はてなキーワード: 理科離れとは
普段は日記ぽいのは書かないのですが、事情があって今日は雑感のようなものを。
前のエントリーを書いてから気付いたのですが、ひとつ前のエントリーがブログを書いた日数として記念すべき(?)100日目ののエントリーだったようです。
100日目なのでお祝いのコメントがいただけると思うほどには図々しくないのですが、まさか「閉鎖しろ、さもなくば死ね」というようなコメントを頂戴するとは思っていなかっただけに涙がちょちょぎれそうです。
頂いたコメントは次のようなものでした:
THIS DIARY SUCKS.
EVERY SINGLE ENTRY HAS NO VALUE TO READ.
STOP READING THESE USELESS SCRAPS AND DO WHAT YOU REALLY NEED TO DO.
ここまではまあいいんです。「つまんないから読まない方が良い」と言っているだけなので。そして「読む価値があるか」と問われれば、まあ「価値」なんてないんだろうなとしか言いようがないので、次のようなコメントをお返ししました。
I absolutely agree with you.↑
すると、また次のようなコメントがきました:
THEN STOP UPLOADING SHITS. STOP FEEDING SHITS FOR THOSE BITCHES AROUND YOUR ASSHOLE. STOP POLLUTING THE PUBLIC.
YOU HAVE YOUR FREEDOM TO MAKE YOUR FUCKING KIDS MAD BUT DO NOT SPRINKLE YOUR SHITS AROUND ANY MORE.
I WARN YOU. SHUT DOWN YOUR WEBSITE OR KILL YOURSELF, BUSTARD.
ブログをやってるとこんなの当たり前なのでしょうか。「I warn you.」とか言われると正直怖いです。単なる悪ふざけならいいんですが、それを確認するすべもなく、どう対処すべきか迷っています。取り敢えずコメントは承認制にしました。今後の更新は様子を見ながらということになるのかな。困ったな。
どんよりしたエントリーですんません。
大変残念ですが、このブログを閉鎖することに致しました。ひとつ前のエントリーで書いた件で、私のブログに強い不快感を持っておられるという方とやりとりをしておりました。私としては、なんとか先方も納得いくかたちでブログを継続できないかと模索して参ったわけですが、昨日、先方から再度私のブログにコメントがつき、ご自身ははてなを退会すること、そしてやはり私のブログを閉鎖することを希望する旨が書かれておりました。その文面から私の目からは常軌を逸した怒りが感じられ、このままわたしがブログを継続することで、もし万が一に何かが生じる可能性も否定できないと判断しましたい。脅しに屈するのはなんとも情けないですが、家族や周囲の方々に迷惑をかけるるわけにもいかず、そういう決断に至りました。
私は、特に何かに長けた人間ではありませんが、人を笑わせるのが好きで、実生活での井戸端会議の延長でどうでもいいような下らない話題で、なんとなく緊張から解放され、またそれを読んで下さる方がそういう気持ちになって下さればいいと思ってブログを綴っておりました。ちょっと今出典を調べることができないのですが、私の好きな話で、あるアメリカの著名人(名前を失念しました)が、病に冒され、もう助かる見込みのない状況に至った際に、インタビューを受け、ファンの方へのメッセージを求められ、「もし手編みのセーターをおくってくれるなら、ワンサイズ小さいのを頼む」と言ったという話があります(細かい点は違っているかもしれません)。これは病によってやせ細ってしまった自分をネタにしているわけですが、私はこの話が非常に好きです。苦しい状況においても、笑いに触れることで、暴力の愚かさに気づき、緊張から介抱され、失敗に寛容になり、人々が助け合い、涙を流す人に寄り添い、愛し合い、歌い、踊り、抱きしめ合う。大袈裟ですがそういう理想を描くことがあります。
また、猿の中までも「笑顔」を見せることはあるが、ハチャメチャなことを言ったりやったりして生じる「笑い」というのは人間に固有の活動であるという説を聞いたことがあります。この広い宇宙で笑い声が響くのは、この地球だけなのかもしれない。また宇宙の長い歴史において笑い声kが聞けるようになったのはごく最近のことなのかもしれない。わたしはそういう途方もない想像をし、その奇跡的な状況を慈しみたい思っています。
しかし皮肉なことに、私の活動によって強い怒りが引き起こされ、このような事態に至ったことは本当に情けなく残念な気持ちで一杯です。今回の方以外にもそのような方がいらしたとしたら、それについてはお詫びしたいと思っております。
