似顔絵も添えられているということだった。
それも怖いことに、日に日にその人の特徴をとらえていって、微妙に本人に似てきているということだった。
おそらくBさんに届いたメールにウィルスが仕込まれていたんだと思う。
※...と、ここまで書いて疲れたので中断。
続き書く気になったら書くかも。
「南京大虐殺」との関連
中国共産党が「南京大虐殺」の被害をでっちあげ、殊更に強調、誇張して宣伝するのは、文化大革命による惨禍の印象を薄める為であるという分析がある。現在中国での公式見解は南京の犠牲者を30万人以上としているが、実は当初は中国側の見解では犠牲者は5万人程度とされていた。(因みに陥落時の南京の人口は全部で20万人であった)時代をくだるに連れて「新たな証拠」が「発見」され、国定教科書の虐殺者の表記はどんどん増えていくという奇妙な現象がみられたのである。
一方、文化大革命で亡くなった中国人の数は諸説あるものの、もっとも控えめな(つまり中国政府よりの)見解でも2000万人、大躍進政策での犠牲者を含めると7000万人に達するとする推計もあるため、「結局、中国共産党は旧日本軍よりも多くの中国人を殺した」という事実を適示されることを、中国共産党が恐れているとする指摘もある。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%ca%b8%b2%bd%c2%e7%b3%d7%cc%bf
中国、韓国、北朝鮮などの特定アジア各国に於いては、国民の内政に対する不満や鬱屈を外に向けることで、国内の世論を一体化し、体制の維持に役立てるということがたびたび行われている。
…
「反日」を口実にすれば、全てのことが正当化されると考える特定アジア人は多い。そして反日ナショナリズムは時の為政者達にとって、民衆操縦の便利な道具となっている。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c8%bf%c6%fc%a5%ca%a5%b7%a5%e7%a5%ca%a5%ea%a5%ba%a5%e0
こちらも引用しておきます。
…
最近私はネットの場における左右の論争とか暗闘にはもううんざりしておりまして、よほどのことがないかぎりそういったことに参加することはしないよう
に努めておりました。心中を四六時中憎悪や悪罵や嘲笑で満たしながらネットをするなど、精神衛生上も非常によろしくないですからね。
人のふりみて我がふりなおせとはよくいったもので、論争に明け暮れて荒んだ心にあえぐ人々を横目に見つつ、ポジティブな思考で人生を歩んでいこうと考え、
ネットにつながるときは、努めて楽しいコミュニティで音楽や文化に触れるよう留意している今日この頃です。
最後になりましたが皆様のご多幸とご健勝を心より祈念いたしております。
敬具
日雇いバイトで知り合った女の子で、話していて「すごくいいな」と思う子がいた。家の方面も近く、電車で一緒に帰ってきた。話はとても楽しかった。アドレスを交換して帰宅し、家に帰って考えた。今日これで連絡をしなければ、このまま「相手の顔が思い出せないアドレス」になってしまう。そう思ってから、連絡をする決心をするまで、自分でも驚くほど速かった。決心を固めるまでは、だけども。
「今度会ってまた話しませんか」これだけの内容を伝えるためにどれだけ頭を悩ませただろう。あまり押しつけがましくならないように、文章を書くことの難しさを噛みしめつつ、気づけば1時間半が経過していた。夜の10時ごろになってようやく完成した。送信ボタンを押す時はもちろん目を瞑り、息をとめた。「送信しました」の文字を見ないうちに携帯をたたみ、テーブルに置いた。
返信が来たのは日付が変わってすぐだった。その日はあきらめて寝ようと電気を消したところで、返信を見たくなかった。しかし思いとは裏腹に、勝手に手が携帯を開いていた。目にした文章は「時間が取れないの。だからごめんね」という感じのものだった。だめもととは思っていたが、文に向ってみるとショックではあった。その文章は何度読み返してもNoの返事ではあったけどまったく棘がないものだった。哀れな僕を傷つけないよう、メールを受けてからいままで考えていたのかもしれない。そうだったら悪いな、と思いつつ、簡単にその日のお礼を言ってメールをおしまいにした。
そのあと僕は不思議な感情に気づいた。相手の憐みの混じった心遣いとか、自分のその時のカッコ悪さとか惨めさとか、そういったものはそれでもなぜか、心地よいもののように感じられたのだ。いやむしろ、そういう負の感情が全部まじりあって、奇妙な達成感のようなものを感じていた。自分のささやかなしたたかさに対して僕は、やはりささやかな誇りを感じていたのだ。
http://news23vip.blog109.fc2.com/blog-entry-1825.html
1.全くその通りという人
2.ニコニコは糞ですがなにか?と開き直る人
3.糞の中からいい物が出てくるんだ!という人
4.お前は金をもらってるプロだろう、金をもらってない人の作品をどうこう言うな
5.プロのくせにニコパクった、知り合いの部下の企画が糞なのであって、ニコニコ動画の批判はどうかと思うという人
といった感じだろうか
なんていうか、みんな、ニコニコ動画は糞だって前提で話してるんだなぁという感じ
絶対的評価で言うならば、糞なのかも知れない。
でも、ああいう狭い世界での発表はつまり、学芸会みたいな物だ。素人だしね。
内輪ネタ全開フルスロットルが見せる世界は本当に面白い。みんなしか知らない学校の先生のモノマネみたいなもんだ。
そんな学芸会を、プロのように不特定多数を相手にする人がまじめに批評してどうすると。
で、相対的な話なんだけど
素人の創作というレベルで言うと、youtubeよりもどこよりも遙かにクリエイティブだとおもう。
ほぼ日本人のみのサイトで、この速さ、この質、この量は素直に感心する。
ニコニコ週間ランキングなんてまとめ動画一つとっても、まぁほんと丁寧な編集で、感心する
外人なんてカメラの前でしゃべってるだけだし、ほんとつまらん奴らだって思うよ。
だから、こういう連中がまじめにお金が絡んだことをやったらどうなるんだろうと、わくわくするし
ニワンゴ@ドワンゴが今後、その辺の人材を見捨てないでほしいと思うし
他の会社があざとく吸い上げてもいいんじゃないかなって思う。
そういえば、かつてのフラッシュ動画も日本は凄かったよね。俺の気のせい?
あのフラッシュブームでいろんな人が有名になったし
でも心配なのは
このエデンの監督もそうだけど、アニメ業界全体にも言えるんだが
素人でこれだけなら、プロならどんなもんなんだろう・・・。と思ってみてガッカリすることが多い。
アメリカは素人とプロの差がものすごい差で、これはあらゆる物に対してそんな感じだから感心する。
もしここにプロが入ってきたら,お金になる仕組みができたらと思うと、ニコニコ動画に未来はあるのか
なんて話になってくると思う。
明治に入学した年の秋。両親と妹が親戚のとこに行って夜まで帰ってこないので、家には俺ひとりきり。
そこで俺は最高にゴージャスなオナニーをしようと思いついた。
居間のテレビでお気に入りのAVを再生。洗濯機から妹のパンティを取り出し、全裸になって頭からそれをかぶり、立ったまま息子を激しくシゴいた。
誰もいない家で、しかも真昼間にやるその行為はとても刺激的だった。
俺はだんだん興奮してきて、「ワーオ、最高!イエース!グレート!」と叫びながらエアギターを弾くように部屋中を動き回ってオナニーをした。
テーブルに飛び乗り、鏡に自分の姿を映し、「ジョジョ」を髣髴とさせる奇妙なポーズでチンポをこすってみた。
すさまじい快感で汗とヨダレが流れるのも気にならなかった。
「ヨッシャーいくぞー!! ボラボラボラボラボラボラボラボラ ボラーレヴィーア!!」
俺はゴミ箱の中に直接ザーメンをぶちまけようと後ろを振り返る。
そこには両親と妹が呆然と立ち尽くしていた。怒りとも悲しみともつかない不思議な表情を浮かべながら…。
「な、なんなんだよ!お前ら!!」
俺は叫んだ。今思えば「なんなんだ」と叫びたかったのは父のほうだったに違いない。
あの瞬間、俺は世界一不幸な男だった。それは断言できる。その後の数週間いや数ヶ月も辛かった。家族から向けられる蔑みの視線…。
しかしそんな俺も今こうして生きている。もしなにかに悩んでて「死にたい」って思ってる人がいたらどうか考えなおしてほしい。