しかし、一方で、私自身はこのブログを綴った短い期間に、多くの方のユーモア、寛容、誠実、才能に触れることができ、それは一生の宝物になると思っております。個別に御例することができないのは非常に残念ですが、この場をかりて御礼申しあげます。今回の件で励まして下さった方々どうもありがとうございました。皆様から頂いた愛情は、勝手ながら私の実生活の中で周囲の方々に振り分けられたらと思っております。
「笑いに満ちた世界」など夢想に過ぎないのかもしれませんが、比較的最近聞いた言葉で感銘を受けたものを紹介したいと思います。チェ・ゲバラの言葉だそうです(これはJMMというメーリングリストで村上龍さんが紹介されていたと思います)。
もし我々が空想主義だと言われるならば、救いがたい理想主義者だと言われるならば、できもしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう。その通りだと
臆病風にふかれて撤退する私にはふさわしくないことは承知しておりますが、私としてはブログ以外の場で「笑いに満ちた世界」の実現に向けて努力していきたいと思っています。今回の件で、私に怒りを向けられた方も、現在苦しい状況に置かれているという印象を受けました。あなたがいち早くその状況から脱し、周囲の人々の信頼を得て人々に笑顔をもたらすような存在になられることを祈っております。またコメントでは伝えられませんでしたが、ご両親が病から回復されることを祈っております。
それでは近日中に、このブログを閉鎖致します(プライベートモードに致します)。皆様本当にありがとうございました。また今回の件でご迷惑をおかけした方々には本当にお詫びの使用もございません。どうか不愉快な事態が生じないことを願っております。
理科離れ、少子化のニュースに触れて、科学の面白さをなんとか伝えれないものか、育児の面白さを何とかお伝えできないかとも思っておりませんでしたが、これについても目標を果たせませんでした。どうぞ同じ気持ちを持つ方々にがんばっていただきたいと思っております。
それでは脈絡のない話になってしまいました。大の大人が情けないですが泣きながら、取り乱した状態でこれを書いておりますのでどうかご容赦下さい。本当に感謝を込めて、愛を込めて最後のエントリーとしたいと思います。さようなら。いつかまた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA
元よりインテリは知識面での優位性を持ってその地位が確立されるのではなく、知識を用いて社会に奉仕するからこそ、社会から大切にされるという物だけに、そこを履き違えて知識だけを溜め込んだだけの存在は、度々周囲から否定的に扱われては当人らが憤慨するという現象を招いている。
他方では、知識を得る事自体が否定的に扱われ、先に挙げた活字離れ・理科離れを加速させる傾向にある。これらでは本来、学問を修めるべき学生に在ってすら学問から遠ざかるという状況も見られる。この場合では学問を真面目に修めている側が、「ガリ勉」などとして揶揄されるケースもあり、学問の習熟を妨げる事態も発生している模様である。
近年理科離れという現象が進んでいる。その原因というのは、恐らく、複雑になった科学に対して、自分がそれを理解でき、その発展にかかわることができる、という感覚が得られづらいからであろう。
物理、数学はある程度論理的な思考を積んだ者ならば、だれでも同じ理解ができる学問の体系である。古くはニュートンの時代から、彼が書き残したプリンキピアも理解不能な言語というわけでもなく、理系の共通言語である数式を通じて読み解くことができた。しかし、未来では違うであろう。学問として物理を教えるのにしても、学生はどうしてそうなるのかを考えようとしない。教員は自分がどうやってそれを会得したのかを伝えることができない。もはや定量的な議論は全く意味をなさなくなり、授業は今ある事実の積み重ね、いわば、クイズ番組でもやっているような状態になった。
しかし一方で、近未来社会では、技術を保持・発展させていく者はどうしても必要になってくる。物理、化学、数学はもはや学問として学ぶものではなく、感覚として身につけるもの、「修行」を通じて身につけさせるものとなった。多くの修行者がこれに憧れ習得しようとしたが、万人に身につけられる感覚ではなく、ほとんどはゴミのように捨てられていった。技術を習得したわずかな者は当然尊ばれることになり、社会の中でヒエラルキが形成された。
科学と非科学の違いも曖昧になり、どちらであってもさして問題ではなくなった。持たざる一般人は、技術者を神秘的な存在と捉えるようになり、いつしか、物理・化学・数学といった学問の体系は、「魔法」と呼ばれるようになった。