政局はすでに選挙モードだ。政局が荒れると奇妙な法案が通るとか。きちんとソースを調べていないが、計量法施行法は荒れた政局で通ったと聞いたことがある。議決が滞りがちになるから、反対意見の出にくい法案を数的に通しちまえという発想らしい。審議拒否っぽく見えると野党もまずいし。
児童ポルノ関係も政局が荒れたときに、ドサクサ紛れに動きがありそうだという予感は持っていた。結果的にその予感はあたっちまった気分だ。この辺の動きはそれなりに二次元の女の子好きとして追っていた。鎌やんあたりのロビー活動もだいたい知っている。
ただ、ここまできちまったものは仕方が無いと思っている。オタクの中でも、児童ポルノ規制の経緯も何も知れずに、麻生をオタクの理解者としてローゼン閣下と本気で持ち上げる馬鹿はいたし。ああゆう連中は将来的にはファシストを平気で政権につかせるんじゃねかと思ったよ。(個人的に麻生はさほど嫌いではないけどね)
個人的に今回の動きで一番気に食わないのが民主党。極右から極左までいるの自由なのだが、政策全般に党内不一致が多すぎて結局のところ何の抵抗にもならない。党内不一致は児童ポルノに限ったことじゃない。正直、民主単独政権はノーサンキューだ。彼らの一致する党議は唯一つ、政権を取ることだけだ。また細川政権もどきが出来るくらいなら、自衛隊が蜂起したほうがましだ。
児童ポルノ規制反対という観点では社民党ということになるのかもしれないが、正直彼らに入れる気にはならない。民主党が規制反対で動いていたときも、枝野幸男という現実的な議論ができる論客がいたから現実性があった。(サンタフェの質問は相変わらず上手いと思った)
若干話が飛ぶが、陵辱ゲームが春画のように研究される対象になったときには、どこに探しにいけばいいのか?広重のコレクションをボストン美術館に見に行くような間抜け真似は勘弁してくれ。国立メディアセンターで全部コレクションしてほしいもんだ。そろそろ、PC-8801のゲームのアーカイブは作り出さないと間に合わなくなると思うのだが。
私は一番印象の良いメールをよこしてきた彼と会う事にした。
最初はとても外面のよい、ミソジニーやDV男の片鱗も見せないような好青年だった。
顔はまぁあまり良く無い部類だったけど、とても心が惹かれた。
話し相手がほしかっただけで、付き合う気は全くなかったのだけど、
体を執拗にほしがっているようだったので、とりあえず付き合うことにしてから態度が豹変。
いや、外面だけ奇麗に繕っていただけなのだろう。
束縛、執拗な連絡、奇妙な独り言、避妊に協力しない、そして軽くDV入ってた。
何より、彼の発言の一つ一つがとても痛々しい。
昔付き合って来た女の話ばかりする。しかも、同じ話ばかり。そしてマザコン。
かなりナルシストで鏡を常に見ていて容姿を異常に気にする(結構ブサな部類なんだけど…)
また、私が彼に否定的な言葉を発したり、メールをすると、自分に都合良く歪曲して解釈する。
自分を過大評価しすぎだし、やけに「普通」という言葉に敏感で、
普通であるということに異常にこだわっているようだった。
今思ったけど彼はどうしようもないミソジニーだったのだろう。
私は本格的に相手に地雷化される前に身をひこうとした。
しかし結果として彼はストーカー化した。
別れることになった喧嘩の電話のあと、1日電話の電源を切っていたら、
1日中着信を残していて、不在着信が全て埋まっていた。これは本当に怖かった。
女にどうしようもないコンプレックスを抱いているのに、それをまた女で埋めようとするけど、
自分が変わらないからまた結果として女は離れて行く。
彼は何も解決しないまま、繰り返していくのだろう。
そして、この先私はどうすればいいのだろう。
彼はストーカー化したけど、現段階で特に危害を加えられたりしている訳ではないので、
世の中の人々が有名企業に就職するために就活、玉の輿に乗るために婚活、かわいい子供産むための産活、あるいはどうしようもない男から慰謝料をむしり取って離婚しようとする離活に励む今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?
そんな中、不況のせいもあり(?)就職に失敗したボクたち、若い(さらにはあんまり若くない)女性には見向きもされないボクたち、将来を見てくれる子供もいないボクたち、(とりあえず離婚問題で疲弊することはなさそうです)、こんなボクたちに必要なのは、人生をいかに締めくくるかという死亡活動なのではないでしょうか?
すなわち死活。
死活問題。
親の老い始めた姿を見て婚活にのめりこむ女性がいるのと同様、親はいつまでもはいないのです。
参考
死亡活動(以下、死活)という概念が考え出された背景には、日本の結婚を巡る環境の変化(以下を参照)にある。
等 こうして“特に活動を行わなくてもなんとなく結婚できたシステム”が崩れ、モテる人とモテない人が二極化。結婚を諦めた人間が独り身の死をどうするか決める活動が必要になったという。
以下の通り
なお、婚活のブーム化や、少子化対策などを背景として、結婚活動の支援に取り組む地方自治体や企業も出てきている。また、こうした社会情勢を奇貨とみた企業によって、結婚活動関係のビジネスが活況を呈している。しかし、商行為が悪質とされた企業が告発されるなどの問題も発生している。このような中、男性はますます結婚に失望するという状況に陥っており、経済的な改善が見られない状況と相まって、ますます死活は活況となっている。
橋爪大三郎東工大教授(社会学)は、「就職活動の連想で『婚活』が出てきたことに、奇妙なものを感じる」「あの世に旅立ったキヨシローじゃないが、婚活に血道を上げる連中に聞いてみたい。『愛し合ってるかい?』と。彼らに『恋愛』の2文字はみじんも感じない。あるのは『計算』だけ。」「『恋愛結婚』が定着したのは、1960年前後。まだ、社会全体が恋愛に慣れていないのです。結婚制度の変化に多くの人が戸惑っているのが現状で、独身でいることは、そんな自分に正直に生きた結果でもある。結婚する、しないは個人の自由。その意思は尊重されるべき」等々と語る。
死活をする若者が増える一方、低収入等条件が悪いと思われる若者から結婚できたという報告が出されることがある。
これを見て一部の若者が死活を中止する例があるが、同時にその報告内容に疑問がもたれることも多い。
死亡は、文学における重要なテーマの一つであるが、死亡活動として捉えられる作品はまだない。
それを革命するほどの強さもなく――
おのれもまた弱者のひとりでしかないことを彼は理解し、
生きている。
いっそ究極の愚者になりたい……
お安い救済に溺れてしまえる阿呆でありたい……
義妹との淫靡な関係。
自殺した義姉がソファに埋もれて笑う『赤い部屋』。
カレイドスコープ的混乱のなかに、真市はおのれをすりつぶしていく。
やがて真市は、弱者たちが集い暮らす『廃墟コミュニティ』へと辿りつく。
草に埋もれた道しるべを探し。
きしむ鉄橋を歩み。
長いトンネルを抜け。
その廃墟はひっそりと息づいていた。
真市は救済のかけらを見出す。
だが、彼らはやがて『新興宗教』と名づけられ、
糾弾され、侵略され、蹂躙される事となる。
あくまでも弱者を否定するのなら。
ならば世界の条理を終わらせてしまおうじゃないか。
真市たちのテロルは何者に対して向けられるのか。
運命にか?