みなさんは、「無断リンク禁止」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。
これは、見かけはリンク禁止のようだけれども、実は、リンク禁止になっているとはとても言えないもののことで、「似非アクセス制御」や「サイバーノーガード」などとも呼ばれます。
『そんなものがどこにあるんだ』とお思いの方も、例として、「最高裁が電話してというので」や、「うちは警察へリンクさせてもらっている」や、「文書で申し出よ」などのフレーズを挙げれば、『ああ、そういうもののことか』と納得されるかもしれません。それとも、かえって、『え?』と驚かれるでしょうか。
例えば、皆さんもよくご存知のように、『リンク許諾制はトラブル回避にいい』と一部で信じられ、ひところは大手官公庁もこぞってリンクポリシーを掲げるほどのブームになりました。無断リンク禁止ポリシーがよく書かれたのは、もちろん、リンク許諾制のトラブル回避効果に裏づけがあると信じた人が多かったからでしょう。新聞社や日弁連などでも書かれましたから、それを疑えという方が無理な話かもしれません。
しかし、実は、リンク許諾制がトラブル回避に良いという根拠は、ほぼない、といってよいのです。あのブームは、まったくの空騒ぎでした。最高裁判所までが、なぜ、その空騒ぎに乗ってしまったのか。きちんと検証しておく必要があります。
いまは、都道府県警察本部で人気が出てきているようです。しかし、実のところ、リンク許諾制を主張したところで、せいぜいお守り程度の効果しか期待できません。
いま、このような、無断リンク禁止のようで禁止ではない、「ニセリンクポリシー」が蔓延しています。
こういった「ニセリンクポリシー」のなかに、公正中立性や悪質業者に関わるものがあります。その話をしたいと思います。
よく知られている例の一つは、『無断リンク禁止にしないと、悪質業者に信用を悪用される』といういわゆる栃木岡山県警説です。しかし、この説に、信頼しうる根拠はないのです。その意味で、これもまた「ニセリンクポリシー」です。
もちろん、どんなにインターネットの普及が進んでもそれなりの初心利用者がいますから、悪質業者の言いなりに影響されることはあるでしょう。しかし、それだけなら、名前の無断使用や紙のチラシなどでも同じです。ハイパーリンクのあるなしとはまったく別の話なのです。
ところが、この説は、広報業務関係者に広く受け入れられています。全国各地で、広報現場によるポリシーのコピペが行われているようです。
もちろん、気味の悪い業者がうちと関係があるかのようなことを書くので困っているという広報担当者は多いでしょうし、広報室長もそういうのを何とかしたいと思っているのでしょう。
そういうみなさんにとって、「無断リンク禁止」が一見、福音に思えたことは分かりますが、効果のないものに飛びついても、仕方がありません。
そもそも、信用の悪用を何とかしたいというのは、リンクの問題ではなく、表現の問題だったはずです。うちと関係があるかのように書かれて困ると考えるなら、やめるようにきちんと主張するべきでしょう。表現を変えさせる根拠をリンクに求めようとしてはいけません。
もう一つ、今度は、リンクにまつわる奇妙な説を紹介しましょう。
リンク先をトップページにすると、きれいなウェブページになり、個別のページにリンクすると、きれいなウェブページにならないというのです。
ページというのはHTMLのことですから、これは、リンク先のURLがページの良し悪しに影響を与えるという主張です。しかし、もちろん、そんな馬鹿なことはありません。
この説が、いくつもの大手企業や地方公共団体で、利用規約に使われていることが問題になっています。ページデザインを改善しない自らの怠慢を正当化するのに、格好の材料と思われたようです。
しかし、本当にそうでしょうか。
この説は、たくさんの問題をはらんでいます。
まず第一に、明らかに科学的に誤っています。理科離れや学力低下が言われる今、道徳だからといって、ここまで非科学的な話を、事実であるかのように言っていいはずがありません。
しかし、それ以上に問題なのは、ページが汚くなる原因を、リンク元の責任に求めようとしていることです。
ウェブページは、ハイパーテキストの手段ですから、その使い方は、あくまでも、ページを作る人間が自分の頭で考えなくてはならないはずです。トップページ以外へのリンクはどんな状況下でも駄目なのか。それを考えてみれば、この話のおかしさは分かるはずです。
栃木岡山県警説が他者の表現を制限する根拠をリンクに求めるものだったのと同様、ここでは、ページデザインの崩れの原因をリンク元に求めようとしています。それは他人に対して多くを求め過ぎです。
ページデザインの維持も信用の確保も、リンクされる側が自分の頭で考えなくてはならないことであって、リンク許諾制でお茶を濁せるものではないはずです。