カミサマにか?
あるいは自分自身に――その銃口は向けられるのかもしれない。
この記事は、
「自慰中の死亡」について
http://anond.hatelabo.jp/20090606092243
の補足記事です。
コメントを見て、うちの法医学は伝説的にひどかった(褒め言葉)のだなあと再認識。
では、補足説明。
id:rna いやいや、そこじゃなくてもう一本のほうのロープの使い方が気になるんだ。
id:nasunori ドアノブはなんとなーく分かるが、"押し入れに釘を打ちつけ、自ら宙吊りになりつつ(首も絞まりつつ)"ってのが全く想像できない…。
つhttp://plaza.img.jugem.jp/20090606_660602.jpg (グロ注意)
法医学の期末試験に「異常性行為による死亡の例を挙げよ」という問があったので、
上の写真みたいな図を一生懸命描いたのをおぼえている。...ふう。
自らそれを試し、ガムテープで顔をぐるぐる巻きにしてダッシュして
窒息死した事例
これは彼の講義でも出色の内容だった。本文にも書いたが、彼の講義はすべて現場の写真つき。
まず、講義スライドは、顔をガムテープでぐるぐる巻きにされた若い男性が
道端に倒れて死んでいるところからはじまる。当初は殺人の線で捜査されていたのが
自室で妙なマシーンが見つかり、本棚にはジョジョの単行本、そしてガムテープの切れ端が
彼を死に至らしめたものと一致した。本人の指紋も検出。
これがサスペンスタッチのスライドショーで流れるのだから、いかにも不謹慎だ。
いきなりトラックに自ら突っ込んで死亡した事例が2例あったそうで、
法医学会では「jojoの奇妙な冒険」は危険という話が(半分冗談で)
あってるんですよ~と教授は言っていた。
id:anigoka 鹿肉うんぬんは聞いたことないなぁ そもそも他人の家の鍋でも抵抗あるのに人ンちの風呂いっぱいのわけわからんスープ飲んじゃったりするかなぁ??
id:Meat_eating_orchid いや、首吊りオナニーはホントだけど、さりげなく都市伝説混ぜるな。なんで人ん家の風呂の中の正体不明の有機物に口つけるんだよ。
id:memoclip 風呂の中で煮込まれた云々は本当にあるのか。。?
id:atcgouch 鹿の肉と間違えられてどうなったの・・・
書ける範囲で書きます。
東北の寒村。鹿撃ちが盛ん。村祭り近し。毎年村祭りには鹿料理登場。
村祭りの役員が訪問→干上がった風呂でグズグズのものを発見→鹿と誤認
→飼い犬にあげた(本人は食べてないと主張)→死体遺棄罪で捜査→教授登場
鹿を煮るか?とか疑問はもっとも。うろ覚えだけど、鹿だったのはまちがいない。
同期(女)は実家暮らしだが、家に給料の半分以上を入れているらしい。すごいなーと思っていたら、今度は彼女名義のローンで新築の家を買うらしい。
これは思わず、え?となった。
親の家のローンを娘が払う。
いやー古い考え方かもしれないが、女の子は結婚したら名字が変わってしまうし、一応嫁ぐということになるのだから、となるとその家は誰のものになるの?結婚しても嫁方の親と同居する(マスオサン的に)ということなのだろうか。最近は多いし、子供を産んだりするとそっちの方が良いとは聞くけれども、しかしわざわざ後々の火種を今から作ることもあるまい。というか一人で暮らすとか自立するとかそういう考えがないんだなーと思ったりなどした。
まだ社会人になったばっかりのひよっこにその親がぶら下がっている図というのもなんとなく奇妙だし、彼女自身もずっと生活面では親に頼っていくつもりなのだろうし、となるとその夫はどこに入ることになるのか?
夫にだって自分の両親と言うのがいるんだから、嫁の方ばかり優先するわけにも頼るわけにもいかないよねぇ。けっこうそこら辺でもめるってのが増田にも出てくることがあるし、わりとセンシティブな話の気がするのに、彼女は全く問題を感じていないようだ。
同期(男性陣)はわりと自分の家をほしいというひとや、今の実家は兄弟のものになるから自分は買うという話をしていたりなどするが、家というのはそうやって代々住んでいくものだったのか、と新興住宅街に育った身として目から鱗が落ちる思いである。築20年の家ないし部屋と聞いたらまず借りないし買わないだろー一戸建てならいいのか???などと人ごとながら思ったりした。わからない。自分が家を買うところはまず想像できないし、親と一緒に暮らし続けることも想像ができない。そもそも築20年以上たったアパートに暮らしていた経験から家がどれだけガタが来るのかはわかるし、そのメンテナンスを考えるとげんなりしてしまう。日本の家は長く暮らすには向いていないのだ。特に高度経済成長期以降は長く住まうようには作られていないのに。
僕が注目しているブロガーさんにid:Chikirinさんという方がいる。
というか、もうはてな界隈では有名な方だろうけど。
その問題提起力を「素晴らしいなぁ」と思うのだけど
時折、おかしなことを言い出される。
そういう記事は流せばいいのだけど、何か文句の一つでも残してやらねば気が済まない内容の記事(褒め言葉である)であることが多い。
で、今日はそのおかしな方のちきりん節が炸裂している。
ちょっと読んで、ああ、中央大の事件のことだな、と思ったんだけど、
あの事件を出汁にして、
フィクション書いてみましたんだけどどう?
みたいな。
俺はあの男を精神異常者だと思っている。
いかなる恨み辛みがあろうとも、
人を待ち伏せして何十カ所も刺しまくるなんて、
キチガイ以外ができる芸当ではない。
今回の事件から学べるのは、
これまで頭のおかしい人達が犯してきた、数限りない殺人と同様に、
「アブナイ人には深く関わってはいけません」だ。
こういうこと言い出すと、
アキバの加藤みたいなのはどうなる? あれは避けようがなかったじゃないか、と思われるかもしれないが、
あれもまた
「突然アキバで異常者が暴れて大変なことになりました」で終わりだ。
それ以上は、全て、
マスコミや妄想力逞しい一部の人が勝手に、意味付けしただけである。
俗に「社会派」などと呼ばれる類の方は、
社会で起きる出来事に対し、
何かしら「理由付け」していかないと
メシが食えない、というのは分かるけれど、
そういう頭のおかしい奴を出汁にして、
わかったような風エントリーを書くのは、
マスコミや週刊紙同様の下品な行為であると思う。
例えフィクションであっても、だ。
最後に「フィクションです」とわざとらしく断り書きを入れているあたりに
「主張したいことはこの事件のことではないんですよ」的なニュアンスを感じるが、
今回の事件を出汁にする必要は、全く無い。
このエントリーで書きだされたタイプの人間(多くの場合、それは健全で殺人などとは縁遠い人物である)の心証をおもんぱかることもなく、
話題の事件と絡めて語っちゃおう! とか思ってるあたりの神経を、
下品、だと感じるのだ。
正直、ちきりんさんは、
話題の事件全部に首をつっこむことはお止めになって、
ご自身の専門領域であると思われる、
門外漢の領域に対する放言は、無責任すぎるものが多い。
群がる信者の皆さんも、
何も考えずに☆をばんばん打ったり、素直に共感を表明することでご自身のアホさをさらけ出す前に
ちょっと考えたほうがいいですよ、っと。